火曜日, 11月 02, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道⑪ ; 高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高村へ

愛媛県上浮穴郡久万高原町の越ノ峠からはじめた予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部も先回で終了。後は仁淀川本流の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高知城下を繋ぐだけとなった。道筋は仁淀川本流に面する横畠の堂ノ岡からはじめ、仁淀川を渡り越知の町に。越知町と高岡郡佐川町の境を画する赤土峠呼ばれる標高140mほどの丘陵(比高差70mほど)を抜けた後は仁淀川水系の谷筋を辿り高岡郡日高村を経て吾川郡いの町に入る。
越知の町より蛇行をくりかえし北流・東進、そして南下してきた仁淀川本流を渡りいの町を抜けると高知市。その先鏡川水系・鏡川本流を渡り高知城下に入り土佐藩の西の番所・思案橋番所に至る。この間、峠越えらしき箇所は赤土峠のみ。それも比高差70mほどの「可愛い」ものであり、その他はいくつかの丘陵はあるものの、概ね平坦な道を進むことになる。
と、ザックリとした道筋を示したが、堂ノ岡から先の予土往還 土佐街道・松山街道に関する詳しい旧道ルート図はみつからない。ルート情報などないものかと途次図書館に立ち寄っては情報を探したのだが、これといった旧路図は見つからなかった。
で、今回のメモは予土往還 土佐街道・松山街道と称するにはちょっと面映い。資料にあった赤土峠は別にして、それ以外のルートは堂ノ岡から高知城下までの間、予土往還 土佐街道・松山街道の道筋にあったと記される越知町、佐川町、いの町を繋いだだけである。
町と町を繋ぐルートは、赤土峠やその他資料にあった僅かなポイントは辿るも、基本松山街道・土佐街道の道筋とされる国道33号を進むことにした。但し途中国道33号の道筋ではあるものの、如何にも丘陵部を堀割った切通し部らしき箇所は丘陵を迂回する道を辿った。その道筋が予土往還 土佐街道・松山街道という根拠はなにもないのだが、往昔牛馬が往来する街道はそれがあまりに遠回りとならないのであれば、雨などふった折のぬかるみの坂道となる丘陵越えは避けて平地を迂回するだろうと思っただけのことである。
また、現国道33号を大きく外れた道筋も辿った。その根拠は幕末の土佐藩松山討伐軍の進軍路。多くの軍勢・小荷駄が進むルートは当時の本道ではないだろうかと妄想したものである。

それにしても山越えを終え里道を辿るこのルートには予土往還 土佐街道・松山街道の資料、里程石といった史跡もほとんど見あたらなかった。同じ予土往還でも土佐北街道はそれなりに史跡や資料が残っていた。土佐北街道は土佐藩主参勤交代の道であったとはいうものの、この差の因は何なんだろう。
また予土往還の伊予側には久万高原町から松山までの里道(途中、片峠の三坂峠はあるが)については予算がついてのこととは思うが調査がなされ結構な史跡が残っている。この差も結構気になる。
藩政時代の土佐藩は人々の往来に厳しい制限を課し、公用以外の旅を認めることはなかったようである。公用であっても宿は指定され、江戸時代中期頃まで一般の人々向けの旅籠などもなかったと言われる。特に他藩との往来は厳しく制限されており、ために往還道利用者は極めて限られていたとのこと。このような土佐藩の政策も予土往還に関する資料が少ない一因だろうか。
とは言え、堂ノ岡から鈴ヶ峠までの予土往還の資料の充実ぶりと、その他の土佐藩内の資料の少なさ、そのギャップの因は何なのだろう。国の予算がつけば、その他の往還道も浮かび上がるのだろうか、それとも資料はあるが単に見付けられなかっただけなのだろうか。疑問がグルグルとループする。
ともあれ、大雑把というか確たるものではないのだが、予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部をクリアした地より高知の城下までを2回に分けてトレースする。今回は堂ノ岡から越知の町を抜け、赤土峠を越えて佐川に。そしてその先、高岡郡日高村までをメモする。



本日のルート;
郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ:
堂ノ岡から越知の町へ
高岡郡越知町横畠の堂ノ岡>今成トンネル手前を左に逸れる>中仁淀橋(沈下橋)>三つ尾の渡し跡>越知の町
高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ
国道494号(国道33号)から旧国道分岐点>赤土峠>旧国道を逸れ土径に>川内ケ谷集落に道標>旧国道と国道合流点に石碑>佐川の町
高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ
県道302号を右折し県道296号に>県道297号を海津見神社へ>土佐加茂駅を越え高岡郡日高村に

高岡郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ

堂ノ岡から越知の町へ

高岡郡越知町横畠の堂ノ岡
予土往還の山越え部を終えた横畠の堂ノ岡より高知へと向かう。この地より山越え・鈴ヶ峠までは国の予算のもと、標識・史跡案内など予土往還のルート案内は整備されていたが、山越えを終え高知城下までの往還ルートは越知町と佐川町の境にある赤土峠を越える以外、はっきりした資料は見つからなかった。取敢えず成り行き任せで越知の町へと県道18号を進む。


今成トンネル手前を左に逸れる
今成トンネル手前を左に逸れる
県道18号を進むと今成トンネルがある。このトンネルの竣工は昭和58年1983)11月、初通過平成2年(1990)年とのこと。またトンネルを抜けた先、仁淀川に架かる横倉橋の開通は昭和63年(1988)と言う。この道筋が往昔の予土往還とは思えない。
と、今成トンネル手前に県道18号から左に逸れる道がある。道は仁淀川が大きく迂回する南に突き出た平坦地を南東に進み仁淀川を渡る。地図には中仁淀橋(沈下橋)とある。この道が予土往還であろうと道を進む。
今成
『土佐地名往来』には今成の由来として「「今」はもともと「新たに」という意味。今成は川の 蛇行地点に形成された河岸段丘。新たにできた土地の意」とある。

中仁淀橋(沈下橋)
橋の幅は対向通過できないこともないが、橋桁がないのが沈下橋。ちょっと怖いため、対岸に対向車がいなことを確認し沈下橋を渡る。
橋を渡り終えると途次幾度か出合った「旧松山街道」「旧松山街道まっぷ」が立つ。オンコースを確認。で、なにか往還道の目安などないものかと案内マップを見るが、越知の町を抜け赤土峠への道筋は概略表示のみ。成り行きで進むしかないようだ。

三つ尾の渡し跡
が、有り難い情報がひとつ。「松山街道まっぷ」に沈下橋南詰め傍に「三つ尾の渡し」の案内。「明治時代から舟運が発達し、越知町の市街地には上・中・下の3カ所に渡しがあった。下渡しは、旧松山街道の要で「三つ尾の渡し」とも呼ばれ通行量が多かった。
郡道開通予定に伴い中渡しが発展し、大正8年に下渡しは閉鎖されたが、往時を忍ぶ有志により記念碑が建てられている。その後、県道昇格により、昭和31年中渡しに沈下橋が完成した」とある。 


中渡しであった現在地より記念碑のあると言う「下渡し」に向かう。
少し東に歩くと「史跡 三尾の渡し」と刻まれた石碑。「昔仁淀川本流坂折川柳瀬川は現在の今成で合流し柴尾宇田(今成)と柳瀬川を挟んで越知村は北方に及んだ雑木林であった。
文明四年八月(一四七三)仁淀川の大洪水は妙見より南下し坂折川と合し越知村の北部と宇田を押流し未曾有の大惨事と供にに流勢を現在の如く変更した。それ以前の流が三ツの尾の形に似た所から越知を三尾村とも呼ばた。而して此処下渡しは高知松山の二大城下を結ぶ大街道の中間に位し舟運との交差点で往來物資の集散船場として繁栄し三ッ尾の渡しは有名な渡船場であった」とあった。
柳瀬川は沈下橋の下流、坂折川は地図には大桐川と記されていた。妙見の地名は地図にないが、今成トンネルをぬけた横倉橋傍に星神社がある。星と言えば妙見さんではなかろうかとチェック。この社に祀られる天之御中主神は、近世において天の中央の神ということから北極星の神格化である妙見菩薩と習合されたもの、とある。妙見さんとして一般の信仰の対象になったのだろう。なお、現在、天之御中主神を祀る神社の多くは、妙見社が明治期の神仏分離・廃仏毀釈運動の際に天之御中主神を祭神とする神社となったものとされる。案内に「妙見より南下し」とある妙見とはこの星神社のある辺りのことだろう。

越知の町
旧大川薬舗
谷脇旅館
三つ尾の渡し跡より沈下橋南詰めに戻り、越知の町並みへと成り行きで入る。昭和初期に建てられたと言われる旧大川薬舗(雛祭りの時期には明治・大正期の雛人形が飾られる、とか)、大正初期創業の谷脇旅館などが建つが、案内にあった往来物資集散船場として繁栄した往時の名残りを留めるそれらしき「町並み」は特段認められなかった。
ついでのことではあるので、越知の町に建つ峰興寺を訪ねることにした。堂ノ岡から薬師堂集落へと予土往還を辿る途次に出合った「峰興寺植樹林石碑」をきっかけにあれこれメモしたお寺さまである。国道494号との共有区間となっている国道33号を越え、町の南端、山地が平地に落ちる山裾に峰興寺が建っていた。
峰興寺
五輪塔群
本堂にお参り。本堂横に幾多の五輪塔が並び、十三重石塔も建つ。「峰興寺縁起」には「当寺はもと松山市豊田臨済宗妙心寺派興禅寺であり、寛永十二年中開祖密山演静大禅師 三河の国より迎え開山したと伝ふ、開基は徳川家康の異母弟松平定行*眞常院殿道賢勝山大居士である。松山藩主の菩提寺提寺として栄えていたが継新のあと起こった廃仏毀釈で衰退、名跡を惜しみときの佛海禅師 明治中頃官許を得て土佐越知町往古の寺屋敷に移転再建したもので県内外の信仰は智恵文殊である」とあった。
予土往還を歩きながら峰興寺にフックが掛ったのは、何故に松山からこの地に?ということ。その時のメモには;
「峰興寺 なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れが南北朝時代、この越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
十三重石塔(右端)

本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える」と記していた。
なお、境内に並ぶ幾多の五輪塔は南北朝から室町にかけてのものと言う。当時この地には古刹・円福寺が建っていたとのこと。縁起にある寺屋敷跡とは円福寺跡ということだろう(円福寺は文化年間(1804~1817年)の頃には既に越知の西、横倉山に退転していたとのこと)。五輪塔に使われる花崗岩はこの近辺にはなく遠く山陽路に求めなければならない。円福寺は越智氏の菩提寺とも言われるが(異説もある)、とすれば遠路、陸路・海路を運び建立する「力」があったと言うことだろう。
伊予の越智氏と土佐の越智氏
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。
その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。
横倉山
横倉山(左)
上で円福寺が移ったとメモした横倉山。予土往還の途次出合った「合中(あいなか);八里塚と九里塚の真ん中。清水村と栂森村の街道普請の境の目安として置かれた」の実物標石を求めて横倉山自然の森博物館に出向いたのだが、この横倉山が修験の聖地であると共に、平家落人伝説の地でもあった。山麓上り口には「安徳天皇越知町陵墓」の石碑が建ち、山には「安徳天皇越知陵墓参考地」もある。安徳天皇が壇ノ浦で入水することなくこの地に逃れて来たと言う。横倉山自然の森博物館は安徳天皇の逃避行途次の行宮など伝説を「裏打ち」する資料が多く展示されていた。また山裾には仁井田神社も建っていた。

高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ

越知の町を離れ佐川町との境を画する赤土峠へと向かう。峠とはいい条、標高140mほどの丘陵であり、国道494号と分岐する旧道からの比高差70mほど。道は舗装されており、Google Street Viewでチェックすると旧道は舗装されている。赤土峠の下を抜く国道494号(国道33号)赤土トンネルの完成は昭和33年(1958年)とされるから、それ以前の越知と佐川の往来はこの旧道で成っていたのだろうか。とはいえ道幅は車一台ギリギリ。上述赤土トンネル開削計画は昭和22年(1947)にはじまっているようであるから、その頃には越知と佐川の往来は車馬から車往来へと替わり始めていたのだろう。
赤土トンネル
昭和22年9月に赤土トンネル開さくが計画され、昭和26年1月に県営着工と決定され、佐川側トンネル入り口までの道路の付け替え工事が始まった。昭和27年5月に県営から国営に切り替え着手、佐川側南取り合わせ道路1,330m、幅員7.5mを昭和27年度に完成した。昭和28年度から越知町側北取り合わせ道路延長1,370mを完成させ、トンネル工事を南北入口から同時着工し、昭和33年4月に赤土トンネルが開通した。延長385mで、電灯が10m間隔に設置された。トンネル開通により、佐川~越知間は1.4km短縮された(「四国社会資本アーカイブス」より)。
赤土峠の道路改修は難工事であったよう。着工から開通まで7年近くかかっている。

赤土峠越え

国道494号(国道33号)から旧国道に入る
国道から右に逸れる
赤土峠へと越知の町を離れ国道を山間部へと進むと直ぐ右に分岐する箇所がある。曲がりくねった道を久万目川左岸を進むと行政区は越知町から佐川町に変わる。




石仏と「四国のみち」標識
三面石仏
国道からの合流点の「四国のみち」標識
分岐点から道を1キロ強歩き高度を50mほど上げると道の右手に三面石仏がある。摩耗が激しく文字は読めないが道中の無事を祈る、三面馬頭観音だろうか。なんとなくこの道筋が旧道であることを実感する。
その先直ぐ「四国のみち」の木標。国道から繋がっている。こちらが旧国道?わからない。また直ぐ先にも「四国のみち」の標識。これは赤土峠へと案内しているようだ。

赤土峠
ほどなく赤土峠。道脇に重機や車の置かれた作業小屋があり鞍部といった雰囲気はない。道の右手に石碑や案内板、小祠が建つ。案内には「脱藩志士集合之地」とあり、「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地である。昭和14年(1939)この地に記念碑が建てられ、題字「脱藩志士集合之地」は元13代佐川領主男爵、深尾隆太郎の筆である。
題字の上に 
まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき
の青山 田中光顕の詩吟は、志士の心中をあますことなく伝えている」とあった。

青山は田中光顕の号。田中光顕の初名は浜田辰弥。土佐藩脱藩に際して田中光顕と改名したと言う。幕末、御一新の後も活躍し正二位、宮内大臣へと上る。

なお脱藩五士は浜田辰弥(田中光顕)の他大橋慎三、片岡利和、山中安敬と井原応輔。御一新後、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。

旧国道を逸れ土径に
木に括られた赤いリボン
旧国道から逸れる土径下り口
赤土峠を離れ先に進み、、立野川がつくる東西へと続く谷筋・丘陵南麓へと廻り込む。道を少し東に進むと道の右手の谷川に唐突に木に括られた赤いリボンが見える。旧道から逸れるルート?などと辺りを見渡すが切り立った崖でとても歩けそうもない。
このリボンって何だろう、何か意味がなどと辺りを彷徨うとリボンの少し東に旧道を逸れて里へと下る急坂の土径があった。

川内ケ谷集落に道標
赤土トンネル開削のため旧道の改修工事は佐川側トンネル入り口まで1.3キロほど新たに造られたというから、旧国道はここより更に東に進み中岡神社の先で南に折れ大乗院の西の道を現国道へと繋がっていたのでは、とは妄想するのだが、この土径がなんだか気になる。旧道開通以前の予土往還ではと思い込み急坂を下ることにした。

土径ヵら里に下りる

越知道・山室道と刻まれた道標

5,6分急坂を下ると直ぐに集落に出る。集落の道を成り行きで進むと道標があり「*大*記念 右越知道 左山室道」とある。山室はこの地の西、山越えの先大樽谷川の最奥部にその地名が見える。道標があるということは、往昔この地を通る道があったということだろう。ひょっとすると往昔の予土往還の道筋?とひとり納得する。
道標から先はこれまた成り行きで立野川を越え国道に出る。

旧国道(?)と国道合流点に石碑
旧国道(?)と国道合流点に石碑
国道に繋がる旧国道
国道を少し東に進むと旧道と妄想した道筋が現国道に合流する箇所に至る。その角には結構新しい石碑が建ち「大乗院 国指定重要文化財 仏像 / 脱藩志士集合の地 町指定文化財 千八百米峠 佐川町教育委員会 平成七年三月建立」と記される。
「脱藩志士集合の地」は赤土峠だろう。この石碑により、大乗院の西を進み山麓の中岡神社をへて赤土峠へと続く道が旧国道であったろうとの妄想は、ひょっとするとあたっていたのかもしれない。
大乗院
旧国道筋の大乗寺への標識
実物を見れるとも思えないが「国指定重要文化財」を有したお寺さまてどんな風情とちょっと立ち寄り。道を少し戻り「大乗院」と記された木標を右に折れ、民家の奥まったところにぽつんと古寂びた堂宇が建っていた。境内の力石など見遣り、薬師堂にお参り。境内にあった案内には「大乗院は、中世初期(1193)太政大臣藤原師長の末子、藤原中山信恒がこの地の守護代として都より入り、高吾北にその霸を称えていた時代に、その中山氏の建立によるものと伝えられ、当時は壮大な寺構を持つ大伽藍寺であり、12の末寺を領有し高吾北地方の鎮護の要として祭政の中心的存在であったと伝承されている。

「本尊」 薬師如来(座高八六・五糎、寄木造、結跏趺坐座 「脇仏」日光・月光菩薩(像高一〇五糎)は共に鎌倉時代の名仏師快慶の作であるとされ、高吾北唯一の国指定の重要文化財である。また、眷属の「十二神将」は、高知県下に珍しく、その数が揃っており、それぞれ七千の部下をもって本尊護衛の任に当たるとされており佐川町指定の重要文化財である。
中世近世共に修験宗を教義としていたが、明治初年天台宗となり、現在は天台宗井寺門派園城寺法類となっている。
本寺はこうした由来をもち、土佐中世史にその名を留めた大伽藍であったが、守護代藤原中山氏の没落と共に戦国時代の兵乱に焼かれ、新仏教の進出に抑され、薬師堂のみ再建され今日に至っている」とあった。
修験の名残は霊峰横倉剣峰山での大修法については数々の伝承があり、いまだに高吾北各地に語り伝えられているとのことである。

佐川の町
旧国道33号(?)合流点より現国道33号を進む。現国道は佐川の町を迂回し柳瀬川、春日川を跨ぎバイパス道として佐川トンネルに入る。佐川トンネルの着工・竣工は昭和47年(1972)6月~昭和48年(1973)8月とのこと。これは旧国道ではない。
地図を見ると、国道494号が南に折れるT字路を越えた先、国道から右に逸れて佐川市街に入る道がある。旧国道筋であろうと、右に逸れて柳瀬川を渡り盆地状谷底平坦地を進み、柳瀬川支流・春日川に沿って佐川の中心部に向かう。
佐川の地形
複雑に丘陵・低地が入り組む佐川盆地
佐川町域は、四国山地の支脈である虚空蔵山(674.7m)、勝森(544.8m)、蟠蛇が森(769.2m)などの山に囲まれた中央が盆地状となった地形で、盆地内には丘陵や低山と佐川、斗賀野・永野・尾川・黒岩の各平坦地からなっている。
丘陵の尾根や盆地周辺の山脚は、東西、南北方向へと複雑に並び、その間に柳瀬川や春日川による谷底平坦地が形成されている。また、平坦地も東西・南北方向へと、丘陵を横切る幅広い平坦地が広がっている。この佐川町の地形は日本では代表的な構造盆地と言われる。
構造盆地
構造盆地(こうぞうぼんち、tectonic basin、structural basin)は、プレート運動により、本来は平坦であった岩石層が、歪力を受けて形成される、大規模な地質構造のひとつである。 構造盆地は、上記の力により生じた沈降地域であり、同じ原因により隆起した場所が、背斜などのドーム状地形である(「Weblio」辞書より)。に
佐川の旧市街

丘陵突端部により東西を挟まれた春日川谷筋右岸を南下し、その丘陵が南北を遮るところから、谷筋を東に向かい佐川の旧市街に入る。土佐街道と地図に記された道の一筋南に「酒蔵の道」の案内。往時の家並が残るとのこと。ちょっと立ち寄り。


旧浜口家住宅
入ると直ぐ白壁の旧家。旧浜口家住宅。江戸の頃酒屋であったが平成25年(2103)観光施設として改装された、と。
名教館
道の対面に名教館。安永元年(1772年)、ときの領主、六代領主 深尾重茂澄が家塾「名教館」を創設。後に享和二年(1802年)七代繁寛がこれを拡充して郷校とした。この名教館は明治維新に再開して多数の先覚者を輩出している。
その後「名教館」の玄関部分を明治20年(1887)に佐川尋常小学校(現佐川小学校)に移築。平成26年上町地区に再移築され、「文教のまち」佐川のシンボルとなっている。上述田中光顕や植物学者牧野富太郎もこの学舎で学んでいる。
司牡丹の工場
道を進むと清酒司牡丹の工場が道を挟んで南北に続く。85mほどもある堂々とした酒蔵は結構、いい。歴史は古く、深尾氏が佐川領主となった折、深尾氏に従って佐川へ来た名字帯刀を許された御用商人のうち、酒造りを業といする「御酒屋」をそのはじまりとする。
佐川町出身、元宮内大臣田中光顕伯は、佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、「司牡丹」と命名され、司牡丹酒造となった、とのこと。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」ということである。水は土讃線佐川駅前で春日川に注ぐ谷筋の伏流水を使っている、とあった。
竹下家
その先には重要有形文化財竹下家。江戸の頃の呉服商。土佐の西部では唯一の絹織商として栄えた、と。
青源寺
佐川は土佐藩筆頭家老・深尾氏の領地である。佐川と深尾氏の関係を始めて知ったのは、予土往還の途次、土佐藩の松山征討軍の副総督として、征討軍副総督に佐川家老深尾刑部の名があり、村人は「佐川様」と呼んでいたことに因する。
あれこれチェックすると、深尾氏は土岐氏、斎藤氏、織田氏に仕えた後、掛川藩主山内一豊に招かれ、慶長6年(1601)一豊が土佐の新国主となった折、国内要所に重臣を配し領内支配体制を整えたが、筆頭家老深尾重良は佐川城一万石の領主に封ぜられた。以来、その絶大な権力ゆえに藩主との軋轢も生じながらも、明治 2 年(1869)の版籍奉還に伴う土佐藩消滅まで、土佐藩筆頭家老としてで存続した。なお、深尾家は佐川本家のほか、高知城下に居住していた分家が四家あり、この五家が土佐藩中枢12名の約半数を占めていたとのことである。
藩主家から迎えた養子が二代目領主となったことも相まって、江戸初期にさまざまな特権が与えられた。それはまるで、土佐藩の中に別の小藩が存在するかのような状況であった、とも。
酒蔵の道の少し南に深尾氏の菩提氏である青源寺がある。落ち着いた佇まいのお寺さま。三門へのアプローチが誠に、いい。
お寺様の案内には「県指定名勝 青源寺庭園 (昭和三十一年二月七日指定) 青源寺は臨済宗妙心寺派寺院で、山号は龍淵山。
当山は慶長八年(一六〇三) 土佐藩主山内一豊に招かれ入国した丈林和尚を開山(初代和尚)に拝請し、佐川領主深尾家の菩提寺として創建された。
享保十三年(一七二八)の大火で建物は山門を残し悉く焼失、現在の庫裏は同十六年に、本堂は明和三年(一七六六)に、観音堂は文化十二年(一八一五)に再建されたものである。 当山の様々な寺歴の内、明治初頭の苛酷な廃仏稀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた十三世愚仲和尚の奮闘は偉大でこの功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。
庭園については縁起の記録はなく、築堤の時期について二説あり、一つは当山創建時に作庭されものとする説と、伽藍の再建時に作庭されたとの説があるが、諸寺歴等からの推定により今日では寺創建時つまり江戸初期の築庭と考えられている。以来、長い年月の間に修築がなされたものと思われる。
書院正面の岸壁がこの庭の主題とされていて、山側南端の空滝石組みから池につながる景観とで構成された枯淡な庭園である。
池は築庭後一部縮小されており、二つの池の庭とみられているが、北側の池は昭和初期に新しく掘られたものである。
昭和十年に文部省の指定名勝、昭和三十一年より高知県指定名勝に移行している。土佐三名園の一つである。平成二十五年十二号一日 佐川町教育委員会」とある。
青山文庫
青山文庫は、名前に「文庫」とついているため図書館と間違われるようだが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館。
幕末維新の生き証人であった、佐川町出身の元宮内大臣田中光顕(みつあき)が収集した志士たちの書状や画などの遺墨コレクションを中核に、主に近世・近代の歴史資料を収蔵している(「佐川町」資料より)。
牧野公園
青山文庫の周囲には牧野公園が整備されている。牧野公園は、佐川町出身の植物学者・牧野富太郎博士により贈られたソメイヨシノの苗を植えたことを契機に桜の名所として整備され、昭和33年(1958)に公園内の町道が完成したときに「牧野公園」と称することとなった。
平成20年(2008)からは公園の桜が老木となったことから、地域住民で桜を蘇らそうと、古い桜の伐採をおこない、リニューアルを進めている。
中腹には、佐川の偉人牧野富太郎と田中光顕の墓がある(「佐川町」資料より)。
公園の南端には深尾城跡があるようだが、時間がなくなりそうでありパスした。さらっと歩いただけではあるが、佐川の町は土佐藩最大の実力者深尾氏の領地として落ちついた街並みとなっていた。
佐川の由来
佐川の由来は「逆川」に拠る、との説がある。その因は、通常南流する川の流れが、春日川は逆に北流するためとする。とは言うものの柳瀬川も北流するわけであり、仁淀川でさえだ蛇行し北流するわけで、今ひとつしっくりこない。佐川の由来として、「川幅が狭い狭川、川が流れ下る坂川、集落の境になる 境川、川が普通と逆に流れる逆川」などがある。佐川の由来は何だろう。

高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ


霧生関坂を通る現国道33号筋の地形
佐川から日高村へ向かう。地図には現在国道33号に土佐街道・松山街道と記される。がそのルートを眺めていると途中に霧生関トンネル(70m)があり、その着工が昭和34年(1959)4月、完成が昭和36年(1961)4月とある。そしてこの霧生関坂の改修とトンネル工事が、赤土峠のそれと同様、佐川地区の国道33号の改修工事の最大の工事であった、という。そんな難所を平地の往還道として使用していたのであろうか。ちょっと気になりチェックする。
国道33号の前身、県道高知松山線は明治17年(1884)に県道開削の議が起き、翌18年(1985)に決議された。が、当初の計画では県道ルートは現在の国道33号筋ではなく、丘陵の北、東の日高村より土讃線に沿って走る県道287号から298号に乗り換え庄田を経て越知を結ぶもので、佐川が外されてていた。
このルート選定の因は難所である霧生関坂。ために佐川の篤志家が私財を当時、霧生関坂を切り下げるなどの努力の結果、佐川を通る県道ルートは現在の国道33号と決まった。 が、往昔の予土往還としては難所霧生関坂を通るこのルートはなんとなくしっくりこない。 当初県道高知松山線として計画された現在の県道297号筋ではないだろうか。県道として計画されたということは道を開くにそれほどの難所がなかったということで予土往還としては違和感がないのだが、その他にもう少し確としたエビデンスがないだろうか? 

加茂下山通り(県道297号筋)の地形
チェックすると、『幕末・土州松山征伐進軍記録(山崎善敬)』のP127にに征討総督深尾左馬之助が率いる土佐本藩の軍勢は加茂下山通り(県道297号筋)を進軍し、越知を本陣とした佐川領の軍勢と合流した、とある。小荷駄や大砲を運ぶ軍勢が選んだ道であればそれほどの難路であったとは思えない。平地の往還として違和感ない。
また、土佐加茂駅近くの海津見神社に「宇治谷川の一枚大岩橋」があり、その一枚大岩は松山街道の宇治谷川に架かっていたとある。
どうも往昔の予土往還は現在地図に土佐街道・松山街道と記される国道33号筋ではなく、県道297号筋のように思える。ということで、予土往還として県道297号を辿ることにした。

県道302号を右折し県道296号から287号へ
土讃線に沿って県道287号切通部を進む
切通し部は日下川源東部
佐川の中心部から春日川左岸・県道302号を下流へと少し道を戻り柳瀬川手前で県道296号を右折する。
柳瀬川右岸を少し下ると国道494号とクロス。その先道なりに県道297号に入る。土讃線西佐川駅を越えると下山。上述、土佐藩松山征討軍が進んだと言われる下山通り由来の地であろう。土佐藩松山征討軍は下山で県道297号と分かれる県道298号を庄山を経て越知へと向かったのであろう。
県道298号をわけた県道297号は切通部を土讃線にそって緩やかにくだってゆく。県道297号分岐を越える辺りは柳瀬川と日下川の分水界。境界差は5mほど。分水界の東は日下川の源流域。

県道297号を海津見神社へ
海津見神社と一枚大岩
土讃線、県道297号に沿って東進する。土讃線土佐加茂駅の手前に海津見(わたつみ)神社
その境内に上述「宇治谷川の一枚大岩橋」がある。その案内に「この大石を用いた橋は、江戸時代の終わりごろ、加茂地区を通り高知から松山に通じる松山街道の宇治谷川に架けられていたもので、「一枚岩の大石橋」として旅人や道行く人々により広く世間に知らされていた。
この巨石は加茂本村の山中で発見され、大型機械の無かった時代、多くの村人が駆り出さ れ、力を合わせ運び出されて架けられた。死者も出たといわれるこの難工事を、見事に完成させた住民の苦労がしのばれるが、同時に、この大石橋は当時の道路事情を物語る証としても貴重なものである。
右の側面に竣工した「嘉永四年(1851)辛亥春成」の文字が刻まれている」とある。はっきり「松山街道」と記されている。

土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る



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