金曜日, 3月 21, 2025

トルコの旅(4) カッパドキアの奇岩渓谷とギョレメ野外博物館

今回はカッパドキアの奇岩地帯、渓谷、そしてその渓谷のひとつであるギョロメ渓谷にあるギョロメ野外博物館の観光がその核となる。

ところでカッパドキアの定義だが、かつては、黒海沿岸からタウルス山脈斜面までを含んでいた時代もあったという。タウルス山脈は過日通過したエーリディル湖の東から始まり、コンヤの南へと大きく弧を描き地中海へと近づき、そこを南端に弧を描いて北東へと続く山脈。トルコ中央部とトルコ南部の地中海地方をわけている。結構広い地域をカッパドキアと指していたようだ。

20世紀以降は、アクサライ、ネヴシェヒル(アクサライの東)、ニーデ(アクサライの南)の三県にまたがる地域がその名で呼ばれ、だいたい、北はクズルウルマック川、西はトゥズ湖、南から東はタウルス山脈によって区切られている。しかしながら、壮観な「岩のカッパドキア」と呼ばれるのはもっと狭く、都市アクサライ、ネヴシェヒル、ニーデを結んだ三角地帯周辺を指すとするのが妥当なようだ。これを狭義のカッパドキアとする。 今回観光するのはこの狭義のカッパドキアの中でもネウシェヒル(Nevşehir)の東のギョレメ渓谷地帯や南のカイマクルの地下都市といった、奇岩地帯のほんの一部であったようだ。
ともあれ、今回のメモはオルタヒサールのホテルを出て、東のImagination Valley,西に戻ってPigeon Valley,そしてギョロメの野外博物館とする。薄れゆく記憶に抗いながらのトルコ旅行記ではある。





Exedra Cappadocia Cave Hotel
朝、部屋を出てバルコニーから東の谷筋を眺める。バラダール渓谷(Balkanderesi Vadisi)と呼ばれる谷筋には家が建ち並び、川筋は見えない。対岸の崖面には小規模ではあるが幾多の小さな奇岩が見える。丁度モスクからコーランの調べが流れ、なかなか、いい。トルコの人口のほとんどがイスラム教徒とのことだが、熱心な信仰者は1割から2割程度と、現地のガイドさんが説明していた。ヒジャブ(スカーフ)を身に着ける女性も年配の型は別にして、あまり街で見かけることもなかった。

朝食をすまし、午前10時、オルタヒサールのホテルを出発し、カッパドキア観光に出発。カッパドキアはペルシャ語で「美しい馬の地」を意味する「Katpatuk」に由来する。カッパドキアは名馬の産地として、アッシリア王アッシュール・バニパル(BC688-631)に、アケメネス朝ペルシャ(BC550-330)のダレイオス王に、その嫡子クセルクセス王に土地の名馬を贈呈したとある。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したとも言われる。




三美女のキノコ岩:Three Beauties
現地のガイドさんの説明で最初に見晴らしのいい渓谷に行くとのこと。日程表には当日は カッパドキア観光(約3時間半),カイマクル地下都市、ギョレメ野外博物館、トカル木キリセ(トカル)教会とあっただけなので、どこに向かうのしかとわからず。 オルタヒサールの街を抜け、幹線道路D302を東に進む。ほどなくルギュップ(Ürgüp)の街の手前の道の傍に頭に岩乗せた奇妙な3つの奇岩が現れる。
「3美女のキノコ岩」(Three Beauties)と呼ばれるこの奇岩群はカッパドキア観光スポットの一つ。3本のキノコ岩が並んでいることからこの名前がつけられている。自然の侵食によって形成された「フェアリー・チムニー(妖精の煙突)」と呼ばれる奇岩の一種である。岩の上部が硬い岩石(玄武岩)でできており、その下の柔らかい岩(凝灰岩)が長年の風雨で削られてこのような奇妙な形状となったようだ。
この奇石群には伝説があり、地元では、母、父、子供の3人の家族を表しているとされている。また、別の伝説では、カッパドキアの王女が身分の低い羊飼いと恋に落ち、家族に反対されながらも駆け落ちし、神に助けを求めた結果、3人(王女・夫・子供)が岩に変えられたという話もある。どちらにしても伝説にはThree Beautiesは登場しない。どうも、伝説とは関係なく。3つの奇岩が並んでいることから、「三姉妹の岩」と呼ばれるようになったようだ。それはともあれ、背景にはカッパドキア特有の広大な谷が、遠くには台地が広が雄大な景観となっている。
●カッパドキアで奇岩群が形成された因
カッパドキア地方の奇岩地形は、数百万年前の火山活動とその後の侵食作用によって形成された。この地域には、エルジエス山やハサン山などの火山が存在し、これらの火山が繰り返し大規模な噴火を起こし、その結果、火山灰や溶岩が厚く堆積し、冷え固まって柔らかな凝灰岩や溶岩層が形成された。
これらの堆積物は、長い年月をかけて風雨や河川の浸食を受け、硬さの違いによって異なった形状に削られていった。特に、硬い岩石が上部にあり、下部が柔らかい凝灰岩で構成されている場所では、下部が先に侵食され、上部の硬い岩が保護帽のように残ることで、キノコ状の奇岩「妖精の煙突」が形成された。 この三美女のきのこ岩もその「妖精の煙突」のひとつである。このようにして生まれた独特の地形は、古くから人々の住居や教会、修道院として利用され、カッパドキアの文化的景観を形作っている。
それにしても火山灰が降り積もり、浸食された地は世界中にあるのだけど、どうしてカッパドキアにはこのような奇岩群の一帯が形成されたのだろう。
チェックすると、その因は独特な地質条件と浸食作用が組み合わさった結果とのこと。 火山活動による特殊な地層形成と風と水の浸食作用がその因であることは上で述べた。これらの現象は特にこの地に限ったことではない。これが奇岩群一帯が形成される必要条件てあるとすれば、十分条件として、高原地帯にあるカッパドキアでは、雨水が岩の隙間に入り込み、冬の寒さで氷になると岩が少しずつ崩れる凍結融解作用が大きな役割を果たしたこと、また、地震と地殻変動も指摘される。アナトリア半島は地震が多い地域であり、断層運動によって地形が持ち上げられたり裂けたりした。この地殻変動が、谷を深く削るきっかけとなり、現在の奇岩群の形を強調する結果となった。
さらに、カッパドキア特有の乾燥気候も奇岩形成の因として挙げられる。カッパドキアは、年間降水量が少なく、強い風が吹く半乾燥気候であり、強い風が岩を削り続け、独特の細長い形状を生み出した。同じ凝灰岩地帯でも、湿潤な気候では植物が岩を覆ってしまい、カッパドキアのような奇岩はできにくくなるという。このような要因が複合的に作用しこの地に類まれな奇岩群地帯が形成されたのだろう。

デヴレント渓谷
三美女のキノコ岩でバスは止まることなく走り、20分ほどの渓谷で止まった。ここがView Pointとのこと。はっきりとはわからないのだが、写真とGoogle Street Viewを比較対照した結果としては、この地はDevrent Vadisi(デヴレント渓谷)ではないかと思う。ルギュップ(Ürgüp)の街の北で幹線D302を離れ北に向かって進んだようだ。
デヴレント渓谷は、トルコ・カッパドキア地方にあるユニークな景観の谷の一つで、特に奇岩が多いことで知られている。「イマジネーション・バレー(Imagination Valley)」とも呼ばれ、訪れる人々がそれぞれの想像力で岩の形を動物や物の形に見立てることができる場所という。その中でもラクダの形をした岩が有名。他にもペンギン、蛇、象、鳥、女性の横顔のような形をした岩も見られるとのこと。

ただ、この渓谷は、他のカッパドキアの谷(ギョレメやローズバレーなど:ローズバレーはギョレメの谷の北東3キロほどのところにある)とは異なり、教会や洞窟住居などの遺跡はほとんどない。純粋に自然が作り出した奇岩の景観を遠くの山を借景に充分堪能できる。
この地からみる景観は三美女のきのこ岩でメモした奇岩群形成のプロセスがより実感できる。時は11月末。寒風吹き付ける荒涼とした台地。眼前には深い渓谷とさまざまな形状の奇岩群。こんなに広い範囲で奇岩群が広がるとは思ってもいなかった。 なお、Google Mapにはオラヒサールから幹線道D302に出る手前にImagination Valleyとあるが、こちらが正しいかと思う。

Pigeon Valley:鳩の渓谷
谷の左手(北側)にウチヒサールの砦跡
次いでバスはPigeon Valleyに向かうとのこと。当日はルートはよくわからなかったのだが、メモの段階でチェックすると、Pigeon Valley からウチヒサル城(Uçhisar Castle)前を経てギョロメ野外博物館に向かっている。
ということは、デヴレント渓谷から一旦D302に戻り、西進しオルタヒサールを通り過ごし、しばらくして幹線D302を離れ北進したことになる。
それはともあれ、Pigeon Valleyに到着。ピジョンバレーの名前のは、谷全体に点在する「鳩小屋(ピジョンハウス)」に由来する。
これらは岩をくり抜いて作られた小さな洞窟で、地元の人々が鳩を飼うために使用していた。鳩の糞(グアノ)は肥料として価値があり、農業に利用され、特に、ブドウ畑や果樹園の土壌改良に役立ったようである。
対岸崖面に鳩小屋の窓らしきものが見える
谷には奇岩や浸食された岩の地形が広がっており、カッパドキアらしい風景が楽しめる。 谷の左手、というか北方向には幾多の洞窟が特徴的な大きな岩山が見える。後からわかったのだがそれがウチヒサル城(Uçhisar Castle)とのこと。この城跡からギョレメ方面に向かうハイキングルートがあり、片道約4km、ブドウ畑やアーモンドの木を見やりながら 2時間ほどで歩くようである。
オスマン帝国時代から続く伝統で、地元の人々は鳩を大切にしていたという。鳩は「平和の象徴」とされ、宗教的な意味合いも持っていた。かつてはキリスト教徒がこの地域に住んでおり、修道士たちが鳩を「聖なる存在」と考えていたとも言われている。

ウチヒサール(Uçhisar Castle)
Pigeon Valleyから直ぐ、大きくカーブを曲がると正面に巨大な岩山が屹立する。そしてその岩山には異常なほど多くの洞窟も見える。これがウチヒサール(Uçhisar Castle)。ウチヒサールとは「尖った砦」を指す。城塞とはいい条、洞窟の数があまりに多すぎる。本当に城塞?
チェックすると、ウチヒサール城(ウチヒサール城塞)は巨大な岩山で、その内部には無数の洞窟が存在する。 この岩山は自然の要塞として古代から利用されてきたが、正確な築造時期に関する具体的な記録は見つかっていない。しかし、古代ローマ時代後期に、ギリシャ人のキリスト教徒がローマ帝国の迫害から逃れるため、このカッパドキアに隠れ住んだことが、はじまりとされる。

これらの洞窟は、自然の浸食作用によって形成された後、人々が居住や防衛の目的で拡張し、利用してきたと考えられている。そのため、ウチヒサール城が要塞として機能する以前から、人々がこの岩山内の洞窟に住んでいた可能性が高いようである。
また、この岩山に限らず、周辺にも無数の洞窟が見える。ここに多くの人が住んでいたように思う。 その因はひとつばウチヒサール城塞の存在だろう。ウチヒサール城は、古代から戦略的な要所として利用されてきたが、特にビザンティン時代には、アラブ軍の侵攻から身を守るための要塞として機能し、多くの洞窟や通路が掘られた。これらの洞窟は、敵からの攻撃を避ける避難所や物資の貯蔵庫として使用するのに近くで便利ではあtったのだろう。
もうひとつは宗教的・経済的活動の観点からの利便性だろう。ウチヒサール周辺には多くの修道院や教会が存在し、宗教的な活動の拠点となっていた。ギョレメの教会群でも直線距離で4キロほどである。また、鳩の飼育が盛んで、鳩の糞を農作物の肥料として利用するなど、経済的な活動も行われていた。これらの要因が相まって、多くの人々がこの地域に集まり、洞窟を利用した生活を営んでいたと推測できる。

ギョレメ野外博物館
ウチヒサール(Uçhisar Castle)から10キロ強走るとバスは南ギョレメ渓谷に入る。この渓谷は、カッパドキア火山岩台地の降り口の一つであり、多数のキリセ(洞窟修道院、聖堂)の集中している場所でもある。そのうち壁画の描かれたものは35をかぞえるが、壁画のないもの、壊れかけたものを含めて100ほどにもなるとのことである。 ギョレメ村を抜けるとギョレメ野外博物館に着く。「ギョレメ」はトルコ語で「見えない場所」を意味する。これは、初期キリスト教徒が迫害を逃れるためにこの地域に隠れ住んだ歴史に由来する。

ギョレメ野外博物館内にあったギョレメ野外博物館についての案内を和訳し、ここにメモする:
ギョレメ野外博物館
2世紀末までに、カッパドキアには大規模なキリスト教共同体が形成されていた。当時、この地域には二つの司教区が存在していたことが知られている。一つはカイセリ(この地より東約70キロ強)にあり、長い間この地域のキリスト教の中心地として機能していた。もう一つはマラティヤ(この地より東430キロほど)にあった。
3世紀には、信仰の篤い司祭たちによって、この地域は活気に満ちたキリスト教活動の中心地へと変貌した。
4世紀には、カッパドキアは「三大教父の地」として知られるようになった。偉大なる聖バシレイオス(カイセリの司教)、彼の兄弟である 聖グレゴリオス(ニッサのグレゴリオス)、聖グレゴリオス(ナジアンゾスのグレゴリオス)。この三人は、キリスト教思想に新たな統一をもたらした。聖バシレイオスの教えと行動は、現在においても重要視されている。その教えの一例として、飢饉の際にパンを一つだけ持っていたキリスト教徒に向けた助言がある。彼は、「信仰を持つ者は、パンを半分に分けて仲間に与え、神の導きに身を委ねるべきである」と説いた。
聖バシレイオスは、村や町の近くに小さな修道共同体を築いた。これらの共同体では、説教師の指導のもと、日々の礼拝が行われていた。しかし、エジプトやシリアのように一般社会から隔離された特権的な共同体ではなく、カッパドキアの教会において、地域社会と共に信仰を実践するという形を確立した。
ギョレメ野外博物館 は、まさにこのような宗教教育が始まった場所であり、その後 ソアンル(Soğanlı;この地の南約50キロ)、イフララ(Ihlara:この地の南西約90キロ)、アチクサライ(Açıksaray) でも同じモデルが導入された。
ギョレメの教会建築
ギョレメの教会に一般的に見られる ヴォールト(円天井)を持つ単廊式の教会 は、この地域に住む宗教共同体にとって最も適した建築様式であった。また、これらの建物は墓地としても利用されることがあった。
横長の長方形の平面構造 はメソポタミアに起源を持ち、この地域に移住してきた異邦人グループのために建設されたと考えられている。
ギョレメには 二廊式の教会 はほとんどなく、唯一の例として 聖エウスタティオス教会(St. Eustathios Church:注。場所特定できず) が挙げられる。しかし、ソアンルやイフララでは、二廊式の教会がしばしば見られる。
また、ギョレメでは 三廊式のバシリカ(大聖堂) も稀でである。この構造は、ドゥルムシュ・カディル(Durmuş Kadir) のような司教座教会に適していた。これらの教会は規模が大きく、彫刻装飾も非常に精巧であったため、火山岩の多い地域ではあまり採用されなかった。
〇ギョレメの教会壁画技法
ギョレメ野外博物館に掲示していた壁画
教会の壁画には、次の二つの異なる技法が用いられている。 
□赤土顔料(レッドオーカー)を直接岩肌に塗る方法: 聖バシレイオス教会(St. Basil Church)、エルマル教会(Elmalı Church)。聖バルバラ礼拝堂(St. Barbara Chapel) などで見られる。
□石膏(石膏、砂、わらを混ぜた下地)を塗り、その上に絵を描く方法:
これらの壁画のテーマは 聖書 や キリストの生涯 に基づいている。
ギョレメ野外博物館で見られる主な教会と修道院:
男子修道院(Men’s Monastery)、女子修道院(Women’s Monastery)、聖バシレイオス礼拝堂(St. Basil Chapel)、エルマル教会(Elmalı Church)、聖バルバラ礼拝堂(St. Barbara Chapel)、ユランル教会(Yılanlı Church)(「蛇の教会」とも呼ばれる)、パントクラトール教会(Pantocrator Church)、食堂(Refectory)、マルタ十字教会(Maltese Cross Church)、カランルク教会(Karanlık Church)(「暗闇の教会」とも呼ばれる)、聖カタリナ礼拝堂(St. Catherine Chapel)、チャルクル教会(Çarıklı Church)(「サンダル教会」とも呼ばれる)、トカル教会(Tokalı Church) これらの貴重な教会や修道院は、ギョレメ野外博物館で今も見ることができる」とあった。
聖バシレイオス
photo by Wikipedia
ここに名が挙げられるバシレイオス(330頃-379)は、後世のギリシア、ロシアなどの東方キリスト教会に多大な影響を与えたといわれる「修道綱領」を著した人物として知られる。「修道綱領」を著した頃、、4世紀は小アジアでは大規模な地震が起き、特に365年、西アナトリア一帯は大地震に襲われた。その巨大な自然の破壊力は世界の終末思想が現実味を帯び、キリスト教徒が修道の地を求めてこの地に集まりまってきていた。この頃修道綱領にとりかかったというこは、逆にいえば、4世紀の中頃まで確とした修道法が確立されていなかったということになる。
バシレイオスは修道綱領の構想をまとめるべく、2年間に渡り、エジプト、シリア、メソポタミアの修道院を訪れている。聖バシレイオスがこれらの地の修道院を訪問したのは、これらの地域が当時、修道生活の中心地として発展していたからである。修道生活は4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い(392年にはローマ帝国の国教となった)、より徹底したキリスト教徒の生活を求めた人々によって盛んになっていた。 しかし、彼がそこで見たものは荒涼たる自然の中、飢えや渇きを耐えながら、孤独にひたすら祈る修道士の姿であった。彼はその姿を見て疑問を感じたようだ。そして神や隣人への愛といったものは人との関わりのなか、共同生活をとおして得られるものであるとし、修道法の基本に共住することを置いた。このギョロメの谷に集まる幾多の教会、礼拝堂はその精神の具現化とも考えられる。

緩やかな坂を上る
坂道の左手(東側)
ギョレメ渓谷には、多数のキリセ(洞窟修道院、聖堂)が集中している。そしてこのギョレメ野外博物館だけでも大小15のキリセが集まっている。
このほかにも、谷間の斜面に林立する三角形の凝灰岩には、掘り抜かれた聖堂が所狭しと並んでいる。 



坂道の右手(西側)

一般に、洞窟修道院は、住居の部分があり、その同じ岩山やそれに隣接する岩山に聖堂が造られているのだが、聖堂の大きさや形は、実際の岩山の形によって制約を受けざるをえない。しかし、ビザンツの形式に似るものが多いところを見ると、限られた条件の中で修道士たちは努力をしたようである。
バスを降りギョロメ野外博物館へと緩やかな坂を上る。道の左手には洞窟のある三角形の形状をした奇岩が目に入る。教会か礼拝堂のようにも思えるがわからない、右手はギョレメ渓谷の一部をなす、切り立った崖面に幾多の洞窟が見える。



トカラ(バックル)修道院:Tokali(Buckle )Church
少し坂を上ると道の左手に扉があるが、その扉は閉まっていた。入り口近くに案内がありTokali(Buckle)Church)とあった。
案内には「この教会は、カッパドキアにとってだけでなく、ビザンツ美術全体の視野においても非常に重要な記念碑である。
古代のトカラ教会は、広い樽型ヴォールト(半円筒状天井)を持つ単廊式の教会で、おそらく9世紀末に掘られたと考えられている。ヴォールトには、キリストの生涯や洗礼者ヨハネの生涯を描いた広範な壁画が施される。これらの場面の中には、西方教会ではほとんど見られないものもあり、外典福音書(正典に含まれない福音書)に基づいたものが多く、カッパドキアでは非常に人気があった。
photo by Google Map

キリストの生涯を描いた場面の周囲には、聖人たちの姿が描かれている。その中には、最初のキリスト教皇帝であるコンスタンティヌス大帝とその母ヘレナも含まれている。 コンスタンティヌスとヘレナは、十字架崇敬と深い関わりがあるため、カッパドキアで頻繁に描かれている。伝説によれば、ヘレナはエルサレムでキリストの「真の十字架」を発見したとされている。また、この教会には、皇帝コンスタンティヌス7世とその妻ヘレナ・レカペナへの言及も見られまる
この教会は、カッパドキア地方で最古の岩窟教会として知られている。教会は以下の四つの部分で構成される。
1.古い教会(単廊式)、2.新しい教会、3.古い教会の下にある下層教会、4.新しい教会の北側にある付属礼拝堂(パレクリシオン) イエスの生涯は、ヴォールト(天井)の各パネルに個別に描かれ、左から右へと続いている。
photo by Google Map

古代トカラ教会の壁画が描かれてから数十年後、アプス(祭壇後部の半円形空間)が取り壊され、より広く壮大な教会が掘られた。古い教会のナオス(身廊)は保存され、新しい教会の西側玄関ホールとして利用されている。このような改変は極めて異例であり、この場所の重要性を示している。通常、カッパドキアの教会は側廊や側室を追加することで拡張されることはあったが、アプスを取り壊し、その先に掘り進めるという手法は前例がなかった。
壁画に描かれている主な場面
1.受胎告知、2.訪問(マリアがエリザベトを訪ねる)、3.水による試練、4.ベツレヘムへの旅、5.キリストの誕生、6.東方の三博士の礼拝、7.幼児虐殺、8.エジプトへの逃避、9.ザカリアの殺害、10.エリザベトの追跡、11.ヨハネの召命、12.ヨハネの説教、13.キリストとヨハネ、14.洗礼、15.カナの婚宴、16.ラザロの復活、17.盲人の癒し、18.パンと魚の奇跡、19.使徒たちの召命、20.葡萄酒の奇跡、21.ルサレム入城、22.最後の晩餐、23.ユダの裏切り、24.ピラトの審問、25.十字架を担うイエス 26.キリストの磔刑、27.十字架降下、28.キリストの埋葬、29.聖婦人たち(マグダラのマリアら)による墓参り、30.ハデス降下(復活したキリストによるアダムとエバの解放)、31.キリストの昇天、32.ペテロによる最初の助祭叙任、33.聖霊降臨(ペンテコステ)、34.使徒たちの祝福と使命 35.キリストの誘惑、36.ヨセフの夢(第一の夢)、37.百人隊長の僕の癒し 38.ヤイロの娘の復活、39.中風の人の癒し、40.預言者の幻視、41.マタイの召命」とあった。

photo by Google Map
トカル・キリセ、または「留め金の教会・聖堂」。聖人の身につけたバックルからの命名である。 カッパドキアの洞窟修道院中、最大のもので、高さは10メートルを超え、奥行は20メートルに及ぶ。
新旧、二つの部分からなる、かまぼこ形天井の聖堂をもっている。旧聖堂内にも聖書の物語が描かれているが、その奥をぐんと広く掘り進めて造られた新聖堂の柱、天井、壁に展開される画面は多彩で精緻なものである。とくに背景の地を飾る美しい青は、青玉、ラピスラズリを挽いたもので彩色されていたという。高い天井までどのように描いたのであろう。
このキリセはカタコンベ(地下礼拝堂兼墓室)を備えており、ギョレメ修道院群の中でも、中心的なものという。
トカル・キリセは、カッパドキア地域の他の教会とは異なる建築様式を持ち この教会は、メソポタミア方式として知られる横の身廊を備えた構造を持ち、他の多くの教会が単一の身廊と丸天井を持つのに対し、独特の設計となっている。 内部には、セント・バジルやイエスの生涯、イエスの起こした数々の奇跡の場面が描かれており、ビザンチン美術の傑作とされている。

女子修道院(Kızlar Manastırı:Women’s Monastery)
更に坂を少し上るとギョレメ野外博物館のエントランス。そのすぐ先で道は左右に別れる。どちらを進んでもグルリこの場所に戻れるようだ。
道の傍、左手に洞窟のある岩がある。特に案内はないのだが、現地のガイドさんの説明によると女子修道院(Kızlar Manastırı)とのことである。1階部分の崩れが目立つ。 ここは、修道女たちが共同生活を送っていた歴史的な修道院。この修道院は7階建ての構造を持ち、内部には教会、礼拝堂、岩を削ってつくた大きな食卓をもつ食堂、通路などが設けられていた。
修道院内には4つの教会が存在し、その中の1つである3つの後陣を持つ教会には、キリストの誕生に関する場面が描かれているという。また、南側の壁には、カッパドキア出身の高名な聖人、聖グレゴリウスの生涯と殉教の場面が描かれているとのこと。さらに、修道院の名称にもなっているクズラル教会(Kızlar Kilisesi)は、十字形の基礎を持ち、中央のドームは4本の柱で支えられている。この教会内には、立ち姿のキリストを描いたフレスコ画が唯一残されている。
女子修道院はカッパドキア地方における修道活動の中心地の一つでもあった。


左右に別れる右手には聖バシレイオス礼拝堂(St. Basil Chapel)が直ぐ先にあるが、そのまま左手の道を上ってゆく。
正面に幾層にもわかれた洞窟のある岩山が見えてくる。そこが坂道の上りの終点のようだ。
向かって左手が暗闇教会、右手が食料庫・厨房・食堂






カランルク(暗闇)教会:(Karanlık Kilise:Karanlık Church)
坂を上り切ったところ、行く手を遮る巨大な岩盤に幾層もの洞窟が見える。この教会の入口は北側にあり、曲がりくねったトンネルを抜けると樽型ヴォールト(半円筒形天井)のナルテックス(玄関ホール)に通じている。
ナルテックスの南側には3つの墓がある。教会の平面は「スクエア・クロス型」(正方形の中心に十字架を組み込んだ形)で、十字架の腕の部分はクロスヴォールト(交差ヴォールト天井)になっている。
この教会は「カランルク(暗闇)」教会と呼ばれている。それはナルテックス(玄関ホール)の窓からわずかな光しか差し込まないためである。その結果、壁画の色彩が非常に鮮やかに保たれている。
photo by トルコ旅行

中央ドームにはキリスト・パンテクラトール(全能者キリスト)が描かれ、4つの小ドームには4大天使(ガブリエル、ミカエル、ラファエル、アズラエル)が描かれている。 この教会は、エルマル教会(Elmalı Church)やチャルクル教会(Çarıklı Church)と同様に、イエス・キリストの生涯と受難の場面が描かれている。この教会は11世紀末のものと考えられている。
1.デイシス(Deesis)、2.燃える炉の中の三人の若者、3.キリスト、4.聖母マリアとイエス・キリスト、5.大天使ミカエル、6.大天使ガブリエル、7.大天使ラファエル、8.大天使ウリエル、9.ベツレヘムへの旅、10.キリストの降誕(誕生) 、11.東方三博士の礼拝、12.キリストの洗礼、13.エルサレム入城、14.キリストの変容。15.ラザロの復活、16.アナスタシス(ハーデスでのキリスト/復活)、17.ユダの裏切り、18.キリストの磔刑。19.最後の晩餐、20.聖墓の前の女性たち、21.キリストの昇天。但し、教会内部は写真撮影禁止のため、Google Mapの共有に掲載されている写真を主に使うが、ない場合はWebサイトより掲載させていただいた。


入り口から岩を潜り中に入ると開けた場所に出る。ナルテックス(玄関ホール)とよばれるこの拝廊の南の壁面は装飾が施されているが、説明から判断するとその奥に3つの墓があるようだ。その先で十字架らしき装飾の施された入り口から教会にはいる。

聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル:Azize Catherine Şapeli)
暗闇教会を出る。暗闇教会に沿って東に上る道の一筋下に東に続く道がある。その道を少し進むと小ぶりな岩窟がある。それが聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル) 聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル)は、聖カタリナが聖テオドレや他の生徒たちと描かれていることから、この名前が付けられた。 教会内の床には9つの墓があり、壁にも1つの墓があります。 内部には美しいフレスコ画が施されている。
聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル)は、聖カタリナが聖テオドレや他の生徒たちと描かれていることから、この名前が付けられた。 教会内の床には9つの墓があり、壁にも1つの墓があります。 内部には美しいフレスコ画が施されている。



チャルクル(サンダル)教会:Çarıklı Kilise (the Church with Sandals)
この教会の入口は北側にあり、金属の階段を上って入る。教会は修道院の一部であり、修道院のホールはU字型の中庭を囲むように配置されている。
教会の構造はギリシャ十字型(Greek-Cross Plan)で、2本の柱と3つのアプス(後陣)を持っている。ナルテックス(玄関ホール)は崩壊している。
この教会の名前は、「キリストの昇天」の図の下に見られる2つの深い足跡に由来する。 しかし、壁に描かれたイコン(聖画像)や十字架の落書きから、もともとは「聖なる十字架」に捧げられた教会ったと考えられている。
photo by トルコ旅行
教会は2階建てになっており、下の階には食堂(リフェクトリー)がある。ここには岩を削って作られた長いテーブルがあり、奥には「最後の晩餐」の場面が描かれたニッチ(壁龕)がある。教会内部には、イエスの生涯を描いた12の場面が残されている。 当初はもっと多くの場面が描かれていたと考えられているが、建築形式の変更により12場面に減少したと推測されている。
12の場面の内訳は、
幼少期の場面が3つ、成人後の場面が2つ、受難と復活の場面が7つ。 この教会は11世紀中頃のものとされている。
描かれている場面:
1.デイシス(Deesis)、2.聖母マリア、3.大天使ミカエル、4.キリスト・パンテクラトール(全能者キリスト)、5.キリストの降誕(誕生)、6.東方三博士の礼拝、7.キリストの変容、8.エルサレム入城、9.ユダの裏切り、10.キリストの磔刑、11.キリストの洗礼 トカルキリセと対照的な壁画の様式となっている。

食料庫・厨房・食堂
チャルクル(サンダル)教会から暗闇教会まで戻る。暗闇教会の西、暗闇教会の隣に食料庫・厨房・食堂のエリアがある。
案内には「これらの三つのエリアは並んで配置され、通路でつながっている。最初の区画は食料庫として使用され、岩をくり抜いて作られたくぼみが貯蔵スペースとして利用されていた。
厨房には、「タンディール(Tandır)」と呼ばれるオーブンがあり、これは現在でも地元の村の家々で見られる。
最後の区画は食堂であり、入口の左側には岩を彫って作られた長いテーブルが設置されている。このテーブルには40~50人が座ることができた。 また、テーブルの右側の床にはワイナリー(葡萄絞り場)が掘られており、ここで葡萄を踏み潰してワインを作っていた」と説明にあった。




malta haçlı kılıseマルタ十字教会・パントクラトール教会(Pantocrator Church):Pantokrator Kilisesi
食料庫・厨房・食堂エリアの前を緩やかに下る道を少し西に進む。当日見学コースには入っていなかったのだけど、メモの段階でGoogle Mapを見るとmalta haçlı kılıse、Pantokrator Kilisesiのプロットがある。ギョレメ野外博物館の案内にあった、malta haçlı kılıseマルタ十字教会とパントクラトール教会(Pantokrator Kilisesi)のようだ。道沿いのどれかの入り口がそうなのだろうけれど、特段の案内もなく特定できない。 あれこれチェックしたのだけど、これも情報が見つからなかった。
で。生成AI君に尋ねる。その応えは:
「Malta Haçlı Kilisesi」についての具体的な情報はあまり知られていませんが、名前から推測すると、これは「マルタ十字教会(Malta Crusader Church)」を意味します。 「Haçlı(ハチル)」はトルコ語で「十字軍」を意味するため、十字軍時代に関連する教会の可能性があります。12世紀頃、十字軍の影響がアナトリア地域にも及んでいたため、その時期に建てられたか、または十字軍が使用した教会である可能性があります。 「Malta」という名称については、マルタ騎士団(ヨハネ騎士団)は十字軍時代に活発に活動し、エルサレムやロードス島、マルタ島を拠点にしていました。
「マルタ十字(Malta Haçı)」とは、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)に関連する十字のデザインを指します。しかし、マルタ騎士団がカッパドキアで活動していた記録はほとんどなく、この名称は後世につけられた可能性があります」とあった。
次いでPantokrator Kilise(パントクラトール教会)についての生成AI君の応え:
ギョレメにあるかどうかの具体的な記録は多くありません。しかし、カッパドキアやギョレメの洞窟教会では、「キリスト・パントクラトール(Christ Pantokrator)」のフレスコ画が多く見られます。「パントクラトール」とはギリシャ語で「全能者」を意味し、ビザンティン美術においてキリストの権威と威厳を象徴する表現です。一般的に、中央ドームや主祭壇の上部に描かれ、キリストが右手で祝福のジェスチャーをし、左手に聖書を持つ姿が特徴です。
多くのビザンティン教会には、中央ドームにキリスト・パントクラトールのフレスコ画が描かれていま。ギョレメ野外博物館内の暗闇教会(Karanlık Kilise)やトカリ教会(Tokalı Kilise)、リンゴ教会(Elmalı Kilise)などにも、キリスト・パントクラトールのフレスコ画が残っています。特に、暗闇教会の中央ドームには、美しく保存されたキリスト・パントクラトールの姿が見られます」とあった。

ユランル(蛇)教会(聖オヌフリウスの教会):Yılanlı Kilise,:Yılanlı Church)
道を下り崖に当たる手前の曲がり角の南の大岩を穿った洞窟がユランル(蛇)教会。 この教会の主な空間は、横方向の樽型ヴォールト(半円筒形の天井) に覆われた長方形の空間となっている。一方、南側に広がる墓を収めた部分は平らな天井 を持つ。 祭壇部(アプス)は、左側の長い壁をくり抜いて造られており、教会の建築は未完のまま残された。
教会の入口は北側にあり、カッパドキアで崇敬される聖人たちの肖像がヴォールトの両側に描かれている。この教会は 11世紀に建てられた とされている。 入口の正面 には、左手に聖書を持つイエス・キリスト の肖像が描かれている。その近くには、この教会を寄進した人物(ドナー)が描かれている。
ヴォールトの東側 には、以下の聖人たちの姿が描かれている。
聖オネシモ(St. Onesimus)、聖ゲオルギオス(St. George)と竜、聖テオドロス(St. Theodore)、聖ヘレナ(Helena)とその息子コンスタンティヌス大帝(Constantine the Great)。
photo by Google Map
ヘレナは、キリストが磔にされた 「真の十字架(True Cross)」 を手に持っている姿で描かれている。
ヴォールトの西側 には、次の聖人が描かれている。
長い髪をした裸の聖オヌフリウス(St. Onuphrius)はヤシの木の後ろ に立っている、聖トマス(St. Thomas)は祝福を授ける姿 で描かれている。
聖バシレイオス(St. Basil)、は本を持つ姿 で描かれている。
壁画の主なモチーフ一覧:
デイシス(Desis)(キリスト、聖母マリア、洗礼者ヨハネの祈願図)、寄進者とともに描かれたキリスト(Christ with Donor)、聖バシレイオス(St. Basil)、聖トマス(St. Thomas)、聖オヌフリウス(St. Onuphrius)、聖オネシモ(St. Onesimus) 聖ゲオルギオス(St. George)、聖テオドロス(St. Theodore) 聖ヘレナ(Helena)、コンスタンティヌス大帝(Constantine) ユランル教会には キリスト教の重要な聖人や出来事 が描かれており、特に 聖オヌフリウスの独特な姿 や 聖ゲオルギオスの竜退治 の場面が特徴的とされる。

エルマル・キリセ:Elmali Church
蛇の教会を出て、周回コースの道を少し下ると平坦な場所に出る。ちょっと
したView Point でもあり西の崖面などを眺める
と、右手に洞窟教会らしきドーム型の岩、左手の一段低いところにも同様に洞窟教会らしきドーム型の岩がある。とりあえず石段を下りるとエルマル・キリセ:Elmali Churchとあった。
エルマルはトルコ語でリンゴという意味だが、命名の由来については、リンゴ畑のそばにあったからという説と、小ドーム (左中央)に描かれた大天使ガブリエルの手にした地球儀がリンゴに見えたからという説があるが、いずれにしてもトルコ人がつけたものである。 構造を見ると、中央部にドームを置き、その四周辺部にドームをもつ側室、さらに奥に 祭室を配置している。
photo by Google Map

537年、コンスタンティノープルに建立され、世界に比類なき偉容を誇るハギア・ソフィア大聖堂と類似しており、おそらくそれを基本としたものと考えられる。つまり、平地の建築物を、岩石の中に刳り出してしまっているとのこと。
壁や柱、そしてドームのすべての面にはキリストはじめ預言者、天使など、聖書の物語の場面が描かれている。つねに聖書の世界に身を置きたいという信徒の願いがこめられている、と。このキリセの壁画はカランルック・キリセ(暗闇の修道院)とともに良い保存状態が保たれている。
キリスト伝や預言者を描いた画は11世紀のものかと推察されるが、 下地に以前描かれたものがあり、聖堂が造られたのはそのずっと前ということになると考えられている。



聖バルバラ・キリセ(聖バルバラの聖堂):St.Barbara’s Church
もとに戻り右手のドームに。案内タグにSt.Barbara’s Churchとあった。
聖バルバラ・キリセ(聖バルバラの聖堂)は、ギョレメ野外博物館の中でも、壁画の保存状態が良好なことで知られている。エルマル・キリセと同じ岩山に、背中合わせに掘られている。入口は西側にあり、その横は深さ15メートルほどの谷となっている。



photo by Google Map
入口から中へ入ると、左手壁面に聖女バルバラが描かれており、聖堂名はこれに由来する。聖バルバラは、アナトリアのニコメディア出身(一説にエジプトのヘリオポリス)といわれている。ベンガラ色の単色で描かれた幾何学文様、そして十字架や鳥などの一見単純なモチーフは象徴的なものに思える。聖像破壊運動(726一843:盛んになっていたマリア像や聖像への崇拝に対して、 聖像崇拝禁止令が発せられ、多くの聖像・聖画が破壊された)で聖像の製作が禁止された時代の表現であったといわれている。







聖バジル教会(Aziz Basil Şapeli:St.Basil Church)
聖バルバラ・キリセの東側の道を下ると、女子修道院前に戻ってきた。周回コースの終点となる。その左手、西側にドーム型の岩がある。それが聖バジル教会(Aziz Basil Şapeli:St.Basil Church)。
聖バジル教会は、4世紀からカッパドキアに広がったキリスト教文化を今に伝える重要な遺産。 建設時期は10世紀の頃。聖バジルとは聖バシレイオスのこと。既述のごとく4世紀のカッパドキアのキリスト教指導者で、「東方正教会の修道制度の父」として知られる。教会内部には、単廊式のシンプルな構造で、内部にはキリストや聖バジルたちのフレスコ画が描かれており、その鮮やかな色彩と保存状態の良さとともに初期キリスト教美術の特徴をよく示している。
ギョレメ野外博物館は かつて修道僧の教育施設があった場所で、多くの教会や礼拝所が集中しているが、中でも聖バジル教会(St. Basil's Chapel)は、初期のキリスト教徒たちの信仰生活や芸術性を垣間見ることができる貴重な場所として知られている。
聖バジル教会は、他の華やかなフレスコ画を持つ教会と比べて比較的シンプルな造りをしている。しかし、それがかえって当時の修道士たちの質素な生活を反映しており、祈りの場としての純粋な雰囲気を感じることができる、という。
聖バジル教会残るいくつかの重要なフレスコ画としては:
聖バシレイオス(バジル)の肖像、キリスト・パンタグラトール(全能のキリスト)の姿。(聖バシレイオスとともに、他の聖人たち(おそらく聖ゲオルギウスや聖デメトリオスなど)も描かれている)、竜と戦う聖ゲオルギウス(または聖デメトリオス)。カッパドキア地方では、騎士の姿をした聖ゲオルギウスや聖デメトリオスが悪と戦う場面がよく描かれる。
また、教会の一角には、修道士たちの墓があると考えられている。岩をくり抜いた墓穴がいくつか見られ、カッパドキアの修道院文化における「修道士の埋葬」の一例となっている。
ギョレメの谷の歴史
ヒサールからギョレメ野外博物館にかけて幾多の洞窟住居をみてきたが、それではこの渓谷周辺に人々がすみはじめたのはいつの頃からだろう。チェックする:ギョレメの谷(現在のギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群)は、先史時代から人々が居住していたことが考古学的な証拠からわかっている。しかし、本格的に定住し、岩窟住居や教会が発展していったのはキリスト教の時代(4世紀以降) とされる。
先史時代(紀元前2000年以前):
ギョレメ周辺には青銅器時代の遺跡が発見されており、すでに人々がこの地域に住んでいたことが分かっている。
〇ヒッタイト(紀元前17世紀~紀元前12世紀)の時代
ヒッタイト(紀元前17世紀~紀元前12世紀)の時代には、カッパドキア全体で交易が盛んに行われていた。しかし、この時代の住居は主に平地にあり、ギョレメの岩窟を利用する文化はまだ発展していない。
〇フリギア・ペルシア時代(紀元前1200年~紀元前330年)
ヒッタイトが滅んだ後、フリギア人やペルシア人がこの地域を支配した。ゾロアスター教が広まり、一部の洞窟が宗教的な目的で使われた可能性があるが、大規模な岩窟都市の形成はまだ見られない。
〇ローマ帝国時代(紀元前30年~4世紀)

初期キリスト教徒の避難地としての利用が始まる。1世紀頃からローマ帝国によるキリスト教徒迫害が始まり、キリスト教徒がこの地域に逃れてきた。3世紀~4世紀には、本格的に洞窟を掘削し、居住空間や礼拝堂を作るようになった。4世紀には、カッパドキア出身の聖バシレイオス(バジル)が修道生活の基盤を築き、ギョレメは修道士たちの拠点となる。
〇ビザンティン帝国時代(4世紀~11世紀)
この時期がギョレメの岩窟修道院の最盛期。4世紀末~9世紀にかけて、多くの教会や修道院が建設される。8世紀~9世紀の聖像破壊運動(イコノクラスム)の時代には、壁画のないシンプルな教会が作られる。
9世紀~11世紀になると、フレスコ画で装飾された壮麗な教会が多数建てられ、ギョレメ野外博物館に現存する多くの教会がこの時代に作られた。
〇セルジューク朝とオスマン帝国時代(11世紀~20世紀初頭)
11世紀以降、セルジューク朝がカッパドキアを征服。その後、オスマン帝国の支配下に入るが、ギョレメの岩窟都市は次第に衰退。イスラム化が進み、多くの修道士たちはこの地域を離れる。それでも、一部のキリスト教徒は19世紀頃まで洞窟住居で生活を続けた。
〇現代(20世紀~現在)
20世紀に入ると、ギョレメの岩窟住居の多くが放棄される。1985年、ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群がユネスコ世界遺産に登録。観光地として発展し

、現在はホテルやレストランとして利用される洞窟住居もある。

ホテルに戻る
ギョレメ野外博物館を出たバスはラクダ岩の前を通った。ということは、ギョレメ野外博物館から東に向かいKaraseki辺りで南に下り、Aktepeを経由してデヴレント渓谷のラクダ岩前を抜け、D302号に合流し西へと向かいオラヒサールのホテルに戻ったのだろう。 明日はオラヒサールから西に向かいカイマクルの地下都市の見学がメーンイベントとなる。












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