土曜日, 5月 01, 2021

土佐 野中兼山事績散歩;行川の兼山井筋を辿る

過日、土佐北街道を辿った折、長岡郡本山町で知らず野中兼山の利水事績である上井(うわゆ)、下井(しもゆ)に出合った。水路歩歩きフリークとしては水路を辿りたいと思えども当日は時間の余裕もなく,後日再訪し上井と下井を取水堰から吉野川への落とし口まで辿り終えた。
その折、偶々のこと、本山の町を流れる吉野川を少し下った行川筋にも兼山の利水事績である井筋(ゆすじ)が流れることを知った。これは歩かねば、とあれこれチェックするが、井筋がありウォーキングイベントなどが行われているといった案内以外に資料がまったく見当たらない。そういえば本山町の上井、下井の流路に関する資料も全くなく、これら井筋は地元の方にとっては特段の事績ではなく、日々の生活に根付いたごく当たり前の用水路としてみなされているのだろう。
はてさて、どうしたものか。とりあえず衛星写真で行川の谷筋をチェックするりすと耕地は行川左岸に多く見られる。利水井筋であるとすれば耕地に養水するのだろから、水路は行川左岸を流れているのだろうと推測。それも耕地に広範に水を落とすのであれば川筋から離れた比較的高い所を進むのであろうと、衛星写真とGoogle Street Viewで水路らしきポイントをチェック。いくつか水路らしき箇所をを見つけ出した。で、まずはその井筋に向かい、それが如何にも兼山の井筋と感じ取れば取敢えず水路を辿り、途次地元の方にその水路が兼山の井筋かどうかお聞きし、オンコースであればそれでよし、でなければ歩き直しも如かずとの方針で行川に出かけた。
当日は高知道大豊インターで下り、国道439号を本山方面に向かい本山東大橋で吉野川左岸に移り、土佐北街道歩きのとき辿った県道262号を東に向かい上関地区を抜け、行川に架かる橋の西詰を左折、最初の橋を渡り行川左岸に移り予測を付けた水路筋まで少し上る。
水路は上流から蛇行しながら続いているようでもあり、取敢えず落とし口まで辿ることにした。水路は行川筋の山裾の少し高台を進み、吉野川に面した丘陵をぐるりと東に曲がり県道262号に沿って高台を進み、土佐北街道散歩の折出合った山下家の少し先で沢に落ち、県道262号を潜り吉野川に落ちていた。
途次、地元の方に合うこともなく結局落し口まで来てしまったが、落とし口の辺りで地元の方にお聞きし、歩いてきた水路が兼山の造った井筋であることが確認できた。途中崩壊箇所と隧道があるとのこともお聞きした。井筋の長さも4キロ程とのことである。
当日は吉野川への落とし口から折り返し、水路を追っかけ取水堰まで辿った。4キロを歩き60mほど高度を上げるという、誠に緩やかな上りであった。崩壊箇所も1カ所であり、それほど険しいこともなかった。また、大岩を抜いた隧道も迂回路が整備されており念のために用意したロープの出番もなかった。結構快適な水路歩きではあった。

さてと、落とし口からはじまるメモを書き始めたのだがない、どうも書きにくい。流れに逆らう描写に慣れていないためだろう。ということで、メモは「逆回し」、取水口から落とし口へと辿るといった「編集」をおこない記すことにする。写真は上流へと追っかけ時に撮ったものであり、方向が逆になっていることをご容赦願いたい。



本日のルート;取水堰>水門>沢と分水門>分水門>車道をクロス>上轟>隧道>合茶集落の生活道をクロス>分水門>水路の段差>獣侵入防止高電圧鉄線>沢に水を落とす>沢から井筋に分水>沢に分水門>崩壊箇所>水路を跨ぐ古い橋の先、急傾斜で流れ落ちる>>沢に分水門>集落に出る>沢に分水門>沢に分水門>丘陵先端部に分水門>集落の生活道をクロス>丘陵先端部に分水門>本村集落の生活道とクロス>小さな分水>>旧山下家前で水路は右に折れる>水路は石垣に沿って東進>民家の中を抜ける>井筋落とし口

取水堰
取水堰は地図に上轟と記される名勝の地の北、遅越橋を行川左岸に渡った先、車道をクロスし行川左岸に沿って少し上流に進んだところにある。
取水堰はコンクリートで石組を固めた堰の左岸端から導水路で水を流していた。 堰の上側は下流の岩場と異なり、堰によって留められた砂と澄んだ水が美しいコンビネーションを呈する。なんだか、いい。標高は292mほどだろうか。

 水門と余水吐け
導水路の先には井筋水門とその前に余水吐けの水門。堰で取水された水が余水吐けの水門から大量に川に戻されていた。






沢と分水門
直ぐ先、小沢とクロスする箇所に分水門。大水時などに水門を開けて川に水を落としているのだろうか。水路は行川に沿って進む。





分水門
また、すぐ分水門。先に進むと左手に車道が見えてくる。道は行川に沿って谷筋を進み、地図には蛇野(はがめの)辺りまで記されている。蛇野とは面白い地名。「土佐地名往来」には「本山白髪山の小字。蛇は古来神霊の化身。毒をもっ た蛇を方言で「はめ」」と記されていた。


車道とクロス
ほどなく水路は車道をクロスする。車道は上下二本走り、ひとつは行川に沿って上流へと進み、もうひとつは山へと入る。行川沿いの車道を潜った水路は、続いて山に向かう車道下を走り二つの車道をを横切って下流へ向かう。山に向かう道を潜る水路蓋のグレーチング上はメンテナンスのためか、水路を覆う道路のグレーチングとの間はすっぽりと抜けていた。
遅越橋
二つの車道が分かれる直ぐ南に遅越橋がある。橋を渡った行川右岸に遅越地区の文字が地図に記載される。行川筋の最奥の集落のようだ。面白い地名。チェックするが、この地の地名由来はヒットしない。土佐にある別の遅越の由来として「遅い時刻に越えた峠道。「オソ」はうと(空)に通じる言葉から切り通しの峠道」といった説明が四万十地名辞典に記されていた。

上轟(かみとどろ)
車道をクロスし再び土径に入る。水路右手に木々の間から行川の清流が見える。仁淀ブルーではなく吉野ブルーとでも呼びたほど美しい。ゆっくりと弧を描く水路の姿もなかなか、いい。
メモでは堰から下ってはいるが、実の所、当日は兼山井筋の落とし口から取水堰まで辿った後、行川に架かる遅越橋を渡り車デポ地まで戻ったわけだが、その途次、「上轟」の標識を見かけ𠮷野ブルーを堪能した。誠に美しい色であった。
下轟(しもとどろ)
水路の対岸、上轟から少し車道を下ったところに下轟の標識がある。上轟ほどのインパクトはなかったが、車道から川へと下りる石段が整備されていた。紅葉の頃はまた違った景観を呈するのかもしれない。


隧道
水路に沿って5分ほど進むと前方に大岩が見える。水路は大岩の下を穿ち抜けてゆく。隧道があることは地元に方にお聞きしていたのだが、隧道出口へのアプローチを聞いておらず高巻などしなければいけないのか、などと思っていたのだが、大岩の谷側に沿って迂回路が整備されており、すべて杞憂に終わった。
隧道入り口手前には分水門。時に応じて行川に水を落としているようだ。隧道内部のメンテナンス時など、隧道内部の水を抜くためのものだろうか。
それにしても隧道は誠に狭い。人ひとり寝っ転がって体を入れるのが精一杯。大岩を抜くのは大変だったかと思う。


迂回路を進むと、大岩には石仏なのか双体道祖神なのか2体の像が彫られた石仏、そして小祠が大岩の窪みに祀られていた。
大岩を迂回し隧道出口のところに進む。


行川森林鉄道隧道
水路隧道の谷側に堰森林鉄道の隧道が残っていると地元の方のお話し。水路からのアプローチはできない。これも当日、取水堰まで水路を追っかけ、上轟、下轟を見遣りながら車道を下り、その先にあった橋を渡り水路隧道の谷側へと成り行きで歩く。途地、人の声に誘われ知らず「ふれあいの里なめかわ」の敷地に入る。
そこは私有地であり、本来は叱られるところ、この施設を経営するご夫妻のご厚意で「ふれあいの里なめかわ」から森林鉄道の隧道まで案内して頂いた。 「ふれあいの里なめかわ」の平地から少し上ると、線路跡筋。下流から続く軌道跡は草で覆われていた。この草道を辿れば「ふれあいの里なめかわ」の私有地を取らなくても隧道に行けるのかもしれない。
それはともあれ、線路跡を先に進むと隧道がある。素掘りの隧道を抜けた先は橋が落ちており行き止まり。県道262号、行川に架かる橋の東詰めを少し上ったところに:行川森林鉄道跡の標識があったので、そのあたりからこの隧道を経て更に上流へと伐採木材を運搬する鉄道が敷設されていたようである。「ふれあいの里なめかわ」の御主人のお話によれば、線路は戦中の鉄需要のため取り外されたとのことであった。

合茶集落の生活道をクロス
隧道を過ぎると行川に沿った水路は樹林帯を出て合茶の集落に入る。集落の舗装された生活道を越えると、地形に抗わず流れる水路の下には耕作地が広がる。 この集落は「会茶」とある。面白い地名でありその由来をチェックするが検索にはヒットしなかった。


分水門
水路は東に切れ込んだ沢筋を廻り込むが、その沢筋との合流点に分水門がある。ここまで土径であった水路脇の道は、簡易舗装の道となる。




水路の段差
簡易舗装の道も集落を離れると再び土径に戻る。沢の分水門から5分ほど歩いたところで水路が段差となっている。何故に段差となっているのだろう?兼山当時のものか、コンクリート補強工事の折に造られたものか不明ではあるが、段差を設ける理由のひとつとして考えられることは傾斜を一定にするため段差で調整することが考えられる(素人考え)。流れが速くなることでなにか不都合なことでもあったのだろうか。

獣侵入防止高電圧鉄線
水路が西に突き出た丘陵部先端を廻りこむ辺りに、水路脇の道を塞ぐように低い鉄線が張られ、「高電圧」「危険」「さわるな」の看板。その先は水路に沿って高電圧鉄線が張られている。獣侵入防止の柵なのだろうが、高電圧とは言え、このような低い鉄線で獣の侵入を防ぐことができるのだろうか。

沢に水を落とす
電気が通っているかどうかわからないが、鉄線に触れないように慎重に水路脇を進む。と、突然水路U字壁が切れ、その先で水が沢に流れ落ちる。水路歩きでよく出合う光景だ。
沢に水を落とし、沢の水も加え、沢の下流で取水し水路は更に下流に続くことになる。水路と沢の比高差が大きく、沢に水門を設け取水することができなかったのだろう。
先ほど出合った水路の段差による水流の速さの調整も、この沢の落としに関係あるのだろうか。

沢から井筋に分水
水路壁が切れた沢の手前で成り行きで下ると沢に分水門があった。この沢より分水された水路が兼山の井筋である。井筋を少し進むと、再び「高電圧」「危険」「さわるな」の看板の掛る鉄線。その先で鉄線が消える。合茶集落の耕作田を獣被害から防ぐ高圧鉄線はその役目を終えたということだろう。

分水門が続く
水路は合茶の集落を離れ丘陵部へと入って行く。
ほどなく沢に分水門。合茶南端部の耕作田に沢を介して水を落とすのだろうか。それとも単なる余水吐け?

行川に向かって突き出た丘陵先端部手前の沢に分水門。下に作田はなく行川への余水吐けの分水門かもしれない。

崩壊箇所
その直ぐ先で水路のすぐ右手、行川の谷側は大きく崩壊している。地元の方が一箇所崩壊しているところがある、とおっしゃっていたところだろう。水路部分まで大きく抉られており、水路はGoogle Lensでチェックすると「SP官ともダブル管」とも言う、ポリエチレン樹脂の管で補強されていた。

水路を跨ぐ古い橋の先、急傾斜で流れ落ちる
崩壊箇所の先、ゆるやかな傾斜の水路を少し進むと行川に突き出た丘陵突端部で水路は急傾斜で流れ、流路もグイッと右に曲げる。その先、水路を跨ぐ古い橋を越えた水路はなお急傾斜で流れ落ちる。
斜面を流れる水路はコンクリート補強されたU字溝ではあるが、その姿はなかなか、いい。

沢に分水門

その先、再び緩やかな流れとなった水路を進み、切通しっぽい大岩の間を抜けると沢に分水門。このあたりは未だ丘陵部。行川への余水吐け調整用の水門だろうか。

集落に出る
分水門を越えると水路は丘陵部を抜け集落に出る。集落に出た水路は民家の納屋の中を抜け、地形に抗うことなく東に切り込んだ沢筋へと進む。水路下には耕作田が広がる。
この集落の名前はわからない。行川の対岸は佐賀野、集落の南、丘陵を隔てた吉野川筋は本村とある。本村の集落なのだろうか。

沢に分水門
等高線に沿って東へと弧を描き進むと水路は沢にあたり、そこには常の如く分水門がある。集落の耕作田へ水を落とすのだろう。
分水門から少し進むと舗装された集落の生活道にあたる。ここが衛星写真で当たりをつけ最初に訪れた水路地点。上流を見ると沢筋の先に如何にも流路らしき「筋」が田圃の上に続いている。ということで、この水路が兼山n井筋であろうと「思い込み」取敢えず落とし口へと下った箇所である。
水路歩きの際、衛星写真とGoogle Street Mapの合わせ技でポイントを推定することが多いのだが、今回もなんとかうまくった。

丘陵先端部に分水門
水路は集落を離れ行川へと突き出た丘陵地に向かう。丘陵先端部に分水門。衛星写真を見ると行川との間に耕作田がある。そこへ水を落としているのだろう。



行川森林鉄道跡標識
丘陵先端部と行川の間を走る道脇に「行川森林鉄道跡」の標識が立つ。既にメモした合茶集落の隧道を抜け、行川左岸を更に上流へと進み、既述蛇野の東、新頃の辺り(標高430m)で東から合流する行川支流を迂回し、更に上流に進み標高600m辺りで(兼山井筋取水堰の標高が292mほどであるので、相当上流である)行川を右岸に渡り上関の蛇野(はがめの)で木材を搬出していたようである。全長11キロほどと言う。
上関と下関
この森林鉄道、上関林用軌道とも称したとの記事をどこかで見た。行川の左岸が下関、右岸が上関。左岸の下関を走る森林鉄道が何故に「上関森用軌道」と称するのか疑問に思っていたのだが、軌道の終点、というか始点が上関の蛇野にあることがわかり納得。

集落の生活道をクロス
分水門を越えると水路は舗装された集落の生活道をクロス。その先、生活道の下の樹林帯に入り、吉野川へと南に突き出た丘陵先端部に向かう。




丘陵先端部に分水門
丘陵杉が罰先された箇所に分水門。その先、草の生い茂った水路脇の道を進む。丘陵先端部を回り込んだ後は、行川筋から離れ吉野川を左手に見ることになる。
当初は落とし口は行川筋ではないかと予測していたのだが、行川筋は越えてしまった。吉野川とはまだまだ比高差があり、沢に落とすのであればそこが落とし口ではあろうが、でなければどこまで吉野川に沿って歩くことになるのか予測がつかなくなった。

本村集落の生活道とクロス
丘陵南端部を回り込み水路は東進。ほどなく舗装された生活道にあわさる。地図を 見ると先ほどクロスした生活道の続きであった。




小さな分水
生活道を越えるとほどなく誠に小さな分水箇所。水路脇の土径は草に覆われている。のんびりゆったり先に進む。とは言え、それは既にこの道を歩いたゆえのこと。最初は先がどうなることやら、どこまで吉野川筋を引っ張られるのだろうか、とは言え本集落の東には耕作田など何もないよな、であればもうすぐ落ち口があるのだろう、などととあれこれ考えながら歩いたのが本当にとことである。

旧山下家前で水路は右に折れる
草叢の土径を進むと左手に立派な石垣。どっかで見たことがあると思いながら進むと水路は石垣のお屋敷前で右に折れ、下に下る。このお屋敷は土佐北街道散歩の折訪れた旧山下家であった。

旧山下家
このお屋敷は参勤交代の折の藩主の休憩所。石垣と医薬門が往昔の名残を留める。薬医門は2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。



水路は石垣に沿って東進
吉野川に向かって右折した水路、これでお終いかと思ったのだが、水路は直ぐ左に折れ、石垣下を県道262号、土佐北街道の少し上を進する。



民家の中を抜ける
その先、水路は民家の裏手に入り込む。さすがに敷地に入ることは躊躇われ、一度県道下りて再び民家を抜けた水路へ戻る。
水路は県道262号の一段上の石垣に沿って進む。


井筋落とし口
石垣に沿って進む水路は直ぐ先、民家手前で右に折れ、県道を潜り沢に落ちる。その先は吉野川。ここが兼山井筋の落とし口だろう。近くにいらっしゃった地元の方に確認すると、この沢でもあり直ぐ東の太陽光発電パネルの辺り、とも。陽光発電パネルの辺りを彷徨ったが水気を感じることができず、取敢えず、沢が落とし口と思い込み、本日の散歩を終える。

行川の井筋は全長4キロほど、取水堰と落とし口付近の比高差は60mほどだろうか。斜度は0.85度。一度にも満たない緩やかな勾配角度であった。 これで土佐北山街道散歩の折に出合った、本山町の野中兼山の利水事績である本山町の上井と下井、行川筋の井筋を辿り終えた。さて、次はどこを歩こうか。

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