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ルート図(Google Earthで作成) |
強いて言えば、那賀川筋から鶴林寺へと上る逆打ち遍路道が結構大変かもしれない。勝浦川筋の生名から鶴林寺までの距離より1キロほど短い山道を同じ比高差上るわけで、当然といえば当然かも。当日は生名の鶴林寺道取り付き口に車をデポしてのピストンであり、復路の上りが結構きつかった。
今回の散歩での思いがけない出合いは室町期の標石。四国最古の標石とのこと。特段標石に「萌える」わけではなく、単に旧遍路道をトレースする目安として標石を辿っているだけなのだが、それでもちょっとした感慨。遍路道に残る標石はほとんど江戸時代以降のものであり、遍路が世に広まる以前の標石に出合ったというだけで結構有り難く思ったわけである。
鶴林寺道のメモをはじめるが、ここで言う「鶴林寺道」は国指定史跡としての「鶴林寺道」ではなく、広義の意で使う。国指定史跡の鶴林道は、本日メモする遍路道のごく一部区間を指すが、メモでは鶴林寺へ向かう道として「鶴林寺道」を使う。
本日のルート;
■鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口>茂兵衛道標(154度目)>19丁石>標石2基(?丁)>18丁>標石2基>青石板状標石>18丁>15丁>水呑大師>標石2基(茂兵衛道標;219度目)>?丁>11丁>10丁>車道(青石板状標石)>9丁>8丁>7丁>6丁>4丁>3丁>第二十番札所鶴林寺
■第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る
舟形2丁>遍路墓>舟形3丁>不動石像>舟形4丁>舟形5丁>6丁>遍路墓>舟形9丁>>舟形10丁>四国千躰大師標石>舟形14丁>舟形15丁>中尾多七標石>自然石茂兵衛道標〈88度目)>地蔵堂(17丁)>大井休憩所

■鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る■
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口;午前10時40分
茂兵衛道標(154度目):午前10時43分
自動車参道と交差;午前10時45分
●自動車参道
生名谷川の谷筋を標高200m辺りまで上り、そこから谷筋を離れ標高270mの鶴峠をへて鶴林寺へ向かう。
標石2基(20丁);午前10時50分
その横に2基の標石。角柱標石には「二十ばん鶴林寺江二十丁」、横広の標石には「右観正寺道 中 鶴林道 左 里道」といった文字が刻まれる。
遍路道はここから山稜尾根筋を上ることになる。
●観正寺
西に200m強のところに観正寺がある。阿波西国観音霊場。ささやかな本堂のみが残る。
18丁;午前10時52分
石造物2基
茅葺き遍路小屋:標高100m・午前10時59分
青石板状標石;午前11時2分
車道交差角に標石。青石板状の標石には「四国第二十番霊場 鶴林寺へんろ道」と刻まれる。中尾多七さんたちが建てたものと言われるが、遍路道でよく見る所謂「中尾多七標石」とはその形状は大きく異なる。
●中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と言う。
18丁;午前11時9分
15丁;午前11時14分
水呑大師;午前11時20分
●阿波遍路道案内
水呑大師の小堂脇に「阿波遍路道』の案内。
「国指定 阿波遍路道 鶴林寺道・太龍寺道・いわや道・平等寺道 四国八十八箇所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる引法大師空海ゆかりの社寺を巡る全長1,400kmに及ぶ霊場巡礼道である。
勝浦町で指定を受けた遍路道は、阿波遍路道のうち第20番札所鶴林寺をつなぐ「静林寺道」と鶴林寺から第21番札所太龍寺をつなぐ「太龍寺道」の一部の範囲である。
「鶴林寺道』は現在地点である「水呑大師」(弘法大師が杖を突くと水が噴き出したという伝説がその名の由来となっている)と呼ばれている祠から鶴林境内までの道約1.27kmが指定範囲である。この区間には、約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており、江戸時代以前より継承されてきた古道である。
「太龍寺道」は鶴林寺本堂下から阿南市の大井集落手前の阿南市境までの約860mが指定の範囲になっている。この区間の遍路道は、急勾配の斜面階段が続く。遍路道の傍らには、船形の丁石や遍路墓、また道標も建ち、自然景観も含め往時の面影を色強く残している。
徳島県教育委員会/管理団体 勝浦町」との説明と共に、鶴林寺道と太龍寺道の地図が掲示されていた。
標石2基(茂兵衛道標;219度目);午前11時31分
1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 当山厄除け弘法大師毎夜開帳 右太龍寺へ一里半 左立江寺へ二里半 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛219度目巡礼時のもの。
もう1基は「鶴林寺道 十三丁 左仁*谷道 弘化二」といった文字が刻まれる。
12丁;午前11時35分
11丁;午前11時39分
それにしても室町期の標石?それって真念などにより四国霊場八十八ヵ所が定着する以前の時代。 ということは、この鶴林寺道は四国の遍路道でも最も古い時代の遍路道ということか。ちょっと感慨深い。
●標石
遍路道標のはじまりは卒塔婆を建てて道しるべとしたようだ。鎌倉期には朽ちる木に替えて五輪塔形の標石となり、高野山に残ると言う。この南北朝の頃に立てられた丁石は、五輪塔を簡略化したもので、尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る。四国最古の頃の遍路標石だ。
鶴林寺道と同じ頃の室町期の標石は、鶴林寺を那賀川筋に下り太龍寺へと上る遍路道のひとつ、「かも道」にも残る。この遍路道も四国最古の遍路道と称される。
10丁;午前11時43分
この辺りで稜線部に上る。等高線の間隔も広く、緩やかな坂となる。
車道(青石板状標石);午前11時49分
9丁・8丁
那賀川の遠景
7丁・6丁
4丁・3丁
2丁・茂兵衛道標(179度目)
先に進むと茂兵衛道標。参道側に「立江寺」、山門に面した側に「奥の院二里半」、また「明治三十三」といった文字が刻まれる。茂兵衛179度目巡礼時のもの。
立江寺を指す面の手印は今上って来た道を指すが、奥の院を指す手印は右手方向を指す。裏参道のようだ。かつて多くの遍路は20番札所奥の院慈眼寺に詣で、東棚野から裏参道を上りこの茂兵衛道標に至ったようである。

●20番奥の院慈眼寺
慈眼寺(じげんじ)は徳島県勝浦郡上勝町に所在する高野山真言宗の寺院。月頂山 宝珠院 慈眼寺と号し、別名「穴禅定の寺」である。四国八十八箇所霊場第二十番札所奥の院。本尊は十一面観世音菩薩。
上勝町正木の集落(標高150m付近)より山道を上った標高320m付近の車道脇から見上げると灌頂滝が臨め、さらに上がった標高550m付近に本坊・駐車場があり、そこから徒歩で約20分登った標高約700m付近の石灰岩質の山腹に本堂がある。
寺伝によれば平安時代初期の延暦年間(782年 - 805年)四国を巡錫中の空海(弘法大師)が、邪気の漂う不思議な鍾乳洞を発見した。洞窟の入口で数日間、加持祈祷を行ったところ悪龍が洞窟より出て空海を襲った。空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。
●第二十番札所鶴林寺●
手水場を右に折れ石段を上ると左手に大師堂(大正2年(1913)再建)、護摩堂(大正15年(1926)再建)、正面に本堂が建つ。
本堂は慶長9年(1604)の再建。左右には鶴が並び立つ。元の鶴は戦時に供出され、現在のものは戦後作り直されてもの。
本堂右手に三重塔。文政6年(1823)建立。大日如来、阿しゅく如来(あしゅくにょらい)、無量光壽如来(阿弥陀如来)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)からなる五知如来が祀られと言う。
その右に鐘楼。宝暦9年(1759)のもの。鐘は昭和に鋳造されたと言う。これも戦時の金属供出令のためだろうか。
三重塔と鐘楼の間を置くに進むと承応2年建立の鎮守大権現。その先には宝暦8年(1758)建立の聖天堂が建つ。
地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、鶴林寺山(標高516.1m)の山頂近くにあり、本堂の位置で比較すると標高495m付近で八十八箇所中7番目、表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。

Wikipediaには阿波の寺院によるある記述、「天正の兵火により焼失」のくだりがない。長曾我部勢による焼失を免れたようだ。当時の住職と長曾我部氏の縁ゆえ、とも聞く。
■第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る■
徳右衛門道標・茂兵衛道標と標石;午後12時29分
茂兵衛道標には「国宝本尊地蔵大菩薩 当山本堂 太龍寺 立江寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる、茂兵衛179度目巡礼時のもの。脇の標石には「太龍寺へ五十丁 船渡し阿り 昭和四年」といった文字が刻まれる。
●遍路道マップ
もうひとつは水井橋を6キロほど下流に下り、旧跡一宿庵に参拝し尾根筋を太龍寺に向かうもの。これが前述の「かも道」。室町期に開かれた四国最古の遍路道。現在路面状態が悪く歩行不適。ひとりでは歩かないでほしい、との注意書きがあった。
舟形2丁・遍路墓
そこから数分下ると遍路墓(午後12時38分)がある。
舟形3丁・石仏
舟形4丁・石造物
舟形5丁・6丁
「四国のみち」木標
舟形10丁・四国千躰大師標石
県道283号と交差;午後13時15分
尾根筋を下って来た遍路道は、ここから谷筋といった地形を下ることになる。
舟形14丁;午後13時21分
舟形15丁・八幡神社
中尾多七標石; 午後13時29分
前方に見える稜線は太龍寺山だろう。
自然石茂兵衛道標〈88度目);午後13時32分
その分岐点に自然石の標石。傍に「中尾茂兵衛建立の道標」の案内。「中務茂兵衛〈1845-1922)周防国大島郡椋野村 (現山口県周防大島町)の人。
本名は中司亀吉。21歳のとき家を出て、四国遍路を始め、生涯巡礼の旅を続け、78歳の時、280回目の結願を目前に倒れた。
道標の建立は、42歳の厄年、巡拝が88回になったのを記念に建て始め、以降四国各地に253基を建立した。
ほとんどは大型の石柱道標(平均124センチ)であるが、ここ大井町の道標は、唯一、自然石の表面に刻まれたもので、貴重な文化財である、
正面の刻字は「ちかみち 明治19年3月21日 88度目供養 行者 中司茂兵衛」とあった。 茂兵衛道標左の大樹脇に石組の祠に石仏が祀られる。いい風情だ。
六角地蔵尊堂(17丁);午後13時33分
大井休憩所;午後13時39分

次回はここから太龍寺道を上り21番札所太龍寺から22番札所平等寺へ向かう。
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