火曜日, 12月 13, 2022

伊予 大洲街道散歩 その③;伊予中山駅から水呑観音まで

大洲街道トレースも3回目。先回は伊予の郡中からはじめ予讃線・伊予大平駅まで大洲街道をトレースし、伊予大平駅に車をデポ。そこから先は、犬寄峠を越えて予讃線・伊予中山駅まで歩き散歩を終え、列車で伊予大平駅まで引き返しその日を終えた。
今回、本来であれば伊予中山駅からはじめ内子へと向かうのだろうが、内子までの途中、ふたつの山越え(丘陵と言ったほうがいいかも)部である休場峠と千部峠越えがある。で、雪の降る前に山越え部をクリアしておこうと、プラニング。伊予中山駅から伊予立川駅まえは後日に廻し、伊予立川駅に車をデポし、二つの山越え部をクリアし内子まで繋ごうと計画した。
内子の町の北端、大洲街道を歩くきっかけともなった福岡大師堂傍の「松山街道・大洲街道」案内板のあるところまで直線距離でおおよそ7キロほどであり、これならなんとかなろうかと想ったのだが、これが大誤算。結局ひとつ山越え(休場峠)し、次の山越(千部峠)の間を区切る谷筋にある水呑観音までは進んだのだが、そこから先の山道で途中撤退を決定。水呑観音まで戻り、直ぐ東を走る国道56号まで下り、そこから伊予立川駅まで引き返すことにした。
撤退の因のひとつは山道部でのルート取りの難しさ。それでも水呑観音まで進めたのはひとえに運よく出合った地元の方にルートを教えて頂いたおかげ。一度など難しいルート取りの箇所は、見るにみかねたのであろうが、林の中を抜け、広い林道箇所に出るところまでガイドして頂き、なんとか水呑観音のある舗装道路が走る谷筋まで出ることができた。
ここまではよかったのだけれど、水呑観音から先の山越え道がはっきりしない。水呑観音のすぐ前、舗装道路と小さな沢に沿って進む草道があり、成り行きで進む。「愛媛県歴史の道調査報告書」にある大洲街道ルート図では、草道に沿って流れる沢が合流する、大きな沢(本沢)を越えた先から山を上るようなのだが、草道は林道となって本沢左岸を進み想定ルートから離れてゆく。ほどなく沢の源頭部あたりで草の生い茂る林道を見つけ、そこから林道が切れるところまで辿った。少し東に振れば想定ルートに合流するところまで進んだのだが、大洲街道をトレースした感がない。
ちょっと思案。時刻は午後1時前。途中藪などなく、道も迷わなければ明るい内に内子の福岡大師堂まで繋げることもできそうではあるが、ルートがよくわからない場合、アプローチ口がはっきりしている逆側から攻め、道を繋ぐのが常の行動パターンでもあり、結局後日アプローチ口がはっきりしている内子側から水呑観音まで繋ぐことにして撤退を決めた。
撤退の因のもうひとつは激しい藪。「愛媛県歴史の道調査報告書」には、大洲街道は予讃線伊予立川駅の先、立川トンネルを出て次の宿茂トンネルに入る手前は川沿いを進んだとあり、中山川右岸の放置された休耕田に入ったのだが、そこの藪は誠に酷かった。
大洲街道は中山川右岸を進み宿茂トンネル入口辺りから山に入っているよう描かれており、取り敢えず宿茂トンネル入口辺りを目指し激しい藪を進むが、トンネル手前に深い水路溝。水路溝をクリアするとその先は崖。何とかトンネル入口に向かって崖を這い上がると、国道56号の立川橋から繋がる地理院地図にも記載のない地簡易舗装の道に出た。500mもない距離の藪の中を抜けるのに1時間以上かかった。この間、何度も呆然自失といった心持ちに陥った。水呑観音より先で撤退を決めたのは、もし同じような藪に阻まれたら勘弁、といった思いが頭をよぎった琴は否めない。
大洲街道を歩く方はそれほどいらっしゃるとも思えないが、立川トンネルの山側を進み、立川トンネルと宿茂トンネルの中間辺りで高架を潜り中山川方面へと出た後は、中山川右岸に折れることなく、そのまま橋を渡り国道56号に迂回し、上述立川橋南詰から上る道を宿茂トンネル入口上まで歩くことを強くお勧めする。

それはともあれ、当初予定していた水呑観音から先、千部峠越えを経て内子を繋ぐ計画は断念。時刻は未だ午後1時頃。時間は十分にあるため、休場峠と千部峠クリアのため今回スキップすることにしていた伊予中山駅から伊予立川駅の間を繋ぐことにした。「愛媛県歴史の道調査報告書」には国道56号に沿って山際を進むルートが描かれるが、一応チェックはしたものの踏まれた道もなく、歩けそう、というか歩きたくないルートでもあり、伊予中山駅から伊予立川駅の間は、結局おとなしく国道56号を辿ることにした。
記事は便宜上、午後にトレースした伊予中山駅からスタートすることとする。



本日のルート;
予讃線支線・伊予中山駅から伊予立川駅まで
予讃線支線・伊予中山駅>旧玉井家>大興寺大師堂>JR予讃線南側の旧道は途中で撤退>国道を左に逸れるが、直ぐ撤退>幕の内橋北詰めに素朴な五輪塔>骨董店の手前で旧路をトレースするが道が切れ撤退>お堂のたこ焼き店内に馬頭観音>三島神社参道口に旧道が残る>鳥居元橋>幟立
伊予立川駅から水呑観音まで
予讃線支線・伊予立川駅>土蔵脇の細路に入る>中山川右岸傍へと下ってゆく>予讃線の高架を潜り線路山側の道に移る>予讃線の高架を潜り谷側に移る>立川橋南詰めから上ってくる道に出る>崖を上り作業小屋脇の舗装された農道に出る>作業小屋前の舗装道を進み森を抜けるアプローチ口に>広い草道に出る>舗装道に出る>水呑観音>林道の切れるところで撤退

国土地理院地図


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予讃線支線・伊予中山駅から伊予立川駅まで

予讃線支線・伊予中山駅
厳島神社
伊予中山駅傍から国道56号を右に逸れ旧道に入る。道の両側に並ぶあたりは泉町。藩政期、在郷町として農村部において商業活動が認められた区域。道の左手に小ぶりながらも美しい厳島神社を見遣りながら南進する。
中山は大洲と松山を結ぶ大洲街道の継場、宿場町。昔より栄えていた藤の郷川上流の永木経由で山道を抜ける古い大洲街道も、中山川沿いに開かれた(明治以降?)新しい大洲街道もこの中山の集落を経由する。特に永12年(1635)年,郡中が替地により松山藩から大洲藩領となって以降は、大洲街道の往来は多くなり継場、宿場町として発展していったのだろうと推察する。
因みに中山の地名の由来は「鳴き山」が中山へと変わった、とか「中山氏」が庄屋になったことによるなど諸説あり定説はないようだ。

旧玉井家
旧玉井家
泉町をしばらく進むと、道の右手に旧玉井家。案内には「江戸時代脇本陣を勤めた玉井家 中山町の歴史・文化の象徴としての脇本陣を伝える価値は大きいものがあり、宝暦十年(一七六〇)の建築物が町並に現存するのは稀である。
脇本陣として江戸時代の巡見使の宿を勤めた(宝暦一一年には巡見使市岡友膳が当家へ宿泊している。)町老としての役職、家名御免など大洲藩とのつながり、藩札を扱う重職を勤め、明治以降には、村長、学務委員郵便局長、栗田鉱山など公共的な役割を果たした。王井家の生業として酒造、金融医院など中山町において重要な商業活動をしてきた。
また、御成門、中国蓬莱山を模した庭駕篭を置く中石が現存していることからも非常に価値の高いものである」とある。
「えひめの記憶」には「旧中山町(藩政時代、郷町)は大洲藩の五本陣(大洲、長浜、上灘、郡中灘町、中山)の一つであり、重要な位置を占めていた。本陣とは藩主の巡領や幕府・巡見使の宿をいい、庄屋や町老など地域の有力な家が勤めた。中山においては、本陣を庄屋・長岡氏、脇本陣を出淵村庄屋と泉町・玉井家が勤めた。幕府巡見使の一行は総勢一五〇人にも及び、本陣ばかりでなく町あげての歓迎・接待であった」とある。
なお、泉町は在郷町として農村部における商業活動が許された町として栄えたようである。

大興寺大師堂
更に南下。大洲街道は右手一段高いところにある大興寺大師堂の手前を左折し、国道56号をクロスし南東、そして南下する。
江戸末期までの大洲街道
メモをする段階であれこれチェックしていると、江戸末期(江戸期以前、との記述もある)までの大洲街道は、中山から南は、現在の中山川に沿って抜けるルートではなく、後述する宿茂トンネルの辺りから山入りし北東進、一旦藤の郷川の谷筋に下り、古くから栄えてていた永木辺りまで北進し、そこから重藤、柚之木、追俵峠、福元を経て中山の大興寺辺りに下りている。
近代以前、土木技術が発達するまでの往還は基本土砂崩れの多い川筋を避け、尾根を辿るのが多い。大洲街道も例外ではなかった。それにしても結構大きく迂回するルートである。宿茂トンネルから中山までの中山川沿いは明治に道が開かれるまで荷駄も通れない杣道くらいしかなかったのだろうか。なんとなく気になる。
また、ということは、今からトレースする伊予中山駅から予讃線宿茂トンネル辺りまでの大洲街道は江戸末期以降、明治に入り開かれた道筋ということだろうか。あれこれ気になることが現れてきた。 知った以上、冬を越した春にでも江戸末期までの大洲街道を歩いてみようとかと想う。
河崎天満宮の参道石段を左に見遣り、栗田川を渡ると道は県道241号となり右に折れる。

JR予讃線南側の旧道は途中で撤退
予讃線の高架を潜るが
線路際は藪。歩こうとも思うことなく撤退
「愛媛県歴史の道調査報告書」の大洲街道ルートは、右折地点を直進し予讃線の南側、山際に沿って南東に進む。 右折点から予讃線を見ると、コンクリート壁に南に抜ける通路がある。
通路を抜け少し進むと線路脇を進む道は手摺で遮られる。その先はとても歩けそう、というか歩きたくない崖面の藪。山側に上る道があったので進んで見たが、線路から離れていくため、線路脇を進むことを諦める。午前中の宿茂トンネル手前で藪漕ぎは十二分に「堪能」しており、もう満腹状態。県道241号に戻り、その先の分岐で県道を左に沿れ国道56号に出る。

国道を左に逸れるが、直ぐ撤退
舗装道を右に逸れる草道に入るが
直ぐ崖面の藪。迷うことなく撤退
国道56号を少し進む。「愛媛県歴史の道調査報告書」の大洲街道ルートが国道から逸れ山際の道に入る地点で国道を逸れ左の舗装された道を上る。しばらく進むと「福岡線改修記念」の石碑。その少し先で舗装道から右に逸れる草道が崖を下る。上述調査報告書のルートとも合っているので、舗装道をそれ少し進むが、直ぐに行き止まり。踏み跡もない崖面の森を歩く気は既になく、おとなしく国道に引き返す。
福岡
地形が扇形に似ているので、「オオギ」と呼ばれていた。扇は末広がりで縁起がよいと思われていたが、生活が貧しくなったため、福が舞い込むようにと福岡と名付けた(「えひめの記憶」)。

幕の内橋北詰めに素朴な五輪塔
国道を進むと幕の内橋。橋を渡った北詰めの法面に石塔が残る。素朴な五輪塔のようであった。道路改修の際にでも移されたのだろうか。
幕の内 
昔、中山でも栄えていたところという。福岡の上にあった城の豪族が下におりて広場に幕を張り、花見などをしていたので幕の内といったらしい(「えひめの記憶」)。



董店の手前で旧路をトレースするが道が切れ撤退
国道を逸れ旧路確認に向かうが
耕地の先は崖となり撤退
国道を進むと国道左手にある骨董店の手前、国道が南に大きく曲がる辺りから左に上る道が地図に描かれる。坂道手前の曲がり角あたりは段々になった耕作地があり、なんとなく道が残っていそうな雰囲気もある。「愛媛県歴史の道調査報告書」にある大洲街道ルートは上述「福岡線改修記念碑」の立っていた道を逸れ、山際を進み、この国道から逸れる道をクロスし、地理院地図に描かれた実線部に沿って進んでいるように見える。
取り敢えずなにか手掛かりがないものかと国道を逸れ舗装された坂を上る。道の左手は沢。推定ルートが坂道と交差する辺りにも、沢の左手にそれといった踏み跡はなく、段々畑が見えるだけ。推定ルートはその先、地理院地図に実線で描かれたルートに続く。とりあえずどんなものかと道を進む。 実線ルートが切れた先も踏まれた道があり、ひょっとしたらとの期待で先に進むが耕作地で道が切れる。耕作地の先はギャップの大きな崖になっており、敢えて進む気力はない。ここで撤退。国道に戻る。

お堂のたこ焼き店内に馬頭観音
国道を進むと森平橋の東詰め、国道山側の法面が四角に開けられ、そこに石仏が立つ。「交通安全 魔除地蔵」とある。それほど古いものではないようだ。
そこから少し先、道の左手に「お堂のたこ焼き」の店がある。その裏手に馬頭観音が立つというので、お店の方にお聞きすると、仏はお店の裏の建屋の中に祀られていた。
調査報告書の道は、福岡線改修碑の先から国道に沿って山際を進んだ大洲街道は、ルート図にはこの馬頭観音のある辺りに出る。お店の方にお聞きするが、昔の道は国道改修で分断され、消えてもいるので今となってはわからない、とのこと。

三島神社参道口に旧道が残る
国道から逸れる道を上るが、道もなく引き返す
「お堂のたこ焼き」店を離れ国道を進む。推定ルートは中山川が右に蛇行する辺りで山際に入る。その辺りに国道を逸れて山に入る道があり、取り敢えず確認に向かったがそれらしき道筋などなく国道に引き返す。





蛇行する中山川に沿って廻りこむと境の集落。伊予市と喜多郡内子町の境でもある。国道の一筋山側に短いが旧道が残る。左手には三島神社の参道石段も見える。三島神社は内子町川中になる。

鳥居元橋
境の集落西の中山川に屋根付き橋が架かる。鳥居元橋。木造・切妻で屋根は杉皮葺きで比較的新しい造り。平成14年完成とあった。長さはおよそ24m、幅は2m強。住所は内子町川中となっている。

幟立
国道を南下すると藤の郷川が中山川に合流する箇所に幟立の集落(住所は内子町川中)。上述の如く、江戸末期までの大洲街道は、中山川に架かる立川橋南詰より宿茂トンネル方向へと山入りし、下立山より山腹の道をこの藤の郷川筋まで北東に進み、藤の郷川の谷筋を永木まで遡り、そこから重藤、柚之木、追俵峠、福元を経て中山の大興寺に向かっていた。
で、何故に永木まで辿る?よくはわからないが、永木には奈良時代建立と伝わる藤縄森三島神社と呼ばれる古社が鎮座する。祭礼には大洲藩主の重臣が城主の代参として訪れた、と。中山一帯の氏神とされる。中山一帯では最も早く開けた集落と言う。
とはいうものの、何故永木に古社が建立され、早くから開かれたのかは未だよくわからないまま。ではある。幟立から南下し松山道の高架下を抜ければ、ほどなく伊予立川駅に着く。

これで当日午後トレースした伊予中山駅から伊予立川駅までのメモを終える。以下、当日悪銭苦闘した伊予立川駅から水呑観音までをトレースする。上述の如く、伊予中山駅からここまで、国道傍の山際を抜ける旧道を格闘することなく、何を躊躇うことなく撤退を決め、おとなしく国道筋を辿ったのは、この日の午前中の藪漕ぎ、道迷いが頭をよぎったのが主因かとも思う。

大洲街道;伊予立川駅から水呑観音(赤;実行ルート/緑;推定ルート/青;江戸末期までの大洲街道(一部))


伊予立川駅から水呑観音まで

予讃線支線・伊予立川駅;午前8時
大師堂
伊予立川駅に車をデポ。 伊予立川駅は既に伊予市を離れ喜多郡内子町立山。中山川を渡り国道56号まで戻り少し南進。中山川沿いに建つ茶谷の集落の家並みの間を中山川の堤防に成り行きで入る。少し進むと左手に茶谷の大師堂。その先大洲街道は茶谷橋を渡り中山川右岸に移る。
立山に立川?
立山に立川?チェックすると、立川村は立山村と川中村よりそれぞれ一字をとり立川村となり、昭和30年(1955)内子町やほかの村と合併し新たな内子町となった。

土蔵脇の細路に入る:午前8時25分
「福岡農道開通記念」の石碑
土蔵脇の細い草道に入る
茶谷橋を渡り立川小学校の正門前を通り舗装された細い道を少し上る。と、道の右手に「福岡農道開通記念」の石碑が立つ。大洲街道はその左に建つ土蔵脇の草道に入る。土蔵脇の草道が大洲街道とは思わず坂道を上り、茶谷集会所横の道を山へと上っていたのだが、なんとなく違うよなと困惑していた時、偶々出合った地元の方に、土蔵脇からのアプローチ口を教えて頂いた。
今回地元の方に3度もルート取りを教て頂いたが、これが第一回目。
伊予立川駅から時間がかかっているのは、アプローチ口がわからず彷徨っていたため。

中山川右岸傍へと下ってゆく;午前8時33分
その先、道幅も広くなりいい雰囲気の道筋。この道筋は愛媛県の「近代以前の文化・産業遺産のリスト」にも「江戸期の旧状をよく留める「大洲街道」」として掲載されている。
道を進むと谷側には手摺が整備され、道筋は中山川右岸傍まで下りる。

予讃線の高架を潜り線路山側の道に移る:午前8時39分
予讃線の高架を潜り山側に
線路に沿って進むと
中山川筋に近づいた頃、右手に立川トンネルを抜けた予讃線の線路が見え、道は高架を潜り線路山側に移る。




舗装された道に出る
予讃線高架を潜り谷側に
簡易舗装された道を線路に沿って進むと、ほどなく広い舗装道路に出る。道は高架を潜り国道56号に繋がっている。




中山川右岸の強烈な藪を宿茂トンネル入口に向かって進む;午前8時48分
中山川右岸に入り込む
しばらくは少し荒れた休耕地
「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図には大洲街道は中山川の右岸を進むように描かれる。踏み跡などないのだが、中山川に架かる橋の近くより右岸の草に覆われた休耕地に入り込む。


水路溝を越え最後は急な崖を這い上がる
激しい藪。前方のトンネルに向かっ格闘
最初は川筋に近い所を進んでいたのだが、激しい藪に阻まれ、藪の薄い箇所を探しながら進む。昔は耕地であったであろう段になった石垣を上り先に進むが藪は激しくなるばかり。

線路脇なら少しはましだろうかと右手に振って線路脇まで進むが、状況は全く同じ。呆然自失ってこういうことかと言った状況。
それでも藪を?き分け宿茂トンネル入口近くまで進むと、そこには深い水路溝。藪に疲れ水路溝を辿り中山川の川床にエスケープしようと水路溝を下るが、その先に2m以上のギャップのある水路の段差。とても先に進めず急傾斜の水路溝を戻り、途中見つけた水路溝に架かるコンクリート蓋近くで立木を手繰り寄せ、力任せに水路溝を這い上がり溝を越える(疲れ果て水路溝の写真を撮り忘れた)。
溝を越えた先も激しい藪。「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図は予讃線・宿茂トンネル入口上部辺りから先に伸びているのだが、溝を越えた先は崖。取り敢えずトンネル入口方向に向かって崖を這い上がる。

立川橋南詰めから上ってくる道に出る;午前10時2分
崖を這い上がると道に出た
どこから続くのか下ってゆくと
と、そこには地図に記載されていない簡易舗装の道があった。ここに道が通っていることがわかっていれば、もう少し気分は楽ではあったと思うのだけど、この道にたどり着くまでルート取りの目安もなく、藪の中でどうしたものかと結構不安であった。直線距離で500mもないところを1時間以上藪と格闘していたことになる。



立川橋南詰めに出た
地図に載っていない簡易舗装の道がどこから上ってくるのか確認するため下っていくと、立川橋南詰から上ってきていた。もし大洲街道を歩く方がいらっしゃれば、この区間は予讃線の高架を谷側に潜った先は中山川右岸に折れることなく、そのまま中山川に架かる橋を渡り国道まで出たあと、立川橋南詰めから上る道へと迂回することを強くお勧めする。



崖を上り作業小屋脇の舗装された農道に出る;午前10時45分
トンネル上辺りの崖を上る。
崖を上った道の辺りから休場峠越えの山入り部となる、「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図には予讃線宿茂トンネル入口の上辺りから、西進し比高差20m強の上にある実線ルートで地図に描かれた道筋と繋がる。
が、道の山側にはそれれしきアプローチ口はみつからない。崖を這い上がれば直ぐその実線ルート部に出るとは思うのだが、何処かにアプローチ口の手掛かりがないものかと彷徨していると、道を少し上った集落で地元の方に出合い、大洲街道のアプローチ口を訪ねる。本日2回目の地元の方のアシスト。

比鷹差20mhほど上ると
作業小屋脇から舗装された農道に出る
昔は国道56号立川橋南詰めからの道沿いに大洲街道の案内、標識は立っていたようだが現在は朽ちたのか無くなっている、と。で、アプローチ口をお聞きしその個所に戻る。よく見れば崖に僅かに踏み跡らしき筋が見えなくもない。取り敢えず崖道に上ると、上り切った先に作業小屋が見える。作業小屋の前には舗装された道が続いていた。地理院地図に実線で描かれた道筋でもある。
時間がかかっているのは一度国道筋に確認で下ったり、道を少し上に進んだ集落まで彷徨ったりとしたためである。それがなければ10分もかからず作業小屋に出る。

作業小屋前の舗装道を進み森を抜けるアプローチ口に;午前11時15分
農道を進み
沢の石を踏んで森に入る
道なりに農道を進む。が、農道を離れ南の森に入るアプローチ口が見つからない。ここでもアプローチ点を探しあちこち彷徨っていると、農作業に来た地元の方に出合う。農道南の小川に置かれた石を踏み渡り、森の中を少し小川に沿って西進し、あとは微かな踏み跡を追っかけて森を抜けると広い草道に出る。そこからは道なりで進むと水呑観音前の舗装道路に出る、と。
ここでも時間かかったのはアプローチ口を探し彷徨っていたため。


広い草道に出る;午前11時28分
小沢に沿って森の藪を進み
南に進むと踏まれた道
教えられた通り小川に置かれた石を踏み森に入り、藪を小川に沿って進み南へと進み始めると、もう少し西進しなければダメと、見かねて森を抜けるまでガイドして頂くことになった。今回3度目の地元の方のアシスト。

道脇にタバコ栽培小屋跡
樹林帯を抜けると
その方の後を追っかけ藪を抜けると少し踏まれた道、タバコ栽培小屋跡、水場跡脇を進み杉林を抜けると広い草道に出た。




広い道に出た
戻られる後ろ姿に何度もお礼
ここから先は道なりに進めば大丈夫と地元の方はここで戻って行かれた。感謝。変える後ろ姿に何度もお礼。 




●大洲街道推定ルートと実行ログ 「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図を元に地図に引いた推定ルートと地元の方にガイドして頂いた実行ルートを比較してみた。
実行ルートでは、当日推定ルートに描いた舗装された農道より南に折れるルートを見逃し、快適な農道に沿って進み、推定ルートとクロスする箇所までは進んだ。が、そこは耕作場と小川。そして森の境目。そこでアプローチ口が見つからず彷徨ったわけだが、実行ルートを見ると推定ルートの少し東で小川を辺り森に入り込み、結局は推定ルートに描いた交差部まで少し西進し、地理院地図に描かれた破線部を南に森の中に入っていた。明確なアプローチ口は無いが、地理院地図の「破線部」を外さないように南進すれば、森を抜け広い草道に出る。

舗装道に出る;午前11時43分
この辺りが休場峠?
舗装道に出る。角に大洲街道標石
丘陵部の間、踏まれた広い草道を道なりに進む。休場峠辺りを進んでいるのだろうが、特段の案内はない。峠越えといった雰囲気ではない。170m等高線に挟まれた鞍部といった風情。
途中1か所ほど背丈ほどある草が道を阻むが、基本快適に歩を進め国道56号に繋がる舗装道に出る。角には標石。「松山1・大洲街道」「平成二十九年九月七日 / 城廻自治会文化部」と刻まれる。

水呑観音;午前11時45分
舗装道を少し下ると小さな沢の向こうにお堂がある。お堂の前の石碑には「内子町指定文化財 水呑観音」と刻まれる。「大洲街道」と刻まれた標石も立つ。
ここでちょっと休憩。伊予立川駅から4時間弱かかっている。予想以上に時間がかかったのは宿茂トンネル前の藪との格闘で1時間以上かかり、ルート探しであちこち彷徨ったためだろう。



●撤退までの経緯
水呑観音堂前に大洲街道標石
沢に沿って草道を進むが本日は途中で撤退
休憩後内子までのもうひとつの山越え(千部峠)にスタート(午前11時58分) 舗装道路と水呑観音の間に沢があり、沢と観音堂の間に沢に沿って進む草道がある。お堂前に「大洲街道」の標石もあり、この草道が大洲街道であろうと歩き始める。直ぐ先、山側に石の祠に石仏が祀られる。なんとなく大洲街道であろうと思えてきた。
道を進むと等高線が西に切れ込んだ所で、水呑観音からの支沢が大きな沢(本沢?)に合流する。「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図を元に描いた推定ルート図では沢の合流点の先から上るようになっているのだが、本沢左岸に沿って広い道が続くため、そのまま進むことにした。
しばらく進むと沢の源頭部となる。踏み分け道となったルートを進み、石を踏んで沢の右岸に移る。道は背丈ほどの草に阻まれるがその先、地理院地図に実線で描かれた林道に出る。林道は西に続きその先は開け、作業小屋も見える。が、大洲街道は林道合流点でヘアピン状に東に折り返す。どこまで続くのか取り敢えず林道を進むと標高160m辺りで林道が切れた。
この先少し東に振れば「調査報告書」に描かれる推定ルートにあたるのだが、何となく大洲街道を辿ったという気がしない。時刻は未だ午後1時前。時間的には余裕があるのだが、今回はここで撤退し、次回上り口のルートがはっきりしている内子側から水呑観音まで繋いでみることにした。ルート取りがはっきりしない場合、アプローチ口がはっきりしていれば、逆側から攻め、撤退箇所までを繋ぐことを常としているためでもある。
来た道を引き返し国道56号まで出て、国道を4キロ弱歩き車デポ地の伊予立川駅まで戻り、をその後伊予中山駅から伊予立川駅までトレースし+本日の散歩を終える。




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