金曜日, 11月 25, 2022

伊予 大洲街道散歩 その① 松山・札之辻から伊予市の郡中まで

いつだったか四国の遍路道を歩いたとき、内子の北の街はずれより水戸森峠へと下るあたりの福岡大師堂に寄ったとき、「松山街道(大洲街道)」の標識を目にし、どんな道筋なんだろう、いつか歩いてみたいと想ったことがあった。また、昨年土佐街道(松山街道)を松山・札之辻から高知の城下町まで辿ったとき、重信川に架かる重信橋の北側、夫婦和泉の傍に立つ二里の里程石に「 大洲宇和島道 郡中江百町」とあり、この時もまた、大洲街道のことを思い起した。
で、今回、高知城下と伊予の川之江を結ぶ土佐北街道、松山城下と高知城下を結ぶ土佐街道(松山街道)を歩き終えたこともあり、四国の街道歩きの続きというわけでもないだが、前々から気になっていた大洲街道を歩くことにした。
ルートをチェックとあれこれWEBを見るが、あまり記事はみあたらない。記事はあっても詳細なルート図がついていない。はてさてとチェックを繰り返すと、中山史談会の作成した「旧街道は語る大洲街道」という小冊子がヒットした。が、この小冊子はWEBに公開されておらず、松山の県立図書館にあるとする。ということで取り敢えず県立図書館に向かい、資料をチェックしたうえで成り行きで当日の予定を立てようと松山に向かう。
県立図書館で 「旧街道は語る大洲街道」をチェックする。が、ここに記載されるのは中山地区の大洲街道がメーンであり、その手前の榎峠から犬寄峠のあたりは「往還道を辿って 中山佐礼谷地区の旧道と文化遺産(佐礼谷公民館)」を参照とある。このふたつの小冊子にはその当該地区の詳しいルートや文化遺産は記されているが、どちらにしても大洲街道全域をカバーしたものではない。
はてさて。と、開架書棚を見ていると「愛媛県歴史の道調査報告書」というシリーズが目に入る。そこには今治街道、金毘羅街道などと共に大洲街道の調査報告書もあり、巻末には松山札之辻から大洲までのルート図も記されていた。これですよ!
早速カウンターでコピーをお願いするが、著作権の関係でページの半分までしかコピーはできないとのこと。どうしたものか。と、担当の方が写真を撮るのであればページ制限はないとのこと。その理屈はよくわからないが、申込書を提出し必要箇所を写真にとり、1時間ほどかけてルート途次のポイントをiphoneアプリの「スーパー地形」にプロット。これで大洲街道のルート概要がわかった。
で、県立図書館を出たのがお昼頃。これなら松山市街地から伊予市の山入り部あたりまでであれば日没までにトレースできるかと思い街道トレースに向かう。その日は伊予市の山入り部手前の伊予市郡中あたりまでがカバーできた。以下、大洲街道トレース第一回の松山・札之辻から伊予市郡中までをメモする。



本日のルート;松山城下・札之辻>阿沼美神社一筋手前で南に折れる>中ノ川>雄郡神社>石手川堤防下に泉長寺、荒神社>日招(ひまねき)八幡参道と交差>出合橋北詰に向かう>出合橋北詰・出合荘の標石・句碑・橋の親柱>出合渡し跡>玉生八幡神社の二里の里程標>ひびけしさま>義農作兵衛終焉の地>>筒井門礎石>瀧姫神社>豊園寺前の境界石>湊町の大師堂>湊町地区>灘町の旧宮内邸>山惣商店

国土地理院地図

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松山城下・札之辻
国道56号西堀端通り、市電本町三丁目停車場のある四つ辻角、北に延びるお濠が東へ入り込む札ノ辻交差点の東のお濠傍に「松山札ノ辻」「松山藩道路元標」と刻まれた石碑が立つ。石碑は結構新しい。。昭和四六年(1971)の復旧とのことである。
石碑の横に「札之辻の由来 松山札之辻は松山城と大林寺(城主代々の墓所)を結ぶ紙屋町の通りと、 江戸時代松山隨一の繁華街であった本町通りとの交差点にあたり 当時松山藩の制札所(高札場とも言う)の あった所で、伊予国の交通の起点となっていた。
「松山叢談」によれば、ここから五街道の起点が始まる。「松山札之辻 より何里」の石 の里程標は 寛保元年(一七四一年)松山藩主第六代松平定喬公の時に 祐筆の水谷半競に書かせたものと伝えられている。いま里程標は各街道に合計三十数本が残存している。 建設省 松山工事事務所 (社) 四国建教弘済会 昭和六十年十月」とあり、札ノ辻よりの各街道里程が「金毘羅街道;小松まで十一里 金毘羅 三十一里 / 土佐街道;久万まで六里 土佐二十五里 / 大洲街道;中山まで七里 大洲 十三里 / 今治街道;北條まで四里 今治 十一里 / 高浜街道;三津まで一里 高浜 二里」と刻まれる。

阿沼美神社一筋手前で南に折れる
札之辻を出た大洲街道は国道56号札ノ辻交差点を東進し、阿沼美神社一筋手前で南に折れる。「阿沼美」の名前に惹かれ阿沼美神社ちょっと立ち寄り。
阿沼美神社
何だかさっぱりとした境内。太平洋戦争の松山空襲で境内が焼失した故であろうか。本殿もコンクリート造りで再建されている。社の由来は見当たらない。
境内右手に摂社が並ぶ。その内のひとつ、勝山八幡神社に由緒を記された案内があり、「勝山八幡神社 松山の八社八幡の八番社である。『予陽郡郷俚諺集』によると、松前城主加藤嘉明が勝山(今の松山城)に築城を計画し、普請奉行の足立重信、山下八兵衛が調査に来たという。そのとき、山上に社があり、近くで薪を拾っていた老人に、この宮は何の神かと尋ねると、老人は、勝山八幡と言おうとして、勝たず八幡の宮と答えた。不吉ではあるが、敵が城に向かって勝たずなら吉相、それに、往古よりこの山に鎮座している御神であり勿体ないとして、北の麓に遷して奉ったという。
摂社・勝山八幡
また、西の尾根にも社があり、老夫に尋ねると、越智郡の三島より勧請した三島明神であるという。これは吉祥であるとして、西の山の下味酒(みさけ)村へ遷座して祀った。のちに味酒大明神と呼ばれ、味酒神社と改称された。現在の阿沼美神社である。
嘉明の後を受けた第二代松山城主蒲生忠知は、勝山八幡神社を三宝寺とともに今市町に移したという。そして、明治八(一八七五)年、勝山八幡神社は、味酒神社(阿沼美神社)の末社としてその境内に移ったといわれる」とある。
元は三島明神であったが、下味酒村へ遷座して祀った。のちに味酒(みさけ)大明神と呼ばれた。それが現在に阿沼美(あぬみ)神社となったとするが、そのつながりがよくわからない。チェックすると、この阿沼美神社(あぬみじんじゃ)は、松山市内の平田町にある阿沼美神社と共に『延喜式神名帳』に「伊予国温泉郡 阿沼美神社」として名神大社に列する論社とする故の改名だろうか。
尚、阿沼美の語源は、阿沼=葦津、美=姫 →鹿葦津姫(かあしつひめ)、また、天鈿女命(あまのうずめのみこと)、そして、勝山と江戸山の間は大沼であり、明神の神詠に『阿那美クシ沼哉』とあったため、とか、アジミを熱水と解釈し、道後温泉のある当地方の神と諸説あるようだ。
境内に松尾芭蕉、栗田樗堂、正岡子規、の句碑が立つ。
松尾芭蕉
「さまさまの事おもひ出す桜かな
松尾 芭蕉(一六四四?一八九四 正保元年?元禄七年
芭蕉は貞享四年(一六八七)の暮から上野に滞在し翌年三月のある日、旧主蝉吟公の遺子探丸から下屋の花見の宴に招かれた。
芭蕉はすぎし日の蝉吟公の忘れ形見探丸を仰いで追憶の念やみがたく、その感動がおのずと筆を執らせて「さまさまの事」の六文字に凝結した。探丸も父の血をうけて文学的才能が豊かであったので、たちどころに脇をつけた。
「春の日永う筆に暮れ行(ゆく)」
こうして二人の親愛の結晶が一つの連句を生んだ。(上野) 現三重県伊賀市。芭蕉の故郷松山市教育委員会」
栗田樗堂
「浮雲やまた降雪(ふるゆき)の少しつゝ 一七四九?一八一四 寛延二年 文化一一年 樗堂(ちょどう)は造り酒屋に生まれたが同業の栗田家に入婿、七代目の戸主となり家業に励んだ。そのかたわら松山藩の町方大年寄として町政に尽力した。
俳句は加藤暁台門で、井上士朗と双璧。近世伊予第一の俳人と称せられ、竹阿や一茶は樗堂を訪ね来し句稿を残している。句集に「萍窓集(ひょうそうしゅう)」などがある 松山市教育委員会  俳句の里 松山」
正岡子規
案内はないが句碑の左側に「名月や伊予の松山一万戸」 子規、とある。中央部に刻まれた文字はよく読めないが、「者流もやゝ氣し支とゝの不月と梅(はるもややけしきととのうつきとうめ)」と詠む芭蕉の句と梅そして月が彫られる。二句一基の句碑と言う。子規と芭蕉のコレボレーション。子規は秋の月を芭蕉は春の月を詠んでいる、と。


中ノ川
南に下る大洲街道は伊予鉄高浜線を越え、その先中ノ川、といっても水路溝といったものだが、中ノ川に架かる小橋を越える。小橋の西側には「従是松山」の境界石が立っていたいたようだが、現在は所在不明とのこと。斜め前には長生寺が建つ。
中ノ川
中ノ川は石手川の分流。岩堰の大岩を穿ち南西へと流れるように瀬替えされた湯山川(元の石手川)の流路跡を活用し、城のお濠に導水するため足立重信が整備した河川である。
現在の流路は石手の湯渡橋のすぐ下流にある石手川齋院樋堰より取水され新立、錦町を経て河原町、湊町、永代町へと中ノ川通り・暗渠となって西流する。
更に西流した中の川は松山市下水道中央浄化センターのある南江戸で宮前川に合流し三津浜で伊予灘に注ぐ。
中の川も宮前川も石手川が瀬替えされる以前、湯山川と呼ばれた頃の流路跡と言う。中ノ川は上述の通りであるが、宮前川は岩堰より現在の石手川から分かれ道後から城山北に進み、そこから西進し、伊予鉄古町駅辺りで流路を南に変え、上述浄化センターで中ノ川を合わす。

雄郡神社
南下した大洲街道は伊予鉄郡中線を越える。この辺りより道の表示が県道326号松山伊予松前線となる。しばらく進むと、道の左手に雄郡神社が建つ。聞きなれない社の名前に惹かれちょっと立ち寄り。境内は社叢が残りいい雰囲気。拝殿にお参り。
境内にあった雄郡神社の案内には「松山の八社八幡の四番社。祭神は天宇受売命と八幡三神(品田和気尊、帯中日子尊、息長帯姫尊)である。
『伊予古蹟志』に「小栗の邑に国社あり、正八幡宮(雄郡神社)と口ふ。用明天皇の元年九月五日、宇佐の神を移し祭る。社前に調馬場を置、古き流鏑馬射祭の地なり。」 とある。
慶長五(一六〇〇)年関が原の戦いのとき、河野家遺臣と毛利勢が攻め寄せてきて、加藤嘉明の家老佃十成が迎え討ったとき、兵火が当社にも及んで社殿社宝古文書を焼失した。
昔から鎮守の森と呼び、人々は神社の樹林を大切にしてきた。当社の樹林も、かつてのうっそうとした樹林とは比べるべくもないが、地域の人々に守られて、松山市指定の景観樹林保護地区となり、二代目の「左馬殿の松」も育っている。社宝には『絵馬雄郡神社前景図』(万延)『左島雨乞いの図』(安政)がある。 松山市教育委員会」とある。
また、雄郡神社由緒の案内もあり、「当國史見在社(旧懸社)は、天宇受売命を主神と仰ぎ、旧松山市の三分の一の氏神としてその宮居を小栗町に占め、神徳古来遠近に遍き古社であります。当社は一般に八幡様として知られていますが、これは用明天皇の御代に筑紫の宇佐から八幡三神を勧請したのに因るのであります。
主神天宇受売命(福運の神)奉斉の年代は慶長年間、関ヶ原役の地方戦においてその兵火に遭い難を蒙ったため 史実に徴すべきものがありませんが、八幡神合祀のことから推して極めて遼遠悠久なことが判るのであります。もと当社は四方八丁に余る神域を有し今の社地より遥か西方に大鳥居があり、神苑 の古樹鬱蒼として茂り宏壮なる社殿その間に聳えていたのでありますが、前記関ヶ原役に社殿宝蔵悉く灰燼に帰したのであります。
今往時を偲ぶものとして、加藤嘉明手植の松(左馬殿の松) 薦田、宮窪、金砂田、古屋敷等の遺跡があります。かく謂れのある神社でありますから神威古より弥高く、陽成天皇の朝に御贈位があり、御三條の御代には伊豫守賴義(八幡太郎義家の父)が領内八所の八幡宮を定め、その一社として崇敬の誠を捧げ 加藤嘉明松山に築城後は彼も亦深く当社を尊崇、旧藩主久松家に至っては、道後の伊佐爾波、味酒の阿沼美両社と共に藩の三社と崇め社殿を寄進し家紋を献じて奉斉の誠を尽されたのであります」とあった。
案内では結局、気になった「雄郡」の由来はわからなかったが、このあたりは雄郡地区と呼ぶようだ。かつては雄郡村があったという。その地名から、とは思ったのだが、雄郡村は雄郡神社の雄郡神より命名とあるので、堂々巡り。よくわからないが、小栗の社と称されていたが、明治のはじめに雄群神社、後に雄郡神社と改名されたようだ。
子規の句碑
境内には子規の句碑も立つ。
案内には「御所柿に小栗祭の用意かな 
正岡子規 一八六七?一九〇二 慶応三年?明治三五年
昭和四七年三月一日建立。
明治二八年一〇月七日、今出の霽月(せいげつ)を人力車で訪れる途中、雄郡神社で詠んだ句。 「御所柿」の句は、「病餘漫吟」(明治二八年)に「御所柿にいそぐ祭の用意哉」とある。また有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の柿も御所柿で、子規の好物の一つであった。
この碑の右隣に次の句碑もある。
「うぶすなに幟立てたり稲の花
正岡子規 昭和五三年一〇月六日建碑。 雄郡神社は正岡家の氏神さま(うぶすな)でもあった。 松山市教育委員会」とあった。
秋山好古揮毫の石碑
またその横に「御大典記念」と刻まれた石碑。日露戦争での日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊参謀秋山真之の兄、世界最強と言われたロシアの騎兵集団を破り日本騎兵の父と称された秋山好古陸軍大将の揮毫と言う。その横に「神祇満つ木漏日の散る石畳 たけし」とあるが案内はない。池内たけし?



石手川堤防下の泉長寺、荒神社より西進
 旧家が残る和泉北の町並み
雄郡神社を離れ大洲街道を南に進む。国道56号、松山環状線を南に抜ける。「愛媛県歴史の道調査報告書 大洲街道」には、この先出合橋で石手川を渡るまで道筋は「破線」で示される。明治から大正にけかて耕地整理が行われ確たる道筋は残っていないということだろう。
取り敢えず破線に沿って進む。 旧家が残る和泉北の町並みを進むと石手川の堤防手前でT字路にあたる。そこを右折し堤防に沿って南西に進むと泉長寺、荒神社が並ぶ。大洲街道跡を示す「破線」はここから堤防を離れ西進する。

日招(ひまねき)八幡参道と交差
現在は宅地化された家並みの中、少し西進した後、道筋は南西へと向きを変え、石手川に平行に進む。 「破線」に沿った道筋もほどなく消え、後は成り行きで宅地の間を進みJR四国予讃線を潜り先に進むと日招八幡参道と交差する。かつてはこの辺りに「松山札辻より壱里」と刻まれた一里の里程石が立っていたようだが、現在は松山市役所余戸支所傍に移されている。
大洲街道から寄り道し、名前に惹かれた日招八幡と、一里の里程石を見に行くことにする。
日招八幡
一直線に伸びる参道を北に向かう。県道190号久米垣生線を越えたところに常夜灯、その先に鳥居が建つ。参道は国道56号で分断され、境内は国道56号を越えて一筋北に入ったところにあった。 座像神将が護る神門を潜り境内に入り拝殿にお参り。
境内にあった案内には、「日招八幡大神社 松山の八社八幡の五番社。祭神は、品陀和気命、息長帯姫命、宗像三女神である。
社伝によれば、越智益躬が筑紫国から勧請したが、大同年間(八〇六~八一〇) 大納言雄友卵が痘瘡を患って、この社に祈り平癒したので、伊予痘瘡宮として民間の信仰を集めた。元慶年間(八七七~八八五)に八幡神を合祀し、石清水八幡宮と号したという。
元暦元(一八四)年、佐々木四郎高綱が入国し、砥部荏原の城主森山、大野の一族と戦った時、勝利直前に日が西に傾くのを嘆き、八幡神に祈願をして太陽を呼び返し大勝した。高綱は、日招八幡宮と改称し、社殿の改築、神領の寄進をしたと伝えられる。『伊予古蹟志』では、高綱ではなく、佐々木三郎盛綱のこととしている。

松山城築城のとき、石を頭に載せて松前から運んだ「おたたさん」のひとりであるお豊さんが、この地まで来て倒れた。そのとき運んでいたという、丸の中に二の字の印を刻んだ大きな石が境内にある。松山市教育委員会」とある。
越智益躬は飛鳥時代の人物。武人として知られ伊予国越智郷(現在の愛媛県今治市)を本貫とする越智氏の氏祖とされている。佐々木四郎高綱と伊予の関係は確認できない。佐々木三郎盛綱は伊予国守護職に任じられている。
おとよ石
境内に「おとよ石」の案内。「おとよ石 昔、松山城が造られたごろのことなんよ。 松前の港には、大名から送られた紋入りの石垣用の石が山のようにあってな。この石を、毎日たくさんのおたたさんが頭にのせて、松山へ運びよった。
その中の一人、おとよは長い勤めじゃけん疲れきっとったけど、その日も勤めに出たんよ。 一つ丸に二の字の入った石は、大きいので、だれも顔を見合わせて運ばなんだ。ほやけどおとよは、 「私が勤めましょう。」と言うたんよ。みんなは、止めたけんど、「これくらいのことがでけんようては、御城主様にすまん。」と言うて運び始めたんよ。
出合を過ぎるへんからおくれがちになって、よろめいとった足も、日招神社のところまで来て、とうとう前に進まんようになって、倒れてしもたんよ。
それで、このけなげなおとよをあわれんで、その石を、「おとよ石」といい、この神社に残すことにしたんよ。「松山のむかし話」」とある。
木の傍に石がある。「一つ丸に二の字の入った石」と言うが、はっきりとは見えなかった。
おたたさん
説明にある「おたたさん」って何?チェックすると、 魚や煮干し、珍味などを入れた「御用櫃(ごろびつ)」と呼ばれる 木製の桶やザルを頭に乗せて、家々を回り松山まで行商などをしていた松前の女性たちのことを「おたたさん」と呼んでいたようだ。
で、何故に「おたたさん」?「えひめの記憶」には「「おたた」の語源については、「もともと、どの地域においても、売魚婦を一般に『タタ』『オタタ』と呼んでいたのが、江戸時代に至り、松山藩の保護のもとに、漁業の隆盛をきたし、多くの松前女性が漁獲物を近郷はもちろん、遠くまで売り歩き、自然に親密さも加わり『タタ』なる語が松前地区と密接に結びついたもの」とされる。 が、これでは売魚婦を一般に『タタ』と呼んだ由来がわからない。あれこれチェックすると、新潟あたりでは「たた、おたた」は母親という意味のよう。これなら理屈には合う。また、おたたは「瀧姫」がもとになったのではないかという記事もあった。
瀧姫
その昔、都より流刑になって松前の浜に流れ着いた「御多喜津姫」(通称「瀧姫」)が日々の糧を得るため、都風の服装のまま行商をはじめたところ、松前の女性たちがみならって行商したことが「おたたさん」の始まりとし、 瀧姫の「たき」から、「おたた」へとなったのではないかと言われる。因みに伊予市のマスコットキャラクターは「おたたちゃん」とのこと。
松山市役所余戸支所傍の一里の里程石
伊予鉄郡中線予土駅の傍、県道190号久米垣生線の道を挟んで南、松山市役所余戸支所の西側の線路沿いに「松山札之辻より壱里」と刻まれた一里の里程石が立つ。元の一里程石があった石手川堤防傍から遠く離れてはいるが、残っていることが有難い。



出合橋北詰に向かう
元一里の里程石があったあたりまで戻り、大洲街道推定ルートを進む。耕作地が残るも宅地化された保免、余戸地区を進む。
国道56号と松山外環状線がクロスするあたりを成り行きで進み、伊予鉄鎌田駅の南を越え、石手川が重信川に合流する箇所の直ぐ下流、出合橋の北詰に出る。出合は文字通り、石手川と重信川が出合う所の意である。
保免・余戸
なんとなくこの地名が気になりチェック。共に律令制度に関係したもの。保免(ほうめん)は租税を免じる、といった意味。律令制度の崩壊に伴い、その根幹をなす班田収授法が破綻し、租税徴収が困難となった朝廷は土地私有を認め、貴族や大寺院はこぞって荘園開墾に務める。朝廷は荘園から租税を徴収することになったわけだが、人々は開墾した土地を荘園領主に寄進することにより、荘園に一定の年貢を納めるかわりに、租税負担や雑役負担、更には兵役負担などから免れることになる。 余戸(ようご)は律令制度の50戸を一里とする村落の単位において、さらに村落を拡大する際、60戸以上になった際、そのうちの10戸以上を指した「余戸の里」より。
因みに、一里は6町の正方形を基本単位とし、縦6条、横6条で区切られた36の「坪」をもって一里とした。条里制と称される所以だろう。保免地区の石手川の対岸に「市坪」という地名があるが、これは「一の坪」から。里の北西角を「一の坪」と呼ばれた。
重信川と石手川の出合地点
重信川は足立重信により瀬替えされる依然は伊予川と称されていた。その伊予川の水害から松前にあった松前城を防ぐため、12キロに渡り新川を開削したのが現在の重信川の流路。一方石手川は現在の松山市街へと流れていたが、松前城より松山に城を移すにあたり瀬替えしたのが現在の流路。共に城を護る目的で瀬替えした二つの河川がここで合流することになった。何となく面白い。

出合橋北詰・出合荘の標石・句碑・橋の親柱
出合橋北交差点の北西角に瀟洒な屋敷が建つ。民間会社の所有と言う。県道326号に面した正面玄関の左手に水原秋桜子の句碑が立つ。
水原秋桜子の句碑
「樗(おうち)咲けり古郷波郷の邑(むら)かすむ」と刻まれる。
案内には「水原秋桜子 一八九二?一九八一 明治二五年?昭和五六年
昭和二七年(一九五九年)五月、「馬酔木」主宰の水原秋桜子が当地来遊、松山城から馬酔木同人五十崎古郷(明治二九年―昭和一〇年、松山市余戸中二丁目)と石田波郷(大正二年―昭和ⅣⅣ年、松山市西垣生)の生地を展望しての吟。「樗」は、せんだんの木。
昭和六三年五月二九日、松山馬酔木会(代表川口淀村)が馬酔木主宰の水原春郎を招き建立。古郷の長男朗氏と波郷の長兄和弘氏の二人が除幕。石は釣島産油石」とあり、その横にも「馬酔木派俳句の主宰水原秋桜子先生が昭和二十七年五月御来松の砌、松山城から馬酔木派同人五十崎古郷及び石田波郷の生地を展望されて詠まれた俳句である。昭和戊辰六十三年五月建之」と刻まれた石碑が立つ。 愛媛県唯一の秋桜子の句碑と言う
〇釣島産油石
釣島(つるしま)は高浜沖5キロに浮かぶ島。油石戸は領家変成岩類とある。大鹿村中央構造線博物館のページには「領家(りょうけ)変成帯は、中央構造線の内帯側に、関東から九州まで、続く。(ただし、紀伊半島西部から西では、中央構造線沿いの内帯側の幅10kmほどは、「和泉層群」が領家変成帯を覆っています。)領家の名前は、静岡県水窪(みさくぼ)にある地名「奥領家」に由来。
領家変成帯の岩石は、高温低圧型の広域変成岩と、花崗岩などの貫入岩(地下でゆっくり冷え固まった火成岩)
。 領家変成岩は、ジュラ紀付加体の岩石が、白亜紀に地下10km~15kmで高温低圧型の変成岩になり、のちに地表に露出したもの。砂岩や泥岩が高温低圧型の広域変成を受けたものは、白っぽい部分と黒っぽい部分が縞々になった「片麻岩」になっている。泥質片麻岩には黒雲母が多量に生じ、光が当たるとキラキラと金色に光る。変成度が高くなると、菫青石(きんせいせき)や珪線石(けいせんせき)を含むようになる」といった説明があった。
子規の句碑
正面玄関の左手に正岡子規の句碑。若鮎の二手になりて上りけり 案内板には「東京で遊学中の子規が、松山の名所十二か月を句作。重信川と石手川の合流する「出合の渡」付近の早春の頃をなつかしく思い起こしながらその景を詠んだもの。
明治二五年六月一七日、当時松山にいた河東碧梧桐にあてた手紙に「出合」と題して、「若鮎の二手になりて流れけり」として送られたが、のち『寒山落木』に若鮎の生態から「上りけり」と推敲した。昭和八年九月村上霽月書により建立」とある。
また句碑の裏には「由来 此處出合は重信川と石手川の合流点で明治四十年旧々出合橋(木橋)が架るまでは渡舟で往來した。
此の碑は正岡子規が伊予郡永田村の武市幡松を訪ねるに際し渡舟の中で詠んだ句である。子規を識る森河北が近隣の俳人有志とと相計り昭和八年出合橋北詰に東面して之を建立した。村上霽月翁の筆になる。次に昭和十三年旧出合橋架け替え竣工により橋詰東側に北面して移設した。続いて昭和五十二年出合大橋完成に依り河川敷内となる為、余戸有志協議の上此處に移したものである。昭和五十四年八月」と刻まれていた。
出合橋親柱と里程石
子規の句碑の左、重信川の堤防を走る道と屋敷の角に出合橋の親柱が残る。子規の句碑に刻まれた昭和十三年架け替え時の親柱とのこと。コンクリート造りの親柱の裏には「出合渡 札之辻より一里十四丁」と刻まれた里程石も立つ。比較的新しい、再建されたものだろう。
出合荘西側に標石と句碑
堤防の道を少し進み出合荘の西側に廻りこむと標石が立つ。「右松山道 左汽車場道」「大正十二年 六月「施主和田」といった文字が刻まれる。かつての松山道・大洲街道はこのあたりに出てきたのかもしれない。
「汽車場道」は不詳だが、現在の伊予鉄郡中線の前身である南予鉄道が郡中の有力商人によって明治29年(1896)、藤原(松山市駅近く)から郡中まで既に開業している。停車場は藤原・余戸・出合・松前・郡中というから、余戸の停車場への道を案内しているのだろうか。
標石の左手に句碑。「出合から手紙の末に鮎の丈」と刻まれた前田伍健の句碑と言う。

出合渡し跡
出合橋を渡り、南詰の堤防を少し下流に行くと重信川渡跡の木の柱が立つ。 重信川には五つの渡し場があり、上流から中川原、大間、出合、北川原、塩屋の渡しと続く。出合の渡しは、上述子規の句碑裏面に記されていたように、「明治四十年旧々出合橋(木橋)が架るまでは渡舟で往來した」とのことである。


玉生八幡神社の二里の里程標
出合橋を渡ると行政域は松山市から伊予郡松前(まさき)町に変わる。大洲街道は出合渡し跡より県道326号にでる。しばらく西進した後、南西に進む。国近川を渡ると道の左手に玉生(たもう)八幡神社があり、長い参道入り口の左手に「札之辻より二里」と刻まれた里程石が立つ。
玉生八幡神社
長い参道を進み龍の彫刻の施された拝殿にお参り。境内には絵馬堂もあり、江戸期の絵馬も残る。 社の案内には「玉生八幡大神社(たもうはちまんだいじんじゃ)
【鎮座地】〒791-3134 愛媛県伊予郡松前町大字西古泉536 旧伊予国 伊予郡
【御祭神】誉田別命(ほんだわけのみこと)第15代応神天皇
 (配祀)三女神(市杵嶋姫命、田心姫命、瑞津姫命)
    足仲彦命(第14代仲哀天皇)
    気長足姫命(神功皇后)
    玉生石神
【旧社格等】郷社
【御由緒】
仲哀天皇の9年(200)ころ、神功皇后が三韓におもむかれる時、当地を逍遥して、湧き出る清泉に戦勝を占い、布が濃紺に染まる吉兆にちなんでこの地を「濃染の里(こいぞめのさと)」と命名した。帰途、また船をとどめられ、天神の神託によって久欺美玉(くしみたま)を玉生林にまつったが、後世、郡司がここに社殿を造営して久欺美玉宮(くしみたまぐう)と称して崇拝した。 
文武天皇の慶雲4年(707)6月17日、伊予の豪族小千玉興(おちのたまおき)・玉純(たまずみ)が厳島神社より三女神を勧請して久欺美玉宮に合祀し、日女宮(ひめみや)と称した。古事記・日本書紀によると、三女神は、天照大神が素戔鳴と八坂瓊の勾玉に誓ってうまれた神で、海の神となっている。海上交通が盛んで航海安全の祈願が行われたのであろう。
清和天皇の貞観元年(859)の宇佐八幡宮の神霊を勧請し
うれしくも 松の梢に 立寄りて 久しくここに 民を守らん
との御神詠により日女宮に合祀して、玉生八幡大神宮と改め、後、玉生八幡大神社と改称した。
境内神社の玉生古宮(たもうふるみや)は、誉田別命をまつるが、12世紀から16世紀にかけて約400年間、昌農内玉生にあった石清水八幡東宝塔院領荘園「玉生荘(たもうのしょう)」に勧請していた古社である。
玉生八幡は、加藤嘉明の崇敬篤く、嘉明の松前城より松山城への移転は、玉生八幡の御宣託の夢占いによるものともいわれている。もとは、南面していたが、このころ西向きに改修されたという。 以来、産土大神として地域の尊崇がきわめて篤い。松前町教育委員会」とあった。
境内に造船王坪内壽男翁の寄進の玉垣や顕彰碑が立つ。航海安全の海の神、宗像三女神故のことだろう。

ひびけしさま
玉生八幡のさまの境内より参道を戻り、県道326号の一筋手前の道を左に折れ南進する。警察学校の東側を越えた四つ辻に「ひびけしさま」。祭神は金刀比羅大権現、瑜伽大権現。「昔、西小泉に火災あり、時の庄屋、野沢喜久三郎が火産霊神、火防神として祀った」とのこと。横に常夜灯も立つ。



義農作兵衛終焉の地
大洲街道は「ひびけしさま」の立つ夜辻を右折、県道326号・警察学校西交差点をを越え西進し、県道22号の一筋手前で左折し南進する。ほどなく道の左手、立派なお屋敷の斜め前、民家のブロック塀に並び「史跡 義農作兵衛終焉の地」と書かれた木の標識が立つ。
義農作兵衛
ここには義農作兵衛についての案内はなかったのだが、ここより南に下った松前港の内港に面した義農公園・義農神社に作兵衛之墓があり、そこには「「義農作兵衛の墓 作兵衛は、元禄元年(一六八八)二月一〇日筒井村の貧しい農家に生まれた。父作平二五歳、母ツル二三歳の一人子であった。貧しかったが勤勉な性格で、二三歳ころ貞淑な妻タマを迎え、昼は農業にはげみ、夜は縄をない、わらじをつくるなど家業に精出していた。
子規の句碑
作兵衛二四歳の時母ツルを失った。母の好物の飴を買うことができず野辺送りをしたことが作兵衛の生涯の心残りとなった。作兵衛二六歳の時長男作市が生まれ、二九歳で、長女カメが生まれた。母を失った悲しみは残ったが、このころの作兵衛は幸福であった。四〇歳ころまでには自作地三反三畝(約三三アール)、小作地一反五畝(約一五アール)を耕作する模範的な百姓となっていた。享保一六年(一七三一)七月一〇日、苦楽を共にしてきた妻を亡くした。タマ三八の若さであった。作兵衛は悲嘆にくれたが不屈の精神でますます農業に精出した。
柳原極堂の句碑
高浜虚子の句碑
享保一七年(一七三二)恐 るべき大飢饉が到来した。三ヶ月をこ す長 雨 と ウン カ の異常 発 生である。被害は西日本に集中したが、特に松前地区の損害は甚大であった。野に青草一本もなしといわれ餓死者は八百人に及んだ。同年六月一〇日父作平が餓死し、ついて八月五日長男作市か一八歳で餓死した。悲しみと飢えに打ちひしがれた作兵衛であったが、気力を振りしぼって野良仕事に出ていた。しかし、遂に倒れてしまい意識不明となったが、幸いにも隣人に助けられ、家に帰ることができた。
その時家には、約一斗(一八リットル)の麦種が残されていた。作兵衛はこのを食べることをすすめられたが、「農は国の本、種子は親の木、自分の命より尊い」と人々をさとし、享保一七年九月二三日、この種の俵を枕に餓死した。同年一〇月二日長女カメも父のあとを追うように餓死して、一家全員飢饉の犠牲となったのである。
作兵衛の死はたいへん人々を感動させた。安永五年(一七七六)、時の松山藩主松平定静は、丹波 成美に命じて、作兵衛の事績を永久に伝えるために碑文を作らせ、尾崎訥斎に清書させた。碑の建 立には、伊予郡二四ヶ村から三六〇余人が労力を奉仕し、安永六年四月一五日完成した。 碑石は雲母安山岩の自然石で、作兵衛の業績は碑陰文に簡潔明解に述べられている。昭和二八年 一二月二五日県指定史跡となった。
傍らの古い小墓石は享保一七年一二月二四日、藩命により作兵衛のためにつくられた墓である。 作兵衛は、その遺徳が顕彰され、明治一四年より瑞穂建功命として祀られている。松前町教育委員」会」とあった。
義農公園の東には義農神社もあり。その境内には上述「義農之墓」と刻まれた作兵衛の墓の他、作兵衛の像、また「大寺の可まどは冷へてきりぎりす」と刻まれた子規、「義農名は作兵衛と申し國の秋」と詠う高浜虚子「吹可れ来て鴉の下里し野分哉」と刻まれた柳原極堂の歌碑などが立つ。
「俳優 高倉健」と書かれた木の標識が桜の木の前に立っていた。高倉健が植えたものと言う。

筒井門礎石
「義農作兵衛終焉の地」の木の標識から南に少し進むと、道の右手にお堂があり、傍に「筒井門礎石」とあり、「ここは、筒井門と呼ばれる松前城の大手門があったところで現在その礎石が二か所に残っています。そのうちの一つは町道東寄りに見えている花こう岩で、もう一つは西側の地蔵尊の下に埋もれています。元々礎石は四か所にあったといわれていますが、他の二か所については所在不明になっています。
松前城の歴史は古く、その起源は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、その名が文献にあらわれるのは南北朝時代からです。以来、松前城に拠った武将も、南北朝の抗争などに巻きまれ次々と入れかわりました。豊臣秀吉による四国平定後は、天正十四(一五八八)年に松前城に入城した栗野木工頭秀用、次いで文禄四(一五九五)年に淡路国志智城主一万五千石の加藤嘉明が六万石を与えられ、松前城の最後の城主となりました。
松前城に入城した嘉明は、城郭の内外を拡充整備するとともに松前を乱流していた伊予川とその河口の港の大改修に取りかかりました。慶長二(一五九七)年には秀吉の命により二千四百余りの兵を率いて朝鮮に出兵し、 十万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方として戦った関ヶ原の合戦でも戦功をあげ二十万石に加増された嘉明は、慶長八(一六〇三)年、新たに築城した松山城に移り松前城は廃城とされました。
松前城に使われていた石垣や櫓などの資材は、松山城の築城に使われ、筒井門もこのとき、松前城から移されたものです。 廃城後の松前城は「古城」と呼ばれ、その跡地は次第に農地化され、明治期に行われた耕地整理によって地形は一変し古城跡は消滅しこの石は、ここにかつて松前城の大手門があったあかしてあり、昭和四十四(一九六九)年、史跡として松前町文化財に指定しました」とあった。 案内には「町道東寄りに見えている花こう岩」とあるが、それらしき石は見当たらない。お堂の右前に丸い石が置かれているが、それが礎石なのだろうか。はっきりしない。
松前城址
筒井門礎石のある通りの一筋西側、東レ愛媛工場の東側、県道22号脇に「松前城跡」の石碑、小高い盛り土の上に「松前城蹟」の石碑が立っている。案内には「この辺りは、古くに松前城があったところでこの碑は、松前城の歴史を伝えるため、大正十四(一九二七年に建立したものです。台額は旧陸軍大将秋山好古の書で、撰文は郷土史研究家西園寺源造によるものです。
松前城の歴史は古く、その紀元は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、松前城の名が初めて文献にあらわれるのは、大山祇神社文書の「祝安親軍忠状」による祝氏の軍功報告においてです。それによると建武三(一三三六)年、松前城にたてこもる南朝方の合田弥太郎貞遠を北朝方の祝氏が攻め落とした旨記されていますので、お城はすでに南北朝時代には存在していたことになります。
松城に拠った武将も湊川の戦いには北朝側として戦い楠木正成を破った大森彦七やその大森氏を滅ぼした荏原の平岡氏なとか次々に入れかわりました。
やがて南北朝時代が終わり、室町時代を経て戦国期になると、松前城は河野氏の出城として西方海上防衛の前線基地の役割を果たすこととなり、河野氏家臣の栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻してきたため、前城では攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
天正十三(一五八五)年、豊臣秀吉による四国平定後は河野氏の当主通直は夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正十六(一五八八)年に松前城に入城した粟野木工頭秀用の後を受けて文禄四(一五九五)年、淡路国志智城主一万五千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予四郡六万石の領主として松前弦の最後の城主となりました。松前城に入城した嘉明は城内にあってこの城の起源と深くかかわってきた性尋寺を金蓮寺として、今の西古泉に移したうえ城郭内外の拡充整備を行いました。同時に松前を乱流していた伊予川とその川口の港の大改修に取りかかりました。慶長二(一五九七)年には秀吉の命により、二千四百余の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功て十万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方とて戦った関ヶの合戦でも戦功をあげ、二十万石に加増され慶長八(一六〇三)年新たに築城した松山城に移り松前城は廃城となりました。
松前城で使われていた石垣や櫓などの資材材は、松山城の築城に使われ、廃城となった松前城は「古城」と呼ばれますがその跡地は次第に農地化され明治期におこなわれた耕地整理により地形は一変しました 。唯一、一の丸、二の丸跡に残されていた龍燈の松もも大正十一(一九二二)年に倒壊し、古城跡は消滅しました。 この松前城址は、龍燈の松があったところで、昭和四十四(一九六九)年に史跡として松前町文化財に指定しました 松前町教育委員会」とあった。
また、塙団右衛門の案内もあり、「塙団右衛門 (一五五〇頃~一六一五) 遠江に生まれたと言われ、名は直之。 十八歳の頃、織田信長に仕えた。 義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。 その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄をたてて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。 文禄の役(一五九二年) では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。
文禄四(一五九五)年、嘉明が伊予国松前城に六万石の大名として封ぜられたときには団右衛門も松前に住んでいたのであろう。
関ヶ原の戦い(一六〇〇年)では、 嘉明の取って置きの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。 奮戦したにもかかわらず、 嘉明に 「生涯、人の将たり得ず」とひどく責められた。 団右衛門は納得できず、「遂に、江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鴎と床柱に墨書し城を去ったといわれている。 また、「義農之墓」に並んで後年建てられた、平田東助子爵撰文の「義農頌徳碑」 に使われた石は、団右衛門が松前を去る時に振り返った橋に使われていた石であるとして名付けられた「団右衛門見返りの石」という。
大坂冬の陣(一六一四年)では、 嘉明が東軍についたのに対し、団右衛門は豊臣方として本町橋(現、大阪市中央区での夜襲戦を指揮し快勝するなど活躍した。夏の陣では勇敢に戦い豊臣方大将の最初の戦死者になったという。 松前町教育委員会」とあった。
伊予川の改修についてはこのページの記事を参照してください。

瀧姫神社
南に進むと県道22号に合流。松前港の外港と内港を隔てる夫婦橋を渡る。地図に松前港の外港の細長ぐ突き出た岸壁に瀧姫神社が見える。日招八幡でメモした「おたたさん」の名前の由来ともされる瀧姫さまであろうとちょっと立ち寄り。
瀧姫神社
岸壁の中ほど、松の木の下に「瀧姫神社」と刻まれた石碑と小さな社が三つある。そのひとつが 瀧姫神社。「珍味発祥の地 松前町」と刻まれた石碑も立っていた。
石碑傍にあった案内には、「松前港と天保山 中世から近世にかけて、関西随一の良港といわれたこの港は、加藤嘉明の命で足立重信が軍港として整備改修している。慶長二(一五九七)年二月、嘉明は、ここから、二千四百の将兵を率いて朝鮮へ出兵した。
江戸時代には、参勤交代の御座船 の水主*、大坂上げ米の津出し港」として賑わった。藩主から「漁業上の特権を与えられて以来、松前浦衆たちは、男は海へ、女はおたた行商にはずみ、労力を誇ってきた。
明治以降は「からつ船」通称「わいた船」に儀助煮・干魚、また砥部の陶磁器などを積み込んで、北海道から大陸まで行商した。対岸には「問屋」が建ち並んで活況を呈した。 この天保山旧港埠頭は、砂州の上に海底の土砂を浚い積み上げた山で、港の目標となっていた。 埠頭には漁師の守護神として、南から瀧姫神社と厄除礼、龍王社の三社がある。
この辺りが藩政時代から続いた「御面雨乞い」道中(現、東温市河之内の表川に在る雨滝さんまで)の出発地点である。御用桶を頭上に神社前で舞う、おたた雨乞い手踊りは有名であった。
松前町教育委員会御 管理神社 住吉神社(浜)」とあった。
雨乞いの雨滝さんとは、川の内町の河内神社に合祀されたという「三島雨滝神社」 のことのよう。特段瀧姫に関する説明はなかったが、それは上述メモで概要はわかっているのだが、ここで何だこれ?が現れた。「御免雨乞い」って?
チェックすると国土交通省の重信川のページに以下の記述があった;
御免雨乞い
松前地区の雨乞いは、参籠・踊りも行われたと思われますが、大干ばつには、水神に汚れたもの、嫌いなものをかけ、怒らせ、あばれて雨を降らせてもらう方法がとられたもので、「御面 雨乞い」行事です。
この御面雨乞いは、藩政時代、東温市の野田・牛渕の両三嶋宮(徳威三嶋宮・浮嶋神社)と松前町浜との間で行われました。
御面は、推古天皇21 年(613)8 月15 日、乎智益躬が大三島大明神を祈願し、舞楽を奉納した時、海上に小船が出現、しらべてみたところ舟中に人なく、3 個の古面 が置かれていました。
乎智益躬は奉納舞楽の賜と大変喜び、宇城名郷久米部王楯明宮に奉仕しました。その後、兵火を避けて河之内山中にうつし、さらに雨瀧三嶋宮にうつし、享保17 年(1732)5 月、寺社奉行の命により、野田・牛渕両三嶋宮に隔年遷座するようになった由緒深い古面 です」とあった。古面>御面ということだろう。雨瀧三嶋宮とは上述の如く東温市の惣河内神社に合祀されたという「三島雨滝神社」のことのようだ。徳威三嶋宮・浮嶋神社も共に東温市に鎮座する。

豊園寺前の境界石
南にしばらく進むと、豊圓寺前の四つ辻に境界石が立つ。「従是南大洲領」と刻まれる。傍に「藩境の碑」の案内があり、「藩境の碑 (高さ一・八メートル) 下吾川 北西原 「従是南大洲領」と刻まれている、こ れは藩政の時代の大洲藩と松山藩の境界碑で寛永十二年(一六三五)松山藩の郡中地方と大洲藩の風早地方との替地が行われたとき建立されたものとみられる。 伊予市と松前町との境の辻の松前町側にあったものである。行政区域も伊予郡松前町と伊予市の境となっている。
昭和二十五年(一九五〇)速道路の拡幅により移設され 平成十四年(二〇〇二)まで、伊予市灘町の彩浜館前庭にあった。中江藤樹の筆跡であると伝えられているが定かではない。 平成十四年伊予市教育委員会へ 松前町教育委員会」とある。
松山藩から大洲藩への替地の経緯
説明にあるようにこの境界石から南も、元は松山藩領であったが替地により大洲藩領となったものである。その経緯は「えひめの記憶」に「急死した松山藩主蒲生忠知に嗣子がなく、お家取り潰しとなったため、大洲藩二代藩主・加藤泰興が次の松山藩主である松平定行入部まで松山城を預かった。このとき泰興は、飛び地のため行政統治上不便だった風早郡・桑村郡の一部と、伊予郡・浮穴郡の替地(領地交換)を幕府に願い出て許され、飛び地を解消することができた。大洲藩領となった伊予郡、浮穴郡の地は「御替地」と呼ばれることとなった。「御替地」は寛永12年(1635)までにほぼ完了した。
風早郡は旧北条市(現松山市)の辺り、桑村は旧周桑郡(現西条市)。四国遍路歩きの途次、出張橋に出合い、チェックしたとき、そこが大洲藩の役人が出張したことに由来する事を知り、大洲藩領であったことを初めて知ったことがある。
で、その地と替地とした伊予郡、浮穴郡であるが、「えひめの記憶」に大洲領となった替地としての村は伊予郡の17村、浮穴郡の20村が記載されている。明治初年頃の記録としても、灘町、湊町、三島(現伊予市)は大洲藩領、市場町、稲荷村(現伊予市の南部)は大洲藩とその支藩である新谷藩領、大平村(現伊予市の山間部)は大洲藩とその支藩である新谷藩領、黒田村(現松前町)は松山藩・大洲藩、浮穴郡砥部村は大洲藩領となっている。大雑把に言って現在の伊予市、松前町の南部黒田の辺り、そして砥部町一帯といったところだろう。因みに砥部町は現在伊予郡砥部町だが藩政期は浮穴郡の一部であったよう。

湊町の大師堂
県道22号は伊予鉄道郡抽線新川駅を越え、大谷川を渡ると道の右手に大師堂が建つ。正面に竜宮様式の鐘楼門。上部に並ぶ金剛力士についての案内が立つ。
「伊予市指定文化財 有形文化財 江山焼き金剛力士像 (高さ 98センチメートル) 湊町 大師堂 槙鹿蔵(号江山)<1860>が焼いて、奉納安置したものである。 焼物の金剛力士像は珍しく、江山の作品としては大作で力強さの中に親しみを感じさせるものである。 江山は明治より大正にかけて郡中殿町に住み、庭に窯を築いて焼いていた。その作品は、楽焼に似て素朴で風雅な趣があり、人々に珍重された作品には、茶器・花器・人形などが多く、中央の文人や政治家との交遊も少なくなかった。昭和四十四年四月一日 指定伊予市教育委員会」とあった。
尼弘法
<1860> この大師堂にまつわる話が「えひめの記憶」にあった。要点をまとめると、「この地に下女として働く女性がいた。弘法大師を敬い、よく働くこともあり、主人は四国巡礼に出かけることを勧めた。 巡礼を終え主人の元に帰って数日経ったある日、夢枕に弘法大師が現れ、「高浜海岸の海中にある大師像を拾い上げるべし、さすれば望みは叶う」とのご託宣。早速高浜の海岸に向かい、海中に仏像を見る。漁師が引き上げようとするが上がらない。と、この女性が海に飛び込み軽々と引き上げ、田舎の大平まで背負って帰ろうとしたのだが、この大師堂のあるところで急に重くなり一歩も歩けなくなった、と。これはこの地に大師像を祀るべしとのお大師さんのお告げであろうとお堂を建て大師像を祀った。
下女はその後出家しお大師さんにお仕えした。ために、町の人々は尼弘法と呼び親しんだ、と。大師堂の左手には「妙円さま」という名で、この尼弘法が祭られていて、今も、お参りする人が絶えない。位牌には妙円信尼位とあり、一七六二(宝暦一二)年九月一日没(死)とある」と。
郡中三町
寛永12年(1635)までに替地はほぼ完了し、この辺りはその後長く「御替地」と呼ばれていたが 文化十四年(一八一七)に布達があり、郡中と呼ばれるようになった。
郡中の由来は大洲藩は、大洲城下や内子、そしてその周辺の喜多郡・浮穴郡を「上郡」、伊予灘に浮かぶ温泉郡中島町の島々の領地を「下郡」と呼び、御替地はその間にあるということで「群中」と呼ぶことになった。
当初は御替地一帯を郡中と呼んでいたが、群中の指す地域は時を経るごとに縮小し、現在の伊予市の中心部にある、灘町、湊町、三島町に地域限定されるようになり、その後その三町は郡中三町と呼ばれるようになった。なお地名は明治の市町村令により伊予郡湊町、伊予郡灘町など呼ばれたが、明治22年(1989)合併し郡中町となり、昭和30年(1955)近隣の村と合併し伊予市となり、現在は伊予市湊町、伊予市灘町、伊予市三島町と称される。

湊町
藤村石油邸
<1860> 湊町筋を進む。道筋には旧家が並ぶ。「えひめの記憶」には「下吾川村のうち竿先原(戦場原・牛飼原)に、替地とともに藩主泰興は漁師町とするため家一〇軒を取り立てたが、衰えて三軒になってしまった。上灘村の網元(四郎左衛門の父)が願ってここに住み、網子の者などがふえて繁盛し町並みとなった。領内どこででも網引きが許され、この網は諸役運上まで免除された。はじめ小川町といったが火災が多かったので、一七三五(享保二〇)年願って湊町と改めた(『郡中町郷土誌』)」とある。 町家の地割は奥行が60間(およそ117m)もあったという。大坂の町屋の奥行20間、京都で30間というから、この奥行の長さは郡中の町屋の特徴ともなっている。とはいうものの、大商人であればともかく。多くは表に屋敷を立て、奥は畑地としていたと言う。
和泉屋と砥部焼
仲田家
濱田屋
<1860> 明治時代建築の油問屋・伝統的建築物である藤村石油邸や、大正10年築の「国之富」と書かれたケヤキの屋号が今に残る旧酒造の仲田家,湊町南端には未だ食堂として開業している濱田屋など古い建物の残るこの湊町にはかつて砥石問屋として栄えた大坂にある和泉屋の出店があった。建物は平成11年(1999)に取り壊されて今はない。
この砥石問屋の和泉屋は砥部焼の発展に大きく寄与したと言う。砥石の産地は砥部焼で知られる砥部にあり、良質の砥石を扱うため大坂の和泉屋が寛保年間(1740)頃、湊町に出店を設け、商いが盛んに行われた。その間、和泉屋治兵衛は、砥石のぐずが磁器の原料になることを知り、大洲藩に伊予砥の屑石を使って磁器を生産することを進言した。これが砥部焼きの始まりという。
砥石採掘で大量に出る砥石の捨て屑を活用し始まった砥部焼きであるが、鉄分が多く当初は良質の陶器はつくることができなかった。が、文政元年(1818)砥部川登で陶石が発見され、良質の陶器が生産されるようになり、大洲藩またその支藩の新谷藩は役所を造り、販路を拡大することに努めた。和泉屋は砥石問屋に徹し、砥部焼の販売に関与することはなかったとのことである。

灘町の旧宮内邸
<1860> 濱田屋を越えると灘町に入る。灘町に入るとすぐ道の右手に旧宮内邸。元文3 年(1738) に建てられた主屋の屋根には破風と鬼瓦、家紋の入った瓦・うだつ・虫籠窓、店の大戸や出格子など、往時の大商家の趣が残る。往時千坪の敷地を取り囲むように塀がめぐらされていたと言う。宮内家は幕府巡検使、伊能忠敬の測量隊の本陣でもあった。現在は「町の縁側ミュゼ灘屋」と呼ばれる町のコミュニティスペースとなっている。
灘町
郡中の開発の嚆矢はこの宮内家とされる。替地が実現した寛永12年(1635)藩は灘町辺りに御蔵を建てた。この地を大洲藩の商業、流通の拠点とする政策があったのだろう。そんな折、翌寛永13年(1636)、上灘の宮内九右衛門、清兵衛兄弟が町づくりを藩に申し出る。当時牛飼ヶ原と呼ばれた海岸の松林を開発し町づくりが始まる。兄弟の出身地に因んで屋号は「灘屋」、町も屋号から灘町と名づけられた。また、湊町にも上述の如く上灘より網元が移り住み、町並みが形成されるようになった。 最初、土地や家屋はすべて灘屋の所有だったが、その後、他家に譲ったり、他から移住を希望する人たちに建築資材の竹木を与えたので、しだいに町並みができ、繁盛していった、と。
この間、藩は「諸々御免地」という処置を撮り、開発した新田に税をかけない、また夫役の負担をかけないといった優遇策を開発民に与えた。船運に欠かせない湊の普請には工事資金の融資もおこなっている。その結果、町は米、和紙、和蝋、綿、砥石の流通拠点として栄えていった。この地が栄えた因は藩政と民力のコンビネーションの結果と推察する
藩政期以降の郡中の商人
上述の如く藩政期に商いを盛んにおこない富を得た郡中の商人は、明治期になっても商業活動は衰えることもなかったようで、『郡中町屋物語 (アトラス出版)』には明治37年頃の様子を以下の如く岸ている;「明治三十七年に高浜虚子が書いた『松山道後案内』という当時のガイドブックをみると、郡中は伊予砥、陶器、砂糖(黒田、松前のさとうきび「)、米、木材(中山や小田)など物資の集積地として栄え、「港には船舶の出入繁く、海陸共に運輸交通の便少なくない。 郡役所・町役場・警察署・会社・銀行等があって戸数は一千余。旅館等の設備も整っている」とあって、その繁栄ぶりがよくわかります」と記す。
同書には、郡中が最も栄えたのは明治30年前後とされるが、その間、富を得た郡中の商人たちは「郡中財閥」なとども呼ばれ、銀行を創設し、汽船会社を設立し700トン級の鉄鋼船の竣工させ、伊予鉄郡中線の前身である南予鉄道を設立し松山と郡中を結ぶなど積極的は経済活動を行った。 これらの経済活動を支えたのは、当時非常に有力な銀行であった大坂の七九銀行の当地の支店であったが、明治34年(1901)、七九銀行が恐慌で倒産するに至り、資金供給が絶たれることとなった。郡中が最も栄えたのは明治30年前後と言うのはこのような状況を踏まえてのことだろう。

山惣商店
山惣商店
法昌寺
<1860>南に下ると道の左手に山惣商店。かつては旅籠であったようだが、現在は醤油と肥料を商っているように見える。更に南に進むと法昌寺のあたりで伊予市灘町から伊予市米湊に入る。
今回のメモはここまで、次回は犬寄峠を越えて中山へと進む。

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