ルートは太龍寺から阿瀬比の集落に下り、その後尾尾根峠を抜けて平等寺に向かう。太龍寺から阿瀬比の集落までのルートはふたつある。ひとつは黒河道。太龍寺仁王門の東にある遍路道分岐点から加茂谷川の谷筋に下り、黒河の集落を経て県道28号に合流し南に下り阿瀬比に向かう。誠に狭いながらも太龍寺への唯一の車参道だが、標石・丁石といったものは残らなようだ。
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全体ルート図(Google Earthで作成) |
阿瀬比の集落に下りた後は大根峠を越えて平等寺までおおよそ6キロ。大根峠は、峠といっても取り付き口からの比高差は100mもない。それほどキツクはないだろう。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。
実のところ、当日は阿瀬比の集落で膝がアウトになった時に備え、念のため阿瀬比集落を通るバスをチェックしていた。午後に2便(2時46分、4時26分)JR牟岐線の駅に繋がるバスの便を確認していたわけだが、なんとか騙しだまし平等寺までたどり着いたといった為体(ていたらく)ではあった。
以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、特に平等寺道の急坂以降のコースタイムは実際はもっと早く進めるかと思う。 メモをはじめる。
本日のルート;
■那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ■
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
■第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る■
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
■阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ■
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺
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太龍寺からいわや道・平等寺道・大根峠越え経由平等寺ルート |
■第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る■
太龍寺を離れいわや道、平等寺道を経て阿瀬比の集落へと向かう。地形図を見ると、太龍寺の建つ山稜の南、加茂谷川を隔てた山稜の稜線部を巻き気味に進み、阿瀬比の集落へと降りてゆく。南舎心嶽あたりから始まる「いわや道」は平等寺道分岐までおおよそ3キロ、そこから阿瀬比の集落までの「平等寺道」はおおよそ2.5キロ。6キロ弱歩くことになる。
太龍寺ロープウエイ乗り場;午前10時46分
●太龍寺ロープウエイ
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by 四国ケーブル〈株) |
山中の山寺ゆえロープウエイが運行されるまで、太龍寺の困窮は大変なものだったのだろう。龍の窟の地は石灰鉱山会社に売却され、取り壊されてしまったと言うし、三重塔も四国中央市の興願寺に売却されたと聞く。また車参道といってもその黒河道は狭路・難路であり、気軽に参拝できるようには思えない。ロープウエイのおかげで太龍寺参拝は身近になったようだ。 運営は四国ケーブル〈株)。八栗ケーブル、雲辺寺ロープウエイ、箸蔵山ロープウエイ(現在は分社化)も運営しているとのこと。
1丁石;午前10時50分
南舎心ヶ嶽;午前11時2分
平成五年大師入山千二百年を記念し「求聞持法御修行大師像を造立致しました。虚空蔵菩薩の化身とされる東方の明けの明星(金星)を拝されている御姿です。「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼりそわか」百万遍 建立協賛者 河内金剛講」とある。
谷側の岩上に求聞持法御修行大師像が座す。説明の如く古き仏さまではないようであり、鎖場をちょっと上ることはパスし、道から拝礼。
石造物と丁石:午前11時5分
平場には石造物6基。左の3基は摩耗し文字は読めない。その横は五輪塔の宝珠部分だろうか。宝珠(?)隣に坐像石仏、右端は自然石の丁石。上部が欠け「*四丁」の文字が読める。
茂兵衛道標;午前11時7分
左を指す案内には「22」、「ふだらく山 中山道」、「いわや道」、そして「阿波遍路道 いわや道」。右を指す案内には「北地」とある。
茂兵衛道標には「平等寺 明治二十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。臼杵陶庵の詠む「山中で嬉しきものは道教え」の添歌も。誠にその通り。
●「ふだらく山 中山道」・「北地」
「ふだらく山 中山道」ってなんだ?唐突に現れた。チェックすると中山は太龍寺山の南、中山川の谷筋の集落。中山道とはこの辺りの集落の人が太龍寺にお参りする参詣道。集落にある地福寺から支尾根稜線部を上り太龍寺山南の峠から太龍寺山頂を経由して「いわや道」に下りてきたようだ。途中には自然石の丁石が並ぶ、と言う。
太龍寺山頂上には観音堂があり。阿波秩父観音霊場十一番札所であったよう。ために太龍寺山は通称「補陀落山」と称された、と。「ふだらく道」の所以である(WEBにあった「大瀧嶽記(奈佐和彦)」を参考にさせて頂きました)。
また、「北地」は中山川が那賀川に合流する辺り、太龍寺ロープウエイ山麓駅のある辺りの地。
中山道分岐点に角柱標石:午前11時9分

上段の道は前述の「中山道」。遍路道は下段の道を進むことになる。中山道の案内は特になかったように思う。
舟形地蔵;午前11時15分
丁石2基
破損石仏
笠付道標・12丁
13丁・14丁
15丁・16丁
17丁・18丁
19丁・20丁
阿瀬比3㎞の案内: 午前11時58分
22丁・24丁
25丁
いわや道・平等寺道分岐点;午後12時13分・標高430m
一方、上段の道には「国指定史跡 阿波遍路道「平等寺道」(阿瀬比集落まで2.5km」とある。特に案内はないのだが、ここが「いわや道」と「平等寺道」の分岐点であった。
で、当日は標石の指す遍路道って何?と少々??を感じながら、ここで平等寺道に乗り換えたのだが、メモの段階でチェックすると、この下段道は「いわや道」であった。往昔はこの道を辿り「龍の窟」へと向かったようだ。ここではじめて「いわや道」の由来がわかった。「龍の棲む岩屋」故だろう。 前述の如く、「龍の窟」の地は売却され。石灰岩の採掘によりその面影は既になく。採石場もあってか危険なため道は閉ざされているようだ。
この分岐点はほぼ中間、3キロほどを1時間、高度を40mほど下げたことになる。稜線巻道をゆるやかに高度を下げてきた。
●いわや道のルート

因みにこの丁石はあたりをつけてGoogle MapのStreet Viewでチェックし見つかった。
阿瀬比集落1.6km:午後12時29分
急坂案内;午後12時40分
休憩しながら地形図チェック。支尾根稜線をほぼ等高線と垂直に比高差250mを下ることになる。膝が心配。休憩を終え午後12時40分坂に向かう。
39丁;午後13時4分・標高250m
「平等寺5km」の案内:午後13時?分
薬師庵;午後13時31分
自然石標石;午後13時34分
●中山川と加茂谷川の分水界

分水界となる県道28号筋を挟んだ両水系の距離は100mも離れていない、標高差もほとんどない。両河川の最接近部からの上流部は加茂谷川筋が圧倒的に長い。加茂谷川筋が洪水などで流れを少し西に変えれば中山川の上流部は河川争奪され、中山川筋に流れることなく、加茂谷川となって北に下っただろうな、などと一時妄想にふける。
■阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ■
遍路休憩所;午後13時38分
その先に遍路休憩所。なんだか素朴な手書き遍路道案内か、いい。少し休憩。
茂兵衛道標(169度目);13時46分
中尾多七標石;午後13時57分
標石2基;午後14時8分
倒れた標石;午後14時14分
10分ほど歩くと「四国のみち」の木標、「右へんろ道」と書かれた歩き遍路タグ、近年立てられたような標石(午後14時24分)。「へんろ道 大根いやしの道を守る会」と刻まれていた。
大根峠;午後14時37分
●音坊山(おとんぼ山)
遍路道とは関係ないのだが、音坊山の案内はあるけど、切通部からそれらしき道はない(なかったように思う)。どうも、峠から右手の尾根筋に上り南西に進むようだ。で、何故に案内が?
地図にも載らない山だが、山頂(333m)からの眺めがいいようだ。城跡(塁)も残るといい、往昔は丹生谷(にゅうだに;現在の国道195号筋の那賀町)を繋ぐ交通の要衝でもあったようだが、その後荒れ果てていたものを、地元の方の尽力で道を整備しといった記事があった(当然、この尾根道とは別ルートだろう)。
地蔵立像;午後14時44分
角柱丁石(20丁); 午後14時51分
その先急坂を100mほど下り沢に架かる木橋(午後15時13分)を渡る。先に休憩所がある、との木柱が立つ。
休憩所;午後15時22分
石仏群と15丁石:午後15時42分
石仏群と11丁石;午後15時49分
その横に並ぶ石仏群にも丁石1基。「是より平等寺へ十町 文化四」といった文字が刻まれる、と。
光明真言供養塔;午後15時59分
岩戸橋北詰2基の標石;午後16時4分
右の標石には「平等寺江六丁 天保二」といった文字が刻まれる。標石前にはお花が供えられている。この標石には地元の方の先祖戒名が刻まれており、その子孫が菩提を弔っている、と。
●轟神社
轟神社って?ここらか南西、80キロほど離れたところ、徳島県海部郡海陽町に轟神社がある。 天正時代の建立。今もなお御滝を神霊の坐すところとして信仰し、阿波藩主蜂須賀家政侯が、朝鮮出兵にあたり海上安全を祈願したとも伝えられている社。
が、それにしても遠すぎる。ちょっと唐突。と、この橋を渡り桑野川右岸を少し東に向かったところに轟神社が建つ。弘仁5年(814)、奈良生駒の龍田神社を分霊したと由緒にある古社。樟の巨木で知られる、と。『延喜式』にある那賀郡の七座のひとつ、室比売神社がこの地にあった、とも伝わる。この神社を案内しいるのだろうかこの神社を案内しているのだろうか。
第二十二番札所平等寺に;午後16時21分
これで2回にわけた太龍寺越えから平等寺のメモを終える。メモは2回に分けたが当日は太龍寺越えから平等寺まで、おおよそ17キロをカバーした。膝を痛めてるということもあり、やっとこさ辿り着いたといった為体(ていたらく)であった。
プラニングの段階では鶴林寺道から一気に平等寺まで、おおよそ22キロをカバーしようか、などと考えていた。実際に当日、平等寺から鶴林寺を越えて勝浦川筋の生名まで歩いてる方にもお会いした。
膝を痛めていなければどうという距離ではないのだが、もし途中の太龍寺越えで膝がアウトになった場合はどうしよう。阿瀬比の集落で撤退となるが、阿瀬比からバスはある?午後2時46分と4時26分にバスはある。これならJR牟岐線の駅に辿りつけそうだ、などとあれこれ思案してはいたのだが、結局は太龍寺越えから平等寺までを歩くことにした。 で、予想通りではあるが、後半はほぼ膝がアウト。結構キツイ1日となった。