船木は新居浜市の東南端に位置し、東は国道11号の関ノ戸という緩やかな峠を抜けると四国中央市土居町に接し、長野山の北に連なる山地で多喜浜地区と接する。南は四国山地北端部、国領川の西は泉川町、角野町と接する。
地形は市場川、客谷川、種子川によって形成された扇状地。東北から西南に向かって緩やかに下り国領川に合流する。平野部では伏流水となり東田の泉、高柳泉、吉岡泉にて湧出する。
船木の地名の由来は、江戸期の西条藩による『西条誌』には「村名を船木というは、昔、官船を造りたる時、当村より船材多く伐り出したる事あり。因って名づくという。然れども、いつの頃という事を知らず」とある。
船木公民館編の『船木物語』によれば、「歴史は古く、大化元年(645)の郡の発足依頼「神野(かんの)郡」とよばれていたとする。天平19年(747)の「法隆寺伽藍縁起並流記資材帳」には「合庄倉・・・神野郡一処」とあり、奈良時代中期にはすでに法隆寺の庄倉が置かれており、法隆寺の荘園として数えられている。
その後、東大寺領新居荘となる。東大寺の史料によると、天平勝宝8年(756)に東大寺墾田として制定された「新井庄について、「四至東継山、西多定(豆)川、南駅路、北至小野山」とある。継山は関ノ戸、多豆川は立川(この場合は国領川)、駅路は太政官道でる南海道。小野山は郷山と推定され、東大寺領新井庄は現在の船木、東田、光明寺あたりであったとされる。
神野郡は大同4年(809)新居郡となる。郡名が時の皇子神野(かみの)親王、後の嵯峨天皇の御諱(いみな)と同じであり、御諱(いみな)に触れる文字は畏れ憚るとの沙汰に従い新居郡とした。 新井庄はその後新居庄と改められおよそ400年続くが、平安後期から鎌倉時代にかけて武家勢力により荒廃し、仁平3年(1153)を最後に東大寺荘園としての姿は見えなくなる。
それに変わって鎌倉時代の文永9年(1272)には京都の遍照心院の荘園となる。京都の遍照心院 (大通寺ともいう)は、源実朝の未亡人が、実朝の霊を弔うために建立したお寺。新居荘は、鎌倉時代の初期には、幕府の直接支配地(関東御領)となっていたらしく、やがて、北条政子から未亡人(八条尼)に寄進され、さらに、未亡人から遍照心院に寄進された。
遍照心院領としての新居荘は、室町時代まで存続する (大通寺文書)。室町時代の嘉吉二年(一四四二年) 遍照心院雑掌(雑事を扱う役人)が、細川氏の押領 を排して寺領を回復することを幕府に訴えており、此の頃、荘園としての実質を失ったものと推察される」とあった。
新居郡とした、「新居」の由来などいくつか深堀りしたい箇所もあるのだが、それでは散歩の記事がいつまでたっても書けそうもない。あれこれの疑問は少し寝かすことにして散歩のメモに戻る。
「船木史跡めぐり」を眺めながら、38も記載される史跡のどこから歩き始めようかと考える。まずは大変そうな山間部から潰して行こうと史跡を眺めると、台の城跡と麓城跡が目に入った。麓城は家の近く、煙突山の稜線部にある生子山城の支城とのこと。船木の西端、種子川と西谷川に挟まれた標高181mほどの山城跡。台の城跡は新居浜と四国中央市の境をなす関ノ戸に落ちる尾根筋の稜線上、標高613mほどのところにある。ともに天正の陣にて落城した城とのことではあるが、それ以前より。四国守護、四国管領と称し、伊予にも触手を伸ばす細川氏と相争った山城のようである。
ということで、船木史跡散歩は台の城跡と麓城跡めぐりから始めることにした。予め散歩の概要を記すと、台の城跡は標高は高いが送電線巡視路が整備されておりアプローチは楽。が、城跡は言われてみればそれらしき土塁、石積みらしきものが残るといったもの。他方の麓城跡は標高はどうということもないが、はっきりとした踏み跡はなく、なりゆきで上るといったもの。力任せで直登で這い上がったが藪もなく楽ではあった。城跡は深く切り込まれた掘割が3か所もあり、結構見ごたえがあった。
痛めた膝が心配ではあったが、台の城跡はは上り2時間半、下り1時間半。麓城跡は上り、下り共に30分程度といったのものであり、なんとか1日で二つの城跡を潰すことができた。ともあれ、ルートメモを始める。
本日のルート;
■台〈大)の城跡
関ノ戸>登山口>送電線鉄塔巡視路標識>送電線鉄塔巡視路標識>植林地帯を進む>植林帯を抜け緩やかな尾根道を進む>送電線鉄塔>住友共電物部線の巡視路標識>四国電力送電線巡視路標識>四国電力送電線巡視路標識>送電線鉄塔>四国電力送電線巡視路標識>四国電力送電線巡視路標識>送電線鉄塔巡視路標識が続く>台の城跡
■麓城跡
アプローチ口>取りつき口>藪もなく成り行きでピークを目指す>最初の堀切>北の曲輪>曲輪の南に堀切>さらに堀切>南の曲輪
関ノ戸
●関ノ戸の合戦
思うに関の戸(峠)は讃岐に本拠を置く細川氏が伊予に攻め込むにあたり、最初の関門ではあったのだろうし、とすれば関ノ戸では合戦が繰り広げられたのではないだろうか。台(大)の城が関ノ戸に下る稜線上にあるのは、関ノ戸の東の物見のためでもあったように思える。
ついでのことでもあるので、船木公民館編『船木物語』に記されていた関ノ戸の記事を引用する:
「度重なる関・長川の峠での戦い
(新居の関)
南北朝時代になると新居・西条両荘は、朝廷方の河野通盛の所領で、南朝方の軍に頼られる立場になり、足利方の土佐、阿波、讃岐の細川軍の勢力と対立し、地理的位置の関係上、二大勢力に挟まれている関の峠付近では、細川軍がしばしば攻めて来て、宇摩郡に入ると、郡境の関の峠で、生子山城の将士と戦になりました。
延元元年(一三三六年)から、正平二十四年(一三六六年)まで三十余年間は、関の峠と生子山城で絶えず讃岐勢と頻繁に戦闘があり、東予地方は、いつも細川軍のために圧迫を受けていました。 関の峠は、宇摩郡の方から来る敵を防ぐには屈強の地帯で、これを破って天険の要塞である生子山城を攻めます。 生子山城は地勢が険阻で、敵を防ぎ味方を守るには、非常に良い地形でした。 関の峠と生子山城での戦いを挙げますと、
一、延元元年(一三三六年)足利方の軍は、細川頼有を総大将として、伊予の朝廷方軍を破るために、宇摩郡に進入し、七月十七日に新居関、関の峠付近で、死傷者多数を出す戦いがあり、足利方は生子山城を攻略しました。この戦を宇摩・新居関合戦といいます。
二、応安二年(一三六九年)八月、河野通直を松木氏と宇高氏が援助し、一気に宇摩郡まで進出しましたが、細川頼之が大兵を率いて襲来したので退き、一条修理亮(松木俊村)の居城、生子山城で戦いが展開されました。
三、天授五年(一三七九年) 河野一族の一条修理が七百余騎で生子山城にたてこもりました。阿波・土佐・讃岐三国の兵四万騎が伊予の国に攻めてきて、最初に生子山城に押し寄せ、俊村は当城で討死し、七日にして落城。
四、文明十一年(一四七九年)細川讃岐守義春、阿波・讃岐・両国の兵を率い、宇摩・新居両郡を攻略。 五、天文八年(一五三九年) 細川讃岐守持隆、一万余騎で東予に侵入したが、利を失って敗退。 六、天正十三年(一五八五年) 八月六日、生子山城が秀吉の四国征伐の際、小早川隆景により落城し、城主松木三河守安村が自殺。城陥る。其の後隆景軍は宇摩郡に攻め入りました。
宇摩郡の将士は、氷見高尾城や、野々市原で多く討死しており、隆景勢は男子は山へかくれ潜み、老若婦女相手では、このあたりでは戦にならなかったと伝わっています」とあった。
台(大)の城に関する記述がどこにもない。この城が南北朝の戦乱期、また天正の陣でどの程度の位置づけの城であったのか不明である。ともあれ、先に急ぐ。
関ノ戸で右折、というか切り返し、金比羅街道・旧遍路道に入り、最初の道を左折。松山道に当たるまで北進し、松山道に沿って東に進み、最初の松山道を跨ぐオーバーブリッジを右折し山側に移る。 少しスペースのあるところに車を停め、国土地理院地図の破線が里に落ちるところ、小さな沢に架かる橋を探す。と、駐車スぺースの直ぐ東に沢に架かる橋があり、沢に沿って山へと入る道がある。沢側にはガードレールが設けられている。ここだろう。が、結構な藪となっておりちょっと先が心配。
送電線鉄塔巡視路標識:午前8時3分
●住友共電物部線:高知県香美市の物部川に造られた川口、五王堂発電所で作り出された電気を仙頭発電所に集め、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜市の海岸近く、住友の企業群が並ぶ西の谷変電所まで送られる。
●四国電力中央中幹線:東温市則之内の川内変電所から四国中央市土居町の東予変電所を結ぶ
送電線鉄塔巡視路標識:午前8時24分
●注意
あまりに快適な踏まれた道であり、道を進むと沢に砂防ダムがあり、その先で道がはっきりしなくなる。国土地理地図をチェックすると、砂防ダム手前で沢を離れ尾根筋へと左に折れている。引きかえしオンコースに乗った。この左手にある標識はうっかりすると見逃してしまう。注意が必要。
上記時間が午前8時24分となっているのは通り過ぎ、消えた道筋の先を探し、結局引き返したため最初の巡視路標識から20分程時間がかかっているが、実際は10分程度でこの標識に出合うかと思う。
植林地帯を進む
道は等高線を斜めに進み、標高300mあたりで尾根筋に乗る。そこから先標高350mあたりまでは尾根を巻き気味に進む。
植林帯を抜け緩やかな尾根道を進む:午前9時7分(標高350m)
住友共電物部線の巡視路標識:午前9時25分
時刻が9時25分となっているのは、送電線鉄塔の周りをチェックしたため時間がかかっているが、相伝電線鉄塔からこの巡視路標識までは数分もかからない距離である。
四国電力送電線巡視路標識:午前9時28分(標高381m)
四国電力送電線巡視路標識:午前10時1分(標高480m)
この標識のあたりで四国中央市方面が少し開ける。木立の間から土居町方面の平野部が眼下に広がる。
送電線鉄塔:午前10時5分(500m)
111号鉄塔が右下に見える |
110号鉄塔 |
四国電力送電線巡視路標識:午前10時16分(標高530m)
四国電力送電線巡視路標識:午前10時23分(標高550m)
道には木にテープが巻かれオンコースであることが確認できる。
送電線鉄塔巡視路標識が続く
台の城跡:午前10時40分(標高613.3m)
613.3mの三角点 |
109号鉄塔 |
土塁跡? |
南側から見た土塁跡? |
石積み跡? |
●台の城 (大の城、 柿迫城) (跡)
「船木の史跡めぐり」には:
国道11号から見た台(大)の城跡:中央の鉄塔の立つ山がそうだろう |
今は電力会社の鉄塔が建っている東西20m、南北100m位の平らな場所である。応仁2年(1468年)、 加地備前守修理進彦三郎盛高が新居郡、 宇摩郡の守護職を命ぜられた際、 両郡境に関所を設け、台の城をつくったと言われている。天正13年(1585年) の天正の陣で台の城は陥落した。関・長川地区の人の話では、そこには瓦や刀の折れたものなどが残っていたと言われている。
※かけさこ:「掛け迫」と思われるが、「掛砂古」の表現も見られる。」と記される。 「迫」は尾根と尾根の間の谷間を意味もあるようだが、「掛け」の意味がよくわからない。が、「掛け迫」は「山間の小さな谷を指す」とCopilot君が教えてくれた。
城主には上野五郎右衛門義成 の名を記す史料もある。「船木の史跡めぐり」には宇摩郡の守護職とあるが、加地氏にしても上野氏にしても宇摩地域の小領主、つまり国人領主(こくじんりょうしゅ)として、戦国時代の伊予で活動していた武将だろう。国人領主は、特定の地域に根ざした地元の有力者で、戦国時代には各地で小規模な勢力を持っていた。国人領主は地方で独自に力を持ちながらも、しばしば上位の有力者に従属し、時には反抗することあったようだ。
登山口に戻る
これならもうひとつの麓城跡も充分潰せそうということで船木の西の端への城跡アプローチ口に向かう。
麓城跡へ向かう
西谷川、種子川筋分岐点 |
この分岐点を左に折れ種子川橋を渡り、アプローチ口を探す。
アプローチ口:午後13時44分
取り付き口:午後13時44分
特段山に上る道といったものはないのだが、西端の少し手前に急登ではあるが山へと続くような箇所があった。麓城は標高180mほど。どこから攻めてもピークに行くのは問題ないだろうと、急登部より這い上がることにした。
藪もなく成り行きでピークを目指す
最初の堀切:午後14時8分
北の曲輪:午後14時17分
さらに堀切:午後14時24分
●麓城(跡)
「船木の史跡めぐり」には:
「麓城跡は、西種子川(西谷川)を挟んで生子山城跡とは向かい合わせ(東300m) に位置している。種子川橋東詰より南へ山道を約30分登ると平らな場所に出る。
山頂は、標高181.6mで、頂上付近は、累々とした岩石、 その後ろに東西20m、南北50m位の平地があり、 堀切3ヶ所と石積がある。
城は松木家10代景村の時に築城されたものである。天正13年(1583年) の天正の陣で、生子山城主松木三河守安村の嫡男新之丞が討死したと言われている。
また、生子山城(三河守安村の居城)との間に洞穴があると言われている。」とある。
台(大)の城と麓城跡をカバーした。麓城跡の南の曲輪がどうなっているのか、家から距離もそう遠くないため、その内に再訪しようかとも思う。
さて次の目的地だが、「船木の史跡めぐり」には麓から近い山間部にいくつか史跡が記載されている。正確な場所はイラストの地図ではわからないが、近々彷徨ってみようかとも思う。