日曜日, 12月 12, 2021

仙台 四ツ谷用水散歩;広瀬川・郷六の四ッ谷堰から本流を辿り梅田川の吐け口まで

孫の顔見たさに娘が引っ越しした仙台に。用水フリークとしては、仙台と言えば「四ツ谷用水」でしょうと、孫が幼稚園に行っている間に用水歩きにでかけることにした。
常の如く、事前準備は最小限。いくつかのポイントだけをGPSアプリ・「スーパー地形」にマッピングし、取敢えず取水堰から辿れば何とかなるだろうと、お気楽に郷六の広瀬川にあると言う取水堰へと出かけた。
孫が幼稚園から戻る時間までには余裕で戻れるだろう歩き始めたのだが、用水路跡を辿る途次現れる用水路の情報によれば、四ツ谷用水は7キロ強の本流以外に3本の支線があり、そこから城下町を縦横に巡る枝流を合わせたは総延長40キロにも及ぶと言う。
せめて本流と支線のひとつでも、とは思えども孫の帰宅の時間を考えれば本流を辿るのが精一杯。支流歩きは次回のお楽しみとし、今回は郷六の広瀬川に設けられた取水堰から市街を抜け梅田川の吐け口までの四ツ谷用水本流歩きだけとした。
用水本流の概要は、一部開渠が残るも上流部は隧道、中流部は暗渠、下流部は暗渠の痕跡も見えずほとんどが車道下に埋め込まれ、そのまま市街地を東進し、水の流れを見ることもなくJR仙山線・東照宮駅近くの吐け口から梅田川に落ちていた。 かつては城下町を潤した上水路であり、下流部では湿地を抜いて排水路・下水路として上水・下水の多目的用途を担った用水であるが、現在は工業用水を供しているようであった。
取水堰近くの開渠部が江戸の頃の用水の趣を残すと言うが、護岸工事がなされており、古き趣を感じることはなかった。唯一開削当時の雰囲気を感じることができたのは上流部の文殊堂傍で見た隧道開削のための作業穴・空気穴。手掘りの洞窟が残っていた。
江戸の開削時の雰囲気を感じたのはここ一箇所だけではあったが、それでも「四ツ谷」の名前の由来ともなった谷を渡る時に現れる水路橋・掛樋、用水路跡に敷設された暗渠蓋上を歩いたりと、それなりに用水路歩きを楽しんだ。
今回は本流だけではあったが、次回は支流を辿ろうと思う。本音のところでは、支流歩きを名目に孫に会いたいだけではある。ともあれ、四ッ谷用水本流散歩のメモを始める。


本日のルート;仙山線・葛岡駅>宮城県工業用水事務所郷六取水口>四ツ谷取水堰>土径にマンホール>四ツ谷用水の開水路>針金沢>四ツ谷用水路跡地の案内>明確な暗渠が現れる>開削時の作業坑>聖沢の掛樋>山上(さんじょう)清水>唸坂>鶏沢>大崎八幡・太鼓橋下の用水暗渠>龍宝寺参道口の暗渠>龍宝寺参道一筋東から暗渠上を歩く>段丘崖下を暗渠が通る>四ツ谷用水本流跡>へくり沢・暗渠立体交差地点>春日神社>第一支流分流点>四ッ谷用水洗い場跡>東北大学医学部保健学科キャンパス北端を進む>第二支流分岐点>支倉堀を本流合流点へ>上杉山橋跡>宮町>梅田川への吐け口


仙山線・葛岡駅
四ツ谷用水の取水堰があるという郷六の最寄り駅・仙山線の葛岡駅に向かう。結構学生が多い。が、東北福祉大前駅を過ぎると乗客はまばら。標高230m、仙台市街はもとより名取までも見渡せ得るゆえの国見峠由来の国見駅を越すと葛岡駅に着いた。
駅より広瀬川の谷筋へと道なりに丘陵を下り、広瀬川に沿って走る県道31号傍にある四谷堰に向かう。
葛岡
葛岡は宮城県大崎市岩出山の葛岡から発祥した、といった記事があった。大崎市岩出山と言えば、小田原の北条氏攻めに遅参し秀吉から不興を買い旧領を没収された伊達政宗が移され居城・岩出山城を築いた地。政宗ゆかりの地名かと思ったのだが、葛岡の地名は鎌倉時代の記録に残るという。政宗の岩出山城より時代が遡る。政宗とは直接関係ないことになる。
郷六
この辺りの地名は郷六と呼ぶ。鎌倉時代、この地を領したのが現在の仙台市から名取市にかけて覇を唱えた国分氏の武将である郷六氏。 その居城があった郷六の辺りは、狭隘な渓谷から盆地に流れ出た広瀬川により形成された六つの地域に分けらていた、と言う。郷六は地形由来の地名のようであり、国分氏の庶子が郷六郷と愛子郷を与えられ郷六氏を名乗ったようである。郷六氏は後に伊達氏に下った。

宮城県工業用水取水施設
工業用水施設。中央が四ツ谷用水案内板
用水案内板脇から取水口への坂道
県道31号に下り、少し上流へと進むと、道の左手に宮城県工業用水事務所の水路施設がある。その水路施設ゲート手前に「四ツ谷用水」と書かれた木の標識と、その横に結構新しい「四ツ谷用水」の案内板がある。
四ツ谷用水  伊達政宗公の命により広瀬川の河岸段丘地に展開された仙台城下への用水路で、生活用水、消火用水。地下水涵養水、農業用水などに利用された。計画は川村孫兵衛重吉が行ったとされる。四ツ谷堰堀普請奉行は宇津志惣兵衛である。城下拡張に伴う導水路の延伸が図られ寛永年間(一六二四~一六四四)から元禄年間(一六八八~一七〇三)に完成された。近世の土木技術を顕彰する貴重な遺構であり、現在も宮城県工業用水道事業として活用されている。
用水路の構造
〇取水堰(料め堰延長一〇八m、堰高+六五,五m、取水口水路底高+六三,五四m) 最初(寛永年間)の取水位置は、現在の北堰辺りであったが、広瀬川の経年的河床低下により順次上流に転移し、明治期末に最初の取水地点より八○○m上流に現在の取水堰が構築された。
C水路(総延長七一八八・五m)
取水堰延伸導水路 延長 七四一・六m
導水路 延長六四四六・九m
◇隧道
一号隧道 馬蹄形 幅一・二m、 高さ一・八m、延長六一二・五m
二号隧道 馬蹄形 幅一・二m、 高さ一・八m、延長二四六・二m
三号隧道 馬蹄形 幅一・五m、 高さ一・九m、延長三六一・九m
四号隧道 馬蹄形 幅一・二m、 高さ一・九m、延長六五〇・六m
◇掛樋
藩政期には木製構造の水路橋であったが、ルート・高さを維持しながら昭和三二年 ~三六年に鉄筋コンクリート製に改修された。
◇開水路(上幅 四・六m、下幅 三・一五m、高さ 一・八m、延長一六八・八m)
藩政期は石積の水路で、ルート、高さを維持しながら昭和三二年 ~ 三六年に一部石積を残し鉄筋コンクリートU形水路に補強。
◇開渠(上幅二・三m、下幅一・三五m、高さ一・五m ~ 幅一・二五m、高さ一・〇m、延長一八四七・五m)
藩政期は石積の水路で、ルート・高さを維持しながら昭和三二年 ~ 三六年に一部石を残し鉄筋コンクリートU形水路・蓋掛として補強。
◇暗渠○・九m、高さ ○・七五m ~ 幅一・六五m、高さ一・八〇m、延長三一七一・一九m)
藩政期は石積の水路で、ルート・高さを維持しながら昭和三二年 ~ 三六年に鉄筋コンクリートU形水路・蓋掛として補強され覆土・舗装された。

土木遺産認定
平成二八年十二月十一日 「土木学会選奨土木遺産」として認定される。
認定理由 ・ 広瀬川の河岸段丘の微地形を巧みに利用し自然流下の水路配置と地下水涵養を行い杜の都仙台の水環境を支える近世より継承された貴重な土木遺産
四ツ谷用水土木遺産実行委員会団体
○ 仙台・水の文化史研究会
〇四ツ谷の水を街並みに!市民の会
〇仙台リバーズネット・梅田川
〇NPO法人水・環境ネット東北
平成二十九年三月 四ツ谷用水土木遺産実行委員会」とある。

案内により四ツ谷用水には四つの隧道があることなど概要がわかったのだが、予想外であったのは、この四ツ谷取水堰は明治になって造られたもので、江戸開削期の取水堰は少し下流、三居沢発電所への導水路取水堰のある辺りであったことである。

四ツ谷取水堰
四ツ谷取水堰
取水口。第一隧道に流れ込む
四ツ谷取水堰や取水口は見れないのだろうか。と、工業用水事務所取水口施設とブッシュの間に広瀬川へと下る土径がある。取敢えず土径の坂を下っていくと取水堰から導水路を流れ隧道に入る取水口傍に出た。導水路の先には広瀬川に少し斜めに築かれた取水堰があった。

土径にマンホール・道路に掘削注意板
土径にマンホール
掘削注意案内板

地中流深くに流れ込んだ水路は県道31号と広瀬川の間を流れているようだが、道はない。仕方なく県道31号を戻り、県道より逸れて広瀬川方向へ向かう道に入り成り行きで進む。何となく「ノイズ」を感じる土径がある。よく見ると土径の細路にマンホールが唐突に設置されている。確証はないが、下に導水路・隧道が走っているのかもしれない。
また道脇には「掘削注意 この土地の下には工業用水道の隧道が設置されていますので、掘削する場合は下記までご連絡ください」といった注意掲示板もあった。下には第一隧道が走っているようだ。この隧道は上述取水堰が設けられた明治の頃に造られたものである。

四ツ谷用水の開水路
開水路と沈砂池(右)
第一隧道出口付近と開水路
道なりに進むと開水路が見えてきた。傍に拠ると開水路の広瀬川側に沈砂池があった。開水路には水門があり、用水は下流の開水路に流れないようにし、沈砂池に導水され、そこで砂を沈め、砂を落とした用水は沈砂池から開水路に流されると案内図にある。ということは、水門から沈砂池から開水路に流される箇所の間に溜まっている水は水門から溢れた水だろうか。
「四ツ谷用水の開水路」の案内
江戸開削期の取水堰;北堰・古堰
沈砂池施設柵の前に「四ツ谷用水の開水路」の案内がある。
「四ツ谷用水の開水路  伊達政宗公は城下町仙台を開くにあたって、生活用水、消火用水、農業用水等として必要な水をた広瀬川の郷六から引き入れ、八橋から北六番丁を流れて梅田川に注ぐ本流と、途中の一つの支流を分岐して仙台城下に広く流しました。これが「四ツ谷用水」です。
最初の用水の取り入れ口は伊達家の別荘である「郷六御殿」の近くで、現在の 北堰」(三居沢発電所の取水堰)のあたりにあって、古堰と言われていました。
沈砂池と開水路
県道下を開水路が進む
約800m 上流の現在の四ツ谷堰は明治10年代に造られ、1号隧道(トンネル)を通ってここまで来ています。この場所は藩政時代の「四ツ谷用水」の流れを見ることのできる唯一の場所です」とあった。
案内には古堰(推定)、初期水路(推定)も描かれていた。江戸開削時の四ツ谷用水はここから城下町へと流れていたということである。

針金沢;四ツ谷、第一の谷
第一の谷、針金沢
針金沢傍の村境標石
開水路は上述案内板の説明の如く、168.8m続く。開水路に沿って道はなく県道31号に戻り開水路を右下に見遣りながら進むと、用水は四ツ谷用水の名前の由来ともなった最初の谷、針金沢の橋の下を抜け二番目の隧道に入る。
針金沢に架かる橋の欄干、といってもスチール柵ではあるが、その傍に「七北田村・広瀬村境道標が立っていた。
開水路と開渠
ところで、上述説明板に開水路と開渠が分けて書かれていた。開渠は1947.5mとあった。開水路と開渠の違いがよくわからないのだが、距離から言えば水流が見える箇所が開水路で、水流は見えないが蓋をされた流路が見える箇所をを開渠と呼び、地中に埋め込まれ、用水路の痕跡がなにも見えない箇所を暗渠と呼んでいるように思える。ではあるのだが、以下のメモでは水流の見えない水路蓋箇所は暗渠として話を進める。
針金沢
元は石山沢と呼ばれていたようだ。この辺りには玄武岩層が分布し、石切場があったのがその地名の由来。それが針金沢となったのは、藩政時代、番線などに用いる針金を製造していた藩営の工場が出来たゆえとのことである。

四ツ谷用水路跡地の案内
水路施設
第二隧道出口辺り(?)
針金沢を越えると直ぐ、道の左手に水路施設がある。隧道はその下を抜けて進んでいるのだろうか。少し進み、丘陵が県道に迫り土砂防止のコンクリート壁が切れたあたりが針金沢から246m。歩道が通る山側の道幅が気持ち広くなっている。第二隧道を出た用水路がその下を流れているのだろうかと思う。
道に沿って少し進むと道の左手に「駐車禁止」の案内があり、「ここは、宮城県仙南・仙塩広域水道事務所「工業用水道管理事務所」の管理用地ですので速やかに移動してください。
維持管理に支障になるとともに、近隣の方々の迷惑になりますので、駐車を禁止します。
三城県仙南・仙塩広域水道事務所」とある。
駐車禁止板;用水敷地
四ツ谷用水路跡地の案内
またそのすぐ隣に「四ツ谷用水路跡地」の案内。古くなりちょっと読み難いのだが、「四ツ谷用水は仙台城下の農業用水、生活用水、防火用水などの目的で、今から約368年前、仙台藩祖伊達政宗が川村孫兵衛重吉に命じ築造されたち記録されています。
現在では宮城県の鉱業用水として仙台、多賀城、塩釜方面の工場で使用されている他、一部梅田川に放流されて原町方面の農業用水にも使用されています」とあり、さらに「この付近で工事を行う場合、下記まで連絡願います」といった注意喚起も記載されており、共にこの下を用水が通っていることを証していた。

明確な暗渠が現れる
「四ツ谷用水路跡地」の直ぐ先にガードレールがあり、そこから県道より一段低いところを水路にとコンクート蓋をした暗渠が現れる。暗渠上に入り10分弱歩くと暗渠が切れる。その先は第三隧道となって文殊堂の建つ丘陵部を穿つ。

江戸期、開削時の作業坑
平場南西端に作業坑口
坑口はフェンスで囲われる
文殊堂の建つ丘陵下を穿つ第三隧道は361.9m。丘陵裾をグルリと廻ると参道石段v の北に平場がある。現在は文殊堂の参拝者駐車場(石段を上った社殿手前に駐車場があるので、この平場は駐車場ではないかもしれない)となっているが、開削当時は工事の材料置き場として使われていたよう。
手掘りの坑内
その平場の南西端、参道石段の崖面下に手掘りの坑口があった。柵で覆われ中に入ることはできず坑口付近が見えるだけではあるが、この坑口は隧道開削時の作業穴。空気穴も兼ねていたのかもしれない。
文殊堂
参道石段左右に石仏が並ぶ。左手には青面金剛、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑、右手には馬頭観音像が並ぶ。なんとなく統一感がない。道路整備の折にでも集められたものだろうか。
文殊堂、文殊菩薩の石碑に挟まれた108段の参道石段を上ると覆屋風の山門とその奥に本堂。本尊は文殊菩薩。
参道脇に石碑が並ぶ
参道石段
菩薩堂を創建したのは福島県相馬から仙台に移住した修験者の嶺八兵衛と伝わる。嶺八兵衛はその後、伊達家の家臣となり、慶長8年(1603)にこのお堂を創建。享保
元年(1716)5代藩主吉村公が改修した。
仙台には十二支を護り本尊とする寺が建つとのことだが、このお堂は卯年生まれの守り本尊。政宗公が卯年生まれだったこともあり、伊達家の庇護を受けていたと言う。
弘法大師坐像
社殿
境内には開山400年を記念した西国三十三観音像が並ぶが、大師像も見える。大きな弘法大師坐像を祀るお堂もある。弘法大師とこのお堂の関りについてのお話は検索でヒットしなかった。
因みに、後述する山上清水は弘法水、また山上清水手前の丘陵中腹に大師堂があった。四国生まれのわが身にはお大師さんへの信仰は当たり前として感じているが、東北の地にまで大師堂や石碑を建つのを見るにつれ、大師信仰が全国規模であることを実感する。

コンクリート水路施設
深く刻まれた広瀬川の谷筋
県道脇に水路施設(?)
県道に戻り先に進む。右手広瀬川の谷筋は深く切れ込まれている。遠くに見えるのは仙台市街のビル群だろうか。
ほどなく、県道左手の低いコンクリート壁面が切れ、山側がブッシュで覆われる辺りから山裾と県道の間が広くなり、如何にも隧道が丘陵から出て来た感がある。
道なりに進み、水路施設と思えるコンクリート構造物の先に第二の谷、聖沢がある。  

聖沢の掛樋;四ツ谷、第二の谷
県道31号の山側を走る旧道との間にコンクリート造りの掛樋が、四ツ谷第二の谷、聖沢(ひじりざわ)に架かる。縦・横およそ1.5mほどの箱型。用水開削時も木製ではあるが縦・横1.6mほどであったようである。聖沢を渡った陽水は第四の隧道に流れ込む。
「聖沢掛樋」(ひじりさわ かけひ)の案内
橋の傍に四ツ谷用水「聖沢掛樋」(ひじりさわ かけひ)の案内があった。
「四ツ谷用水「聖沢掛樋」(ひじりさわ かけひ)

四ツ谷用水上流部の水路と4つの隧道が描かれた案内板
仙台藩祖伊達政宗公は城下町仙台の建設にあたり生活用水や農業用水として必要な水を広瀬川上流の郷六から引きました。当時山地部三箇所は隧道(トンネル)を掘り、四つの沢は木製の掛麺(沢に渡した木のトイのこと)で渡しました。掛通の大きさは幅五尺(1.5m)×高さ五尺(1.5m)で松板を使用しておりました。ここは四ツ谷用水の一番深い沢で、掛樋構造を唯一見ることのできる「聖沢掛通」です。
現在は工業用水道として使用しているためコンクリート製で蓋がしてあります。
平成26年2月  「四ツ谷の水を町並みに!」市民の会」とあった。
説明と共に往昔の流路と4つの隧道の地図が記されており誠に有り難い。
本国寺
掛樋の掛る聖沢の上流に砂防ダムがあり、その傍に「日蓮宗 本国寺」と書かれた山門が建つ。比較的新しい。昭和10年(1935)創建とのこと。 立教開宗750年を記念して平成14年(2002)建立された丈六の日蓮聖人銅像(高さ8m)で知られる、とある。丈六は一丈六尺(約4.85m)。仏像の標や準的高さとのこと。日蓮聖人銅像(8m)とあるのは台座を入れての高さということだろう。

山上(さんじょう)清水
県道脇の山上清水への案内板
広瀬川の谷筋
広瀬川の谷筋を見遣りながら県道31号を進むと八幡五丁目バス停傍 に「古峯神社」、「金華山」、「天照皇太神」、「山神?」などと刻まれた石碑がいくつも並ぶ。社はなく石碑を祀り鳥居だけが建つ。何だろう?

その鳥居を過ぎると直ぐ道脇のコンクリートブロックの上に「山上清水」と書かれた木札がある。案内に従い少し奥まったところに入ると「清水」と書かれた木札がある覆屋の下に鋼板で覆われた井戸状のものがあった。ここが山上清水だろう。



山上清水の上流。水管は下水管(?)
下流も暗渠蓋の上に水管が見える
覆屋の左右に暗渠蓋が見える。聖沢左岸より650.6mの隧道を抜け暗渠となって四ツ谷用水が姿を現した。それはそれとして暗渠蓋の上に水管が通る。これって何だろう。暗渠上の水管は民家から水管に繋がっている。ひょっとして下水管?

唸坂
県道31号筋に戻り、家並の間に山際に入れる細路があると入り込み、暗渠蓋を確認しながら先に進む。直ぐ左手から下りてくる坂が県道に合わさるところに「唸坂 山上清水」と刻まれた石碑。
「伝説に、弘法大師が錫杖を突き立てたところ涸れることのない清水が湧き出たというのが名水・山上清水で、地名の起源ともなった。また、城下の西口にあたるこの地は人馬の往来で茶屋が栄え、茶屋町ともいわれた。山際には市内を貫流する四ツ谷堰の源となる水路がある。 市制施行八十八周年記念 仙台市」と刻まれた説明もあった。山上清水って、弘法水のことであった。
唸坂に架かる用水橋
橋下を抜ける用水を暗渠蓋上に水管

唸坂(うなりさか)の説明はなかったが、急坂ゆえに牛も唸りながら荷を運んだ、というのが坂名の由来とか。
坂道を少し上ったところで水路跡をチェック。蓋のされた暗渠と供に、ここも民家と繋がった水管が暗渠蓋の上を走る。

沢鶏沢;四ツ谷、第三の谷
鶏沢T字交差点
第三の谷、鶏沢
唸坂との合流点の一筋先にも左手の丘陵から広い車道が県道に合わさる。この合流地点の県道右側にはスチール製の橋の柵が見える。そこが第四の谷、鶏沢(にわとりざわ)。丘陵を下って来た鶏沢は県道合流点手前で丘陵を下る車道下に潜り込み、県道を抜けると再び沢となって現れ広瀬川に注ぐ。広瀬川への落ち口には滝もあるようだ。
鶏沢は、沢によって削られた谷ゆえに、鶏の鳴き声がよく響いたというのがその由来と言う。
鶏沢交差点手前、坂左ぼの用水路
鶏沢交差点先にも暗渠が続く
鶏坂交差点に下る坂を少し上り用水路をチェック。上流側は家並に埋もれて見えなかったが、下流側には如何にも水路蓋といった細路が見えた。
鶏沢を越えて先でも、家並の間に山際へと入れる隙間があれば、取敢えず入り込み暗渠蓋を確認しながら県道を先に進む。ここには暗渠蓋の上に水管は走っていなかった。

大崎八幡・太鼓橋下の用水暗渠
太鼓橋
ほどなく大崎八幡宮の参道にあたる。暗渠跡をチェックすべく、一之鳥居を潜り二之鳥居を越えたさきに太鼓橋があり、その下を暗渠蓋された四ツ谷用水が通っていた。
大崎八幡は国宝に指定される社殿を有する社であるが、散歩の段取りから考えて社殿に参拝する時間がなく、別の機会とし、四ツ谷用水が走る太鼓橋で折り返す。
二之鳥居
「二之鳥居 宮城県有形文化財  寛文八年(1668)四代藩主伊達綱村公により寄進されたもので旧領であった東山郷(現岩手県一関市東山町)より産出した御影石が使用されている。
柱裏側の銘文は儒臣内藤閑斎によるもので虎石道説により刻された。
昭和63年に御鎮座三百八十年記念事業として国道四十八号線に面して一之鳥居が建てられたことから二之鳥居と称されるようになった」

この二之鳥居傍には四ツ谷用水の説明板が三つ建ち、そのひとつには説明と共に本流と3本の支流の流路が描かれた詳細な地図があった。ここではじめて四ツ谷用水には本流以外に3つの支流があることがわかった。
支流からは幾筋もの枝流・分流が別れているようだが、その流路は描かれてはいなかった。
「旧四ッ谷用水」案内板
太鼓橋上流の暗渠
太鼓橋下流の暗渠

詳細な流路が描かれた案内板には「旧四ッ谷用水(きゅうよつやようすい) 伊達政宗が開いた城下町仙台は、広瀬川や数多くの湧水などがあるものの、5~6万人を前後する人口を満たす水利には恵まれていなかった。これを解決するため計画されたのが 四ツ谷用水である。
着工や拡張の経過に関する詳細は不明であるが、北上川改修などで名高い土木技術者、川村孫兵衛重吉(1574~1648)が築造にあたったといわれ、藩政時代の早い時期から着手されたとみられる。
四ツ谷用水;本線上流域から中流域
下図のように広瀬川上流の郷六(四ツ谷堰)から取水して八幡、北六番丁を経て梅田川に注ぐ水路が延長7.260mの本流で、そこから何本もの支流や更にその分流へと広がり市内の要所を縦横に貫流していた。
城下住民の生活用水、防火用水、下水路、そして水下各村の水田耕作など多目的に利用され、藩と町方と農民が1/3づつを負担して維持にあたった。
明治維新後は適切な維持管理が行われなくなり、都市の近代化とつりあわなくなって序々に都市活動との関りが薄れ、次々に埋立や暗渠化が進んだ。
四ツ谷用水;本線中流域から下流域

しかしこれにかわって始まった下水道の整備は、四ッ谷用水の存在が礎となった。 現在、水路として生きているのは本流のほか極く一部分で、本流も仙塩工業用水道となり水流を見ることはできないが八幡五丁目、柏木二丁目間付近では古い石積みも残り、往時の姿をしのぶことができる。 昭和62年3月 仙台市教育委員会」とあった。

古い石積みが残ると言う八幡五丁目は山神清水や唸坂のある辺り、柏木二丁目は八幡宮の東の辺り。特に注意して見たわけでもないが、八幡五丁目の古い石積みを見分けることはできなかった。
「土木学会選奨土木遺産 四ツ谷用水」の案内
もうひとつの案内は「土木学会選奨土木遺産 四ツ谷用水」。
四ツ谷堰の写真と共に説明には
「土木学会選奨土木遺産 四ツ谷用水
四ツ谷用水;支線;第一支流(茶)、第二支流(青)、第三支流(黄)
四ツ谷用水は伊達政宗公の命により江戸時代に整備された用水です。広瀬川上流の場で取水し、縦横にめぐらされた水路で城下町を潤し防火用水・生活用水・農業用水などとして利用されました。
広瀬川の河岸段丘の地形を巧みに利用し、自然流下の水路配置と地下水の涵養を行い、杜の都仙台の水環境を支えた点が評価され、平成28年度に土木学会選奨土木遺産に認定されました。 平成29年3月 仙台市」とあった。

四ツ谷用水;支流(中流部)


説明には「広瀬川の河岸段丘の地形を巧みに利用し、自然流下の水路配置と地下水の涵養を行い」とある。チェックすると仙台の城下町は多少の入り繰りはあるものの、上位面から台の原段丘(分布標高50m~90m)、上町段丘(分布標高30m~60m)、中町段丘(分布標高25m~55m)、下町段丘の段丘面が続き広瀬川へと落ちる。
段丘は北から南へ、また西から東に向かって緩やかに標高を下げており、用水はその地形に抗うことなく城下町を抜けて梅田川に落ちる。
また、地下水の涵養と言うのは、本流、支流、また支流より分かれた枝流が城下町を網の目状に巡り、その用水路より地中に大量の水が浸み込み、城下町を地下水で潤したということだろう。仙台市内では5mも掘れば水が出ると言うし、実際明治時代には仙台市内に6000以上の井戸があったと言う。
四ツ谷用水路整備イメージ図
開渠となった四ツ谷用水のイラストと共に「ここ大崎八幡宮の太鼓橋直下を流れていた旧四ッ谷用水は、藩政時代から昭和にかけて仙台市内に網の目のように配置され、生活用水、防火用水等に利用され、水の豊富な街並みを形成し「水と杜の都仙臺」を支えていたものです。しかしながら、急速な都市化の発展により、そのほとんどは暗渠化が図られ、かつての「水と杜の都」を形成していた水環境はなくなりました。
四ツ谷用水;支流(下流部)
このことから、今後の仙台園域の水環境のあり方について、地域の方々と共に、環境・防災等の面から調査・研究を重ねた結果、地域の良好な水環境づくりのために、かつて旧四ツ谷用水が流れていた、ここ大崎八幡宮の入り口太鼓橋地点に、左図のような「四ツ谷用水路」を整備することを提案するために、そのイメージ図を掲示することとしたものです。 仙台域圏健全な水環境調査研究会」と記された説明が記されていた。
東京でも都市化が進み汚れた水路に「蓋」をし暗渠となった水路が親水公園としてせせらぎが復活している。因みに浸水公園の日本での第一号は江戸川区の古川親水公園とのことである。

河岸段丘の城下町
仙台の河岸段丘(「広瀬川ホームページ」より)
説明を読みながら、何故に伊達政宗は広瀬川とのギャップが15mもあり、水利に不便な河岸段丘の地・仙台に城下町を開いたのだろう?チェックする。
伊達政宗の生誕の地は出羽国、米沢。その後奥州の地を切り取り領土を現在の福島県北部・会津地方、山形県南部、宮城県南部まで拡げるも、小田原攻めへの遅参が秀吉の不興を買い、会津領を没収されるも、伊達家の本領72万石は安堵された。
が、その後の政宗の奥州での行動は秀吉の許すところとはならず、山形県南部の長井、福島県北部の信夫・伊達を含む6郡を没収され、一揆で荒廃した葛西・大崎13郡(宮城北部、岩手県南部)を与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。
仙台の地形図(5mメッシュ;等高線(茶))
秀吉死後、家康に接近し旧領回復を窺う折、関ケ原の合戦。家康により、「西軍に与する会津、米沢の上杉景勝の動きを封ずれば旧領(伊達、信夫、長井、苅田(宮城県南西部))を譲る」の言を受け、上杉との戦闘に最も適した場所として、仙台の地を選び青葉山城築城を決める。
青葉山城は東は広瀬川を望む断崖、西は「御裏林」と呼ばれる自然林、南は竜の口渓谷の深い谷間となっており、北に石垣を築くけで要害の城となる。関ヶ原合戦の後、再び起こるであろう上杉氏との合戦に備え、早急に山城が必要だと考えたという。
舟運のためには海に面した仙台平野に城下町を開くのが経済の観点からすれば最適なのではあろうが、時は未だ戦乱の期。仙台平野に平城を築くより、天然の要害の地をもつ仙台に山城を築くことにしたのだろう。
仙台平野は過去地震による大津波や洪水の地であるがゆえに、仙台平野ではなく内陸に10キロも入った仙台の地を選んだとも言われるが、当時の状況を考えれば戦時対応ゆえに青葉山城を築くことがまず最初にあり、その地が結果的に発達した河岸段丘が広がる地であったということだろう。それゆえでの四ツ谷用水の開削でもある。
関山越え最上街道(作並街道)の案内
二之鳥居の右手に概略地図と共に関山越え最上街道(作並街道)の案内。「関山越え最上街道(作並街道)は、仙台城下から愛子、作並を経て、関山峠を越え山形に至る道で、峠道は狭く険阻なため、二口街道、笹谷街道と連絡して利用されました。奥州街道は、一般に江戸(東京)から弘前藩三厩(青森県)までの総称で、国内最長の道でした。県内での道筋は、ほぼ国道4号線と一致します」とあった。

龍宝寺参道口の暗渠
龍宝寺参道の揚水に架かる橋
参道の橋から見た用水暗渠
大崎八幡を離れ県道を少し進むと「龍宝寺縁起」の案内。段丘崖であったであろう坂道を少し上ると、道の両側にコンクリートの橋の欄干。蓋をされた用水路を確認し県道に戻る。時間がなくお寺様参拝は次の機会とする。
龍宝寺縁起
当寺は文治年間(1186)伊達家の祖朝宗公が再興して自家の祈願寺とした寺で、古くは奥州鎮守府の将軍坂上田村麻呂の鐘銘により平安期に創建されたものと推察される。材願寺になってからは、中村、簗川、米沢、岩手山と伊達家に附随して、慶長年間(1596)政宗公により城北の当地、患沢山に移創し境内に八幡宮を 創建した。当寺十一世實済住職により米沢成島、大崎両八幡神が合併され 一宮に祭祀され、八幡宮の落慶法要の導師を切め、以後明治に至るまでは龍宝寺八幡宮と公称れた。
当寺は藩主より二百七十石を附され、頭堂六院、蓮来院,能成院、玉頭院、泉照院、東光院、別当坊にも各十石余、八幡宮の別当としての神供料を合わせると四百八十石余に及んだ。更に藩一円に七十二ヶ寺の末寺をもち城下最大の門前,龍宝寺門前八幡地区一帯を有していた。
本尊の釈迦如来は八幡宮の本地仏として綱村公により文珠、普賢両脇仏をそえ安置されたものであり、京都嵯峨清涼寺の模刻の北限ともいわれる。以前金売吉次が京より勧請した如来である。明治三十六年国宝に指定され昭和二十六年国宝再編で国の重要文化財となる。
ちなみにこの如来を出世如来、願掛け如来、子育て如未として信仰を集め、特に四月八日の花祭は世に知られるところである。

龍宝寺参道一筋東から暗渠上を歩く
坂道上流側
坂道下流側
龍宝寺参道口の一筋東にも坂道。用水路確認に向かうと、橋の欄干といった構造物はなく、上流側はフェンスで遮られた先に暗渠蓋に覆われた用水路が坂道まで続く。


暗渠が切れ道路下に潜る
直ぐ暗渠は行き止り
その先用水は道路下に。先に暗渠が見える
坂道から下流側は坂道と暗渠の間にギャップもなく、草に覆われてはいるが用水路暗渠を歩けそう。特に進入禁止の警告文もない。取敢えず用水路を辿る。用水路は直ぐ三差路で行き止まりとなり、道路下にもぐる。

段丘崖下を暗渠が通る
直ぐ暗渠となって姿を現す
用水を跨ぐエントランス・アプローチ
一旦道路下に埋もれた用水路は直ぐ先で蓋をされた暗渠となって姿を現す。暗渠は崖下を走る。崖下の民家には用水路を跨いだエントランスアプローチが設けられている。崖の上は上町段丘面。用水路の通る崖下は中町段丘面。崖は河岸段丘崖という。

四ツ谷用水本流跡の標識
右下に用水暗渠を見遣りながら道を進むと、道の右手に「四ツ谷用水本流跡」と書かれた木の標識。「仙台藩祖伊達政宗公は城下町に必要な水を広瀬川の郷六から引きました。「四ツ谷用水」と言われ、ここはその本流跡です」とある。オンコースを辿っているようだ。
しばらく進むと、広かった崖上の道もその先で民家に阻まれ細路となる。

へくり沢・暗渠立体交差地点;四ツ谷、第四の谷
用水暗渠とへくり沢暗渠が立体交差

成り行きで進むと暗渠に蓋をされた用水路に出る。ほどなく用水路の右手に暗渠がカーブを描き南に下る。ここは第四の谷、「へくり沢」。沢は暗渠となっていた。 「へくり沢遊歩道案内板④」によると、イラストや地図とともに、「へくり沢遊歩道案内板④ かって、国見から八幡地区にかけて「へくり沢」又は「蟹子沢」と呼ばれる小川がありました。
国見小学校の北西部から段丘斜面を南東側に下り、広瀬川の澱橋付近に注いでいました。今は下水道となって水流を見ることはできませんが、深い峡谷状の地形や流れの痕跡を観察しながら散策してみませんか。
へくり沢の名の由来は・・・・「へくる」とは、谷の縁(へり)を縫うように通過すること。
沢が深く抉(えぐら)れ、ここを越すには坂道をくねくねと下り、上らねばならなか ったことからきているといわれます。
ここは、へくり沢の峡谷地形の始まりで四ツ谷用水(四ツ谷堰)が交差する地点です。ここから下流は、昭和30年代以降に戦災瓦礫などで埋め立てられるまで八幡小学校の敷地を取り囲むように深い谷が見えました。
広瀬川の水を郷六地域から導いてきた四ツ谷用水は、ここで「掛樋(かけひ)」という箱形の樋の中を通ってへくり沢を渡りました。いわば、自然の川と人工の用水の立体交差点になっていたのです。
沢沿いにある「瀬田谷不動尊(石尊権現)」は、仙台城築城のために移り住んだ石工衆の守り神であり、現在地から南側にある落差3mの滝壺は、行者修行の場になっていました。また、石工たちが即興で踊りはじめ、瀬田谷不動尊や大崎八幡宮に奉納してきた「ハネコ踊り」が「仙台雀踊り」の発祥と言われています」と記された説明があった。
カーブを描いて南東に下る暗渠はかつてのへくり沢筋。暗渠となった四ツ谷用水と同じく暗渠となった「へくり沢」はこの地で暗渠が立体交差しているということのようである。
かつては深い峡谷状の地形を呈していた「へくり沢」は現在は遊歩道となっているようだ。地形フリークとしては、そのうちに、かつての沢筋を歩きながら河岸段丘とのギャップを感じながら歩きたいと思う。




春日神社
春日神社
へくり沢・用水・第一支流の水路が見える
へくり沢の暗渠立体交差部を越えると直ぐ春日神社。上述説明にあった瀬田谷不動尊にちょっと立ち寄るため参道を右に折れると、参道途中に昭和15年頃の春日神社付近を描いた絵が掲示されていた。その絵には暗渠化される以前のへくり沢の流れ、その上を掛樋で渡る四ツ谷用水が描かれていた。その少し先に南に下る水路は大崎神社の地図にあった第一支流であろう。

へくり沢暗渠上の石切橋
瀬田谷不動尊
用水路の一筋南の通りに出て右折し「へくり沢」筋に。そこには石切橋の欄干が残り、その先に瀬田谷不動尊が建っていた。
瀬田谷不動尊の由来はこの辺りの沢から瀬田貝という貝が採れた故とのこと。

第一支流分流点
用水路から見た第一支流筋
支流は道を越え南に下り正面建物前で消える
四ツ谷用水に戻る。春日神社の絵図にあった第一支流の分流点を探す。と、少し先、水路右手の家並の間に不自然に広いスぺ―スが南に続く。第一支流跡のように思える。
確認すべく、用水路筋から一
筋南の道路に出て不自然なスぺースをチェック。不自然に広いスぺースは道路を跨ぎ南に続いていたが、その先の広い駐車場で消えていた。

四ッ谷用水洗い場跡
左下に削られた石段跡が残る
用水路に戻り少し進むと、左手に「四ッ谷用水洗い場跡」の案内。「仙台藩祖伊達政宗公は城下町つくりに当たって上流郡村から広瀬川の水を引き町なかを徴流させました。それが「四ッ谷用水」と言われた小川です。
ここにはその本流が流れていましたが 昭和三十年代の初めには工業用水とするために暗渠となり その上は歩道となりましたが現在も地下を広瀬川の水が流れています。
四ッ谷用水 は生活用水としても重要な役割を果たしましたが、炊事や洗濯などに 「洗い場」は欠かせない存在でした。この場所は「洗い場」の跡で水辺までの階段のようすがわかります。四ッ谷用水は約三百年の長い間 仙台を支えた偉大な歴史を待つ水流でした。 平成十六年八月 「四ツ谷の水を町並みに!」市民の会」とあった。
よく見れば削り取られ、「水辺までの階段」が壁面にレリーフ状の痕跡として残っていた。

暗渠上を進む
八幡二丁目と柏木二行目の境となる坂道を越えた用水路は暗渠となって先に進む。道端に簡易な柵はあるが、道とのギャップもそれほどなく暗渠に下りることができそう。
ほめられた行為ではないが、崖線に沿って走る用水路の風情を感じたく暗渠に下りて先に進む。ほどなく侵入禁止の柵があり、柵脇より一旦広い道路まで出る。

東北大学医学部保健学科キャンパス前の道に出る
用水路は地中を斜めに道路に合流

その先で再び細路を用水路へと入り込む。暗渠はほどなくアパートらしき建物の前で消える。その先にはアパート前に、これも不自然に広いスぺースが続き、アパート東端で右に曲がり広い道路に合流する。

東北大学医学部保健学科キャンパス北端を進む
 用水路の痕跡を探すと、道路南側の東北大学医学部保健学科キャンパスに道に沿って土手が続き、そこにはマンホールも見える。用水路はこの土手下を走っているのかもしれない。

第二支流分岐点
大崎神社にあった用水地図によれば、この東北大学医学部キャンパス前を東進する四ツ谷用水本流は、隣の東北大学病院と県道264号大衡(おおひら)仙台線が交差する辺りから第二支流が分流している。が、現在その痕跡は何も見ることができなかった。交差点北西角には「本町通 北六番丁」と刻まれた標石が立つ。
支倉堀
開削期の支倉堀
地図を見ると少し北に仙山線・北仙台駅がある。実は当日、孫の幼稚園から帰る時間も近づいており、仙山線・北仙台駅に向かって一筋北の東北大学歯学部キャンパス前の通りを進んでいた。と、道の右手のキャンパス内になんだか自然の水路跡らしき石組が目に入った。その先、キャンパス内に案内板らしきものが立つ。敷地に入るとそれは「四ツ谷用水支倉堀」の案内であった。
用水流離の描かれた地形図やキャンパス付近の藩政期の古地図と共に説明文が記されており、「広瀬川から高い崖で隔てられ、直接水を汲み上げるのが難しい河岸段丘上に創設された城下町仙台。江戸時代の初期、土木工事に長けた川村孫兵衛重吉とその子の孫兵衛元吉によって築かれたのが、広瀬川の上流(現在の青葉区郷六)に設けた取水堰から城下町へ水を運ぶ四ツ谷用水といわれている。
案内にあった支倉堀の流路
その本流は、取水堰から八幡、北六番丁を経て東流し、梅田川への放流部(東照宮付近の福沢)まで総延長が約7km であり、そこから分岐された水路が城下をくまなく潤した。
そのうち、支倉堀は北六番丁と支倉通との交差点で分岐し、途中で北山から流れる小川を合わせながら城下町の北部に水を運んだ。
四ツ谷用水の大部分は暗渠となっていて、ここに見られる遺構はかつての面影を残す貴重なものである。
支倉通について
北九番丁から支倉町へ至る南北方向の道は支倉通と呼ばれた。支倉通南端の先を流れる広瀬川には支倉橋が架かり、元禄7(1694)年の洪水でこの橋が失われるまでは、川内を経て城と城下町北部を繋ぐ要路であったと推測される。かつての支倉通のうち、北四番丁と北七番丁の間は、現在東北大学星陵キャンパスの敷地となっている。
四ツ谷用水と杜の都
四ツ谷用水によって運ばれた水は、河岸段丘地下の浅い位置にある、およそ3~6万年 前に河川によって運ばれてきた砂礫層に浸透することで、井戸水や湧水として利用される地下水を養っていた。その地下水は、武家屋敷の屋敷林を育み、「杜の都」と呼ばれる原風景をつくり出したといわれている」と記されていた。

上町段丘の北にも中町段丘が記される
説明文を読みながら支倉堀の流路を見ていると、他の支線は本流より南に下っているのだが、この支倉堀は本流より北に水を流している。城下町に水を自然流下させるには本流は標高の最も高い場所を走っているはずである。それが本流より北に流れる?上掲した段丘図をよく見ると、上町段丘を囲むように北側にも中町段丘が広がっている。標高も僅かに本流が流れるラインより低くなっている。これであれば 自然流下で、説明にある「城下町の北部に水を運ぶ」ことができそうだ。
。 往昔の広瀬川は現在より西の山側を流れ、それも大きく蛇行しながら流れたゆえの上町段丘が中町段丘に挟まれた地形ではなかろうか。

支倉堀を本流合流点へ
自然の石積みが残る支倉堀の流路に沿ってキャンパス内を進む。流路はほどなく消えるが、そのまま大学敷地を抜けると本流筋と県道264号大衡(おおひら)仙台線が交差する地点、上述「本町通 北六番丁」の標石が立つところに出た。四ツ谷用水の本流が流れる箇所でもある。
ここで仙山線・北仙台駅に戻るのをやめ、どうせのことならと、本流を吐け口まで歩くことにした。

上杉山橋跡
通りを東進。大宮八幡にあった地図によれば県道22号の手前で第三支流が本流から分岐したとあるが、それらしき痕跡を見付けることはできなかった。
その先も水路痕跡のない通りを東進。時に歩道にマンホールがあるが、それが用水と関係あるのかどうかわからない。オンコースかどうか不安になったころ、上杉2丁目と上杉5丁目の境の交差点に「上杉山橋」跡と書かれた木の標識。「昭和10年代のはじめに暗渠となりましたが、現在も道路の下を広瀬川の下を流れています」とある。傍には「かみすぎやま橋」と刻まれた橋にの親柱が立っていた。
湿地
梅田川近くにも湿地帯が広がる
「仙台市史」にある地図には、この辺りに大きな沼が記されていた。この辺りでは四ツ谷用水は湿地を抜き、沼の水の排水をおこない耕地をなした、と。城下町の上水、生活用水と共に、下水の機能ももっていたということだろう。

宮町
昭和初期の用水本流
歩道にあるマンホールを見遣りながら、上杉町、梅田町を越え宮前町に入る。「なつかし仙台3(仙台市教育委員会)」だったかと思うのだけど、今は単なる歩道だが昭和初期の頃、この通りには大きな水路が流れいた。
ほどなく北に折れると東照宮へと進む梅田川に架かる東照宮前橋に至る交差点に「宮前 宝蔵院」と刻まれた標石が立つ。

宮前の説明には「東照宮の門前町で、北六番丁から東六番丁北端までの南北の町。承応三年(1654)王手崎の天神社跡地に東照宮が造営された際に町割りがなされた。全戸に五百文の田畑が与えられ、年貢や町方諸役が免除されたほか、仙台祭りの日には絹布着用の特権が与えられていた。御宮町・権現町ともいわれた」とある。
宝蔵院の説明は写真が不鮮明ではっきりとは読めなかったのだが、東照宮傍にある東照宮の別当寺である仙岳院の子院のひとつ。東照宮と梅田川の間に延寿院、宝蔵院、成就院、吉祥院などの子院があったようだが、現在は延寿院を残し他のお寺さまは廃絶している。宝蔵院は安政の絵図には延寿院の近くに描かれているようだ。

梅田川への吐け口
宝蔵院橋
四ツ谷用水本流の梅田川への吐け口
交差点を越え梅田川に。橋は宝蔵院橋とある。宝蔵院はこの橋の梅田川左岸、少し上流にあったのかとも思う。橋を渡り東詰めから梅田川を見ると宝蔵院橋の下に水の捌け口が見える。それが四ツ谷用水の吐け口だ
ろう。
これで四ツ谷用水本流は郷六の取水堰から梅田川の捌け口までカバーした。東照宮にも参拝してはみたいのだが、既に孫は幼稚園から帰っている時刻。迷うことなく最寄りのJR仙山線・東照宮駅に向かい、孫の待つ娘の家へと急ぐ。

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