日曜日, 6月 21, 2026

送電線鉄塔を追いかけろ:住友共同電力山根線

四国山地の山裾にある自宅から出発し、国領川が山から平地に出る谷口、左岸に内宮神社、右岸に通称「エントツ山」があるあたりで国領川にかかる生子橋(しょうじばし)を右岸に渡り、主尾根から突き出た支尾根に阻まれ蛇行する国領川に沿って県道47号を2キロほど上流に向かって歩くと立川集落がある。今は静かな山間の集落ではあるが、かつては別子銅山の物資輸送の集散地であり、20年ほどの短期間ではあるが銅の精錬所もあり、人々で賑わったところではあったの。これがほぼ日課となっている散歩コースのひとつである。
青:1回目、緑:2回目、赤:3回目、紫:4回目、黄色:5回目  水色:山根線鉄塔  


このコースを歩いていると、国領川へと突き出し平地へ落ち込むエントツ山のある主尾根の稜線に阻まれ大きく蛇行した国領川がそのすぐ上流で今度は川筋に突き出した支尾根に阻まれ再び大きく蛇行する支尾根突端部に「住友共同電力 山根線3 / 4」と記された送電線鉄塔巡視路の標識が立つ。3号は左(川下)、4号は右(上流7)を指す。散歩で目にするたびちょっと気になっていた。
送電線鉄塔が気になったきっかけは過日、中央構造線がその因なのだろうか、山がストンと平地におちるような四国山地の北端部の山の一つ、大永山に六観音と石鎚大権現の石像が立つとの話を聞き、いかなる風情かと上ったとき、ルートの目安にしたのが「住友共同電力物部線183号と184号であった。
当日はそれほど気にとめることもなかったのだが、メモの段階で調べると物部線って高知県の香美市から土佐湾に注ぐ物部川に造られた3つの発電所からの電力を、山を越え谷を渡り、四国山脈を縦断しておよそ100キロ、新居浜市の海岸近く、住友の企業群が並ぶ西の谷変電所まで送られ住友の企業群に電力を供給する送電線であった。高知から100キロも?なぜ?
住友共同電力が物部川に発電所を建設したのは、大正8年(1919)のこと。当時、住友合資会社(現・住友グループ)は、愛媛県新居浜市で別子銅山で採鉱された銅鉱石の銅製錬所を運営していた。製錬所には膨大な電力が必要であったが、当時は火力発電が主流であり、燃料費が高く安定供給も困難であった。
そこで、住友合資会社は水力発電に着目し、物部川に発電所を建設することを決意した。物部川は四国山脈の中央部に位置し、豊富な水量と急峻な落差を有しており、水力発電に適していたのがその主因のようだ。
が、物部川は新居浜から約100km離れており、送電線の建設には莫大な費用と技術が必要であった。当時としては画期的な長距離送電技術を駆使し、大正14年(1925)に送電線を完成させ、物部川からの電力を新居浜製錬所に送電することに成功した。
物部川発電所の建設は、日本の電力史において大きな転換点となったと言われる。このプロジェクトは、長距離送電技術の発展に大きく貢献し、その後全国各地に水力発電所が建設されるきっかけとなった。
物部線の話が長くなったが、山にポツンと立つ送電線にすごい物語があることを知り、そのとから送電線やその鉄塔が気になるようになったということである。
話を山根線に戻す。県道脇の鉄塔巡視路標識から成り行きで支尾根を上ると山根線3号鉄塔があった。当初の予定では巡視路がガイドする鉄塔を見つけれな、そこから引き返すつもではあったのだが、主尾根稜線部に山根線らしき鉄塔が推測され、予定を変更しそこから主尾根まで上り、エントツ山に向かって下りていくと山根線2号鉄塔があった。
その先国領川左岸につくられた山根発電所との間、エントツ山の南麓に鉄塔が見える。思いもかけず山根線送電線鉄塔1,2,3号に出合ったこともあり、ついでのことなので山根線の送電線鉄塔を全部追っかけてみようということになった。
この気まぐれが結構な大仕事になった。生成AI君も企業内資料にも関わる部分も多く、今回は頼りにならず、国土地理院の地図にある鉄塔マーク(これもそこに必ずしも鉄塔があるわけでもない)と衛星写真の合わせ技で鉄塔を推定し、山根線9基の鉄塔を確認するのに5回も出かけることになった。
2回目は空振り、3回目に確認できたのは8号鉄塔のみ。登山ルートの破線が地図に記されてはいたのだが、ルートは荒れに荒れ、結構大変な目にあった。4回目は山根線9号と4号。5回目は残りの5,6.7号を送電線に沿って山腹をトラバースしようと計画。が、途中沢が予想以上に大きく切れ込んでおり、迂回せざるを得ず、これも少々難儀した。 住友共同電力に問い合わせば、資料はあるとは思うのだが、誰に頼まれたわけでもなく、誰の役にも立たない、単なる好奇心に働く方に迷惑をかけるのもなんだかなあ、ということで、自力で山根線鉄塔を追いかけることに。結果。わずか数キロの距離に立つ9基の送電線鉄塔を見つけるために5回もかかることになった。その顛末を以下メモする。

 
 今回のルート
1回目:県道47号脇山根線3 /4」巡視路標識>住友共同電力 山根線 3号鉄塔>生子山城址へ>住友共同電力 物部線182号鉄塔>「住友共同電力3/182」巡視路標識>住友共同電力 山根線2号鉄塔>大山積神社奥宮>エントツ山
2回目:牛車道上り口>牛車道から沢筋に入>山根線4号鉄塔の標識>地蔵尊>「住友共同電力西条連絡東線22」標識>主尾根稜線部>「住友共同電力 No.21 /物部線No,182」巡視路標識>西条連絡東線22号鉄塔>四国電力西条線20号鉄塔>犬返し>(折り返し)>エントツ山に
3回目:牛車道>山入り>竹藪>「住友共同電力 No.7 /No.8」標識>住友共同電力8号鉄塔>四国電力西条線21号鉄塔>「住友電力 山根線 No.8 /No.9」巡視路標識>石垣の先で道は消る>え尾根に這い上がる>犬返し>(折り返し)
4回目:端出場開閉所>旧端出場発電所水圧鉄管跡を上る>住友共同電力 東平線6号鉄塔>住友共同電力 東平線7号鉄塔>龍河神社>牛車道>住友共同電力 山根線9号鉄塔>牛車道から沢筋に>「住友共同電力 No.21」標識を右折せず直進>「住友共同電力山根線 4」右折の標識>「住友共同電力山根線 4」左折の標識>住友共同電力 山根線4号鉄塔>住友共同電力 山根線4/5」の標識>牛車道に戻る
5回目:牛車道>適当なところで這い上がる>住友共同電力 山根線5号鉄塔>住友共同電力 山根線6号鉄塔>住友共同電力 山根線7号鉄塔>住友共同電力 山根線8号鉄塔>立川への分岐点に>牛車道に出る>龍河神社>県道47号>住友共同電力 山根線1号鉄塔>山根発電所



1回目 山根線3号,2号の位置確認。1号鉄塔は視認。

県道47号脇の「住友共同電力 山根線3 /4」鉄塔巡視路標識

エントツ山のある主尾根が西に突き出し、大きく蛇行する県道47号を先に進むとほどなく西に突き出た支尾根突端部で県道は再び大きく曲がる。その突端部、進行方向と逆側に上る傾斜のきついスロープがあり、その上り口に「住友共同電力 山根線3 /4」と記された送電線鉄塔巡視路がある。山根線3がスロープ方向を示す。3号鉄塔への巡視路。 後で分かったことではあるが、山根線4号はここから遠く離れており、また、実際歩いた感じでは4号を指す巡視路標識もなく、この標識の4号の表示は右方向(南)、つまりは川の上流方向を指しているだけのように思う。このような「なんとなく、こっちのほう」を指す巡視路標識は結構あった。

住友共同電力 山根線 3号鉄塔
よく踏まれた尾根筋を30分弱歩き高度を130mほど上げると住友共同電力 3号鉄塔があった。と、書いてはいるが、実のところ当日は鉄塔名がわからなかった。過日国領川を隔てた対岸の大永山の六地蔵、石鎚大権現に上ったときは、途次の鉄塔には鉄塔下に木製の鉄塔名を記した常識があった。で、この鉄塔も辺りを探したのだがそのような標識は何処にも見当たらず、3号なのか、それとも4号鉄塔なのかちょっと戸惑っていた。
そして、鉄塔名は鉄塔を支える四本の支脚(A,B,C,D)のB支脚に鉄塔名記したプレートが取り付けられていることがわかったのは3回目のトライが終わってからである。トライ当日に鉄塔名が確認できたのは、4回目以降であり、それ以前は確定できた鉄塔名をもとに推定し確認したものである。
支柱A-B-C-D
支柱の位置はAが電源側、つまり鉄塔番号の若いほうから見て左手前をA脚と呼ぶようで、そこから時計回りにB-C-Dと続くようである。A脚には鉄塔に上るステップがついていたとの記憶が残る。ということはステップのあるA支脚の左がB支脚ということだろう。

生子山城址へ
当初の予定では山根線の鉄塔を確認し県道に下り、それでよしと考えていたのだが、100m弱上れば主尾根の稜線に届くし、それよりなにより、地図をよく見れば主尾根稜線部にいかにも山根線鉄塔があるだろうと推測できる直角に送電線が曲がる箇所がある。そしてこれは本筋ではないが山根線3号鉄塔で南北に延びる山根線に東西に延びる送電線がクロスしており、その東西に延びる送電線は生子山城址の南の平坦部に立つ。県道からも視認できる鉄塔である。地図から推測すれば過日出合った物部線が国領川を渡り主尾根の稜線部で支えられているのだろう。
ということで山根線3号か生子山所城址へと上り、稜線に立つと推測される山根線鉄塔へと歩くことにした。
生子山城址
大きさからみれば砦といった風情ではあるが、築城年は南北朝の時代、松木伊賀守通村、あるいは松木越前守景村の名が伝えられる。
正平24年・応安2年(1369年)には河野氏の一族一条修理俊村がこの城に立て籠もり、四国守護として讃岐より攻め入った細川氏の軍勢と度々戦い、敗れて落城した。
天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐のときは、伊予へ侵攻した小早川隆景の軍勢を迎え撃つ為、城主松木三河守安村は、市内の金子山城主金子元宅に従い西条市の四国山地にある高尾城へ入り、野々市原の合戦で討死した。生子山城は残った少数の兵を率いた原伊賀守が激しく抵抗するも落城したという。
エントツ山の対岸にある内宮神社には松木三河守と原伊賀守を祀る社がある。祖父母に原伊賀守は先祖と言っていたが、そんなはずないだろう。
板の本四等三角点(標高300.4m)のあるピークは削平地となっており主郭があったとされる。3基のお地蔵さんの前の小祠は城主大明神と称され、天正の陣で討ち死にした松木三河守を祀るという。

住友共同電力 物部線182号鉄塔
一段高い主郭から下りると木のベンチなどがあり休憩地となっている。その北に鉄塔。過日大永山に上ったとき、主尾根への目安とした住友共同電力物部線183号からの送電線と繋がっており、物部線の送電線鉄塔であることは間違いない。が、前述の如く鉄塔名が支脚Bにあることを知らず番号を確認することはできなかった。
170号とする記事もあったが、183号との間に13本も鉄塔が立つとも思えない。あれこれ考えていたのだがすぐ下にあった巡視路標識で,どうも182号らしいことがわかった。

「住友共同電力3/182」巡視路標識
生子山城址から尾根の稜線を少し巻き気味に20mほど下る。結構道は急坂で虎ロープが張られている。と、足元に「住友共同電力3/182」の標識。「3」は先ほど出合った山根線鉄塔。「182」は生子山城址にあった物部線の鉄塔だろう。
踏まれた道ではあったので山根線3号鉄塔と繋いでみようと、少し歩き始めたのだが、本日の予定は山根線3号鉄塔を確認し、直ぐ折り返すつもりで家を出たため時間も遅く、引き返すことにした。

住友共同電力 山根線2号鉄塔

尾根の稜線を70mほど下ると「住友共同電力 山根線2号鉄塔」が立つ。前述の如くB視脚にネームが記されていることはこの時点ではわからなかったため、鉄塔の周囲に標識を探したが見つからず、当日は眼下のエントツ山の南麓に送電線鉄塔が見え、その鉄塔は山根発電所に繋がっているため、1号と3号の間だから山根線2号鉄塔と推測した次第。

大山積神社奥宮
そこから更に40mほど下ると大山積神社奥宮に着く。この下りも結構きつく虎ロープのお世話になった。 大山積神社はエントツ山の北麓にあり、別子銅山の氏神であり、そして別子銅山を礎として発展した住友企業グループの総氏神的な社と称される。
1691年(元禄4年)、住友家が別子銅山の採掘(稼行)をスタートさせる際、当時の住友家当主(住友吉左衛門)が鉱山全体の守護神とするため瀬戸内の大三島に建つ日本総鎮守・大山積神社より自ら分霊(わけみたま)を行った。また1973年(昭和48年)に別子銅山がその歴史に幕を閉じた際、住友家第16代家長である住友吉左衛門友成(ともなり)氏が自ら新居浜の現地を訪れ、地表下2,000メートルにおよぶ最下底の坑道へ最後に入ったのち、この大山積神社へ参拝し、長年の加護への感謝と別子銅山閉山の報告(奉告)を直々に行ったという。
住友と直接関係なく生まれ育った者として大山積神社と言われ思い出すのは、操業時、例年行事として行われていた大鉑(おおばく)祭である。毎年元旦にその年採れた最も立派な銅の鉱石(大鉑:おおばく)を住友家から神社へ奉献するという習わしであり、1973年の閉山時に奉献された最後の約300キログラムの巨大な鉱石は、今も残るというが、大山積神社境内に建てられている別子銅山記念館内に展示されている大鉑がそれだろうか。 ●ふと疑問。何故大山積神社が別子銅山の氏神とされたのだろう。
まず考えられるのは大三島の大山積神社は日本総鎮守といった格式を誇る、海の神・山の神であったことだろう。
山の神:銅山は四国(伊予)の険しい赤石山系にあり、その地域一帯の山々を支配する最高峰の神、すなわち大三島にある日本総鎮守・大山祇神社(大山積神)の力を借りるのが最も自然で、かつ不可欠であると住友家四代友芳らは考えた。
海の神:別子で採れた銅は、険しい山を越えて瀬戸内海の湊から大坂(大阪)の精錬所へ船で運ぶルートが前提であった。大山積神社は「山の神」であると同時に、瀬戸内海の水軍(村上水軍など)からも深く信仰された「海の神・航海の神」でもある。山での採掘と、海での輸送という2つの命がけの工程を守る神として、これ以上ない存在であったのだろう。
住友にとって大山積神社は、見ず知らずの他領であった伊予の深い山々へ入っていく際の、畏敬と祈りを込めた「地元の最高神への挨拶」という意味合いが強かったと言えるだろう。

エントツ山
奥宮に参拝し、参道を下る。鳥居傍の石碑には「新居濱牛車内中」、鳥居には「職三中」「鎔礪」などと刻まれる。銅山の職人の奉納のようだ。
参道を下り切ると直進する道と、右側に下りの坂道がある。直進しエントツ山に。通称「エントツ山」、正式名は生子(しょうじ)山(144.7m)。
生子山を「しょうじ」と呼ぶ由来は諸説ある。一説は、かつてこの山は「生こ子山(おいこやま)」と呼ばれていたようだ。古墳時代〜奈良時代頃にこの地方(東新地方)を開拓し、近くの種川町にある新高神社に祀られている「意伊古乃別君(おいこのわけぎみ)」より来るという。この「おいこ(生こ子)」が、時代が経つにつれて音読みの「しょうじ(生子)」へと変化していった、とする。
役職名「庄司(しょうじ)」に由来するという説もある。中世(南北朝時代〜戦国時代)にこの山に「生子山城(庄司山城とも書く)」が築かれたことに関連する説であり、麓に荘園を管理する、あるいは政治を司る役所や、その責任者である「庄司(しょうじ)」が置かれたことから、「庄司山」と呼ばれるようになり、のちに「生子山」の漢字が当てられたとする。実際に、歴史的な文献や記録の中には「庄司山」や、戯れ書きとして「障子山」と書き残されているものもあるという。
通称「エントツ山」の由来
山根精錬所
新居浜市の「えんとつ山」は、1888年(明治21年)に竣工した旧山根精錬所のレンガ造りの煙突跡に拠る。現在大山積神社のある場所につくられた山根精錬所から60mの煙道を通りこの20mの高さの煙突から排煙されていたという。
その山根精錬所は通常の精錬所とは異なり、当時廃棄されていた鉱石から硫酸などの化学薬品を回収し、鉄を取り出すための「湿式収銅法(湿式製錬)」の精錬所であり、官営八幡製鉄所に先立つこと7年前に操業された、日本の重化学工業の貴重な遺産といえる。 ここでちょっと疑問。この煙突の亜硫酸ガスの煙害が原因で、精錬所が瀬戸内の四阪島に移されたとのことだが、湿式製錬、つまりは湿式収銅法のプロセスは水に溶かすものであり、それでどうして亜硫酸ガスが発生するのだろう。チェックすると:
湿式収銅法の手順は
ステップ1.焼鉱(焙焼);鉱石を焼く
ステップ2.水への浸出(湿式工程)焼き終わった鉱石(焼鉱)は、銅が水に溶けやすい形(硫酸銅)に変化している。これを水(または希硫酸)に浸して、銅の成分だけを液体に溶け込ませまる。
ステップ3:鉄を用いた銅の回収銅が溶けた液体に「鉄(スクラップなど)」を投入すると、化学反応によって溶液中の銅が押し出され、底に沈殿する(これが沈殿銅=回収された銅です)。
ステップ4.残った「鉄」の利用銅を抜いた後に残る大量のカス(含銅焼鉱の残り)は、銅が抜けたことで「良質な鉄鉱石(製鉄の原料)」に生まれ変わる。これを製鉄所に送ることで、廃棄物から鉄資源を取り出すことができる。
これが湿式精錬所の流れであるが、亜硫酸ガスが発生するのは湿式工程に入る前段階の「鉱石を加熱して蒸し焼きにする(焙焼:ばいしょう)工程」のためである。鉱石はそのままでは水に溶けないため、鉱石を「焙焼炉(ストール)」という炉に入れ、熱を加えて蒸し焼きにする。この際、鉱石中の硫黄分(S)が空気中の酸素(O₂)と激しく反応し、大量の亜硫酸ガス(SO₂)を放出する。これが煙害の因となった。

エントツ山を下り県道47号に
エントツ山より下山道に戻る。下山道は煙突から少し東に戻り、鉄の防止策のすぐ先から南麓を下る道があり、そこを下れば山根線鉄塔1号にいけるのだが、1号鉄塔と山根発電所は最後のお楽しみ、といっても散歩の折に常に目にしており、場所もわかっているため、最後の仕上げに残しておくことにし、奥宮参道口のところにある分岐から通常の登山道というか坂道をゆったり県道に下り、本日の散歩を終える。


2回目 山根線鉄塔確認は空振り。犬返しまで行き、
尾根道稜線をエントツ山まで折り返す

2回目、どこから攻めるかちょっと考える。国土地理院の地図を見ると立川集落の少し南、ヘアピンカーブを繰り返しながら上ってゆく昔の牛車道のヘアピン部から少し入った沢筋辺りを山根線と東西に交差する送電線網が見える。国領川左岸の大永山から右岸のエントツ山へと続く主尾根へと東西に続く送電線は住友共同電力西条連絡東線。過日大永山の六地蔵と石鎚大権現を見つけるため山に入ったおり確認した西条連絡東線19号鉄塔と繋がっているので間違いはない。で、この西条連絡東線と山根線が交差しているあたりに、先回の3号鉄塔と同様に送電線鉄塔が立っているのでは、と思った次第。結果は推測違いではあったが、その当日の顛末をメモしておく。

牛車道上り口跡に駐車
沢筋へと入るため牛車道に向かう。牛車道のスタート地点は立川集落の国領川に架かる龍川橋東詰、県道47号の山側に立つ「牛車道跡・眼鏡橋跡」の傍。そこから牛車が鉱石を運ぶため緩やかにつくられた坂を、ヘアピンカーブを繰り返しながら銅山峰へと上ってゆく。 「牛車道跡・眼鏡橋跡の案内には「眼鏡橋は、明治11年(1878)に牛車道の一環として立川仲宿入口の国領川に一部花崗岩づくりで架けられた。その堅牢さから不朽橋と命名された。明治32年(1899)の別子大水害のときに、頑強であるが故にダムの役目を果たし、濁流を受け止めた後に流出した」とある。眼鏡橋は現在の龍川橋の少し上流に架かっていたようである。
●立川中宿
1881(明治14年):別子記念館所蔵
立川の集落にはかつて立川中宿があった。立川中宿は元祿15年(1702)に開かれた、とある。中宿を開いた理由は銅の運搬路の中継地を必要としたためである。 当時この地、銅山峰北麓の立川山村は西条藩領であった。この地に幕府天領の銅運搬路が開かれるまでの顛末をまとめておく。
牛車道
銅山開開坑当時、銅山峰の南嶺は西条領であり、大阪屋の差配する立川銅山も既にあった。ために別子銅山の鉱石は銅山峰を越え最短距離で浜の湊に運ぶことはできず、おおきく東に迂回し小箱峠などを越え、浦山川筋に下り、土居町(現在四国中央市)の天満より吹屋(精錬所)のある大坂へと送られていた。
この不便さをするため住友家は幕閣、勘定奉行を務めた萩原重秀などと交渉し、北嶺の西条藩領を幕府天領とし、その代わりに西条藩に替地を用意した。四国中央市の海岸沿いに繰り返し西条藩領があるのはそのためである。西条藩領を示す境界石も残る。
土居に大廻りすることなく、銅山峰南嶺から北嶺へ、そして山を下り新居浜の浜に鉱石を運ぶルートはできた。が、その運搬は「仲持さん」という人手に任せていた。
牛車道は、開坑以来、「仲持さん(立川中持ち)」という人手に任せていた鉱や日用品の運搬を牛に変更するために建設されたもの。仲持ちの由来は「山と海の間の仲立ちをする」ということにある、という。
明治9年(1876)に開削開始するも、翌年の西南の役の影響などで一旦中止。その後明治11年(1878)、住友家初代総理事である広瀬宰平翁の尽力により再開。明治13年(1881)に銅山峰から石ヶ山丈を経て立川までの牛車道が完成した。 この牛車道は明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれ、さらには、さらには明治26年(1893)には第一通洞の北嶺出口の角石原から石ヶ山丈までの5キロほどをむすぶ日本最初の山岳鉱山鉄道が敷設され、石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下されることになった。そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した下部鉄道により市内へと運ばれることとなり、牛車道は運搬の主役の座を降りることになる。
〇立川精錬所
明治2年(1869)、政府が山元での最終精錬を認めたため、別子銅山支配人広瀬宰平は、立川精銅所を新設し、大阪鰻谷の銅精錬にとって代わった。これは、徳川幕府が滅亡したため専売機関である銅座がなくなり、自由に企業活動ができるようになったため、とある。明治9年(1876)、組織改革によって立川出店となり、さらに明治15年(1882)、立川分店となって、精銅方・会計方・運輸方を置いた。
しかし、別子鉱山鉄道の完成(明治26年;1893)を間近に控え、明治24年(1891)4月、端出場-石ヶ山丈間の複式索道が完成すると、立川分店の運輸業務は、その役割を終える。 さらに、明治24年(1888)に操業を開始した惣開精錬所の型銅生産が軌道に乗ると、粗銅はすべて同所で型銅に精製されることになり、明治24年(1891)5月、立川分店は新居浜分店の出張所となった。
いつだったか、立川精錬所の痕跡でもないものかと眼鏡橋西詰の集落、かつて保育園のあった広場を彷徨っていると、その遺構は見当たらなかったが、広場傍に明治32年(1899)の別子大水害の供養塔が立っていた。

牛車道から沢筋に入ると山根線4号鉄塔の標識
牛車道を上りはじめ、最初のヘアピンを曲がると道脇に地蔵尊が祀られる。先に進み2番目のヘアピンを曲がり、沢筋にあたる辺りまで進みそこのヘアピン部より沢筋に入る。 すぐに「住友共同電力4」の標識。これで4号鉄塔まで連れて行ってくれると推測が当たったようだと、ほくそ笑んだのだが、ことはそんなに甘くはなかった。

地蔵尊
少々荒れた沢筋左岸を少し進む。右岸に斜めに上る道が見える。小滝とも言えぬような岩場の前で谷筋の切れ込みがなくなり、成り行きで右岸に移り坂を上ると道端に地蔵尊が佇んでいた。



「住友共同電力 西条連絡東線22」標識
道を進むと分岐点。そこに標識があり「住友共同電力No.22」、その下に木に手書きの「西条東線No.22」という文字が読める。西条連絡東線のことだろう。指示は上り方向を示す。唐突に表れた西条連絡東線の案内に少々戸惑う。分岐の左方向(右折せず直進)が「山根線4号」の鉄塔の方向だと思うのだが、何の指示もない。西条連絡東線の指示方向に上っていけば途中から山根線4号の標識があり左に折れるのだろうと結構きつい尾根筋を上る。
後日国土地理院に記される鉄塔マークに印をつけ、衛星写真でそのあたりをチェックすると木が伐採され開けている場所がある。分岐点に案内文字はなかったのだけど「No22標識」のある分岐点を標識に従い右に折れず、そのまま直進すれば山根線4号鉄塔に出合えたのだが、後の祭りではあった。

主尾根稜線部に「住友共同電力 No.21 /物部線No,182」巡視路標識
そのうち4号鉄塔への標識が出てくるだろうと急坂を上る。結構上ったが標識はない。GPSで位置をチェックすると主尾根稜線部近くまでのぼっていた。右手、木々の間から鉄塔が見える。位置からすれば西条線連絡東線の鉄塔だろう。21号かもしれない。
ここまで上ってしまえば下るのもウザったいし、4号標識もなかったこともあり、山根線鉄塔探しの方針を変更し主尾根稜線まで上り、久しぶりに犬返しにいくことにした。


尾根稜線部に乗るとそこには「住友共同電力 21 /物部線No,182」巡視路標識」があった。21は今上ってきた方向を指し、物部線No,182は尾根筋を指す。先回生子山城址近くで見た物部線鉄塔は182号で間違いなかった。
で、「住友共同電力No.21」をどう解釈するかだが、沢筋からの上り口の標識は22号を案内するものであった、21号はそこより西ということになる。ということは21号鉄塔は、国領川左岸の大永山の山麓にあるのだろう。これば最初の県道47号脇にあった「山根線No.3/No,4」のNo.4が実際の巡視路案内ではなく、方向だけを示していたことからの推論である。

西条連絡東線22号鉄塔
尾根筋を犬返し方向へ少し進むと木の間かから見えていた鉄塔があった。写真を撮り忘れたが、木の間から見えていた鉄塔ではあろう。
西条連絡東線
西条連絡東線がどこからどこに繋がっているのかトレースする。まず。尾根を越え東へ向かう送電線は西谷川、種子川を越え、松山道新居浜インター辺りで北に折れ、平地に出る。その後は観音原を越え国領川筋に戻り川に沿って瀬戸内へと向かい、海岸線に近い新高橋に先で国領川を越え、国領川傍にある「東火力発電所」(または隣接する東変電所・新居浜変電所などの基幹共同ネットワーク)と繋がる。
西に向かう送電線をトレースすると大永山を越えた送電線は松山道西条インターの南の山地でその方向を変え、北西に向かい四国山地の裾、室川そばの「J-POWERハイテック四国事業所」敷地と隣接する変電・開閉設備(四国電力または住友共同電力)と繋がる。
西条市飯岡にあるこの「J-POWERハイテック(電源開発グループ)四国事業所」の敷地やその至近に送電線が向かっているように見えるのは、電力インフラ特有の理由にある。西条連絡東線の西側の本来のゴールは、四国電力送配電の基幹変電所である「西条変電所」、あるいはその周辺にある住友共電の連絡開閉所であり、ここで四国電力のネットワークと電力を融通(連絡)し合っている。
なぜJ-POWERハイテックに繋がっているように見えるのか?ということだが、これはJ-POWERハイテック四国事業所がある飯岡・船屋地区は、四国電力の西条変電所や各種高圧送電線が非常に高密度で集積している「送電網の巨大十字路」のようなエリアであり、さらに、J-POWERハイテックという会社は「送電線や変電所の建設・メンテナンス(保守管理)を行う専門会社」ということ。四国各地の主要な送電線を管理する拠点(四国事業所)がまさにこの送電網の結節点(西条変電所のすぐ近く)に構えられているため、地図上や現地でトレースすると、同事業所のすぐ脇や上空を通り、周辺の巨大変電設備へと吸い込まれていくようにみえることになる。地図を見れば、6本の送電線網がJ-POWERハイテック四国事業所と結ばれているように見える。

四国電力西条線20号鉄塔
尾根筋稜線は犬返しへと210mほど高度を上げることになる。鬱蒼とした木々の中を進むが踏まれた感はなく、尾根筋をはずさないようにと成り行きで進む。木々には白いテープがいくつもまかれているのだが、登山道案内ではないように思う。
犬返しへと残りの上り50m程度になった尾根筋が突然開かれ送電線鉄塔が立つ。送電線マップでチェックすると四国電力西条線20号鉄塔のようだ。
四国電力西条線
西端は西条市飯岡のJ-POWERハイテック四国事業所に隣接する四国電力西条発電所。東端は四国中央市土居町上野にある東予変電所。東予変電所から西条変電所に送られるわけだが、電力源は伊方原発のよう。伊方原発でつくられた500kVという大容量の電力を、東予変電所で187kVに変電し西条変電所に送る。また東予変電所は香川の讃岐変電所にも送電する四国東部の要となる500kV/187kV変電所である。
伊方からの送電ルートは
【伊方発電所】> (四国中央西幹線: 500kV) > 【川内変電所】(東温市)>(四国中央幹線: 500kV) ※西条市の山側をスルー > 【東予変電所】(四国中央市土居町) > (四国中央東幹線: 500kV) > 【讃岐変電所】(香川県綾川町方面)

種子川林道標識
四国電力西条線のすぐ先に「種子川林道」の標識が木に括られている。犬返しの南には種川ここ筋に下りる快適な林道があるが、里に出るのはここから下りればだいぶ距離は短縮できるけど道の状態はどうだろう。ちなみに犬返しの南の林道をおり、西谷川筋を詰めると魔戸の滝がある。

犬返し
種子川林道分岐から標高を50mほどあげると犬返し。ベンチの前に吊るされる鐘は山好きの弟が、亡くなった山仲間を弔うために置いたもの。下山時、車の中で急性心不全のためむなくなったという。






また、犬返しと刻んだ銅板の標識もあるが、これも弟が置いたもの。ここに限らず各所に標識を建てている。立てることも、思い銅板を運び上げることを思うと大変だろうが、それとともにメンテナンスも大変そう。経年劣化でかすれてきた文字を自分で彫り直す、誰かが記念写真を撮るため引き抜いた山頂標識を元に戻すなど、ひとりで黙々とやっている。

犬返しの険
ベンチで少し休んだ後、険しくて犬も怖くて引き返したという犬返しの核心部に行ってみる。大岩の岩壁を、ロープを頼りに断崖先端部に進む。崖に向って少し傾斜があり、ロープがあっても腰がひける。ここだけでも結構怖いのだが、核心部はその先。崖端の傾斜した平場から一段低いところで大岩をトラバース。ロープにしがみ付くへっぴり腰を弟に笑われたことを思い出す。
高所恐怖症のわが身には結構こたえる箇所であり、早々に鐘のところに引き返す。写真では怖さが伝わらない。

尾根筋稜線をエントツ山に向かって下りてゆく
今きた道を折り返し、「住友共同電力 No.21 /物部線No,182」巡視路標識まで戻る。ここから生子山城址までの間は見晴らしのいい展望ポイントが2か所ほどある。また、なにゆえか住友の井桁マークが彫られた岩もあった。
稜線部も大岩が露出した箇所も多く、変化にとんだ稜線となっている。上述巡視路標識から30分程度で生子山城址に着く。後は先回同様大山積神社に向って下りていくが、神社手前では成り行きで下りていくと奥宮の横に出た。虎ロープの張られた急坂を上らなくてもいいルートもあった。 第二回はここまで。結局山根線の送電線鉄塔はひとつも見つからず、犬返しへの行き帰りハイキングといった1日となった。


三回目 山根線8号鉄塔を見つける

先回の空振りに懲り、今回は山根線に四国電力西条線が東西に交差する辺りを衛星写真で確認。四国電力の鉄塔が大きいためか、衛星写真にも鉄塔らしき像が映り、そのそばにも鉄塔ははっきりしないが開けた場所が移っており、山根線鉄塔があってほしいとの思いを抱き出かけることにした。
ルートはいつだったか牛車道を歩いたとき上り口から龍河神社に行く途中2か所ほど山入り道があり、国土地理院地図には破線ルートが描かれており、しかもそのルートが鉄塔の立つ辺りへと続いている。今回は破線ルートを辿れば楽勝と思ったのだが、ことはそれほど簡単ではなかった。荒れた竹藪、踏み跡不明で急斜面を這い上がるといった有様。なんとか山根線の鉄塔はひとつみつけたという日となった。

牛車道から山入り
県道47号の牛車道降り口に車を停め、ヘアピンカーブを繰り返す牛車道を進む。牛が上れるように緩やかな傾斜でつくられており、カーブまでの距離は結構長い。先回沢に入った3回目のヘアピンカーブを曲がるとそこから先は龍河神社参道を横切り南進する。 山入り道は3番目のヘアピンカーブを曲がり、沢を越えたすぐ先とその先の龍河神社手前の2カ所ある。5回目のトライの帰路わかったのだが、龍河神社手前の道は四国電力の巡視路として整備されていた。が、当日はそんなこと知る由もなく手前の沢を越えた先から入ることにした。

竹藪に行く手を阻まれる
山入りしようと思うのだが、地図に記された箇所から山入りできそうにない。少し先に進むと山へのアプローチ口があり、そこから山入りした。
が、これが大変なルート。山入りしてほどなく前面は滅茶苦茶に荒れた竹藪。倒れた竹が重なり合い前進しやすい場所を探しながら上ってゆく。

「住友共同電力 No.7 /No.8」標識
竹藪地帯を抜けると民家跡といった石垣のような箇所もあり、踏まれた感のある道に出るがそれもすぐに切れ、GPSで国土地理院地図に描かれたルートに戻ろうと急斜面を這い上がり軌道修正。が、踏まれた道があるわけでもなく、後は運を天に任せ、鉄塔ある付近へと成り行きで斜面を這い上がる。
斜面を這い上がると突然踏まれた道に出た。と、そこに偶然にも「住友共同電力 No.7 /No.8」の標識。7号は引き返し、8号は先に進む方向を示す。地図の位置からすれば目的の鉄塔は8号であろうから先に進む。前面が開けていたというのも大きな理由。



住友共同電力8号鉄塔
少し先に少し先に進むと鉄塔がふたつ並ぶ。四国電力と住友共同電力の送電線鉄塔。 下の小さいのが住友共同電力山根線8号鉄塔。未だこの時点では支脚Bに鉄塔名が表示されていることは知らず、巡視路標識からの推定ではあった。

四国電力西条線21号鉄塔
山根線8号鉄塔の少し上に立つ。「四国電力 西条線 21」の標識もあったので確定。この鉄塔が確定したので主尾根稜線部の四国電力鉄塔を20番としたわけである。

尾根道と立川への下り道の分岐点
本日の目標であったこの地の鉄塔は見つかった。近くにありそうな(実際あったのだけど) 山根線7号鉄塔は衛星写真で確認といた事前準備をしていないため、ここから引き返すか、150mほど上り主尾根稜線に乗り、先回とは逆方向から犬返しをつなごうかとちょっと悩み、結局犬返しに向かうことにした。
踏まれた道を少し上ると分岐点。「住友電力 山根線」は読めるが番号はわからなかった。で、この分岐は尾根筋と龍河神社へ下る道の分岐点。後日わかったのだが、この道は四国電力の巡視路ともなっているようで、よく整備されている。それはともあれ、分岐点を尾根方面へと上る。

「住友電力 山根線 No.8 /No.9」巡視路標識
少し上ると巡視路標識。9号方面へは実線で山麓をヘアピンカーブで曲がりながら上ってきた牛車道と繋がっている。9号の指示が実際の巡視路標識か、いっまでいくつもあった、おおまかな方向性を示すものか不明のため、トレースは見送る。
いつだったか、牛車道を立川集落の上り口から上部鉄道の終点石ケ山丈まで歩いたことがある。3時間ほどかかった。帰りは同じ道を戻るのもなんだかなあ、と、石ケ山丈のちょっと下にある旧端出場発電所に水を落としていた水圧鉄管の落とし口、水に混じった砂を除く沈砂池跡から一直線に端出場発電所に落ちる水圧鉄管跡を滑り下りたことがある。一直線に下りるのだから1時間もあれば十分かと気楽に鉄管水路跡に入ったのだが、藪や急坂の作業石段に難儀し、結局3時間ほどかかってしまった。牛車道を大人しく戻ればもっと早く下りることができただろう。

石垣の先で道は消え尾根に這い上がる
先に進むと石組みが残っており、そのあたりは道も踏まれているのだが、その先で道は消える。後は尾根道に向って這い上がることとなった。尾根道を歩きながら注意深く探したのだが、尾根から下るルートは見つからなかった。





犬返し
大岩を迂回し(戻りは直登)、ロープのついた大岩を上れば恐怖の崖面トラバース地点にでる。上るほうが下るより怖さはないが、それでもへっぴり腰であることに変わりはない。







牛車道の上り口に戻る
うまくルートに乗れば、しばらくは快適
尾根から下り口を探すがどこにも見当たらない。適当な、降りやすそうな斜面から尾根を離れ、GPSのトラックルートに外れないようにと注意しながら山根線8号鉄塔まで戻る。そこから先に下りはふまれた道が結構続く。上りの斜面這い上がりと大きな違いだ。一筋ルートが異なるだけで大変な違い。
民家が立っていたであろう石垣前などを結構長い距離を軽快に下るが、踏まれた道は最後まで続かず、上りのルートを辿っても荒れた竹藪に当たるだろうから、牛車道に向かって下りやすい箇所を探して成り行きで進み、なんとか牛車道に出た。 今日は目的の山根線8号鉄塔を見つけることができたのでよしとする。


四回目 山根線9号、4号、山根線と繋がる東平線6号、7号を見つける

3回トライで、2回目は空振りではあったけど、山根線3号、2号、1号、そして8号の場所の特定はできた。それと少々学習し、鉄塔名は鉄塔の支脚Bに記されていることもわかった。ここからは鉄塔名も確定できる。
四回目は山根線の終点である端出場開閉所に直角に曲がって繋がる箇所をまず抑え、そこから視認できる鉄塔、可能性としては9号鉄塔だが、それができればそこを狙い、でなければその時に考えよう、と常の如くお気楽に家をでた。

端出場開閉所
山根線は山根発電所と端出場開閉所を繋ぐ。端出場開閉所は昔の端出場採鉱本部、現在は道の駅・マイントピアの対岸、国領川の右岸にある旧端出場発電所の北側にある。開閉所とは各発電所からくる電力のルートを切りかえる(スイッチング;開閉)機能および高電圧を変圧する変電機能をもつ施設。山根線や上流の鹿森ダムにある東平(とおなる)発電所から出る電力を集め、大永山を越えて大生院辺りで山地を下り、磯浦変電所と繋がる。
ちなみに完成年月は東平発電所、山根発電所、端出場開閉所のすべて昭和41年(1966)141月である。

端出場発電所が建設された経緯
いつだったか旧端出場発電所への水圧鉄管を水で満たすため、東平で集めた水を水圧鉄管の落とし口(実際は鉄管内を水で満たすわけで、落とすわけではないようだが)である石ケ山丈近くの沈砂池まで水を送る導水路跡を歩いたことがある。険路・難路、岩壁を穿って発電所用の導水路を切り開いていた。そこまでして導水路を通した理由、すなわち旧端出場発電所の建設の最大の理由は銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になったため。明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW)」、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」建設の理由である。 また、元は銅山峰南嶺にあった別子銅山採鉱本部が端出場に移った経緯は、採鉱箇所の深化と技術の進化により南嶺と北嶺を繋ぐ採鉱作業トンネル(通洞)が江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み通じたことにその因がある。第一通洞が南嶺と北嶺を結ぶと採鉱本部が標高1100m辺りの南嶺の東延地区に移り北嶺の角石原と結び、第三通洞が銅山峰の南嶺と北嶺をつなぐとともに標高750mの北嶺の東平地区へと最高本部が移動し、大正4年(1915)には第四通洞が標高175m辺りの端出場に通じたことにより、端出場に採鉱本部が移された。

旧端出場発電所水圧鉄管跡を上る
国土地理院地図を見ると端出場開閉所から南西に線が伸び、そこから南北に送電線が続いている。北に向かうのが山根線、南に向かうのが国領川の上流、鹿森ダムの貯水湖にある東平発電所より出る住友共同電力 東平線である。
国土地理院の地図をもとに山根線と東平線が合流し端出場開閉所へと向かう地点に向かう。 現在は整備された県道47号から入れる旧端出場水圧鉄管跡の見学コースに入り、水圧鉄管の台座などを見やりながら巡視用のためかと思える石段を100mほど上ると石垣で行き止まり。石垣に沿って右へ上ると踏まれた道に出る。牛車道である。

住友共同電力 東平線6号鉄塔


位置的には牛車道の上のはずなのだが、下方向に鉄塔らしき影が見え、一度確認に下るが県道の向こうの建屋の「影」であった。鉄塔ばかり気にしていると、なにでも鉄塔に見えてくる。気を取り直し牛車道まで戻ると、尾根筋が牛車道に落ちる角に「住友共同電力No.6」の巡視路標識。
整備された坂を上り鉄塔名を確認すると山根線ではなく東平線6号の鉄塔となっていた。・あれ?どういうこと?
メモの段階でわかったことではあるが、「山根発電所」から伸びている「山根線」と合流する箇所が「東平6号」になっているというトポロジー(接続関係)は、どういうこと?と思ったのだが、これはそれほど珍しいことではないようだ。
別々の名前がついた送電線(東平線と山根線)が山の中で合流する場合、そこから先は2つの路線の電線を1本の鉄塔に一緒に架ける「共用鉄塔(多回線鉄塔)」となるということであり、その合流ポイントの鉄塔に対して、東平線としての管理番号である「6号」が与えられている、ということのようだ。
すこし高度のある東平6号鉄塔から、どこかに鉄塔が視認できないかと眺める。と、足元というか端出場開閉所と東平6号鉄塔の間、県道47号の山際に鉄塔が見える。また、少し北、マイントピア別子へと国領川を渡る橋の東の尾根筋に鉄塔が見える。こちらは山根線の鉄塔だろう。位置からすれば牛車道を進み、龍河神社を越え、鉄塔の立つであろう尾根筋を成り行きで這い上がれば行けそうだ。いい情報が手に入った。東平6号線の下に見えた鉄塔を確認した後、その鉄塔を追っかけてみることにする。

住友共同電力 東平線7号鉄塔
東平線6号鉄塔から牛車道に戻り、観光用に整備された旧端出場発電所への水圧鉄管跡のステップを県道に戻る。鉄塔はそこから少し北、県道から少し入った小高い場所に立っていた。上り支脚Bに記されたネームには「東平線7」と記されていた。
東平発電所
東平線の始点東平発電所は国領川の上流、かつての遠登志渓谷に昭和38年(1963)建設された鹿森ダムの貯水湖にある。鹿森ダムの水を使った発電所ではないようだ。国土地理院の地図を眺めると東平発電所から水圧鉄管らしき実線が南に延び、その先は破線(知かトンネルだろう)が銅山峰を越えて吉野川水系銅山川に建設された別子ダムと繋がっている。 約4.5kmに及ぶ長大な地下導水路トンネルを通り、日本国内の一般水力発電所(揚水発電を除く)の中で第2位という驚異的な高落差(599.7m)をもつ水圧鉄管を銅山川(別子ダムの水)で満たしている。
なおまた、東平発電所で使われた銅山川の水は鹿森ダムに貯水され、そこから地下導水路で山根発電所へと供給されている。山根発電所を見に行ったとき、上へと続くステップがあった。ステップは水圧鉄管に沿って続いていると思うのだが、立ち入り禁止だろうからと上りたい気持ちをぐっと抑え引き返したことがある。

視認できた鉄塔の場所に向かう
東平線6号鉄塔から視認できた鉄塔に向かう。場所は牛車道から這い上がるのがよさそう。東平6号鉄塔側からでも北の龍河神社側から歩いても距離はほぼ同じ。東平線6号側から行くには水圧鉄管炉跡を再び上らなければならない、かといって龍河神社の参道石段も強烈に長い。どっちもどっちであるが、龍河神社側から牛車道を進むことにした。

龍河神社参道石段前のスペースに車をデポ
県道47号を下り龍河神社参道石段下の県道沿い駐車場に車をデポ。 石段を上る。287段あるとも聞く。長い階段を上り、本殿・拝殿が近くなったあたりで道が参道を横切る。右手山側は土径ではあるがよく踏まれている。ここは何度も歩いている ので、勝手知ったるとの思いである。
龍河神社
「リュウカワ」神社と読むようだ。新居浜市誌に拠れば、「龍河神社 角野立川 龍古別命、高おかみの神、外数柱の神を祀る。御諸別君武国凝別命の子孫に当たる龍古別命がこの地立川に入り、既に大和時代において鉱山の開発に努力されたと伝えられている。
当社は文化年間及び天保年間に火災に罹り、現在の社殿は天保9年に再建されたものである」とある。
龍古別命(たつこわけのみこと)は、太古の時代、新居(新居浜市)・宇摩(四国中央市の西部)・周桑(西条市の西部)を治めていた武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)の子孫で、国領川上流地域、今日の新居浜市角野近辺を治めていた。別子の地名の由来も、「別の子が治める地={別子}との説もあるようだ、 「高おかみ(神)」は、龍神さまで国領川の水源を司る神とも伝えられる。「山の尾根筋の神」との説もあるが、尾根筋=川の水源、と考えれば同じかも。
集落の立川は、もとは龍古別命からだろうか「龍古」と呼ばれていたが、川に竜が住んでいるとの伝説から「竜河」更に立川となった、と言われる。

住友共同電力 山根線9号鉄塔


龍河神社南へ牛車道を進む。20分弱で沢にあたる。昔は牛が渡る橋があったのだろうが崩れて今はない。一度沢に下り、再び牛車道に戻る。それほど大きな沢ではないので楽に渡れる。蛇足ながら少し先にもう一つ沢がある。下り口に「女 子供は無理」とのこのご時世「**ハラ」に辺りはしないかと思える案内があった。



それはともあれ、鉄塔マークは沢を詰めた辺りにある。とりあえず沢に沿って上り。鉄塔マークに着くが塔はない。地図の鉄塔マークにすべて鉄塔があるわけでなない。衛星地図で確認した場所は、送電線を少し先に進んだところに開けたところがある。鉄塔マークはないが鉄塔はそこだろうとトラバース。鉄塔を発見。山根線9号とあった。
戻りは成り行きで下る。どこに下りても牛車道に出るわけで至極安心。結局は上り口とそれほど離れてはいないところに下りていた。
そこから龍河神社の車デポ地に戻る。

山根線4号鉄塔を追っかけ牛車道から再び沢筋に入る
時間もあったので、2回目空振りに終わった鉄塔を探しに行く。県道47号から見たのだろうと思うのだが立川の県道47号脇にあるキリスト教教会に続く尾根筋に鉄塔が見える。これもあってか2回目に標識に従い上れば鉄塔に出合うと思い込み、見事空振りに終わったのだが、その後、国土地理院地図の鉄塔マークのある所に印をつけ、衛星写真で開けた箇所、そして鉄塔らしき姿が写り込んでいるのも確認済み。位置から言えば、牛車道より沢に入り、標識に記載はなかったが、「住友共同電力No.21」標識で右折することなく、直進すれば鉄塔に着きそうに思う。
ということで、車を牛車道上り・下り口近くの駐車スペースにデポし「山根線4号鉄塔あれかし」と願いながら牛車道を進み、沢筋に入る。

「住友共同電力 No.21」標識を右折せず直進
少し進むと先回同様「住友共同電力No.21」右折の分岐点に。そこに標識はないのだが4号鉄塔は直進方向であろうと直進ルートをとる。

「住友共同電力山根線 4」右折の標識
少し進むと「住友共同電力山根線 4」右折の標識があり右折し、上り方向を指す。






「住友共同電力山根線 4」左折の標識
そのすぐ先、「住友共同電力山根線 4」左折の標識。ゆるやかに左に上る道も見える。標識で左折し踏まれた道を進むが、ほどなく道は消え、木々の生い茂った箇所となる。そこには石垣が組まれ、上段を進むのか下段を進むのかよくわからない。取り合えず上段のそれほど激しくはないが藪っぽい箇所を突き抜けると前面が開け鉄塔が見える。

住友共同電力 山根線4号鉄塔
少し高いとこころに立つ鉄塔に近づき、支脚Bに記載される「山根線4」を確認。「住友共同電力 山根線No.21」の標識に「山根線No.4」の指示さえあれば、すんなり行けたと思うのだが、なぜだかその指示がなかった。









「住友共同電力 山根線4/5」の標識
鉄塔から来た道筋を戻る、途中石垣の組まれた箇所、生い茂る木々に入り込む手前に「住友共同電力 山根線4/5」の標識。「5」は来た道の方向を示す。明確な巡視路標識ではなく、方向を示すだけのものだろう。




左岸の道を少しチェックし牛車道に戻る
来た道を沢まで戻る。来たときはわからなかったのだが沢を左岸から右岸に渡る所に、左岸を折り返して上る道が見えた。この道を進めば5号鉄塔の標識でもあるかと、少し進んでみたのだがそれらしきものはなかったため引き返す。

これでのトライで位置が分かった山根線鉄塔は1号、2号、3号、4号、8号、9号となった。後は5号、6号、7号を残すのみである。まあ、冷静に考えれば何の酔狂あってこんなことしているのかよくわからない。


五回目 山腹をトラバースして山根線5号、6号、7号鉄塔を確認

四回のトライで、2回目は空振りに終わったが、住友共同電力山根線の鉄塔は1号、2号、3号、4号、8号、9号の位置確定ができた。残すは5号、6号、7号だが、この3基は国土地理院の送電線に沿って山腹をトラバースして一気に片づけるのが最良の策と思えた。というのも地図に鉄塔マークが記されていても、実際塔がないことも多いからである。で、送電線に沿って進めば鉄塔にあたるだろうと考えた次第。
とはいえ、それらしき箇所は前もって調べておこうと、国土地理院地図の鉄塔マークのある個所に印をつけ、そのあたりを中心に衛星写真で森が切りひらかれているところを探した。 その結果4号、8号鉄塔の間に3か所開けた箇所が見つかった。ひとつには鉄塔らしき姿も写っている。全て鉄塔マークから離れたところであった。
鉄塔の場所はなんとかあたりがついた。あとは、地図に描かれている送電線をトレースしていけばいいだけ、とは思ったのだが、単なるトラバースでも地形の制約で送電線真下を進むことは結構難しく、特に沢筋など、計画では突っ切ればいい、と思っていたのだが、これが思いのほか深く、とても直進などできない。そこは大きく迂回するなどあれこれの苦労はあったが、衛星写真でチェックした開けた箇所には必ず歩をすすめ、結果3つの鉄塔すべての位置を確認することができ、5回目にして山根線の鉄塔がつながった。

住友共同電力 山根線5号鉄塔



牛車道上り口(下り口)脇のスペースに車をデポ。これで三度目。牛車道
から沢に入るところまでのんびりと歩く。牛のため傾斜を緩くしている分、それぞれのヘアピン曲がり角までの距離は長い。
やっと沢へと入る。左岸を進み、4号鉄塔に向かった時のように右岸に渡る箇所で、右岸に渡ることなく左岸を折り返し君に斜めに緩やかに上る道に乗る。結構踏まれており、ひょっとすると5号鉄塔への巡視路?との淡い期待はすぐに消える。なんだかあらぬ方向へと道は続くようで、途中から山に取り付く。




目指す箇所は確認しており、GPSを頼りにその箇所へと100m弱上る。と前面の木々が少しまばらになり、開けた地が近づいた予感。その先、森にぽっかりと開いたところが現れる。目を凝らすが鉄塔は見えない。開けた地をGPSの推定位置の方向に進むと、開けた地の北端近くに鉄塔が立つ。支脚Bには「山根線 5」とあった。第一弾ゲット。







住友共同電力 山根線6号鉄塔

6号鉄塔の推定位置は5号鉄塔とそれほど離れておらず、標高もほぼ同じ。送電線に沿って直進しよう、と思うが直進は藪が激しく難しそう。巡視路でもなかろうかと探すと鉄塔の南東に先端部の赤い電力会社のポールが立ち、指示文字はないがその先は開けている。 





少し高度をあげて巻き気味に道は進む。送電線と離れるため、ときに空が開けた箇所では上を見上げ送電線の進む方向を確認する。オンコースのよう。
と、突然鉄塔が現れる。山根線6号鉄塔だった。











住友共同電力 山根線7号鉄塔
6号鉄塔から7号鉄塔へのルート、これが本日の核心部。ルートを探す。鉄塔南西端に多くの白いテープが巻かれている。その先は結構急な崖となっている。白のテープの意味は不明だが、ともあれ、別のルートを探すと南東端に南に進むルートらしきものがある。取りあえず入ってみる。
少しの間トラバース気味に進むが、「住友共同電力 山根線7」の巡視路標識が斜め上方向を指すあたりから沢を大きく迂回するルートとなる。道も険しくなり、ワイヤロープが随所に張られるようになってくる。沢との段差も大きい。等高線で見た感じで沢は直進すればいい、などど考えていたが、とてもそんな気は即失せる深い谷筋である。
沢筋を迂回するため大きく回り込み、下りの箇所もワイヤロープ、そして沢筋に下りる岩場には鉄の梯子が整備されていた。沢の源頭部近くに下りてすぐ、住友共同電力 山根線 6 / /7」の巡視路標識があった。7号鉄塔は衛星写真で推定したところに間違いなさそうだ。 ここまで6号鉄塔から30分ほどかかっている。








そこから先、40分ほど歩いただろうか荒れた竹藪に入る。GPSを頼りに送電線に沿って竹藪から10分ほどで前面が開け鉄塔が現れる。山根線7号鉄塔だ。これで本日目標とした5,6,7号鉄塔に出合うことができた。





住友共同電力 山根線8号鉄塔
ここからは帰途に入るが、途中8号鉄塔と推定している鉄塔に寄って、その鉄塔が8号鉄塔であることを確認する。8号鉄塔に出合った時は支脚Bにネームが記されていることを知らなかったため、間違いないとは思うが念のため。
7号鉄塔の先端の赤い電力会社のポールが立つところから先に進むと3分ほどで木々の間から鉄塔が見え、そこから10分ほど歩くと住友共同電力と四国電力の二つの送電線鉄塔の立つ場所に出た。念のため住友共同電力の鉄塔の支脚Bで山根線8の番号を確認した。

立川への分岐点
帰路は3回目に歩いた牛車道からの山入り道ルート、あの荒れた道を戻るのはもう勘弁と、地図に記載されているもう一つの山入り道、龍河神社そばから繋がるルートをとることにした。荒れていないことを願うだけ。




牛車道に出る
住友共同電力の巡視路標識の立つ分岐点より右に下る道に入る。道は最初南に住み、10分ほど進むと道は右に折れ北西方向へと下ってゆく。よく整備されている。曲がったあたりに「四国電力西条線21」の標識が立っていた。四国電力の巡視路として使われるようだ。 10分ほど下ると更に「四国電力西条線21」巡視路標識。そこから5分ほどで龍河神社手前の山入り道に出た。そこには「四国電力西条線22 /21」と書かれた巡視路標識が立っていた。

住友共同電力 山根線1号鉄塔
龍河神社の長い参道石段を下り、県道47号を車デポ地の龍河橋傍まで戻り、そこからエントツ山の南麓に立つ山根線1号鉄塔に向かう。場所は国領川に突き出たエントツ山(主尾根)先端部を曲がってすく、県道からエントツ山に向かって南麓を上る細い道を少し進んだところ。




途中足場の悪いところにはロープが張られている。斜面を少し上ると鉄塔が立つ。番号を確認し県道に戻る。







山根発電所
最後の仕上げは山根発電所。尾根先端部で迂回する県道47号から国領川に架かる板の元橋を渡った橋傍にある。発電所から山根線1号鉄塔に続く送電線を確認し、酔狂で始めたわりには予想以上に日数のかかった「山根線鉄塔を追いかけろ」を終わりとする。

田舎の新居浜は海と山が近い。山は中央構造線がその因か、ストンと平地に落ちているように見える。山裾にある家に戻るとき、山に立つ多くの送電線鉄塔が目に入る。 四国電力送配電のデータでは四国にはおよそ9,200基の送電線鉄塔がある。全国一の密度ではないようだが、全国的にみても上位にあるという。
いつだったか大永山に上ったとき、住友共同電力の物部線が高知から来ていることを知り、鉄塔を追っかけてみようかと夢想したことがある。我が家の裏山でも183号、184号となっているわけで、とてもすべてを追っかけることはできそうもないが、せめて新居浜近辺の山に立つ送電線鉄塔くらいは、カバーしてみるのもいいかな、などと思っている。
とはいえ、今回1週間おきに5回山を彷徨っただけで、膝の靭帯を痛め現在養生中。こんな為体(為体)では前途困難かとも。

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