日曜日, 12月 13, 2020

土佐 歩き遍路;第三十七番札所 岩本寺から第三十八番札所 金剛福寺へ その①四万十川の渡しまで

岩本寺を打ち終え次の札所はあし足摺岬突端に建つ金剛福寺。真念の『四国遍路道指南』には「別当岩本寺くぼ川町に居。是よりあしずり迄廿壱里」とある。単純に一里4キロで計算すると84キロとなるが、事実は少し異なる。
「みちのりは、あハととさハ(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これをもとに計算すると 21(里) X 51(丁) X 109(m)=116,735(メートル)、つまり117キロ弱となる。昔のお遍路さんは3泊4日の遍路行であったよう。
メモは2回に分ける。今回は岩本寺から旧土佐中村市(現四万十市)の左岸、往昔渡しのあった竹島大師堂までをトレースする。距離はおおよそ50キロほどだろうか。
途中、知らずはるか昔の四万十川(古四万十川)が太平洋に注いだ伊与木川の谷筋を歩くことができた。現在四万十川は源流より東流し大きく弧を描き旧土佐中村市で太平洋に注いでいるが、それは南海トラフの地殻変動で海岸部が盛り上がり(興津ドーム)、海に落ちることができなくなり、東へと流路を求めた結果であった。
遍路歩きとは全く関係はないのだが、地形フリークのわが身には誠にありがたい出合い、セレンディユピティであった。
ともあれ、メモを始める。



本日の散歩;
■第三十七番札所 岩本寺>水車亭の標石群>国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
■片坂越え;(旧遍路道土径に>片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる>市野瀬に下る)>市野瀬で伊与木川筋に出る
■荷稲>伊与喜>熊越坂>徳右衛門道標と地蔵堂>土佐佐賀の石地蔵群>横浜トンネル南口で国道に戻る>井の岬を廻る>松山寺跡>安政地震の碑>有井で国道に合流>王迎浜の碑>浮鞭(うきぶち)の大師堂>入野松原>県道42号を馬越分岐へ>県道20号を左折し下田の渡しへ>高島の渡し・竹島大師堂



岩本寺から片坂越えに

第三十七番札所 岩本寺
岩本寺を離れ山裾を東に向かう。すぐに土佐くろしお鉄道中村線の高架を潜り、山裾をぐるりとまわり国道56号へと向かう。
土佐くろしお鉄道中村線
土佐くろしお鉄道は高岡郡四万十町の窪川駅と四万十市の若井駅を結ぶ。途中、四万十町の若井駅から全長2134mの若井トンネルを抜けた先、川奥信号所で予土線が分岐する。土佐くろしお鉄道は川奥信号所からすぐループ式トンネルの第一川奥トンネルに(2031m)に入りグルリと円を描き50mほど高度を下げて伊与木川支流の渓谷に沿って南下する。
一方、川奥信号所で分岐した予土線はすぐ先でトンネルに入り、家地川の谷筋を北へ進み四万十川近くの家地川駅に向かい、北宇和島駅で予讃線に繋がる。予土線は北宇和島・川奥信号所までの72.7キロがその路線ではあるが、川奥信号場と若井駅 間は土佐くろしお鉄道中村線・予土線共に属する重複区間となっており、宇和島と窪川駅が直接結ばれている。

水車亭の標石群
国道56号に合流する手前、大きな水車がトレードマークの水車亭の駐車場脇に5基の標石。「八十八ヶ所道標 明治四十互年頃、近郷の有志が建立した道しるべである。その志を後世に伝えたい。合掌 平成四年」と書かれた案内も立つ。
大岩に置かれた3基は右から「順 四国三十八 二十一り 逆三十七番へ四丁 三十六番まで十三里 明治四十五年」、その横、猫脚台に乗る標石には大師座像と「右 左 四国」と言った文字が残る。左端の標石の文字は読めない。
大岩の横に2基の標石。右手の上部破損の標石には「拝みちしる志 七番 八番」といった文字、左手の自然石標石には「右ハへんろみち 左よつしわ道」といった文字が刻まれる。「よつしわ道」は与津や志和を指すのだろうか。

国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
国道56号と合流するとすぐに東から流れてくる見付川が吉見川と合流する地点に。共に窪川台地の南に連なる五在所の峰(標高658m)より流れ出す四万十川の支流。
遍路道は吉見川が開析した谷筋を南下する国道56号をその最奥部まで進み、五在所の峰から西に繋がる丘陵鞍部を上る。丘陵鞍部といっても谷筋との比高差は30mほど。それでもこの丘陵を境に水系が四万十川水系の若井川へと変わる。若井川の源流部の流れに沿って進み峰ノ上に。 遍路道はここで国道を逸れ片坂越えの道に入る。


■片坂越え■

旧遍路道土径に
国道分岐点から峰ノ上集落の中を進む。途中、溜池から若井川に注ぐ水路を横切り。右手に天満宮の鎮座する小丘陵を見遣り、さらに丘陵より若井川に注ぐ沢を越え、丘陵に切り込んだ谷の最奥部まで進む。ここまで続いた舗装も切れ土径へと入る。
行政区域も高岡郡四万十町から幡多郡黒潮町に変わる。

片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる
土径を15分弱歩くと国道56号に抜かれた片坂第一トンネル東口上に出る。東口端のフェンスよりに片坂第二トンネル西口を見遣りながら片坂第一トンネル東口、国道南側に出る。




市野瀬に下る
片坂第一トンネル東口、国道南側に下り切ったところに遍路道案内のタグと比較的新しい標石。「南大師遍照金剛 金剛福寺七五粁」と刻まれる。




市ノ瀬の国道56号に合流
案内に従い遍路道はそのまま土径を伊与木川支流の谷に向かって下り市野瀬集落で国道56号に合流する。国道56号は片坂第一、片坂第二トンネルを抜け、ヘアピンカーブを経てこの地に至る。
市野瀬
「中世以前からの地名で一の瀬・一野瀬・市ノ瀬。川の上流の坂を下ったところ。市は一番目の瀬(桂井) (土佐地名往来)

四万十川の流路変遷
上述の如く、現在峰ノ上の丘陵を境に四万十川水系と伊与木川はその分水界を分けるが、太古の昔、不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
四万十川流路の変遷をちょっとまとめておく;
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川(現在目にしている流路)、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。 これが現在の四万十川の流路であるが、上述の如く、太古の昔不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
いつだったか偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」というトピックにあった、「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れ。。。」といった記事に惹かれ、二度に渡って訪れた散歩チェックした四万十川の流路変遷のメモ以下再掲する(「四国四万十川の後期第四系,特に形成史に関して(満塩大洸・山下修司;高知大学理学部地質学教室)」の記事を参考に作成)。
約70万年から40万年前;若井川経由で伊与木川から土佐湾に注ぐ
約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川は与津地川から興津に落ちるものと若井川を経由して伊与木川から土佐湾に落ちるものがあった。
因みにその頃は、江川崎から現在の四万十川河口までには河川は存在していなかったか,あるいは,存在していても小規模のものであった、と。
私注:若井川経由の伊与木川とは、片坂越えで市野瀬に下った伊与木川支流の谷筋がその流路だろうか。その伊与木川支流の源頭部は片坂の尾根を境に若井川源頭部と誠に短い距離で近接している。
約40万年前から10万年前;興津ドームの影響を受け、若井川・羽立川経由で伊与木川から土佐湾に落ちる
興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川に加えて羽立川を排出口にした、とある(私注;羽立川か家地川のどちらかを経由して現在立っている伊与木川の谷筋を経て土佐湾に注いだということだろう。羽立川と家地川は後述)。 江川崎あたりから四万十川河口までの河川は, いまだ小規模であり,本格的なものではなかったようだ。
約10万年前から1万年前
この時期では,さらに興津ドームの隆起の影響を受け,古四万十川が西流をはじめたため、伊与木川にも水は流れなくなった。
いっぽう十和村付近(現在は四万十町;梼原川の合流点の少し下流)から江川崎,また,江川崎から現在の四万十川河口までの範囲が本格的に形成さしれ始めた.ただし,時期的には後者の方が前者より早く河川として成立していた。
約1万年前から現在
四万十川は現在みられるような流れとなった。

川の生成史では、流域は時間軸に従えば、V字谷>U字谷>準平原となるところ、四万十川では窪川盆地が準平原、その下流にV字谷やU字谷がある。とすれば、初期の流れは窪川辺りから南へ土佐湾に注いでいたであろうことは納得できる。 現在の「海に背を向けて流れる」四万十川の流れは、海岸線に出来た山地・興津ドームに南下を阻まれ、西流することになった「新しい」流れのようだ。「新しい」とは言え、はるか、はるか昔、10万前年から1万年の事ではある。


片坂越えから四万十川の渡しへ

市野瀬で伊与木川筋に出る
思わず知らずではあったが、はるか、遥か昔の四万十川の流路跡らしきルートを辿り市野瀬で伊与木川本流の谷筋に出る。
遍路道は国道56号を横切り伊与木川左岸の旧道を進む。しばらく歩き大前橋で国道56号をクロスし伊与木川右岸の旧道に移り、拳の川(こほ(ぶ)しのかわ)で国道56号に合流する。
伊与木の由来
「イオ、イヨ」は土佐で魚を指す。「木」は場所の意であるので、魚の豊富な場所、といった説がある。

荷稲 
国道56号をしばらく下ると荷稲。「かいな」と読む。荷稲とは「カイ(峡)は山と山の間、両方から山が迫ってくる地形。荷稲は峡野の転訛では(桂井氏)(土佐地名往来)」とある。
「稲をかうる(になう)」といった地名由来もあるが、伊与木川が形成する渓谷を「佐賀谷三里」と称し、荷稲はその中ほど。『四国遍礼名所図解』にも「是(市野瀬)より佐賀町、四里の間谷合にして家少なく用心悪し」と記されているので、「峡野の転化」が納得感が高い。
渓谷と言えば、伊与木川本流筋も渓谷ではあるが、上述川奥信号所でループして南下し土佐くろしお中村線の荷稲駅に至る谷筋も結構な渓谷である。の折り、この渓谷を走ったことがあるが、誠に狭隘な谷筋であった。
古四万十川の流路
この狭隘な谷筋を下り荷稲で伊与木川本流に注ぐ伊与木川支流の川奥川は、遥か、はるか昔、上述の如く古四万十川が西流することなく太平洋に注いだ流路である。
ループ線のある峠を境に北は四万十川水系の家地川と羽立川、南には伊与木川支流・川奥川の最奥部の谷筋が近接している。いまでもちょっとした近く変動が起これば、南北が繋がり四万十川の流れが伊与木の谷筋に流れ込みそうである。
この峠も片峠となっており、片峠の姿を時間すべく家地川そして羽立川の源頭部を辿り歩いたことが思い出される。

伊与喜
荷稲からしばらく国道56号を伊与川に沿って進み伊与喜の町に。伊与喜はこの辺り、伊与木郷の中心であったところ。一条教房が応仁二年(1468)に幡多中村に入国の後、文明二年(1470)に京都から堀川大炊助藤原信隆を招き、文明十年(1478)に伊与木城を築城した。藤原信隆は1200石を給され初代城主となり以来伊与木氏を名乗る。伊与木城跡は伊与木川の左岸、川に突き出た丘陵上に残る。
戸たてずの庄屋
この地の大庄屋の家に泥棒が入り込み、コメを盗んで逃げようとするも足が動かず捕まってしまった。この話が近郷に伝わり庄屋屋敷の敷居を削り持ち帰る村人が絶えなかった、と。これが前述岩本寺に伝わる大師の由来の七不思議のことだろうか。場所の比定はできなかった。
同様の話は愛媛の南予・愛南町正木にもあり、そこでは「戸たてずの庄屋」とも「戸たてずの楠」として伝わる;庄屋屋敷の楠に上り悪さをしていた天狗が家人の放った矢にあたり地に落ちる。家人は翼を返してやったところ天狗は喜び、「以降家に泥棒が入らぬようにする」と言い残し去っていった。天狗ではなく篠山権現のご加護といった話もあるが、それはともあれ、その後泥棒がこの家に入るも足が動かなくなり捉えられた。以降、近郷の村人は盗難除けに庄屋屋敷の敷居を持ち帰るようになった、と。
篠山権現
篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のことだろう。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

熊越坂
土佐くろしお鉄道中村線・伊与喜駅を越えて少し下ると国道左に熊野神社。遍路道はここから国道56号を左に逸れ熊井の集落に入り熊越坂の旧路に入る。残念ながら散歩当日は旧路にあるトンネル先で工事通行止めのため国道56号を南下することにした(注;ルート図には熊井トンネル経由の道を記す)。
熊井トンネル
旧路にある熊井トンネルは情緒のある古いトンネルのようである。トンネル傍の案内には「熊井 トンネル 明治三十八年(一九六五)十二月に工事が完成し、長さ九十メートルあり、『トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう』と云った人があるという。
レンガは佐賀港から一個一銭の運び賃で小学生などが一~二個づつ運び、熊井側入口の石張は二人の職人が右と左に分かれ腕前を競ったといわれる。
昭和十四年(一九三九)までは県道として利用されたが、現在はわずか土地の人の通行に利用されているのみである」
熊井
上述熊野神社の由来には、「寿永年間 源平戦乱の後 弁慶の父別当田辺湛増は紀州より舟で熊野浦に上陸。文治二年末 熊居に移り 熊野三所権現を鎮座する」とある。熊居>熊井と転化したのだろう。

徳右衛門道標と地蔵堂
国道を進み上分集落で国道を左に逸れる旧道に入る。熊井トンネルを抜けた熊坂越えの遍路道との合流点に徳右衛門道標。「是より足ずり迄十六里」とある。傍には地蔵堂も。
遍路道は旧路を南下しほどなく国道に合流する。




土佐佐賀の石地蔵群
国道に合流した遍路道はほどなく国道を左に逸れる旧道に入る。丘陵裾に沿って進み道の右手に土佐佐賀駅を見遣りながら丘陵南裾に廻り込んだところに石地蔵堂。百基ほどもあるだろうか。 中に遍路墓らしき石碑も見える。

横浜トンネル南口で国道に戻る
佐賀の町を進み伊与木川に架かる佐賀橋を渡り、鹿島ヶ浦やその沖合に鹿島を見遣りながら道を進み横浜トンネル南口の先で国道56号に戻る。かつては鹿島ヶ浦と呼ばれていたようである。
土佐佐賀
伊与木川の河口に開けた町。ブリ大敷網漁業や足摺岬沖のカツオの一本釣り漁業の基地。江戸時代は捕鯨で知られた。かつての幡多郡佐賀町。現在は平成18年(2006)佐賀町の西に隣接する大方町と合併し幡多郡黒潮町佐賀となっている。
幡多郡
地図を見ていると現在幡多郡に属する町はこの黒潮町、三原町、大月町と飛び地のように離れている。かつての幡多郡はこの三町に加え、現在の宿毛市、四万十市、土佐清水市、高岡郡四万十町の一部を含む土佐最大の行政域であった。

国道56号を逸れ井の岬を廻る
遍路道は国道56号を南下する。海に落ちる山地と海岸の間を走る国道は、今でこそ整備されているが、往昔海岸線を辿る遍路道は結構大変だったことだろう。土佐白浜駅の先で山地を穿つ「井田第一トンネル」と分かれ、国道は更に南下し灘に至る。この辺りはかつての大方町。現在は佐賀町と合併し黒潮町となっている。
国道56号は灘から山地の東西幅最短部を「井の岬トンネル」で黒潮町井田に抜けるが、遍路道は国道を離れ更に南下し、井の岬を廻り井田に向かう。分岐点には「四国のみち:指導標が立つ。「土佐 入野松原へのみち」と刻まれる。
もっとも、分岐点とは記したのだが。「四国のみち」の示す方向がよくわからない。国道を直進するようも見える。その先「井の峠トンネル」があるが、その辺りはそれほどキツイ丘陵越えでもなさそう。往昔トンネル上を辿る遍路道があったのかもしれない。井の峠を廻るより結構なショートカットになる故の妄想である。


松山寺跡
岬を廻り切ったところに右に折れる道。岬を廻ってきた道と「井の岬トンネル」を出た国道56号を繋ぐこの道を右に折れたところに多くの石仏とともに松山寺跡の案内、「松山寺跡 清岸山東光院松山寺、真言宗 本尊薬師如来、並に地蔵菩薩。開山は空海と伝えられる。
往時はこの寺山に伽藍が聳え立ち、法燈は栄え、藩政時代にはお馬廻り三百石権大僧都の格式で、夕陽に映える寺山は古き頃『幡東八景』の一つでもあった。明治初年廃仏棄釈の政策により廃寺となる。
寺宝として土佐守紀貫之の『月字の額』が伝承され、古来南路志をはじめ多くの文献により京師の月郷雲客の間に喧伝され、その観賞価値は次第に高まっていった。寛政二年、中村の郡奉行尾池春水の『月字額之記』及び弘化二年、京の歌人一人一首読み人百三十七人による『月字和歌集」など原本のまま今も残り、寺跡には歌碑もある」とある。
月字額
国司館跡の「月字」
案内の後半がよくわからない。チェックする;ある年、松山寺の煤払いのとき梁上にあった扁額を無用のものと焼き棄てようとしたが、途中で思いなおし焼け残りの「月」の一文字を取り上げて残し置いた。その話を聞き及んだ尾池春水が紀貫之の真筆と相違ないと京都の日野大納言資枝に鑑定を依頼。資枝は真筆と認めた。紀貫之が土佐守として国府にで書いたものが松山寺に移されたものか、松山寺に立ち寄った折に書いたものかと伝わる。
『月字額之記』はそのままだが、それ以降の「京の歌人。。。」は、尾池春水没後30年ほどした紀貫之没後900年忌に合わせ、一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘が,貫之の月字の搨本(とうほん;拓本)を入手・感激し,それを模刻して諸方の文筆愛好家に贈り,それらの人々から和歌を求めて一帖を作った、これが「月字和歌集」。百三十七人が皆月字の額を詠む。
参道を上ると歌碑などが残るのことだが、当日は参道口を見付けることができなかった。案内あたりからジグザグの参道があるようだ。
と、ここまでmemoした後、この話どこかでメモしたように思えて来た。そう、第二十九番札所国分寺近くの国司館跡(紀貫之邸跡)に上述と同じメモをしていた。そこには「月」の字のレリーフも造られていた。

安政地震の碑
松山寺跡から少し西に進んだ道の右手に自然石の「安政地震の碑」がある。石碑に刻まれた文字の最後に「松山寺住文瑞」の文字が読める。松山寺住職文瑞和尚の建立とのことである。





有井で国道56号に合流
遍路道は伊田川に架かる橋を渡り伊田漁港前を進み、その先で国道56号に合流する。この地には伊田第一トンネルを抜けてきた土佐くろしお鉄道中村線が近接し、すぐ西に有井川駅がある。
有井庄司
駅の北の丘に有井庄司の墓がある。有井庄司は元弘の乱(1331年)で敗れ土佐に流された尊良親王(後醍醐天皇の第一皇子)をかくまった鎌倉時代の勤王家。鎌倉幕府後滅亡後、帰京した親王が病死した有井氏を悼み送られた五輪塔と言う。
○元弘の乱
元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

王迎浜の碑
有井川を渡り上川口に。蜷川(みながわ)に「王迎橋」が架かる。橋を渡った先は「王迎」地区。土佐くろしお鉄道中村線の「海の王迎駅」の南、国道脇の海岸線に、台石の上に置かれた自然石の「王迎浜の碑」が立つ。
「尊良親王御上陸地 侯爵佐佐木行忠謹書」と刻まれた石碑の脇にある手書きの案内には「王無浜 元弘二年二年・三月(1332)北條氏の専横により、後醍醐天皇第一皇子一の宮尊良親王は土佐の畑に遠流の身となられ、若宮は佐佐木判官時信らに警護され「一の宮はたゆとう波にこがれ行く、身を浮船に任かせつつ土佐の畑へ赴かせ給」(太平紀巻四)同月下旬この浜に御上陸なされた。時に奥湊川の領主大平弾正一族がお迎え申し上げ、程なく馳参じた有井庄の庄司有井三郎左衛門門尉豊高らに警護され山路踏みわけ今に残る「弾正横通り」を踏破して弾正の館にお着きになった。
以来若宮は北條方の監視厳しい中を「王野山」に「米原の里」にと移り変わる行在所で京の都を恋いつつ、二歳近い配所の日々をお過ごしになられたのである」とあった。
王無
王無浜の王無は「王待」の転化とも、有井三郎が到着したときは若宮は既に立ち去った後であったためとか諸説。また王無浜も北條氏をはばかってか「玉無浜」と称されたとの記事もあった。

いのちの泉碑
Google Street Viewに写る井戸
王迎浜の碑より国道は少し上りとなる。上り切ったあたりで遍路道は国道を左に逸れ旧道に入る。 王無の浜をぐるりと廻り国道56号を潜り東分川に架かる東分橋を渡る。
古い資料にはその先に「いのちの泉碑」があると言う。水の乏しいこの地の民は慶長の頃というから17世紀初頭に井戸を掘りあて、昭和31年(1957)に水道網が整備されるまで生活用水として使われた。それを感謝し「いのちの泉碑」を建てたとのことであるが、道の左手にコンクリートで固めらられた一画があり、台石の上のに破損した石が載る。訪れた時にはこの石碑以外に何も残っていなかったのだが、Google Sreet Viewには井戸らしき囲いとその横に標石らしき石碑が横倒しで写る。最近になって井戸跡も潰され、標石も撤去されたのだろうか。

浮鞭(うきぶち)の大師堂
その先で旧道は国道に合流。少し進むと大師堂があり、お堂の横に標石。「足摺山十二里」と刻まれれる。
浮鞭(うきぶち)
浮鞭は東の浮津と西の鞭地区の間にあり、両地名を足して二で割った地名。鞭は急に険しくなった山地、急傾斜地が崩壊してできた地といった意味のようである。

入野松原
遍路道は湊川手前で国道56号から左に逸れ入野松原に向かう。ここは元々は大きな潟の海中にできた砂洲に自然生の松が育ち松原となったもの。砂洲の内側の潟はこの地を領していた入野氏による代々の干拓事業により埋め立てられ、室町期には既に現在のような入野平野となっていたようであり、砂洲は砂浜となり砂丘の松原となっている。
入野松原は公園現在となっており、砂浜に沿った道、松林の中を通る遊歩道、キャンプ場、野球場などが整備されている。松林の中の道を歩き成り行きで砂浜に出る。長さ4キロにも及ぶという砂浜・松林が続く。
松林の起源については一般にいわれているのが、長宗我部元親の中村城代・谷忠兵衛が天正四年(1567)から四年間、防風林のために囚人を使って松を植えさせたという説である。否、全体の植林ではなく、松原の両端部である吹上川と蛎瀬川河口部を捕植したとの説もある。また、宝永四年(1707)の大地震による津波の復旧策として、住民各戸から松を六本持ちより防潮を目的として植樹させたのが始まりだという説もあるようだ。
谷中兵衛
谷忠兵衛は元は土佐神社の神職であったが、元親に仕えて重臣となった。豊臣秀吉が元親掃討の兵を起こす前、京都・伏見城で秀吉と会い、秀吉を「天下の盗人」と放言したとの話も伝わる。秀吉をして「珍しき男かな」と評価された人物であり、長宗我部が秀吉に屈した後も一國を治めることができたのは、忠兵衛の力に負うところが多かったという。
〇入野氏
応仁の乱を避けて一条家が土佐中村(現在の四万十市)に下向する以前、この入野一帯を治めていたのが入野氏(元藤原氏)と言う。公家大名として、勢力を拡大させてきた一条家により、幡多荘管理に組み込まれ、その後親子ともども殺害され滅した。


入野から四万十川の渡しへの遍路道■

往昔の遍路道は入野から現在の国道56号筋を進み、田の口から逢坂峠を経て古津賀へと進み、古津賀で国道を離れ古津賀川を下り四万十川左岸の井沢から渡し舟のあった高島へ向かったとも言う。
とはいうものの、澄禅はその著『四国遍路日記』に「入野ナド云所ヲ過テ田浦ト云浜ニ出タリ(中略)猶浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ爰ニ高島ノ渡迚大河在リ」と田野浦から浜辺を進み高島に進んだと記す。
また真念も「うきつ村、是より海ばたを行、ふきあげ川わたりて、塩干の時ハすぐにゆく、ミち塩の時ハ右へ行。〇入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦、これより七八町はまを行。標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村、大河舟わたし、さね碕村天まというところに引舟あり」と田野浦から出口まで進み、そこから高島村に出て四万十川を渡ったとする。
澄禅は田野浦の先は「浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ」とありその間のルートは不詳である。また真念は田野浦から出口まで海岸線を進むとあるが、これも出口村から高島までのルートの記述はない。
因みに高島という地名は地図に無いが、四万十川沿いの井沢の南に竹島という地名があり、その地が高島では、とのことである。

澄禅、真念の歩いたルートははっきりしない。さてどうしよう。上述国道56号を辿るルート以外に出口から県道339号を進み「沢の峠」を経て上述古津賀に出た後古津賀川を下り四万十川左岸に向かうルートもある。実際このルートを歩くお遍路さんもいるようだ。
この国道56号、県道339号を抜けるふたつのルートは四万十川左岸の竹島にあった高島の渡しで四万十川を渡る遍路道としては理屈に合うが、現在高島に渡しは無い。
はてさて。あれこれチェックすると四万十川の渡しは河口の下田にあると言う。で、結局、出口から先の遍路道ははっきりしないけれども渡しのある四万十川河口の下田へと向かうことにした。

県道42号を馬越分岐へ
入野松原を抜け蛎瀬(かきせ)川に架かる蛎瀬橋を渡り、県道42号をを澄禅や真念の日記にもあった田野浦を抜け、出口の横浜。こまじり浜を左手に見遣り県道を進むと幡多郡黒潮町を離れ旧中村市域、現在の四万十市に入る。
双海を過ぎ金ヶ浜で平野への海岸線の道を分ける県道42号をそのまま進み、馬越えの分岐から山裾の道を辿り四万十川右岸の下田へ向かう。

県道20号を左折し下田の渡しへ
県道42号は四万十川左岸に建つ貴船神社角で県道20号に合流する。下田の渡しはここを左折し下田漁港をぐるりと廻る。漁港の突端辺りに「四国のみち」の指導標が立ち、「下田の渡し」の文字と共に四万十川に向かって道筋が示されている。特に待合所といった施設は無い。 改めてチェックすると、現在は予約制(202010月現在)で運行されているよう。下田の渡し保存会という有志の善意によるものである。予約もしておらず渡船叶わず。
下田の渡し
かつて四万十川には昭和の頃まで20以上の渡しがあったようだが、現在はこの下田の渡しが唯一残る、と。下田の渡しは昭和初期から運行が開始され、昭和40年頃までは個人の申し合わせで運営されその後平成17年(2005)までは旧中村市(現在の四万十市)が運営した。2005年からしばらく廃止されたが平成21年(2009)、上述の如く地元有志によって再開された、という。


高島の渡しへの旧遍路道再考
あれ?下田の渡しは昭和初期に開始された?ということは澄禅や真念の頃は下田の渡しはない。ふたりの日記に下田の渡しが記載されていないはずである。
であれば、そのルートは?更にルートをチェックすると『江戸初期の四国遍路 澄禅「四国辺路日記」の道再現;柴谷宗叔(法蔵館)』に推定ルートが載っていた。オリジナルの日記には田野浦の浜の次は高島とあるわけで、推定の域は出ないかとも思うが、そのルートは可能性として2つ示されている。
ひとつは出口のこまじり浜から丘陵部に入り高島(竹島大師堂)に向かうもの。もうひとつは出口の南、双海の集落から西の丘陵部に入り高島へと向かうもの。 真念の高島へのルートはみつからなかったが、日記に「○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村」とあるので、上述澄禅の推定ルートをあるいたのかとも思える。そのルートは共にピタッと合う道は現在残らない。出口から丘陵を越えて竹島にある高島の渡しに向かった、といった理解で??よし、とする。



高島の渡し・竹島大師堂
予約もしておらず下田の渡しで四万十川を渡ることはできない。対岸に渡るには四万十川大橋を渡るしか術はなし。県道20号を歩きながら竹島大師堂をチェック。四万十大橋の少し北にそれはある。
ついでのことでもあるので、竹島にある往昔の高島の渡しを見ておこうと四万十大橋を越え県道20号を北進する。四万十大橋を越え丘陵部が四万十川に突き出たところまで進む。堤防の道は切れるが、少々荒れてはいるが川岸へtと下りる道があり、その先に高島大師堂があった。大師坐像が祀られる。この辺りが往昔の高島の渡しであろうと言われる。
記録には昭和51年(1976)までは竹島と対岸の山路(竹島の上流。後川が四万十川に合流する四万十川右岸に『山路の渡し」の碑がある)を結ぶ渡し「竹島・山路の渡し」があったと言う。昭和40年代までは船頭も常駐する渡し場であったようであるが、澄禅の頃は渡しとは言うものの、渡し舟も渡し守も常駐していたわけでなく、澄禅が「爰ニ高島ノ渡迚大河在リ。渡舟トテモ無シ。上下する舟ドモに合掌シテ三時斗咤言シテ舟ヲ渡シ得サセタリ」と、三時というから6時間ほど手を合わせ、咤言(大声で)お願いしてやっと渡河したとのことである。

本日のメモはここまで。次回は下田の渡しで四万十川を越えた初碕から先の遍路道をメモする。

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