木曜日, 1月 09, 2025

トルコの旅 (1):日本発トルコ着・イスタンブール着。翌日エフィソス見学

11月にトルコに行くことになった。
JTBの「往復直行便!! 連泊3回でめぐるトルコ大周遊10日間」というツアー。国内・海外旅行でツアー旅行ははじめてである。
スケジュールは:
第一日目:11月18日(月)成田を午前10時15分出発・12時間ほどのフライトではあるが6時間の時差もあり同日19:05分イスタンブール着。当日はイスタンブール・泊。これが第一日目
第二日目:イスタンブールから1時間10分ほどのフライトでイズミール(Izmir)へ移動。その足で1時間ほどバスに乗りエフィソス(英語表記でEphisos)へ。ローマ時代の遺跡を2時間ほど見学し、再びバスに3時間半ほど揺られパムッカレ(Pamukkale)に向かい、バムッカレ泊。
第三日目:午前は石灰棚とブルーの温泉水で知られるパムッカレ観光。2時間ほど観光した後、午後はホテルでゆっくり過ごすという段取り。 
第四日目:バムッカレを出発し、約660キロ、9時間をかけてカッパドキア(Kapadokya)に移動。カッパドキア泊
第五日目:カッパドキア観光。カイマクル地下都市、ギョレメ野外博物館などを見学。カッパドキア泊
第六日目:カッパドキア観光。カッパドキア泊
第七日目:カッパドキアを離れ、近くのカイセリ(Kayseri)の空港からイスタンブールへ移動。1時間半ほどのフライトで午後はイスタンブール観光
第八日目:終日イスタンブール(Istanbl)観光。アヤソフィア、トプカピ宮殿、ブルーモスクなどを訪れる。イスタンブール泊
第九日目:午前、ボスポラス海峡クルーズ午後15時30分イスタンブール空港より成田に向かう
第十日目:午前8時40分成田着
連泊が多く、結構ゆったりとしたスケジュールとなっていた。

トルコにはおよそ半世紀前、二十歳代前半に訪れたことがある。そのときは数年に及ぶ放浪の旅の帰途であり、また当時インドとパキスタンがいつ戦端を開くかわからないといった事情もあり、トルコを廻る気持ちの余裕もなく、イスタンブールからアンカラ(Ankara)、エルズルム(Erzurm)と列車とバスを乗り継ぎイランへと駆け足で走り抜けただけ。車窓から見る荒涼とした高地の景観、ノアの箱舟の伝説の残るアララット山の景観、そして貧しい人々の日々に営みしか記憶になかったのだが、今回旅をして結構印象が変わった。
国は経済発展し、高速道路が縦横に走り、人々の暮らしも豊になっていた。そして、それよりなにより、トルコってギリシャ、ローマ、ビザンツ、セルジュークやオスマン帝国トルコといった異なる文明・民族の歴史のレイヤーに彩られた魅力的な国であった。世界遺産も日本に倍近くもあるとのこと。トルコには年間日本に外国人観光客のおよそ倍、訪れる6000万人以上の外国からの観光客が訪れるということが充分納得することができた旅となった。
 

出発前の準備
久しぶりの海外旅行。機内預け入れや機内持ち込み手荷物の規則などセキュリティの観点から結構厳しくなっていた。が、事前準部でもっとも戸惑ったのはスマホの海外でのネットワーク設定。会社の出張でしばしば海外に出かけていた頃はスマホなどもなく、海外でスマホをつかう手段をどうするかで少々悩む。
選択肢は1.現在使っているスマホの海外ローミングサービス。2.ポケットWIFI。3.海外用シムカードの設定・使用。4.海外用eシムの設定・使用
このうち1.の海外ローミングサービスは設定は、簡単そうだが1日1000円ほどと値段が高い。2.のポケットWIFIは接続設定といった手間もなく結構いい。が、WIFIルータやバッテリーを携行する必要があり、少々荷物になる。が、最初はこれがいいかとも思っていた。
というのはシムカードとかeシムってなんのことがさっぱりわからなかったから。
で、You Tubeなどで調べてみると、スマホには回線接続のためのシムカードというものが入っいることがわかった。で、海外でスマホをネットと繋ぐには、旅行先地域をカバーする回線が設定されたシムカードに交換しなければならない。交換にはスマホにあるシムカードのスロットを抜き出し、シムカード(物理シムカード)を交換することになる。
eシムとは最近のスマホには物理シムカードを交換することなく、スマホに内臓されたeシムを購入した海外用eシムに書き換えるだけで、海外で使用できるとのこと。 私のiphoneは古くeシムは使えないが、嫁さんのはeシムに対応している。
結局私はシムカード、嫁さんはeシムでネットワーク設定することにした。アマゾンでトルコ用シム、eシムを購入し、スマホのシムロック解除をおこない、恐るおそるシムカードを交換、嫁さんはネット上だけで購入・設定を終えた。現地でちゃんとつながるかどうか不安ではあったが、問題なくつながり、ネットを活用しながら旅を続けることができた。


第一日目:成田発・イスタンブール着
成田発
成田空港の飛行機出発は10時15分。ターキッシュ・エアラインズ。集合は2時間前である午前8時15分。余裕を見て新宿発5時55分・成田着7時19分の成田エクスプレス1号を予約。 ターキッシュエアラインズは成田第一ターミナル。嫁さんがJALの手荷物宅配・配送サービスを頼んでいてくれたため重たい荷物を転がすことなく集合場所に到着した。JALの手荷物宅配・配送サービスの事務所はJTBのカウンター傍にあった。
集合し手続きを済ませターキッシュエアラインズの搭乗ゲートに向かう。が。ここで出発遅れの案内。結局3時間近く待つことになった。遅延の理由については一切説明されることはなかった。
結構な遅れで出発。12時間強のフライドではあるが、機内食も予想以上においしく、映画を見ながら、少々眠りに落ちる間にイスタンブールに到着した。飛行経路は中国領空から中央アジア、黒海上空をと飛びイスタンブールに降り立ったように思う。空港は黒海に面していた。
イスタンブール着
当日は様々な人種で大混雑だった by Wiki
イスタンブール空港は予想以上の巨大な空港であった。2018年に完成した世界最大級の空港のひとつで6本の滑走路が運用されている。巨大なショッピングエリア、そこに集まる数多くの異なる人種。アジアとヨーロッパに繋がるハブ空港の印象を強くした。 入国検査を終え、バスでホテルに移動。高速道路を走る。到着予定時刻午後6時5分から3時間程遅れ、空港を離れたのは午後10時頃ではあったが数多くの車が走る。50数年前の貧しいトルコの印象はここで消えてしまった。現在は少し停滞しているようだが、それでも経済発展を遂げた国の感が強い。
1970年頃、当時は日本と欧州諸国にワーキングホリデイビザ協定などもなく、旅を続けるために仕方なくドイツで不法就労していたころ、アルバイトを終えてアパートへ帰る時、まわりはトルコ移民しかいなかったように感じた。
現地のガイドさんの説明によれば、そのトルコが、現在300万人ほどの他国からの移民を受け入れているという。50年という歳月での世のありようの変化を感じながら宿泊先のNova Plaza Prime Hotelに。空港から30キロ強、イスタンブールの旧市街とは45キロ程離れたところにあった。
アタチュルク空港
新空港が使われるまで国際空港として機能していた。名前は初代大統領のケマル・アタチュルクから。
市街から25キロほどのところにあり現在は貨物便、および首都アンカラなどからのVIP専用空港として使われているとのことである。空港はマルマラ海に面している。
マルマラ海
マルマラ海(Marmara Sea)は、トルコのアジア側とヨーロッパ側の間にある内海。北の黒海とはボスポラス海峡、南のエーゲ海(地中海)とはダーダネルス海峡を通じて繋がっている。

第二日目:イスタンブールからイズミールを経由しエフィソスへ

早朝5時にホテルをでてイスタンブール空港へ。午前8時発のイズミールへのターキッシュエアラインズに乗る。午前9時10分イズミール着。
イズミール空港からはバスでエフィソスに向かう。
イズミール(Izmir)
イズミール by Google Map
イズミールは、トルコ西部に位置するエーゲ海面するに、トルコ第三の都市。人口は450万人を超える美しい港町であると同時に、歴史的にも文化的にも豊かな背景を持つ場所である。
イズミールの歴史は紀元前3000年頃まで遡る。当時は「スミルナ(Smyrna)」として知られていた。
ギリシャ時代:紀元前1000年頃、ギリシャ人がこの地域を支配し、スミルナは重要な貿易港として繁栄した。
特にイオニア文化の中心地として知られ、ホメロス(『イリアス』と『オデュッセイア』の著者)がこの地で生まれたと伝えられている。
イオニア文化を形成したイオニア人とはギリシャ人の一派であり、エーゲ海沿岸(現在のトルコ西岸)やイオニア海周辺の島々に定住し、特に小アジア(アナトリア)のイオニア地方で大きな影響を持っていた人々のことである。 
イズミールのアゴラ遺跡 by Google Map
ヘレニズムとローマ帝国時代:アレクサンドロス大王の時代に再建され、古代ローマ時代には経済と文化の中心地としてさらなる発展を遂げた。
ビザンティン帝国時代:395年、ローマ帝国の分裂後、ビザンティン帝国(ビザンツ帝国、東ローマ帝国)の一部となったが、この時代にはイスラム帝国(正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝)などの外敵の侵攻に苦しむことになる。地中海地域における戦略的な港湾都市であったがゆえのことだろう。
セルジューク朝とオスマン帝国時代:11世紀にはセルジューク朝が支配し、その後13世紀末にはオスマン帝国の一部となった。
セルジューク朝トルコからオスマン帝国トルコにいたるまでの間、第一回十字軍がこの地でセルジューク朝トルコと交戦、12世紀から13世紀にかけてビザンティン帝国の衰退に伴い、イタリアの海洋都市国家(ジェノヴァやヴェネツィア)がエーゲ海貿易に進出し、海上交易の重要拠点であるスミルナは、これらの都市国家との争いが起こっている。
13世紀後半から14世紀初頭にはモンゴルの影響を受けた周辺のトルコ系勢力(ベイリク)による侵攻が起こりビザンティン帝国が衰退する中、西アナトリアにはトルコ系の小侯国(ベイリク)がいくつか成立した。そのひとつ、アイディン侯国はスミルナを占領し、この地域を拠点にエーゲ海のビザンティン領を攻撃。が、後に十字軍やビザンティン帝国によって反撃される。
1344年、ヴェネツィアやジェノヴァを中心とした十字軍がスミルナを攻撃。地中海のイスラム勢力を排除することを目的とし、十字軍がスミルナを一時的に占領したが、最終的にはトルコ系勢力に奪還された。
こうした経緯を経てビザンティン帝国が1453年のコンスタンティノープル陥落で滅びた後、オスマン帝国がアナトリア全域を統一。スミルナもその一部となり、以後「イズミール」としてオスマン帝国の重要な港湾都市となった。
オスマン帝国時代にスミルナが「イズミール(Izmir)」と呼ばれるようになった。 イズミールとなった所以は「スミルナ」がアラビア語やトルコ語の音韻体系に合うように変化し、「イズミール」となったとの説などがあるが定着したものはない。
因みに、スミルナの意味であるが、定説はない。リシャ語で「没薬:香料や薬用として使われる樹脂で、古代における貴重な貿易品」に因るとの説、またギリシャ神話に登場する「スミルナ:に因るとの説などがある。
19世紀の繁栄:イズミール:多国籍な商業都市として知られ、トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人などが共存する国際的な雰囲気を持つ都市として繁栄した。 
トルコ独立戦争と大火:1922年、トルコ独立戦争の終盤にギリシャ軍が撤退する際、都市は大火に見舞われ、多くの歴史的建造物が失われた。ちなみにトルコ独立戦争って、オスマン帝国からの独立戦争ではなく、第一次世界大戦の敗戦国となったオスマン帝国の崩壊後に起きたトルコ民族の主権と領土を守るための戦争であり、ギリシャ、イギリス・フランス、アルメニア、クルド勢力など外国勢力からの独立を勝ち取る戦いである。この戦争の結果、オスマン帝国が完全に終焉を迎え、トルコ共和国が誕生した。
現在のイズミール:トルコ有数の貿易港として、輸出入が盛んに行われ。農業、工業、観光業が経済の主要な柱となるが、特にオリーブオイル、ワイン、綿花などの生産で有名である。

イズミール(スミルナ)は、その海洋交易上の戦略的な位置ゆえに、アラブ人、セルジューク朝、トルコ系ベイリク、十字軍、ジェノヴァ人など、さまざまな勢力の侵攻や支配を経験した。これらの出来事が積み重なり、現在のイズミールの多文化的で豊かな歴史遺産が形成されたとのことである。


エフィソス(トルコ表記Ephesus。英語表記はEphisoso)) の遺跡

イズミールの空港からエフィソスの遺跡までは南へ65キロ、約1時間のバス移動となる。WIFI完備、USB充電ソケットもついており快適なバスの旅であった。

エフィソスの遺跡に到着。南の入口から遺跡に入る。街角の一角に建つ建築遺跡程度だろうと思っていたのだが、結構広い。丘とその裾野にかけて建物跡、建物を支えたであろう幾多の円柱が整備され、あるいは無造作にといった状態で立ち並ぶ。




ヴァリウスの浴場 :Baths of Varius
石の敷き詰められた道を北に進むとドーム型2階建てのファサード(建築物の正面部分、特に外観デザインを指す用語 )を残す崩壊した遺構がある。ヴァリウスの浴場 (Baths of Varius)跡とのこと。エフェソスの Baths of Varius(バリウス浴場) は、エフェソス遺跡に残る古代ローマ時代の公共浴場の一つで、都市生活の中心を支える重要な施設であった。
「バリウス(Varius)」という名前は、この浴場を建設または修復した裕福な個人や家族の名前に由来すると考えられている。
初期の建設はヘレニズム時代(紀元前4世紀)に遡る可能性があるが、現在残る遺構の大部分は、ローマ時代(1~2世紀)に改築されたものとされる。浴場は大理石を多用して建設され、豪華な装飾や広々とした構造を備えていたようだ。そのため、「大理石浴場(Marble Bath)」と呼ばれることもある。
バリウス浴場は、典型的なローマ式浴場の設計に従って建設されており、カリダリウム(Caldarium:高温の蒸気浴や温水浴を楽しむエリア。床下暖房(ハイポコースト)が設置され、暖房設備が整っていた)、テピダリウム(Tepidarium:温暖な部屋で、体を徐々に温めたり冷ましたりするための中温エリア)、フリギダリウム(Frigidarium:冷水浴を行うエリアで、運動後に体を冷やすために利用された)、そしてプールや運動場(Palaestra:浴場内には、屋外または屋内で運動を行うスペースも設けられていた)といったセクションにわかれていたようだ。崩れた遺構からは同時の面影を想像する術はない。
ローマの浴場は、単なる入浴の場ではなく、市民の社交や娯楽、ビジネスの場として機能していた。バリウス浴場でも、市民たちは談笑したり、ビジネス交渉を行ったり、運動を楽しむなど、さまざまな目的で集まっていた。
浴場には、ローマの高度な水道技術が導入されており、都市内の水道網から清潔な水が供給されていた。また、浴場の廃水は地下の排水システムを通じて効率的に処理されていた。下水道も整備されていたということだ。
ローマ時代にエフェソスが繁栄する中、こうした公共浴場は都市のインフラとして整備され、帝国全体にわたる都市文化の一部として機能していた。しかし、7世紀以降、エフェソスが港の閉塞や地震、アラブの侵攻などで衰退する中で、バリウス浴場も使用されなくなった。
バリウス浴場は現在、エフェソス遺跡の一部として保存されているが、年月を経て多くの部分が崩壊している。一部のモザイク床や壁の装飾、建築構造が残っており、当時の豪華なデザインや技術を垣間見ることができる。

音楽堂:Odeon
ヴァリウスの浴場( Baths of Varius)の前で道は左に折れ西に向かう。道は英語表記でKuretes Street(キュレトス通り)と呼ばれている。道の右手のピオンの丘に円形の劇場跡が見える。音楽堂跡とのこと。
「キュレトス」とは、エフェソスの宗教的・政治的な役職者である「キュレテス(Curetes)」に由来する。彼らは後述する「アルテミス神殿」の祭司として重要な役割を担っており、この通りの名前は彼らにちなんで名付けられた。
オデオンは、約1,500人を収容できる小規模な劇場で、「小劇場」とも呼ばれていた。 聴衆席、半円形舞台、舞台の3つの部分から構成され、聴衆席は高度な職人技を駆使し大理石で作られている。
音楽堂へのゲート
当初はエフェソスの有名な一族、と妻フラビア・パピアーナによって会議堂として建設されたが、後に音楽会や300人ほどの市議会の人が集まるなど、多目的に利用された。
雨水を排水する溝が備わっていないことから、かつては屋根で覆われていたと考えられている。この施設は、エフェソスが古代において文化と芸術の中心地であったことを示す重要な遺構であり、当時の繁栄ぶりを伝える。建設時期はアントニウスの活躍時期からみて紀元1世紀前半であろうか。
パブリウス・ベディウス・アントニウス
パブリウス・ベディウス・アントニウスは、古代ローマの著名な人物で、紀元前1世紀の政治家、軍人、および文筆家で、特に「アエミリア法」の制定者として知られています。 アントニウスは、紀元前44年にエフィソスで生まれ、紀元前28年にプロコンスル(前執政官)としてガリア・ナルボネンシス(現在の南フランス)を統治し、その後、紀元前27年にはアウグストゥス(オクタヴィアヌス)の支持を得て、ローマ帝国の初代執政官となった。
アントニウスはまた、文筆家としても活躍し、彼の著作「アエミリア法」は、ローマの法律制度に大きな影響を与えた。この法律は、ローマ市民の権利を保護し、法の支配を強化することを目的としていた。






国営アゴラ:The State Agora
クレティア通りの左手に国営アゴラ跡。エフェソスの国営アゴラ(State Agora)は、古代都市エフェソスにおける政治・行政の中心地として機能していた公共広場。市場の機能もあった、という。
エフェソス遺跡の南側入口付近に位置し、約160メートル×73メートルの広さを持つ長方形の広場である。 ここでは 立法、行政、司法、宗教などの重要な行事や集会が行われ、市民生活の中心的な役割を果たしていた。
紀元前1世紀後半に造られ、中央には皇帝アウグストゥスを祀った祭殿も存在していた。 現在、国営アゴラの遺跡には円筒形の柱や建物の一部が残されているだけで、当時の壮大な建築物は失われている。
ポリオの泉
アゴラの南端部に見えるアーチは「ポリオの泉」、背後はコレッソスの丘と呼ばれるようだ。ポリオの泉は4世紀から14世紀の間に、前を通る道と、路に釣り合いのとれる設計で建築されたものであり、泉の正面には、皇帝やエフェソスの名士たちの彫像が飾られていたという。




プリタネイオン:Prytaneion
クレティア通り、音楽堂の先にプリタネイオン(Prytaneion)。エフェソスのプリタネイオン(Prytaneion)は、古代都市エフェソスにおける行政と宗教の中心施設であった。紀元前3世紀に建設され、ビザンティン時代まで増改築が行われた。 ここでは行政の中心地としてエフェソスの高官たちが会議を行い、公式のゲストを迎える場として使用された。 また中央には常に聖火が灯されており、都市の永続性と繁栄を象徴していた。
石に鉄の鎖。下に下水道が整備されているようだ
宗教的な役割として、竈の神で国家体制の鎮護神として崇拝された女神ヘスティア(Hestia)の聖火が灯されていた。
建築の特徴としてその構造は四方はそれぞれ6本の石柱で囲まれていた。 エフェソス博物館に展示されている二体のアルテミス像は、このプリタネイオンで発見されたものである。




Hestia 
ヘスティア像 by Wiki
ヘスティアは、ギリシャ神話における竈(家庭の炉)や家族、家、そして国家の守護を司る女神。彼女はオリンポス十二神の一柱であり、ゼウス、ヘラ、ポセイドン、ハデス、デメテルの姉妹である。
竈の火は家庭の中心であり、共同体や国家の団結を象徴した。そのため、ヘスティアは個人の家族だけでなく、都市国家全体を守護する存在として崇拝された。 エフェソスは、アルテミス崇拝で有名な古代都市であるが、公共の場や神殿ではヘスティアの役割も重要であった。
ヘスティアの火は都市の中心で絶えず燃やされ、神殿や公的施設の平和と安定を象徴していた。彼女への崇拝は、エフェソスのような都市国家(ポリス)の共同体意識を強化する役割を果たしていたわけである。
ヘスティアは国家全体を象徴する「公共の炉」の守護者として、エフェソスを含む多くのギリシャ都市国家で重要視されていた。彼女の存在は、法や秩序、そして共同体の調和を保つ基盤として崇拝された。
エフェソスでは、アルテミスが主要な女神として崇められる一方で、ヘスティアもまた国家や共同体の守護者として重要な役割を果たしていた。

メミウスの記念碑:Memmius Aniti
クレティア通りが西進から北西に折れるあたりにメミウスの記念碑。エフェソスのメミウスの記念碑(Memmius Anitiは、ローマ時代の独裁官スラの孫であるメミウスを称えるために建てられたもの。この記念碑は、エフェソス遺跡内の国営アゴラの西北端ドミティアヌス広場の北側に位置している。
紀元前88年、エフェソスの住民はローマ帝国の重税に反発し、ローマ市民を虐殺する事件を起こした。この反乱を鎮圧したのが独裁官スラであり、彼の孫であるメミウスが祖父の功績を称えるためにこの記念碑を建てたとされている。
建築の特徴は 四面のある凱旋門に似た形状を持ち、地方の石を用いた基盤と大理石から成る上部構造で構成されている。周囲は4段の階段に囲まれ、各面には半円形の壁龕(へきがん)が設けられていた。
装飾の多くは失われているが、トーガを纏った兵士の彫刻が残っており、これらはメミウスとその父カイウス、そして祖父スラを表していると考えられている。また、ラテン語の碑文には「救済者カイウス、メミウス、カイウスの息子、コーネリウス・スラの孫」と記されている。 多くの部分が修復されており、当時の歴史的背景や建築様式を学ぶことができる。

ヘラクレスの門:Hercules Gate
北西へと道を進むとヘラクレスの門。行政区域と商業区域を分ける役割を果たしていた。この門は、ライオンの毛皮をまとった英雄ヘラクレスのレリーフが刻まれた大理石の石柱が特徴で、これにより「ヘラクレスの門」と呼ばれている。






正確な建設時期は不明だが、ローマ時代後期に建てられたと考えられている。元々はアーチ状の門で、上部には勝利の女神ニケのレリーフが飾られていた。現在、ニケのレリーフは少し離れた場所に展示されている。
門の幅が狭いため、車両の通行を制限し、歩行者の安全を確保する目的もあったという。 現在、ヘラクレスの門は左右対の石柱部分のみが残っている。












ニケのレリーフ
道脇にレリーフがある。ニケのレリーフである。古代ギリシャの勝利の女神であるニケは翼を広げた姿で描かれており、その躍動感あふれるポーズが特徴的。彼女の手には月桂冠やリボンが握られていることが多く、勝利や栄光を象徴している。
このレリーフは非常に良好な状態で保存されており、細部まで精巧に彫刻されている。因みに、スポーツシューズメーカーのナイキのロゴであるスウッシュ(Swoosh)は、ニケの翼をモチーフにしていると言われている。

クレティア通り(Kuretes Street)の坂道の上から
坂の下に結構きちんとした遺構が見える。後からわかったのだがセルシウスの図書館(Celsus Kutuphanesi)であった。その向こうの草地は昔の港があったあたりだろう。港が土砂で埋まったことが海上交易の中心地であったエフィソスが衰えていった因という。





トラヤヌス帝の泉:Trajan Fountain
先に進むとトラヤヌス帝の泉(Trajan Fountaain)。脇にあった説明文には「 ニンファエウム・トライアニ(Nymphaeum Traiani):この噴水建物は、ティベリウス・クラウディウス・アリスティオンとその妻によって、紀元102年から114年の間に寄贈され、エフェソスのアルテミスと皇帝トラヤヌス(在位:紀元98-117年)を称えるために建てられた。建物の元々の高さは9.5メートルで、建築実験として再建されたもの。噴水は三方を二階建てのファサード(建築物の正面部分、特に外観デザインを指す用語 )で囲まれ、中央の水流出口の上には、トラヤヌスの像の台座があり、その下には地球儀が置かれていた」とあった。
ティベリウス・クラウディウス・アリスティオンはローマ帝国の初期に活躍した人物で、特に軍事や政治の分野で重要な役割を果たしたとされているが、詳細は不詳。
エフィソスの水源と水道橋
ところで噴水への水はどこから導水されていたのだろう。チェックすると、エフェソスのトラヤヌスの泉は、エフェソス市内に水を供給するため各所の泉を水源として水を引いていた。

Sestilio Pollio's Bridge by Google Map
上述国営アゴラで見た「ポリオの泉(「ブュユック・チェシュメ(Büyk Çeşme)」とも呼ばれるようだ)」の水は20キロから40キロほど離れた3つの水源から導水されるが、そのうちのひとつ、マルナススユの水源からの水路上には、エフェソスの南東約6kmの、Akarlarという町の南に、に「ポリオの水道橋Pollio aqueduct bridge」の遺構が残るとのこと。
地図をチェックするとSestilio Pollio's BridgePolio Su Kemeriという2つの水道橋が見つかった。ポリオの泉に繋がる水道橋だろう。
また、エフェソスから約42.5km南、クシャダス(Kuşadası)の南に位置するケルテペ(Keltepe)とデーイルメンデレ(Değirmendere: Değirmenは「水車」、dereは「谷」や「川」の意味)には、幅0.8m、高さ0.9mの泉があり、石の水路を通じて聖ヨハネの丘まで水を運んでいた。
Polio Su Kemeri by Google Map

その他の水源としてはイズミールへの道路上にあるプランガの泉からは、岩に彫られた水路やアーチ型の石壁で保護された水路を通じて水がエフェソスまで引かれていた。
また、水源としてネアンデリスの泉(エフィソスの北東6キロ)が記載されるが、これは古代ギリシャの詩人ホメロスの作品『オデュッセイア』に登場する架空の泉のようだ。 これらの水源から供給された水は、エフェソス市内の各所に設置された水道橋や水路を通じて運ばれ、トラヤヌスの泉を含む公共の噴水や浴場、家庭に供給されていた。 このような高度な水道システムは、古代エフェソスの都市生活の発展と繁栄を支える重要な要素となっていた。

後述するアルテミス神殿には、長さ8mの水路によってアルテミスの館にも水が運ばれていた。アルテミスの館の発掘の際、これ等の水路に使用された厚い銘製のパイプが発見され、内一つは現在エフェソス博物館に展示されているが、その水源は不詳である。

ハドリアヌスの神殿:Temple Hadrian
エフェソスのハドリアヌス神殿は、2世紀にローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿で、エフェソス遺跡の中でも特に美しい建築物のひとつといわれる。
神殿の正面には、アーチ状の入り口とその後方に主要な建物が配置されている。神殿の正面には、コリント様式(溝が彫られた細身の柱身と、アカンサスの葉が彫られた装飾的な柱頭を特徴とするギリシャぼ建築様式)の4本の支柱が支えるアーチがあり、その上部には女神ティケー(ギリシア神話における都市の財産と繁栄、そしてその運命を司る中心的な女神)のレリーフが彫られている。
神殿の玄関扉の上部には、アカンサスの葉や花の模様の間にメデューサと思われる女性の半円形レリーフが施されている。また、扉の両脇にはエフェソスの歴史を象徴するレリーフが彫られた装飾板があり、左から始まる4部構成となっている。
神殿は、エフェソス市民のてによって、皇帝ハドリアヌスに捧げられた。その後、4世紀に一度修復され、近年にも当時の外観を再現するための大規模な修復が行われた。 ハドリアヌス神殿は、エフェソス遺跡の中でも特に保存状態が良く、ローマ建築の美しさと精緻な装飾を堪能できる遺構となっている。

公衆トイレ:the Latrine
ハドリアヌスの神殿の先、道の右手、少し奥まったところに公衆トイレの遺構がある。脇にあった英文の説明には「ラトリーヌ(The Latrine:公共トイレ)。公共のラトリーヌ(トイレ)は、屋根付きの「アカデミー通り」からアクセスできた。この無料の公共トイレは、市民だけでなく、隣接するヴァリウス浴場を訪れる人々にも利用されていた。 ラトリーヌの座席は、開放的な列柱で囲まれた
中庭の3辺に配置されており、座席の前の溝には清掃用の新鮮な水が流れていた。
このラトリーヌは、セルチュクにあるエフェソス博物館によって修復された」とある。 紀元後1世紀頃に造られたと言われている公衆トイレの下4mほどのところに下水溝が整備されている。水洗トイレというべきか。公衆トイレの壁の右向こうは娼館跡 があったという。
昔はどうだったのかわからないけれど、今は各トイレ間に間仕切りもなく、誠に「開放的」な印象ではあった。








セルシウスの図書館:Celsus Kutuphanesi
公衆トイレの西側にセルシウスの図書館(Celsus Kutuphanesi)がある。ケルスス図書館とも呼ばれる。この図書館は、古代ローマ時代の壮麗な建築物であり、当時の知識と文化の中心地として機能していた。
この図書館は、ローマ帝国の執政官であったティベリウス・ジュリアス・セルシウス・ポレマエアヌスの功績を称えるため、彼の息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラ・ポレマエアヌスによって建設が開始された。セルシウスの霊廟としての役割も果たしており、彼の墓は図書館の地下に設けられている。
建設は紀元114年に始まり、117年に完成したとされる。 セルシウス図書館は、アレクサンドリア図書館やペルガモン図書館に次ぐ、当時世界で3番目に大きな図書館であり、約12,000冊の巻物(本ではなくパピルス)が所蔵されていたと考えられている。
二層構造の壮麗な正面は、コリント式の柱や精巧な彫刻で装飾されており、レプリカではあるが知恵(Sophia)、知識(Episteme)、英知(Ennoia)、徳(Arete)を象徴する4体の女性像が配置されている。
図書館内部は、湿気や温度変化から巻物を保護するため、二重壁構造が採用されていた。また、閲覧室や講義室も備えていたとされている。
セルシウス図書館は、エフェソス遺跡の中でも特に保存状態が良好で、その壮麗なファサードは古代ローマの建築技術と文化の豊かさを感じさせるものになっている。
木造部分の焼失や、地震の被害もあったが、1970年代に修復された。巨大な石柱が目を引く2階建ての美しいファサード。エフェソス遺跡を代表する建物である。

マゼウスとミトリダテスの門: Gate of Mazeus and Mithridates
図書館の右手に門
古代ローマ時代の壮麗な三連アーチの門で、ケルスス図書館の右側に位置し、商業アゴラへの入口として機能していた。
この門は、ローマ皇帝アウグストゥスの奴隷であったマゼウスとミトリダテスが、解放されたことへの感謝の意を示すために建設したとのこと。彼らは皇帝とその家族への敬意を込めて、この門を寄進したとされている。
紀元前3世紀に建てられたとする説があるが、詳細な年代については諸説ある。三連アーチからなる壮麗な門で、上部には碑文が刻まれている。これらの碑文には、皇帝アウグストゥスやその家族に関する称賛の言葉が記されている。
門のアーチ下部には壁龕(壁の凹んだ部分:ニッチniche)が設けられ、かつては皇帝や神々の像が安置されていたと考えられている。保存状態も良好である。 門を潜ると道は大理石通りと変わり北進することになる。

商業アゴラ
大理石通りに残る足跡などの絵
大理石通りの大理石の上に、世界最古の広告として知られる売春宿を示す絵が彫られている。冠を頭にのせた女性の絵、ハートの絵、
売春宿の方向を示すために左足が宿の方向を示す。

大理りの左手に石柱が立おおりにち並ぶ広場が見える。商業アゴラ跡である。エフェソスの商業アゴラは、古代都市エフェソスにおける商業活動の中心地として機能していた。紀元前3世紀頃に建設され、約110メートル四方の広場で構成されていた。
この広場は、エフェソスの経済活動の中心地であり、多くの商人や市民が集い、活発な取引が行われていた。



商業アゴラは、ケルスス図書館の隣に位置し、マゼウスとミトリダテスの門を通じてアクセスできた。この配置により、知識と商業が密接に結びついた都市生活が営まれていたことが伺える。
現在、商業アゴラの遺跡には大理石の柱の基部が立ち並び、当時の壮大な建築の一端を垣間見ることができる。



大劇場跡:Ephesus Ancient Theatre
エフェソスの大劇場は、古代ローマ時代の壮大な円形劇場で、エフェソス遺跡の中でも特に注目すべき建築物のひとつとなっている。
この劇場はヘレニズム時代に建設が始まり、ローマ時代に拡張された。特に2世紀には、ローマ皇帝ハドリアヌスの治世下で大規模な改修が行われたとされている。
約25,000人を収容できたとされ、当時のローマ帝国でも最大級の劇場のひとつであった。


半円形の観客席(ケーヴァ:Cavea)と舞台(スケーネ:Skene)から構成され、観客席は急勾配で設計されており、上段からでも舞台がよく見えるよう工夫されている。 また、優れた音響設計により、舞台上の声や音が最上段の観客席まで明瞭に届くよう工夫されていたという。この音響効果は現在でも評価されており、コンサートやイベントが開催されることもある、とのこと。
この劇場では主に演劇や音楽の公演が行われ、市民の娯楽や文化活動の中心地として機能していた。
また、宗教的な儀式や全市民が参加する集会の場としても使用され、都市の重要なイベントが開催されていた。そして、ローマ時代には、剣闘士の試合や猛獣との戦いなど、娯楽性の高いイベントも行われていたとされている。

港通り(アルカディアン通り:Arcadian Way)
大劇場跡で大理石通りは左折し西進し、通りは港通り(アルカディアン通り)と変わる。この道はかつての港へと続く道であった。現在海は土砂で埋まり草地となっているが、エフィソスの繁栄は入り江を巧く利用した天然港の存在に因るものであった。しかし、水路が狭くなり船の航行が困難になったことから、この港はローマ時代迄にはアルテミス神殿から1.5kmのピオン山の西側に移された。
これはエフェソスの西、エーゲ海に注ぐメンデレス(カイステル)川(Menderes River :Kaystros River)によって運ばれる土砂が何千年以上もの間に堆積し三角州に成ってしまったことが大きな理由であった。ビザンツ時代後期迄に水路はそれ以上機能出来ないほど塞がれてしまった。


道の途中で北に折れ、北口より遺跡を離れる
エフィソスの遺跡は予想以上に大きかった。南の入口から北の入口まで1キロほどあっただろうか。いまだ発掘中であり、現状は全体の三分の一程度とのガイドさんのコメントがあった。発掘の多くは海外の大学や研究者の手によるもので、時期も期間も相手任せのため、全容解明の時期ははっきりしない。
この地に足を踏み入れる前は、ここは古代ローマの遺跡と思っていたのだが、遺跡内にはヘスティアやニケといったギリシャの女神といったギリシャの歴史レイヤーが多く残っていた。その理由は、この地域が古代ギリシャ文明の重要な拠点であったからであり、エフィソスは、紀元前6世紀にギリシャ人(イオニア人)によって建設され、多くのギリシャ植民都市の一つとして発展した。
そのため、古代ギリシャの建築、文化、宗教の影響が今でも多く残っており、特に有名なのは、エフィソスにある古代ギリシャの劇場や神殿、そしてアゴラ(市場)などの遺跡。これらの遺跡は、ギリシャ時代の建築技術や美学を今に伝えている。古代ローマ帝国はギリシャの影響を排除することなく、むしろギリシャ文化を受け入れ、吸収し、発展させた、といえる。ローマの建築、哲学、文学、宗教など、多くの分野でギリシャの影響が見られる。



アルテミス神殿跡へ

エフィソスの遺跡を離れアルテミス神殿跡に向かう。少し離れたところにあるためバスで移動する。

アルテミス神殿跡
アルテミス神殿跡に到着。とはいえ、草地に円柱の柱が建つのみ。傍にあった説明を訳すると:
「アルテミシオン:The Artemision アルテミシオンはエフェソスの最も重要な神殿であり、その壮大なアルテミス神殿は古代七不思議の一つに数えられている。
この場所で現在確認されている最も古い遺物は、紀元前14-13世紀のミケーネ様式の陶器片である。鉄器時代の初め(紀元前11世紀の終わり)からは、この地での祭祀が確認されている。最も古い認識できる建築要素としては、紀元前680-650年頃に建立された、周囲に列柱が並ぶ神殿(ペリペトロス)があり、これが神殿の中心に位置していた。このペリペトロスは、保存のために現在は再び覆われているが、周囲に列柱を持つ最も古いギリシャ神殿の一つとされている。
神殿のサイズは13.5m x 8.5mと非常に小さく、石造の壁と、石基に立つ4 x 8本の木製柱を持っていた。内部には6本の柱の上に立つ長方形のバルダキンがあり、ここに木製の神像が祀られていたと考えられている。
紀元前570年頃、二重柱廊(平行に並んだ2列の柱よりなる)をもち、すべての側面に円柱のある様式の最初の巨大な神殿の建設が始まった。この神殿は大理石で建てられ、その幅は約60m、長さは100mを超えていた。おそらく106本の柱が立ち、その多くは浮彫で装飾されていた。これらはリディア(小アジアアナトリアで栄えた王国)王クロイソスの資金援助によって建設されたため、「クロイソス神殿」とも呼ばれていた。
神殿の壁はオープンな中庭を囲んでおり、その中には小さな神殿のような構造が神像を安置していた。屋根は、列柱の回廊の上にのみ装飾的な美観と機能性を高める工夫が施されていた。西側の正面に向かって直角に配置された約33m x 16mの建物が祭壇として使われたと考えられている。現在は基礎の石灰岩のスラブと、わずかな大理石のブロックが残っているのみである。

伝説によれば、このアーケイック期(紀元前8世紀から紀元前6世紀末:ギリシャ人の植民活動が行われ、ギリシャ人が大きく飛躍し、次の前5世紀の古典期にポリスの発展が始まる)の神殿は紀元前356年にヘロストラトスという人物によって火災を引き起こされて焼失したと言われている。
説明文の上部に神殿の規模感のわかるイラストがあった。
その後、遅れて建設が始まった新しい神殿は、先代の基本的な要素をすべて再現しており、唯一屋根の装飾的な縁が省かれている。この新しい神殿にはおそらく127本の柱があり、その高さは約18.4mで、2.7mの高い基盤の上に建っていた。内部には階段が設けられ、かつての中庭のレベルまで降りることができた。この神殿の祭壇は発掘範囲の西端にあり、舗装された中庭とN字型の囲いが存在していた。
1973年には、様々な円柱のセグメント(一つの石の塊ではなく、複数の円柱セグメントを積み重ねて構築された柱を指す)を使用して神殿の建築模型が設置された。これは遅い古典期の神殿の保存されていた柱の基盤の上に立っており、その下にはクロイソス神殿の基礎が見られる。元々の柱はこの復元模型より約4m高かったとされている。
古代末期には、アルテミス神殿は改築され、おそらく教会として使用されていた。この時期の遺構として、神殿の中庭の内壁の前に設置された、モルタルで作られた巨大な柱の2列が保存されている」とあった。
追加コメントも含め以上の説明をもう少し簡単にまとめると、「アルテミス神殿:紀元前700年頃に建設されるも、紀元前550年に再建。神殿には美しい彫刻や金銀が施された柱など、豪華絢爛な建築物であったと伝えられ、世界の七不思議の一つに数えられるほどであった。
かつては20メートルの高さを誇る127本の円柱で構成され、全体の大きさは200メートル×425メートルにも及んだ。
さらに紀元前323年には再度建て替えられるが、3世紀(紀元269年)にはケルマン系の民族であるゴート人によって破壊され、381年にはテオドシウス帝の命令によりこの神殿は閉鎖される。テオドシウス帝って392年にローマ帝国でのキリスト教の国教化をおこなった帝である。ローマ皇帝への忠誠、それはキリストを唯一神として信仰するキリスト教徒相通じるものがあるが、それには多神教的ギリシャの神々は不要とされたのだろうか。ともあれ、翌世紀には神殿の石材が切り出されそのまま放置されることになったようだ。 その後、19世紀後半になるとイギリスの大英博物館の考古学探検隊によって神殿跡が発見された。現在は廃墟となっていて、いくつかの残骸から柱を組み立ているものの、当時の姿を想像するのは難しいといった状態である」ということだろう。
アルテミス神
でアルテミス神殿をメモしてきたのだが、そもそも、アルテミス神って?チェックする:
エフィソスのアルテミス神
 
アルテミス神像 by Wiki
エフェソスのアルテミス神は、ギリシャ本来のアルテミス神と起源が異なると考えられている。エフェソスのアルテミスは、ギリシャ神話の狩猟の女神アルテミスと同一視されるようになったが、元々はアナトリア(現在のトルコ)で信仰されていた母神信仰(母性のもつ豊饒や多産といった力を人格化した神々を崇拝する信仰形態)に由来するとされている。
ギリシャ神話におけるアルテミスは、ゼウスとレトの娘で、アポロンの双子の妹。狩猟と野生動物、純潔を司る女神として知られている。弓矢を持った若々しい狩人の姿で描かれ、自然と孤独を愛する神であった。
エフェソスで信仰されたアルテミスは、ギリシャの狩猟の女神とは大きく異なり、母性や豊穣、生命の循環を象徴する神として崇拝されていた。
エフェソスのアルテミス像は、複数の胸(あるいは卵や果実と解釈される)を持つ姿で描かれており、豊穣や生命の象徴とされている。この姿は、アナトリアの母神信仰と結びついている。
エフィソスのアルテミス神像 by Wiki
エフィソスのアルテミスは、アナトリア地域で古くから信仰されていた大地母神キュベレー(Cybele)や、ヒッタイト文明における母神の信仰の影響を受けたと考えられている。 ギリシャ神話との融合に関しては、紀元前8~6世紀ごろ、ギリシャ人が小アジアに植民したことで、エフェソスに住んでいた人々の信仰する母神が、ギリシャのアルテミスと同一視されるようになった。この「同一視」の背景には、ギリシャ人が新しい土地で現地の神を自分たちの神話体系に取り込むという文化的な適応があったと考えられる。 ギリシャ人は現地の神々を尊重しつつ、ギリシャ神話の神々と結びつけることで、信仰を調和させたということだろう。
エフェソスのアルテミス神殿がギリシャ建築様式で建てられたことも、ギリシャとアナトリアの宗教的融合の象徴と考えられる。
アナトリアの神とアルテミス信仰の影響については、エフェソスのアルテミス信仰は、単なるギリシャ神話の拡張ではなく、地元の宗教的伝統を色濃く受け継いだもの。そのため、エフェソスのアルテミスはギリシャ神話のアルテミスとは異なる独自の性格を持っていた。これが、エフェソスが宗教的に非常に重要な都市となった理由の一つである。

結論として、エフェソスのアルテミスはギリシャ神話の神ではなく、アナトリアの母神信仰をルーツに持ちながら、ギリシャ神話のアルテミスと習合した存在である。このような神話や宗教の融合は、古代の文化交流の象徴といえる。

アルテミス神殿とエフィソスの遺跡が離れている理由
また疑問。どうしてアルテミス神殿とエフィソスの遺跡は離れたところにあるのだろう。 あれこれチェックすると、その理由は、アルテミス神殿の建設目的や地理的要因、都市の歴史的な変遷に関係しているようである
アルテミス神殿は、エフェソス市街地の外れに建設されたが、その理由には以下の3つの理由が考えられる。
宗教的な聖地としての独立性:アルテミス神殿は、エフェソスの守護神であるアルテミスを祀る目的で建設された。この神殿は、単なる建物ではなく、神聖な儀式や信仰の中心地として機能した。古代ギリシャでは、神殿は都市の中心部ではなく、自然環境の中や特定の神聖な場所に建設されることが一般的であった。アルテミスは狩猟や自然の女神でもあるため、神殿の場所は湿地帯の近くという自然豊かな環境に選ばれた可能性がある。
湿地帯の存在:神殿が建てられた場所は、河川の堆積作用によってできた湿地帯であった。湿地帯は豊かな自然の象徴とされ、神聖視される傾向があり、さらに、湿地帯に建てることで地震に対する耐久性を高めようとする意図もあったと考えられる。地盤が柔らかいことで、地震の衝撃が緩和されると信じられていたようだ。
巡礼者の利便性:アルテミス神殿は、エフェソスの港に近い場所に建設された。この位置により、地中海沿岸から訪れる巡礼者が直接神殿にアクセスできるようになっていた。都市の中にあるよりも、広大な敷地を確保できたため、巨大な神殿を建設するのに適していたと考えられる。
また、エフェソス市街との距離については歴史的背景からも考えられる エフェソスは、歴史の中で都市の中心地が何度か移動している。その結果、現在の遺跡(ローマ時代の市街地)とアルテミス神殿が分かれたとも考えられる。
初期のエフェソス(イオニア人の入植時):エフェソスの最初の都市は、紀元前10世紀頃、アンドロクロス率いるイオニア人によって建設された。この時期の都市は、現在の遺跡からさらに北西方向に位置していた。当初、アルテミス神殿と都市は比較的近い位置関係にあったと考えられる。
都市中心地の移動:7紀元前・6世紀以降、エフェソスは河川の堆積作用によって港湾の位置が変わる影響を受け、都市の中心地を徐々に移動させた。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王時代の都市再建の際、エフェソスの都市中心部が現在の遺跡の場所(アヤソルク丘)周辺に移された。この移動により、アルテミス神殿と都市の間に距離が生じることになった。
ローマ時代の拡張:ローマ帝国時代(紀元1~2世紀)には、エフェソスの都市が大規模に拡張され、現在私たちが見る広大な遺跡が形成された。この時期には、神殿は都市生活の中心ではなく、宗教的な象徴としての役割に特化していた。
上で述べたように、アルテミス神殿は、紀元3世紀(269年)のゴート族の侵攻で破壊され、さらに392年キリスト教がローマ帝国で公認されると、異教の神殿として放棄された。
一方、エフェソスの都市は、ローマ時代にはキリスト教の中心地として発展し、街の中心部に新しい施設や教会(例:聖ヨハネ教会)が建設された。 このように、アルテミス神殿が放棄された後もエフェソス市街は宗教的、政治的な拠点として存続したため、現在のような距離が生じたと考えられる。

まとめとしてエフィソスの歴史を概観しておく;

エフィソスの歴史
エフェソス(エフェス)は、現在のトルコ西部に位置する古代都市で、ギリシャ文明やローマ帝国の重要な文化・歴史の交差点として知られている。エフェソスの遺跡は、紀元前10世紀ごろにギリシャ人(イオニア人)の植民地として始まり、その後ローマ帝国の支配下で最盛期を迎えた。
ギリシャ文明とエフィソス 
〇イオニア人の入植:エフェソスは紀元前10世紀ごろ、ギリシャ人の一派イオニア人によって建設された。この地域はエーゲ海沿岸のイオニア地方の一部で、ギリシャ植民地の一つとして栄えた。エフェソスは交易や文化交流の拠点であり、ギリシャのポリス文化の影響を受けている。
〇哲学と学問の中心地:エフェソスは、イオニア地方で発展したギリシャ哲学とも関わりがある。特に、自然哲学者のヘラクレイトス(「万物は流転する」で知られる)はエフェソスの出身。彼の思想は、ギリシャ哲学における重要な位置を占めている。 
■ローマ帝国との関連

港が港通りに繋がっていたことがわかる
〇ローマ時代の最盛期:紀元前133年、エフェソスはローマ帝国のアジア属州(プロウィンキア・アシア)の一部となった。特に紀元後1世紀から2世紀にかけて、ローマ帝国の支配下でエフェソスは急速に発展し、属州の中心都市となる。
〇建築の発展:ローマ時代には、ギリシャ建築の影響を受けつつ、ローマ式の壮大な建築物が次々と建設された。既に説明したように、セルシウス図書館、ギリシャとローマの劇場建築の融合を示す大劇場(グレートシアター)、ローマの技術を駆使した水道橋と上下水道などなど幾多の建築物の遺構が残る。
ローマの剣闘士・グラディエーター?

〇キリスト教との関係:ローマ帝国時代、エフェソスはキリスト教の布教活動の重要な拠点となっていた。聖パウロがこの地を訪れ、新しい宗教であるキリスト教を広めた(新約聖書『使徒言行録』にも記載あり)。このことはエフィソスにおけるアルテミス信仰の衰退を意味する。実際、聖パウロはアルテミス信仰を否定している。また、エフェソスは聖母マリアが晩年を過ごしたと伝えられる地でもあり、後にキリスト教世界で重要視されるようになる。
ただ、エフィソスにおけるキリスト教布教も困難な時期にも直面している。特に皇帝デキウス(Emperor Decius:在位:249-251年)によるキリスト教徒迫害など、ローマ帝国でキリスト教が国教化される392年まで、試練の中キリスト教の布教がおこなわれたようだ。
〇ギリシャとローマ文化の融合
エフェソスは、ギリシャの哲学や建築様式、信仰を受け継ぎながら、ローマ帝国のインフラ整備や都市計画の影響を受けた都市であった。ローマ時代には、ギリシャ風の劇場や神殿とローマ風の水道橋や公共浴場が共存しており、ギリシャとローマの文化が融合した特徴が見られる。

◎ビザンツ帝国との関係、そしてそれ以降
エフェソスは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国:西暦395年-1453年)時代にも重要な都市として機能していた。395年の東西ローマ帝国分裂後、エフェソスはビザンツ帝国の領土となり、主要な交易都市として繁栄を続けた。特に、皇帝ユスティニアヌス1世(在位527-565年)は、4世紀に建設された聖ヨハネ教会(アルテミス神殿北の丘に遺跡が残る)を大幅に拡張し、巨大なバシリカを建設するなど、都市の宗教的・建築的発展に寄与した。
しかし、エフェソスの港は2世紀頃から川の土砂の堆積により徐々に埋まり始め、7世紀には深刻な状況となっていた。森林伐採による保水力の低下が原因で、港の機能を失った都市は急速に人口が減少し、マラリアの流行も相まって、町の中心はアヤスルクの丘など周囲へと移動した。さらに、7~8世紀にはイスラム王朝(ウマイヤ朝やアッバース朝)の攻撃を受け、古代都市は放棄され、廃墟となった。

その後、11世紀にセルジューク朝が侵入した際、エフェソスは小さな農村に過ぎない状態であった。14世紀まで再びビザンツ帝国が領有し、城壁の建設や港の再建が試みられたが、かつての繁栄を取り戻すことはなく、最終的にはオスマン帝国の支配下で重要性を失い、放棄され廃墟となっていった。
◎現在のエフェソス
エフェソスの遺跡群は現在、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、エフェソスの発掘は現在も続けられており、新たな発見が期待されている。
エフェソスは、ギリシャ文明からローマ帝国、さらにギリシャ的アルテミス神信仰からキリスト教への移行という歴史的変遷を象徴する都市として、古代史を理解する上で欠かせない場所といえる。 

 ●エフィソスの人口
このような需要な交易都市でもあったエフィソスには最盛期どのくらいの人が住んでいたのだろう。
チェックする:エフェソスの人口について正確な統計はないが、ローマ帝国時代(特に1~2世紀頃)の最盛期には、約20万人から25万人が住んでいたと推定されている。これは、当時の基準では非常に大きな規模であり、小アジア(現在のトルコ)の中でも屈指の大都市であった。
エフェソスはローマ帝国アジア属州の州都として、政治、経済、宗教の中心地であった。そのため、多くの人々が都市に集まり、人口が集中していた。
エフェソスはエーゲ海に近い港湾都市で、地中海とアジア内陸を結ぶ交易の中継地点であった。多くの商人や職人が集まり、活気ある経済が都市の成長を支えていた。 当時、港湾が海に直接面していたことから、物資の輸送が容易で、物流の中心地となっていた(現在は地形変化により港湾は内陸に位置している)。
世界の七不思議の一つであるアルテミス神殿があり、多くの巡礼者が訪れる宗教的中心地でもあった。
アルテミス神殿に関連する職人や信者も多く、これが都市の人口を支える一因となった。 ローマ帝国の直轄地として、インフラ整備(上下水道、公共施設、道路網など)が進められ、多くの移住者が安定した生活を求めてエフェソスに移り住んだ。
このようなことからエフェソスの人口推定は、以下の要素をもとに想定される。 
 都市の面積:エフェソスの面積は、約8平方キロメートルとされている(城壁内の都市区域)。
この時代の都市人口密度は、通常1平方キロメートルあたり2万人から3万人と推定されている。そのため、エフェソス全体では約20万~25万人が居住していたと考えられる。 
劇場の規模:エフェソスの大劇場(グランド・シアター)は約2万5000人を収容可能で、都市全体の10~15%の人口が収容できる設計であった。このことから、エフェソスの総人口は約20万人前後だったと推測される。
他の同時代都市との比較:ローマ帝国時代、小アジアの主要都市であったアンティオキア(現シリア)やアレクサンドリア(現エジプト)の人口は、それぞれ約50万人と推定されている。
エフェソスはこれらの都市に次ぐ規模とされ、小アジアでは最大級の都市であったため、20万~25万人という数字が妥当とされている。
エフェソスの人口は、さまざまな職業や社会的背景を持つ人々で構成されていた。 上流階級: ローマ帝国の地方官僚、裕福な商人、宗教関係者など。
職人階級: アルテミス神殿に関連する工芸職人(彫像や装飾品製作者など)、港湾労働者、建築作業員。
商人・農民: 地域内外の交易に携わる商人や近隣農村からの労働者。
奴隷: 当時の都市生活を支える労働力として、奴隷が重要な役割を果たしていた。

エフェソスは古代ローマ時代に栄えたが、以下の理由で徐々に衰退し、人口も減少していた。
港湾の閉塞: 川からの土砂堆積により港湾が利用できなくなり、経済活動が停滞していった。
地震や災害: エフェソスは地震が頻発する地域に位置し、大地震による被害で都市の機能が失われました。
宗教の変化: アルテミス信仰が衰退し、宗教的巡礼地としての地位も低下した。
中世になると、エフェソスの人口は数千人規模にまで減少し、最終的には完全に廃墟となった。
結論として、エフェソスの全盛期(1~2世紀)には、約20万~25万人が住んでいたと推定される。当時の小アジアでは最大級の都市であり、宗教的・商業的・政治的な中心地として繁栄した。しかし、自然環境の変化や歴史的な要因により、次第にその人口は減少していった。
因みに、1、2世紀のコンスタンチノーブル(当時はビザンティオン)の人口数はエフェソスのような大都市と比べるとまだ小規模であり、推定人口は5,000~15,000人程度だったと考えられている。
この時期のコンスタンティノープルは、まだ「ビザンティオン」という名前のギリシャ植民市であり、ローマ帝国の重要都市ではなかった。その地位が劇的に変化するのは、4世紀初頭のコンスタンティヌス1世による再建(330年)以降である。

●アルテミス信仰からキリスト教信仰へのシフト
現地のガイドさんの説明でエフィソスには聖母マリアやヨハネが逗留したという。ギリシャ的アルテミス信仰からキリスト教信仰への変遷を上述とは重複する箇所もあるが、ちょっと眺めておく。

聖ヨハネ教会(聖堂)跡 by Goolge Map
269年、エフェソスと周辺の都市はゴート人に侵略された。当時エフェソスにはアルテミス信仰のための神殿が残されていた。その後、381年にテオドシウス帝の命令によりこの神殿は閉鎖され、翌世紀には神殿の石材が切り出されそのまま放置されることになる。キリスト教思想の広がりにより、それまでアルテミス信仰に使われていた建築物は段階的にキリスト教会へと改修されていったということだ。
4世紀には皇帝ユスティニアヌス1世(在位527-565年)によりアルテミス神殿北の丘にあった聖ヨハネ教会を大幅に拡張し、巨大なバシリカを建設するなどアルテミス信仰からキリスト教信仰へのシフトがみられる。
このようなエフェソスに聖母マリアと使徒ヨハネが滞在したと伝えられる理由は、主に聖書の記述と初期キリスト教伝承に基づいている。エフェソスは、ローマ帝国時代にキリスト教が広まりつつあった重要な拠点であり、彼らがこの地に移り住んだ背景には宗教的・歴史的な理由があった。

●聖母マリアがエフェソスに移ったとされる理由
イエスの遺言:聖母マリアがエフェソスに移り住んだ背景には、新約聖書『ヨハネによる福音書』の記述が基になっている。イエスが十字架にかけられる直前、弟子の一人であったヨハネに、母マリアを託した(ヨハネ19:26-27)。イエスはヨハネに「これはあなたの母です」と告げ、ヨハネにマリアの世話を任せた。このことから、ヨハネはマリアを伴い、キリスト教布教の旅を続けたと考えられている。
エフェソスの安全性:エフェソスは当時、ローマ帝国アジア属州の重要都市であり、宗教的にも商業的にも繁栄していた。ここは初期キリスト教徒にとって比較的安全で、活動の拠点となり得る場所であった。エルサレムでのユダヤ人指導層によるキリスト教徒への迫害を避けるため、聖母マリアとヨハネは小アジア(現在のトルコ)のエフェソスに避難したとされている。

聖母マリアの家 by Google Map
聖母マリアの家:エフェソス近郊に「聖母マリアの家」とされる場所がある。この場所は19世紀にカトリックの修道女アンナ・カタリナ・エンメリックが幻視した情報をもとに発見され、現在ではカトリックとイスラム教徒の巡礼地となっている。この家は、マリアが晩年を過ごした場所である可能性が高いとされ、特にカトリック教会において重要視されている。
◎使徒ヨハネがエフェソスに滞在した理由
キリスト教布教の中心地としてのエフェソス:エフェソスは、紀元1世紀から2世紀にかけて、キリスト教徒が活動する重要な拠点の一つであった。エフェソスは地中海世界の交易の中心であり、ローマ帝国の重要都市。多くの文化や思想が交わるこの地は、キリスト教を広めるのに適していた。使徒ヨハネは、このような戦略的な場所で布教活動を行い、エフェソスを拠点としたと伝えられている。
ヨハネ福音書やヨハネ黙示録の執筆:キリスト教伝承によれば、使徒ヨハネはエフェソスで『ヨハネ福音書』や『ヨハネの手紙』を執筆したとされている。また、エフェソス近郊のパトモス島では『ヨハネの黙示録』を執筆したとも伝えられている。
ヨハネの死と墓:ヨハネはエフェソスで亡くなり、その墓は現在の「聖ヨハネ教会(バシリカ)」の場所にあると伝えられている。この教会は6世紀にビザンツ帝国によって建てられ、キリスト教徒にとって重要な巡礼地となっている。

まとめると、エフェソスが聖母マリアやヨハネの活動の場として選ばれた理由には、次の要素が挙げられる:
地理的な利便性:エフェソスはエーゲ海沿岸に位置し、地中海の他地域とつながる交易路の中心地。このため、布教や人々との接触が容易であった。
宗教的寛容さ:エフェソスは多神教の文化が栄えた都市であり、多様な宗教や信仰が共存していた。この寛容な環境が、キリスト教徒にとって活動しやすい場所となったと考えられる。
エフェソスは既にアルテミス信仰で有名な宗教的中心地であった。こうした宗教的土壌が、新しい信仰であるキリスト教を受け入れる下地となった可能性がある。

エフィソスにおけるキリスト教徒迫害
エフェソスにおいても、他のローマ帝国内の都市と同様に、初期のキリスト教徒は迫害を受けた。特に、3世紀中頃の皇帝デキウス(在位:249-251年)の治世では、キリスト教徒に対する大規模な迫害が行われた。この時期、エフェソスの若者たちが迫害を逃れるために洞窟に隠れ、数世紀後に目覚めたとされる「七人の眠り聖人」の伝説が生まれている。
また、紀元1世紀の頃、使徒パウロがエフェソスで布教活動を行った際、アルテミス神殿の銀細工師たちが彼の教えに反発し、暴動を起こしたことが『使徒行伝』に記されている。これは、キリスト教の布教が既存の宗教や経済活動に影響を与え、社会的な対立を引き起こした例と言える。
さらに、1世紀後半には、使徒ヨハネがエフェソスに移り住み、聖母マリアと共に生活したと伝えられているが、彼らは、エフェソスでキリスト教の信仰を広めるとともに、ローマ当局からの迫害から信者たちを守る努力をしていたとされている。
これらの事例から、エフェソスにおいてもキリスト教徒が迫害を受け、困難な状況に直面していたことがわかる。しかし、彼らの信仰と活動は、最終的にエフェソスがキリスト教の重要な中心地の一つとなる基盤を築くことにつながった。

結論として、聖母マリアとヨハネがエフェソスに滞在したという伝承は、歴史的な根拠と宗教的な意義を併せ持つ。エフェソスは、宗教的寛容さや地理的な利便性から、彼らが迫害を避けながらキリスト教を布教するのに適した場所であった。これにより、エフェソスはキリスト教の初期発展において重要な役割を果たした都市となった。

エフェソス公会議
エフィソス公会議 by Wiki

ちょっと脱線気味とはなるが、エフィソスで開催された聖母マリアのへの称号についての会議をメモする。
エフェソスでは、紀元431年にキリスト教の歴史における重要な公会議であるエフェソス公会議が開催された。この会議では、聖母マリアに与えられるべき称号を巡り、当時のキリスト教界で深刻な論争となっていたネストリウス派の主張が議論された。この論争の背景と結果は以下のとおり;
ネストリウス派の主張とは?
ネストリウス派は、コンスタンティノープル総主教であったネストリウス(Nestorius)が提唱した神学的な立場に基づく。主に以下の点で、従来のキリスト教教義とは異なる主張を行った。
ネストリウスは、聖母マリアを「神の母(Theotokos)」と呼ぶべきではないと主張した。 「Theotokos」はギリシャ語で「神を生んだ者」という意味であり、イエス・キリストが神であることを強調する称号である。
ネストリウスはこれに代わり、聖母マリアを「人の母(Christotokos)」と呼ぶべきだと提案した。
「Christotokos」は「キリストを生んだ者」という意味で、マリアはあくまで人間としてのイエスを生んだのであり、神そのものを生んだわけではないという考えである。
キリストの二性(神性と人性)の分離
ネストリウス派は、イエス・キリストの神性(神としての本質)と人性(人間としての本質)を厳格に区別した。つまり、イエス・キリストには神としての部分と人としての部分が存在し、それぞれが独立していると考えた。
この立場は、神性と人性が一つの存在として不可分であるという従来の正統派(正教会・カトリック)の教えと対立することになる。
エフェソス公会議(431年)の開催
この論争が激化したため、ローマ皇帝テオドシウス2世の命令によって、エフェソスで公会議が開かれた。この会議には、キリスト教界の主要な指導者たちが集まり、以下の議題が討議された。
聖母マリアの称号
聖母マリアに与えるべき称号が「Theotokos(神の母)」であるべきか、「Christotokos(キリストの母)」であるべきかが主要な議題であった。
キリストの本質に関する教義
イエス・キリストの神性と人性がどのように関係しているか、つまり「一つの存在として不可分であるか」あるいは「二つの性質が分離しているか」が議論された。
エフェソス公会議の決定
公会議では、正統派の指導者であるアレクサンドリアのキュリロス(Cyril of Alexandria)がネストリウスの主張に強く反対した。その結果、以下の決定がなされた。
聖母マリアの称号について
聖母マリアを「神の母(Theotokos)」とする教義が公式に承認された。この決定は、イエス・キリストが神性と人性を完全に持つ一つの存在であることを示すための重要な教義とされた。聖母マリアを「Theotokos」と呼ぶことは、キリストの神性を否定しないための重要な神学的判断であった。
ネストリウス派の異端認定
ネストリウス派の教義は異端とされ、ネストリウス本人は総主教の地位を剥奪された。ネストリウス派の教義は「キリストの神性を否定し、キリストの人格を分裂させるもの」とみなされた。
エフェソス公会議の影響
正統派教義の確立
この公会議によって、聖母マリアを「神の母」と呼ぶことがカトリック教会と正教会の公式な教義として定着した。
教会の分裂
ネストリウス派はこの決定を受け入れず、東方の一部地域(特にペルシャや中東地域)で独自の教会を形成した。これが現在のアッシリア東方教会などに繋がる。 この分裂は、後のキリスト教世界における教義の違いや教会の分裂の前兆ともなった。 ◎なぜエフェソスで議論されたのか?
エフェソスがこの重要な公会議の場に選ばれた理由には、以下の要因が挙げられる。 
宗教的な重要性:エフェソスはすでにキリスト教の中心地として知られており、聖母マリアが晩年を過ごした地とされていたため、マリアに関する教義を議論するにはふさわしい場所と考えられた。
アクセスの良さ:エフェソスはローマ帝国アジア属州の主要都市であり、地中海世界から多くの司教たちが集まりやすい場所であった。
結論としてエフェソス公会議では、聖母マリアを「神の母」と呼ぶべきかを巡り、キリスト教の神学的な根幹を揺るがす大論争が行われた。この議論は、キリストの神性と人性の関係に関する教義を確立するものであり、キリスト教の歴史において極めて重要な意味を持つ出来事である。同時に、教義論争が初期教会の統一性を揺るがし、教会分裂のきっかけとなる象徴的な出来事でもあった。

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