火曜日, 1月 05, 2021

土佐 歩き遍路;第三十八番札所 金剛福寺から第三十九番札所延光寺まで

今回は金剛福寺を打ち、土佐最後の札所、宿毛の第三十番延光寺を目指す。金剛福寺から延光寺への遍路道は大きく分けて2つある。ひとつは既述の市野瀬の真念庵近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、幡多郡三原村を経由して宿毛市の延光寺に進むもの。真念はこのルートを歩いている。
もうひとつは足摺岬より西岸の道を進み、幡多郡大月町に建つ番外霊場として知られる月山神社を経て延光寺を目指すもの。月山神社は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。澄禅はこのルートを辿っている。
今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。

延光寺を打ち終えれば長かった四国遍路歩きも一巡したことになる。遍路歩きのきっかけは、田舎の愛媛に帰省の折時間を見付けて伊予の遍路道にある峠越え。いくつかの峠越えを楽しんだ後、どうせのことなら峠と峠の間の遍路道を繋いでみようか、で、ついでのことなら伊予の遍路道を繋いでしまおうと想い、予土国境の延光寺からはじめ四国中央市の第陸十五番札所三角寺まで辿り終えた。
これで大団円と思っていたのだが、どうせのことなら讃岐もカバーしよう、讃岐まで来なら阿波も、 せkっかく阿波を打ち終えたのであれば土佐もカバーしようということになり、結果的に四国八十八箇所霊場を一巡することになったわけである。
もとより深き信仰心があるとは言い難く、好きな峠越えからはじまった四国遍路歩きではあったのだが、四国遍路のあれこれ、また四国各地のあれこれをちょっとだけ「深く」知ることができた。また、道標、標石を目安に旧遍路道の道筋のトレースは結構し得たと思う。路傍に佇む古き道標、標石、丁石を探すのはなかなか大変ではあったが、「宝探し」ゲームのようでもあり楽しいものでもあった。
一巡し終え、事前準備は最小限、出たとこ勝負、少々格好良くいえば、セレンディユピティ(serendipity)、素敵な偶然に出合ったり、予想外のものを発見する喜びを基本とする散歩ではあったが、それはそれなりに得るものの多かったのだが、事前準備不測故の「後の祭り」も多かった。
時間をみつけ、見落としたところを再び訪れる楽しみを残し、とりあえず四国遍路歩きのメモは一応お終いとする。



本日のルート;
第三十八番札所金剛福寺 
■市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り三原村の地蔵峠を越えて延光寺へ 第三十八番札所金剛福寺>(市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り)>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点>下ノ加江の標石>( 成山峠越えの遍路道・成山峠) >狼内の「狼内城跡」の案内>真念道標>地蔵峠>江ノ村大師堂>西ノ谷集落>上土居川橋>中筋川を渡り国道56号に戻る>住吉神社手前四つ辻の自然石標石>39番札所延光寺参道口に標石2基>9番札所延光寺 
■月山神社経由の遍路道 第三十八番札所金剛福寺>松尾>中浜>清水(志水)>三原への分岐点>三崎>川口>具ノ川(具ノ河)>大津(粟津)>才角(サイツ野)> 月山神社 >西泊(西伯)>小筑紫(コヅク)>七日島>伊与野(イヨ野)滝厳寺>三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)>宿毛>9番札所延光寺 



 第三十八番札所金剛福寺

山門前の標石
三門前左側、大きな石灯籠傍に3基の標石。1基は最近のもの。金剛福寺本堂、岩本寺、延光寺などへの距離が刻まれる。延光寺へは真念庵まで打ち戻り三原経由では五五、一粁、海岸廻りの月山経由は七五、二粁、とある。
その前に立つ標石は風化は激しいが「従是寺山江打抜十三里 月山へ九り」と刻まれる。その左の標石は徳衛門道標。「是より寺山迄十二里」と刻まれる。
寺山は延光寺のこと。月山は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。西海岸廻りの高知県幡多郡大月町に建つ。
山門
山門は仁王像が並ぶ。寛永十年(1633)の作。扁額「補陀落東門」は元は嵯峨天皇の揮毫。現在のものは江戸初期に模写された、と。
奇岩を配した庭園風境内
山門を潜ると池、そして奇岩を配した庭園風境内となる。造作はそれほど古くない。平成26年(2014)が弘法大師四国霊場開場1200年記念の年であり、それを踏まえての平成の大修理によるのではないだろうか。
石灯籠
当日は見落としたのだが、山門を潜ると左手に元和の石灯籠と称される古い灯籠があるとのこと。元和4年(1618)松平土佐守(2代藩主山内忠義)の奉納したもので、「元和四戌午四月十七日」と刻まれている。元和2年(1616)東照大権現(徳川家康)菩提のために奉納したもの。伊豆半島の輝石安山岩で造られ、船でこの地まで運ばれたと言う。




奇岩に囲まれた手水場の左手、池の向こうに鐘楼堂と朱色の六角堂。正面に本堂、右手に護摩堂と多宝堂、その先に和泉式部の逆修塔。左手に愛染堂、十三重石塔、行者堂、権現堂、文殊堂、大師堂と並ぶ。 Wikipediaには「金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉?山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている。
六角堂と鐘楼堂
本堂前庭園と愛染堂

金峰(きんぽう)上人が住持の時、修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏すると、そのもの達が蹉?(私注;サダ)した(地団太を踏んだ)ことから、山号を月輪山から蹉蹉?山に改めたといわれる。 歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる。

権現堂
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、大師一夜建立ならずの華表、亀呼場、大師の爪書き石の「弘法大師の七不思議」[1]の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「?」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示していて、当寺は俗に足摺山という。また、大師御遺告の25条の第1条の中に「名山絶嶮の処、嵯峨孤岸の原、遠然(えんねん)として独り向ひ、掩留(おんる)して苦行す」とあるのは当地であるといわれる」とある。
弘法大師は寺建立に際し、「この地たるや、四国の南極に位し、うしろに大悲の山そびえ、前に弘誓の海漫々として観音菩薩の生の霊地たり」と述べたと言う。四国の南極と称される如く土佐の辺地にありながら、嵯峨帝ののちも代々天皇家の勅願所として、又、藤原氏や源氏一門はおろか、徳川時代には諸大名から帰依者も多くあったとのことであり、この岬一帯には、堂塔十六、二十二社が建ち並び、末寺十堂社二十七を支配するほどの大寺であった、と。
明治初年の排仏毀釈には一時衰えるも後に復興し、現在に至っている。
補陀落渡海信仰
那智参詣曼荼羅図全景(正覚寺本)
扁額に「補陀落東門」とあるように、また、弘法大師が「観音信仰の霊地」と讃えた如く、この寺は観音菩薩の補陀落浄土をめざして大海に漕ぎいだした紀州熊野と同じく、補陀落渡海信仰の地として知られる。此の金剛福寺のある足摺岬もまた補陀落渡海の行場であった。金剛福寺の本尊千手千眼観音菩薩が、熊野補陀落山寺の本尊と同じ三面形式であることは、熊野との強い結びつきを示しているといえる。
補陀落渡海の様子は、後深草天皇の中宮であった二条(藤原公子)の『とはずがたり』という日記文の一節に「土佐の足摺の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。かの岬には、堂一つあり。本尊は、観音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。・・・・一葉の舟に棹さして、南を指して行く。坊主泣く泣く『われを捨てていずくへ行くぞ』と言ふ。小法師、『補陀洛世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫瓶に立ちたり。心愛く悲しくて、泣く泣く足摺をしたりけるより、足摺の岬といふなり。・・・・・」とある。
また熊野より木の葉のような小舟に身を託した補陀落渡海について『吾妻鏡』は、に「彼は船に乗り家形に入って後、外より釘をもって皆打付、一扉も無し、日月光をみることあたはず、ただ燈びによるべし。三十余日のほどの食物ならびに油等をわずかに用意す」と記される。



足摺由来の変化
承応二年(1653)に書かれた澄神の『四国遍路日記』には、「足摺山当寺ハ大師ノ開基、嵯峨天皇ノ御願也。往古ハ此山魔所ニテ人跡絶タリ、然ヲ大師分入玉イ悪魔ヲ降伏シ玉フニ、咒力ニヲソレテ手スリ足スリシテニゲ去リケル間、元ト月輪山ト云シヲ改テ蹉?山ト号シ玉フ。二字ヲ足スリフミニジルト訓ズル故也。其訓ヲ其儘用ヒテ足摺山ト云也」とある。
女西行とも云われた上述後深草院二条の『とはずがたり』が書かれたのは嘉元四年(1306)のこと。このときは補陀落渡海の様より「心愛く悲しくて、泣く泣く足摺」とその由来を記すが、それから350年ほど後には、弘法大師が 修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたとする

Wikipediaには修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたの金剛福寺の上人とあったが、それが空海に置き換わっている。四国遍路における弘法大師一元化の一端が垣間見れて面白い。
多宝塔
金剛福寺多宝塔は、伝承(蹉?山縁起)では清和天皇の菩提のため源朝臣多田満仲が建立したとされる。
創建時の九輪の露盤銘文によると、南北朝時代の応安8年(1375)、九輪は摂州堺の鋳物師山川助頼が鋳造し、院主・南慶の歓進により建立されたと記される。その後、江戸時代の貞享3年(1686)には4代土佐藩主山内豊昌が本堂とともに多宝塔を修造される。
現在の多宝塔は、明治13年(1873)に地域の人々の寄進で建て替えられ、清松村大浜の大工棟梁市川安太郎の建築。九輪頂上の宝形中には水晶の五輪塔1基が納められ、その中には5粒の仏舎利が入ってい。近年、破損により取替えられた創建当初の九輪は、現在、多宝塔前に建てられている(土佐清水市HPより)。
天灯竜灯の松
室町時代専海法親王の磋?山縁起の中に「天灯松樹に輝き竜灯備前を照す云々」とあり、本堂前に松の大木があったが現在はそのあとをとどめるのである(土佐清水市HPより)
逆襲の塔
金剛福寺多宝塔前の宝篋印塔は、砂岩で作られたもので、室町時代前期の作と言われる。 上部の相輪が3つに割れ、笠の部分の四隅につけられた「方立」は1つが破損してが、他は完全に保存されている。また、和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔とも言い伝わる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、宝篋印阿羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納める塔を摸して造られた塔のことで、墓標や供養のために建てられる塔。形は下部に方形の石を置き、下から種々の形に積み上げ最上部に棒状の相輪をおく。
笠は上下に幾段にも積み重ねられ、最も広い部分の四隅に「方立(ほうだて)」という三角形の飾をつけている。
逆修
「コトバンク」には
1 煩悩に身を任せ、真理から遠ざかること。⇔順修。
2 生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。予修(よしゅ)。逆善。逆修善。
3 年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること。
4 生前に、墓石に戒名を刻むこと。朱書きとする。また、その戒名。逆修の朱。
とある。和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔の「逆修」は、はるばるこの地を訪れ死後の冥福を祈り建立した、との記事があるので、2の意味であろう。
五鈷杵
弘法大師留学先の唐より帰国の際、三種の鈷杵を投げ「密教の栄えるところに鈷杵とどまる」と諭された。五鈷杵はこの金剛福寺の松にとどまった、とも伝わるが、その他のふたつ、三鈷杵は高野山に、独鈷は三十六番青龍寺にとどまったとされる。

足摺の七不思議
時間に余裕がなく、また愛媛が田舎でもあるため足摺岬には時に応じて訪れており、足摺岬などや周辺の見どころは今回パスした。メモの段階で土佐清水市のHPに、「弘法大師が建立した四国八十八ヶ所第三十八番札所「金剛福寺」があり、それにまつわる数々の「不思議」が遊歩道沿いに点在しています。それを総じて「足摺七不思議」と呼んでいます。足摺岬灯台や椿のトンネルを通る遊歩道沿いにありますのでぜひ見つけて下さい。
※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です」とあった。弘法大師とゆかりのある話でもあり、写真と共に説明文も掲載されて頂く。
ゆるぎ石
弘法大師が金剛福寺を建立した時発見した石。乗り揺るがすと、その動揺の程度によって孝心をためすといわれています。
不増不滅の手水鉢
賀登上人と弟子日円上人が補陀落に渡海せんとしたとき、日円上人が先に渡海していったので非常に悲しみ、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。
追記;『蹉?山縁起』には、「長保頃にや賀登上人補陀落渡海のために難行苦行積功累徳し侍りしに、弟子日円坊奇瑞によりて先に渡海ありしに、上人嗟嘆のあまり五体投地し、発露涕泣し給ひし、其涙不増不減水となれりといへり。此外秘所秘窟久住老僧面受口伝せしむと云々」と記されている。
亀石
この亀石は自然石で、弘法大師が亀の背中に乗って燈台の前の海中にある不動岩に渡った亀呼場の方向に向かっています。
汐の満干手水鉢
岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれ、非常に不思議とされています。
根笹
この地に生えている笹はこれ以上大きくならない笹だといわれています。
大師一夜建立ならずの華表
大師が一夜で華表(とりい)を造らせようとしたが、夜明け前にあまのじゃくが鳥の鳴真似をしたため、夜が明けたと勘違いし、やめたといわれています。
亀呼場
大師がここから亀を呼び、亀の背中に乗って前の不動岩に渡り、祈祷をされたといわれています。
大師の爪書き石
これは弘法大師の爪彫りといって、「南無阿弥陀仏」と六字の妙号が彫られています。
地獄の穴
今は埋まっていますが、この穴に銭を落とすと、チリンチリンと音がして落ちて行き、その穴は金剛福寺付近まで通じるといわれています。






市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り
幡多郡三原村経由で地蔵峠を越え宿毛市の延光寺に至るへの遍路道

今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。
このルートは真念が『四国遍路道指南』(貞享四年(1687)に「(足摺山)・・・ 是より寺山迄十二里。右真念庵へもどり行。○真念庵〇成山村○おほうめうち村、真念庵より是迄山路、渓川。○上長谷村、しるし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし。○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」ルと記すートを辿ることになる。
「おほうめうち」は狼内(おおかみうち)、 「ゑ の村」は江ノ村、「いその」は磯ノ川のこと。

市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
金剛福寺から市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点までは前回メモを参照して頂くこととして(金剛福寺から分岐点までのルートマップは参考のため再掲しておく)

県道346号、市野瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。
道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かったようだ。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。
寺山は宿毛の延光寺のこと。五社は札所岩本寺の前身、五社(高岡神社)のこと。

下ノ加江の標石
遍路道分岐点より県道346号を左折し、下ノ加江川水系の市野瀬川に沿って進む。ほどなく道の左手に「伊豆田神社社叢」の木標、伊豆田神社と刻まれた標石。「鳴谷川に沿って0.8キロ、高知山背に鎮座。文化財・木彫ご神像」とある、そしてその傍に自然石の標石。手印だけが見える。
加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
伊豆田神社
市野瀬の遍路道分かれまでは伊豆田峠を越えてきたわけで、伊豆田神社って、なんらかこの辺りの由緒ゆかしき社かとチェック。
標石はあるのだが、参道の案内はない。道の北側に山に入る土径がある。それが参道だろうか。当日は時間に余裕がなく参拝することはできなかったのだが、メモの段階で伊豆田神社のことをチェックする;
創祀年代は不詳であるが、式内社・伊豆多神社に比定され、明治元年に伊豆田神社と改称されたようだ。現在は無社格。明治の頃由緒ある社として県社格を願い出たが叶わなかったようである。中世以降は伊津多大明神、伊都多大明神と呼ばれていた、との記事もあった。
伊豆多はイデユタ(出湯田)に由来すると。湯は冷水の湧き水も含む。市野瀬の市(イチ)も湯地(ユチ)の変化し たもの。また市野々は伊豆田神社の祭礼時の市に由来するとの記事もあった。 『土佐物語』にも長曽我部元親が「伊豆田神社は、當國廿一社の一つなればとて、立寄らせらる」とあるのでこの地の人々に深く信仰されていた社であったのだろう。

狼内の「狼内城跡」の案内
成川、家路川と川の名の付く集落を進むと土佐清水市から幡多郡三原村の成山集落に入る。その先で県道346号は市野瀬川の源頭域から離れ丘陵を上り長谷(ながたに)川の谷筋に下りる。 長谷川の谷筋に下りた県道346号は谷筋を北に四万十川水系中筋川の谷筋に下り四万十市の具同に向かうが、遍路道は長谷川の谷筋で県道346号から県道42号に乗り換え、長谷川を渡り川の右岸を狼内(おおかみうち)へと進む。
道の右手に「狼内城跡」の案内。「狼内城跡 城主・江口六太夫  天正十七~十八年領主として地検帳に記されているもと一条家の家臣であったが、天正三年一条氏亡びて長宗我部元親に仕えて帆(浦)奉行を勤めるなど政事にたずさわった。そして城の麓の土居館に領主として居住していた。中村市鍋島の豪族江口と一族と目され、三原村内に其の給地三町六反余をもっていた。城跡は二段にわかれ、前後三条の空堀が残っており、本丸は約二00平方メートルある。 」と記されている。
成山峠越えの遍路道
メモの段階で成山の先、分水界を越える県道から左に逸れる旧遍路道がある、という。Google Street Viewでチェックすると、成山集落の道の左手、県道から左に逸れる一段高い所に小祠、道標、案内板が見える。そこが成山峠越えの旧遍路道取り付き口だろう。
案内には「へんろ道跡 この道標から山腹の植林の中を登り成山峠越えて、狼内、川平郷の分岐にある指差造務まで、昔のへんろ道の姿が残る。
この道は昭和のはじめまで三原の百性が下ノ加江へ米売りに馬で通った道であり、魚を担うた浜の魚売りが越えた道である。江戸時代の遊路記に「谷間い長く木重なり、淋し」とある。 平成十年三月 三原村教育委員会」とある。
市野瀬の真念庵から市野瀬川を遡り、この道を通り江ノ谷から地蔵峠越え、江ノ村、有岡を経て三十九番寺山延光寺へ至るへんろ道で「寺山道」とも言われていたようである。
道はおおよそ県道に沿って丘陵を進み成山峠を越え、長谷川の左岸の道を西進し、下に記す真念道標のところに出るとの記事があった。峠を越えて里に出たところに手印だけの指指道標が残るようである。

上長谷の真念道標
長谷川の支流・木和田川に架かる木和田橋を渡り少し行くと右側に天満宮、その鳥居より西へ約30メートルほど進むと北に逸れる道があり案内板と標石2基と石仏らしきものが立つ。
案内には、「真念法師の道標 「右遍路みち左大ミつのときハこのみちよし」願主 眞念  為父母六親・貞享四年(六八七)丁卯三月廿日 施主大阪西浜町てらしま五良衛(私注;字がでないので「衛」で代用)門建之とある。真念法師はへんろみち道標の創始者と伝へられる。  平成十年三月三原村教育委員会」とある。

右端一番大きな標石には「へんろ道 右寺山道 左足摺山 願主 愛媛縣」と刻まれる。愛媛県ができたのは明治6年(1873)であるのでそれほど古いものではない。寺山は延光寺、足摺山は金剛福寺。その横の標石は案内にある「右遍ん路みち 左 大ミつのときハこのみちよし」と刻まれる。 

大水の時は遍路道の先、北を遮る山稜を越えた中筋川の谷筋が氾濫する、ということだろうか。 真念道標の隣、左端は風化激しく標石か石仏かの区別もできない。
中筋川洪水の特徴
中筋川地溝帯(Google Earthで作成)
国土交通省の資料に拠れば、「中筋川は、その源を高知県宿毛市白皇山(標高458m)に発し、ヤイト川、山田川、横瀬川等の支川を合わせ中筋平野を東流し、河口の四万十市実崎地点において四万十川と合流している1級河川である。
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奥部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地および丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地よりなっている。
・中筋川は低平地を流れ、洪水時に本川水位の影響を受けることから、内水被害が発生し やすい。
中筋川洪水の特徴として
中筋川流域の平均年降水量は2,200~2,600mmで日本有数の多雨地帯。
・降雨のほとんどが台風に起因し、大規模な洪水がしばしば発生。
・中筋川は、四万十川合流点から約11kの区間の河床勾配は約1/8,000と非常に緩やかであるため、沿川では四万十川の背水の影響により、度々内水被害が発生」と記される。
度重なる洪水対策として昭和4年(1929)よりはじまった改修工事によ り洪水被害が次第に減少してはいる」とある。
中筋川地溝帯
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奧部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地及び丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地より成っている。
地溝とは、ほぼ平行に位置する断層(中筋川の場合は北の国見断層と南の江ノ村断層)によって区切られ、峡谷の形状をなしている地塊および地形のこと。侵食によってできた谷とは異なり、基本的に正断層の活動によって形成される。
地殻において水平方向に伸張力が働くと、その地域には正断層が発達する。この断層線が、水平面においてほぼ平行に複数発達すると、一部地塊は沈降し、峡谷の形状を成す地溝となる。

大ミつのときハこのみちよし
洪水の時は左へとある。どのような道筋なのだろう。ちょっとチェック。県道44号を西行し、途中宗賀で下ノ加川に沿って南下する県道とわかれ、県道21号に乗り換え下ノ加江川水系の宮ノ川などの支流に沿って三原村役場のある村の中心部に。
村の中心部を越えた県道21号は下ノ加江川水系の分水界を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って中筋川ダム(洪水対策などの多目的ダム)を経て宿毛市平田に出る。
微妙な分水界
下ノ加江川水系と四万十川水系中筋川支流清水川の源頭部は急接近している。境は船ヶ峠と記された、峠というよりちょっとした「高み」といった箇所。船ヶ峠の標高は170mほど。両水系の谷筋の標高は150mほど。ちょっとした地殻変動で河川争奪が起こりそうに思える。






江ノ谷川を渡り北進し地蔵峠へ
真念道標を右折し天満宮の鎮座する丘陵西裾を進み、道なりに江ノ谷川を渡り車道に合流し、東西の丘陵に挟まれた江ノ谷川に沿って北進する。道は舗装されており古き趣はない。 真念道標からおおよそ50分弱、地蔵峠に出る。
上長谷(ながたに)城跡
遍路道の左手、県道に突き出た丘陵上は上長谷城跡。武元真季(敦いは武光兵庫ともいう)の居城。戦国時代天正のはじめ頃(一五七三)柚木城主敷地官兵衛、下長谷城主大塚八木右衛などと共に一条氏に仕えた。天正三年栗本城(具同村)にて一条勢と共に長宗我部元親軍と戦って破れ降伏、一命と領地は安堵されたが、その後の消息は不明とのこと。城の本丸と目される所330平方メートル、下段に三条の空堀あるようだ。

地蔵峠
坂を上り切ったところ、尾根道も舗装された道が走る。四万十市と幡多郡三原村を結ぶ県道344号だ。峠は四万十市と三原村の境となっている。
県道とのT字路交差点、正確には土径が北に下るため四つ辻といったほうがいいかもしれない。
その四つ辻の北西側、一段高いところに舟形石仏が3基佇む。その内1基は三体が刻まれたもの。なんだか惹かれる。この地蔵尊ゆえの地蔵峠ということだろうか。
県道344号
宿毛線・四万十くろしおライン国見駅の少し東で国道56号と分かれ間集落から山間のジグザグ道を上り、この地蔵峠を経由して三原町に抜ける。



江ノ村大師堂
地蔵尊を左上に見遣りながら、地蔵峠の四つ辻から土径となった遍路道を下る。峠の標高は260mほど。等高線に沿うように、250m、200mと緩やかに坂を下り、標高150m辺りの平坦地を過ぎ100m、50mと坂を下る。時に崖が崩れたところもあるが虎ロープなどでサポートされており、それほど危険な箇所はない。
峠から40分強で江ノ村大師堂。新しく建て直されたのだろうか、少し新しい建屋となっていた。林間から里が除く。

西ノ谷集落で里に出る
遍路墓のような石碑に頭を下げ数分歩くと西ノ谷集落の里道に出る。里道を進み東西に走る中村宿毛道路の高架手前に遍路休憩所と安らぎ大師像。高架を潜り中村宿毛道路の北を走る道に遍路道案内のタグ。西を指す。
中筋川を渡り国道56号に戻る 中村宿毛道路に沿って丘陵裾を西行すると水路が行く手を遮る。北に迂回し上土居川橋を渡るとその先、中筋川を渡る道筋と山裾を西行する道の分岐点。

中筋川を渡り国道56号に
橋を渡るところまでは遍路道タグがあったのだが、分岐点をどちらに進むかわからない。真念の『四国遍路道指南』には「○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」とある。 この記事に拠れば、中筋川を渡り磯の川村から有岡村へと向かっている。
分岐点の対岸は磯ノ川、有岡の集落がある。はっきりしないが、この辺りで中筋川を渡り磯ノ川、有岡へと向かったのだろう。分岐点を北に国道56号に戻る。

住吉神社手前四つ辻の道標
磯ノ川、有岡と進み中筋川支流横瀬川、山田川を渡ると四万十市から宿毛市に入る。先に進むと道の右手に住吉神社。その手前の四つ辻に自然石標石が立つ。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁  左 三拾九番寺山寺 六十五丁 文政治十丑龍 山田村講中」と刻まれる。ということは、真念の記事にある「やまだ村」とはこの道標の立つ辺りであろうか。東には山田川も流れている。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁」は何処を指すのか不明。

39番札所延光寺参道口に標石2基

国道を西行し平田、寺尾を越えると延光寺参道口に至る。参道口に大きな標石2基。高いほうの標石には「四国霊場第三十九番札所延光寺」とあり、線で彫られた矢印と共に、是ヨリ一キロ 約八丁 中村二十キロ 宿毛六キロ」 「文化財 本尊薬師如来・笑不動、銅鐘、いぶき」 「昭和三十九年三月一日 施主 滋賀県長浜 中尾多七・高田金二」と刻まれる。
中尾多七さんたちが建てた標石には遍路道の途次多く出合った。線彫りの矢印での方角指示が特徴的な角型標石をその典型とする。
もう一基の標石は茂兵衛道標。「東 中村 西 宿毛 」、手印と共に「寺山延光寺 足摺山江十一里 大正五年十二月」。茂兵衛227度目巡礼時のもの。またこの道標には添歌も刻まれており、「花の香や いと奥深き法の声」と刻まれる、と言う。

39番札所延光寺
標石を右に折れ、左折・右折で北に進み途中、左に分ける「40番 観自在寺 歩き遍路道」に入る土径の角に茂兵衛道標。正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。延光寺はすぐ。




市野々より県道21号を辿る遍路道

金剛福寺より真念庵近くの遍路道分岐点に打ち戻る途中、下ノ加江から県道21号を進み宿毛に出るお遍路さんもいるようだ。特段古くからの遍路道というわけでもないが、ちょっとメモしておく。距離は30キロほどだろうか。
市野々で県道21号に乗り換え、下ノ加川に沿って進み大川内の集落を越えると土佐清水市から幡多郡三原村に入る。芳井、久繁、下長谷と進む。下長谷の対岸、宮奈路の丘陵に下長谷城跡がある。
下長谷城跡
「下長谷城跡 大塚八木右衛生門の居城で一条氏に仕え、天正二年(一五七四)一条氏の家老(安並、羽生、為松)などが謀って其の主君兼定を豊後(大分県)に追放するも、是れに憤り加久見城(加久見左衛門)などと共に兵を挙げ三家老を亡した。
翌天正三年、一条兼定が中村に復帰を試み、伊予の援を得て栗本城において長曽我部勢と抗したがたが破れて降伏、一命と領地は安堵されたが、数年にして亡んだ。本丸は約100平方メートル、一条の空堀のあとが残る」、と。
奈路
四万十町地名辞典には、「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 成川・鳴川も同じ。

下長谷城跡のある丘陵を廻り込むとそして宗賀の集落。この地で県道21号は下ノ加川筋からその支流長谷川筋に入り三原村の中心をなす来栖野と進む。
来栖野を越えた県道21号は、長谷側源頭部の船ヶ峠を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って下り、多目的ダムである中筋川ダムを越え県道56号の平田へと下る。遍路道は平田で国道を右折し延光寺へと向かう。
藤林寺
県道が国道56号に合流する手前、沖前の丘陵裾に曹洞宗藤林寺がある。境内には一条家の房良、房冬、房基を弔う五輪塔・卵塔などの墓石がある。


月山経由延光寺への遍路道

金剛福寺から西へと海岸廻りの遍路道を記す。実際に歩いたわけではないので、このルートを歩いた澄禅の『四国遍路日記』 (承応二年=一六五三)をもとに遍路道をトレースする。金剛福寺前の案内では、三原経由55.1キロ、月山経由が73.2キロである;
澄禅の『四国遍路日記』
「六日逗留ス(金剛福寺)。 七日、寺ヲ立テ足摺山ノ崎ヲ往廻リテ、松尾 ・志水・三崎ナド云所ヲ経テ行ニ、海辺ノ事ナレバ、厳石ノ刃ノ如ナル所モ有リ、平砂泙々タル所モ在、カカル所ニ、三崎ノ浜ニテ高野・吉野ノ辺路衆、阿波國ヲ同日ニ出テ逆ニメグルニ行逢タリ。互二荷俵ヲ道ノ傍ニ捨置テ、半時斗語居テ泪ヲ流シテ離タリ。夫ヨリ川ロト云所ニ正善寺ト云浄土宗ノ寺二一宿ス。 八日、寺ヲ立テ海辺ヲ十町斗往テ、大坂ヲニツ上リ下リテ貝ノ河ト云所ニ至ル。夫ヨリ坂ヲ上リテ粟津・サイツ野ナド云所、坂ヲ上リテ浜ヲ下リ下リテ御月山ニ至ル。
御月山ハ、樹木生茂リタル深谷を二町斗分入テ其奥ニ厳石ノ重タル山在リ、山頭ニ半月形ノ七尺斗ノ石有、是其仏像ナリ、誠ニ人間ノ作タル様ナル自然石也。
御前ニ二間三間ノ拝殿在リ。下ニ寺有、妻帯ノ山伏ナリ住持ス、千手院ト云。当山内山永久寺同行ト云。此寺ニ一宿ス。
九日、御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ。
十日、寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル。爰ハ土佐・伊与両國ノ境目ナリトテ、太守一門 山内左衛門佐ト云仁ヲ置タリ。七千石ノ城下也。城ハ無テ屋舗カマエナリ、侍小路町如形也。真言・禅・浄土・一向宗都テ四ケ寺浄土寺ト云。浄土寺ニ宿ヲ借リ荷ヲ置テ寺山エ往ク。宿毛ヨリ二里也、五十町一里ナリ。
寺山本堂東向、本尊薬師。二王門・鐘楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ太守ヨリ再興在テ結構ナリ。寺ハ近所ニ南光院ト云妻帯ノ山伏在リ」。

松尾・志水(清水)
寺を西に白山神社、白山洞門、県道27号を進む。大戸を過ぎると澄禅の記す松尾。大浜を越え、中浜に。この地にはジョン万次郎の生家がある。
中浜を越えると清水。澄禅が志水と記した地である。この地、県道右手に「清水の名水」。土佐清水の地名の由来ともなった湧水である。

三原への分岐点
土佐清水市で県道27号と分かれ町並みを抜け国道321号に乗り換える。養老を越え益野川を渡ると三原への分岐点。「宮ノ川経由36.8キロ 下川口経由41.8キロ」の遍路案内があるようだ。 宮ノ川への道は益野川の源頭部を詰め、山稜を越えて下ノ加川の谷筋に下り三原の中心部来栖野の傍に宮ノ川へと辿るのかと思うが、結構な山越えのよう。

三崎・川口・具ノ川(具ノ河)
分岐点から浜に下ると澄禅が記す三崎。その先、奇岩で知られる竜串がある。国道を西に進むと下川口。澄禅の記す川口正善寺は廃寺となり現在は大師寺となっている。下川口は上述遍路案内にあった地名。
下川口の先には国道に二つのトンネルがあるが遍路道は海岸線に沿った旧道。二つ目のトンネル出口で国道に戻り、澄禅が「貝ノ河」と記す貝ノ川を越え大津へ。大津は澄禅の記す粟津と比定される。

才角(サイツ野)
大津の先にもトンネルふたつ。トンネルを迂回する旧道を進むと小才角。土佐サンゴ発祥の地として知られる。
ここから幡多郡大月町となる。その先才角。澄禅の記す「サイツ野」である。才角の先、大浦分岐で国道321号から離れ大浦に向かう。切り込んだ谷筋を北に進み廻り込み、再び南に下ると朴碕(ほうざき)の岬の断崖の上に出る。「月山神社1.4キロ」と記された「四国のみち」指導標が立つ、という。
土佐サンゴ発祥の地
ここ月灘沖を含めた渭南海岸には, 徳川時代からサンゴのあることがわかっていました。一人の漁師が桃色サンゴを釣り上げた偶然が日本サンゴ史の始まりとされて います。
土佐藩では厳重に採取を禁止し, その所在を口にすることを固く禁じました。このことは今なお残る童唄

お月さんももいろ だれんいうた あまんいうた
 あまのくちひきさけ
  (注:だれん=誰が いうた=言った あまん=あま)

にうかがい知ることができます。この唄は口をとざされた漁師や子供たちによって唄いつがれたものでここ小才角はこの唄の故郷であります。
明治維新後この禁令は解かれ, 明治七年にこの付近の海域ではじめてサンゴ船による採取が行なわれその後は急速に発展し, 明治三十年代には七百隻の採取船が出漁し, 愛媛県からも多数の船が沖の島周辺に来て採取しました。乱獲の結果資源が涸渇, ついに大正十二年頃には ほとんど中止の状態となりました。
その後, 五島, 台湾, 奄美大島, 小笠原諸島周辺やミッドウェー沖にて多くとれ, 当地方では今もなお, その 加工が盛んです。最近また月灘沖の赤サンゴが大変注目されています」と案内にある。 赤サンゴ、または「血赤珊瑚」は「トサ」の代名詞で世界中から注目されているとの説明もある。ヨーロッパのバイヤーは血赤珊瑚のことを「トサ」と呼び、高知県で生産される宝石珊瑚は「土佐珊瑚」と別格視され、またイタリア産カメオの原木は日本(高知)より供給されています、といった記事もあった。

月山神社
「月山神社 当神社は、月夜見尊、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祭神とし、表筒男(うわ つつお)、中筒男(なかつつお)、底筒男(そこつつお)の三神と事代主尊を合祀し、もと月山霊場「守月山月光院南照寺」と称せられ、神仏混合の霊場であったが、明治元年に月山神社と改称され現在に至っている。
月山の名は、神社の御神体が月形の石であり、月夜見尊を奉斎したことによる。伝承によれば、遠く白鳳の世、後世に修験道の開祖といわれる役小角がはじめて此の山に入り、月影の霊石を発見し、月夜見尊、倉稲魂尊を奉斎したのが開基といわれる。後、僧空海が此の霊石の前に廿三夜月待の密供を行い、それより陰暦一月二十三日を例祭とされた。
由来、サンゴの名産地で知られる大月一帯の護り神として、また四国八十八ケ所番外札所として今も参詣する人が絶えない。
特に家内繁栄、海上安全、大漁祈願などに霊験ありとする。
なお、当神社は昭和三十三年、大月町有形文化財に指定されている」との案内がある。
境内の大師堂は文政五年頃の建築と推定されており、現社殿は明治二十二年の建築という。

西泊(西伯)・小筑紫(コヅクシ)
月山神社から先、澄禅の記事には「御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ」としごく大雑把に記されている。 あれこれ記事をチェックする。月山神社を出た遍路道は一度赤泊の浜に出て、澄禅の記す西伯(西泊ではあろうに進み、赤泊の音無神社から谷筋を北に向かい、国道321号に合流し、北上。馬路を越えた先、福良川が海に注ぐ河口域に出ると行政区域幡多郡大月町から宿毛市に変わる。地名は小筑紫。澄禅の記す「コヅクシ」であろう。

七日島
福良川を渡った先、道の左手に天満宮があり、その横に「七日島」と地図にある。澄禅記す「七日島」がそれ。菅原道真が大宰府に配流される途次、嵐のため宿毛漂着し、「筑紫はここか」と問うたのが、小筑紫の地名の由来。また嵐がおさまるまで七日間船をこの地に留めた故の「七日島」であった。

伊与野(イヨ野)滝厳寺
国道を北に少し進むと、澄禅が「イヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス」と記す滝厳寺が国道右手、伊与野川右岸の丘陵に建つ。

三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)
滝厳寺を出た澄禅は「寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル」と記す。 ミクレ坂は三倉坂または御鞍坂)、宿毛市小筑紫町小浦から同市坂ノ下に下る道であったよう。現在の国道321号は海岸線を走っているが、往昔は海岸線の小筑紫町から山越えの道に入り、松田川が宿毛湾に注ぐ河口部の坂ノ下に出る道を辿ったのであろうか。
この後、宿毛市内から延光寺を目指したようである。


これで四国霊場を一巡し終えた。古の標石を目安に旧遍路道を辿る散歩は母親の介護に6年ほど毎月帰省した折の気分展開ではじめたものではあったが、山あり谷あり、里や海辺を辿る旅となり変化の富む四国の景観を知るいい機会となった。 旅の途中、見逃した旧遍路道、バリエーションルートも結構多い。暇を見付け「後の祭り」フォローアップの散歩にでかけようと思う。

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