日曜日, 3月 16, 2025

トルコの旅 (3)  パムッカレのあるエーゲ海圏からアナトリア半島中央部のカッパドキアに

トルコの旅の3回目はパムッカレのあるエーゲ海圏から、バスを走らせアナトリア半島中央部、アナトリア高原に位置するカッパドキアまでの移動となる。その距離660キロのバスの旅である。
立ち寄ったところは2か所だけだが、エフィソスで実感した幾多の文明のレイヤーが重なるトルコの歴史を思うにつけ、バスで通過しただけの街ではあるがその歴史もメモしてみることにする。
パムッカレのホテルを午前9時に出発、東に向かい山地を抜けおよそ110 キロほどでディナル(Dinar)の街を通化する。ディナールからは南東におよそ90キロでエーリディル湖畔に。そこで昼食をとる。
昼食後は湖の東岸を北上し途中から東に折れ、イシェヒル湖の東岸を南下しベイシェヒルの町へ。距離はおよそ150キロ弱。そこに建つ木造のエレシフォールモスクを見学する。 モスク見学のあとは東に90キロほど走りコンヤ(Konya)の町を通過。更に東に110キロほど走りスルタハン(Sultanhani)にあるキャラバンサライ(隊商の宿)に立ち寄る。シルクロードの隊商の宿跡である。
隊商の宿というから、小屋掛けの宿を想像していたのだが、案に相違してそこは外敵の攻撃に備えた巨大な砦といった風情であった。その隊商の宿に着いた頃にはもう夕暮れ。見学するといった時間もなく、砦の外からちょっと眺め、アクサライ(Aksaray)をへてホテルのあるカッパドキアのオラヒサール(Ortahisar)までおよそ14+0キロ、東に向かってバスは走った。カッパドキアに着いた時には日も暮れていた。
約9時間のバスの旅ではあったが、WIFI,USB充電ソケットのついたバスの旅は快適であった。
立ち寄ったのは2か所だけで、途中の街は素通りではあったが、どの町も古代から幾多の国家、異国の文明の支配を受けた地域であった。歴史の教科書で名前だけ覚えた幾多の文明が、確かにその足跡を残していた。
オラヒサール(Ortahisar)のホテルは洞窟ホテルと呼ばれる。確かに使われなくなった崖面の洞窟を活用した「洞窟」ホテルではあるが、期待した素掘りの洞窟とは異なり内装はリノベーションされた快適なホテルであった。カッパドキアの奇岩、洞窟教会、地下都市の実際がいかなるものか付け焼刃ではあるがチェックし翌日にそなえ就寝する。





パムッカレからカッパドキアに移動


パムッカレのホテルを出発しパムッカレに向かう。距離はおよそ660キロ。約9時間のバスの旅となる。
夜明けのパムッカレの石灰華段丘を見やりながらバスは南下しデニズリ盆地を通過する。この地域は肥沃な土地が広がり、農業が盛んに行われている。周囲を山々に囲まれた平坦な地形が特徴であり、綿花やブドウ、ザクロ、オリーブ、柑橘類といた果物の栽培で知られるようだ。特にデニズリ地域はトルコ有数のブドウ生産地であり、高品質なワイン用ブドウや食用ブドウが栽培されているとのことである。

デニズリ(Denizli)
デニズリの街。山地はパムッカレ方面だろうか。photo by unknown
バスはデニズリ(Denizli)の少し北で東に向折れ、当日はこの街を通過したわけでもないのだが、ルートから想えば昨日エフィソスの遺跡からパムッカレに向かう途中通り過ぎたようにも思え、またその名の示すようにデニズリ県の中心都市のようもあり、どのような歴史を重ねた街かチェックしてみた。と、思った通りというか、思った以上の歴史のレイヤーの重なった街の姿が現れた。
このデニズリ(Denizli)地域の歴史は、紀元前5500年頃にまで遡るとされている。この時期、アナトリア半島全域で新石器時代の文化が栄えており、農耕や牧畜が始まり、定住生活が広がっていたようだ。
アレキサンダー大王の後継国家・セレウコス朝
ラオディキア古代都市 byAli Alican
その後のデニズリ周辺の具体的な考古学的証拠は限られており、歴史に名が出るのは紀元前3世紀頃にセレウコス朝のアンティオコス2世がこの地に都市を建設し、妻ラオディケの名にちなんで「ラオディキア(Laodicea)」と名付けたということ。
セレウコス朝(紀元前312年 - 紀元前63年)は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがシリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリアに跨る地域に築いた王国。プトレマイオス朝やアンティゴノス朝と共に、いわゆるヘレニズム国家のひとつである。古代都市として知られるこの都市は、メアンダー川(現在の大メンデレス川)の支流リュコス川沿いに位置する。
ラオディキアは、その後ローマ帝国の支配下で商業と金融の中心地として繁栄し、特に羊毛製品の生産で知られていた。また、キリスト教初期の重要な拠点の一つであり、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に登場する7つの教会の一つとしても知られている。


デニズリ(Denizli)からディナール(Dinar)へ

ホナズ山脈を越え川(アカルチャイ川?)の流域を進む。この川沿いの谷間は、農業用地として利用されており、小規模な集落や農地が点在している。
川沿いの谷間を進みディナール高原に入る。標高はおよそ880m。500m以上標高を上げるたことになる。夏は涼しく、冬は寒冷な気候が特徴とされるこの高原の周囲には丘陵地帯が広がり、牧草地や農地が見られる。パムッカレから(Dinar)まで約100km、バスはディナール(Dinar)の街を通過する。

ディナール(Dinar)
この街も古い歴史をもつ古代から交通の要衝地。それゆえに幾多の文明のレイヤーが重なる。
古代フリギア王国
ディナールが歴史に登場するのは古代フリギア王国の頃。ディナール周辺は、古代フリギア王国の領土に含まれていた。フリギア人(Phrygians)はインド・ヨーロッパ語族に属し、紀元前12世紀頃にヨーロッパからアナトリアへ移住してきたと考えられている。 フリギア人は、紀元前8世紀にフリギア王国を建国し、中央アナトリア北西部で栄えた。しかし、紀元前7世紀初頭にキンメリア人の侵略を受け、王国は崩壊。その後、フリギアの領土はリディア王国、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス大王とその後継者たち、そしてアッタロス朝など、さまざまな勢力の支配下に入ることになる。
フリギア人は、独自の文化と文字を持ち、特に母神(レア・キュベレ)崇拝で知られている。この宗教的慣習は、後のアナトリア地域やギリシャの宗教にも影響を与えた。 このことはエフィソスのアルテミス神の変容で既に見た。古代アナトリア(現在のトルコ)で豊穣の女神キュベレー、フリギア人の母神として広く崇拝されていたこのキュベレー信仰が、後にギリシャ神話のアルテミス信仰と融合し、エフェソスのアルテミスは、ギリシャ本土のアルテミスとは異なり、豊穣や多産を象徴する多数の乳房を持つ姿で表現されていた。フリギア語は6世紀頃まで使用されていたとされている。
ミダス王
ミダス王by ターキッカルチャークラブ
ミダス王の墳墓遺跡 by ターキッカルチャークラブ
フリギア王国で知られるのはミダス王。伝説的な君主で、その名は多くの神話や伝説に登場する。特に有名なのは、触れるもの全てを黄金に変える「ミダスの手:Midus touch」の物語や、音楽の審判で神アポロンの怒りを買い、ロバの耳を持つようになったという逸話である。
ミダス王は紀元前8世紀から7世紀頃に実在したとされ、フリギア王国の最盛期を築いた。しかし、キンメリア人の侵攻により王国は衰退し、ミダス王は自害したとも伝えられている。
フリギア王国の首都はゴルディオン(Gordion)で、現在のトルコ、アンカラの南西約70kmに位置していた。ゴルディオンは「ゴルディアスの結び目」の伝説でも知られ、アレクサンドロス大王がこの結び目を解いた(もしくは切断した)ことで有名です。 ゴルディオン遺跡からは「ミダス王の墓」と呼ばれる巨大な墳丘墓が発見されており、これは木製の埋葬室と多くの副葬品を含む壮大なもので、ミダス王の存在を裏付ける考古学的証拠の一つとされている。
ゴルディアスの結び目
結び目を断ち切る王 by Wikipedia
ゴルディアスの結び目 by
ターキッカルチャークラブ
「ゴルディアスの結び目」は、古代アナトリアのフリギア王国の都ゴルディオンにまつわる伝説であり、解決困難な問題を大胆かつ斬新な方法で解決することの象徴として知られている。
フリギアの王ゴルディアスは、農民から王位に就いた。彼は感謝の印として、自身の牛車をゼウス神殿に奉納し、その車を非常に複雑な結び目で柱に固定した。この結び目は「ゴルディアスの結び目」と呼ばれ、予言により「この結び目を解いた者がアジアの支配者となる」とされていた。
紀元前333年、若きマケドニアの王アレクサンドロス大王がゴルディオンを訪れ、この結び目に挑戦した。彼は結び目を解く代わりに、剣で一刀両断に切り裂いた。この大胆な行動により、彼は予言を成就させたとされ、その後の東方遠征で広大な領土を征服し た。
現在、「ゴルディアスの結び目を断ち切る:cut the Gordian knot 」という表現は、複雑で解決困難な問題を斬新で決断力のある方法で解決することを指す比喩として用いられている。
キンメリア人
キンメリアの騎馬戦士 by Wikipedia
キンメリア人は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。古代ギリシア語で「キンメリオイ」と呼ばれ、彼らの住む地域は「キンメリア」と称された。 スキタイ人がアジアから西進してくると、キンメリア人は圧迫され、南下を余儀なくされた。この過程で、キンメリア人はアナトリア半島やシリア方面に侵入し、その影響を広げた。
紀元前695年頃、キンメリア人はフリュギア王国のミダス王を自殺に追い込み、さらに紀元前670年から紀元前660年代初めにはリュディア王国の都サルディスを一時占拠するなど、小アジアでの影響力を示した。
キンメリア人は高度な鉄器文明を持ち、その強大さは古代の文献にも記されており、例えば、ヘロドトスの著書『オデュッセイア』では、主人公オデュッセウスが冥界に向かう際、キンメリア人の地を通過する描写がある。
キンメリア人の言語や起源については明確な記録が少なく、詳細は不明。しかし、彼らの活動は古代の歴史や文化に影響を与えたと考えられている。
リディア王国
リディア王国のサルディス遺跡 by ターキッシュ・カルチャクラブ
次いでディナールに登場するのがリディア王国(紀元前7世紀~紀元前546年)。王都をサルデス(現在のサルジク:イズミールから東に100キロほど内陸に入った所)に置き、アナトリア半島西部を領した。
リディア人の出自ははっきりしない。が、リディア語は、アナトリアにおける古いインド・ヨーロッパ語の形を残していたと考えられており、このことからリディア人はアナsekaisaikono トリア半島の土着民族であり、周辺の文化や民族と交流しながら独自の文明を築いたと推測されている。

リディア王国は、世界で初めて金と銀の合金であるエレクトラムを用いた硬貨を鋳造し、経済活動を革新したことで知られる。これらの硬貨は、取引の効率化に大きく寄与した。そのこともあり、商工業が発達し、交易路の要所として繁栄した。特に、エーゲ海沿岸の古代ギリシャの植民都市との交流が盛んに行われた。
世界最古の硬貨 by Wikipedia

紀元前560年に即位したクロイソス王は、領土拡大と経済的繁栄を追求し、リディア王国を最盛期に導いたが、紀元前546年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によってサルデスが包囲され、王国は滅ぼされた。
リディア王国の遺産は、硬貨の導入を通じて現代の貨幣経済の基礎を築いた点で、経済史において重要な位置を占めている。
アケメネス朝ペルシア(紀元前550年~紀元前330年)
 
アケメネス朝ペルシャの最大版図 by Wikipedia
その領土は西はエーゲ海沿岸、東はインダス川流域まで広げ、アナトリア(現在のトルコ)全域を含んでいた。アナトリアでは、リディア王国やフリギア王国を征服し、地域を支配下に置いた。特に、ダレイオス1世の時代には、アナトリアを含む広大な領土を効率的に統治するため、行政区画を整備し、サトラップ(総督)制度を導入した。 しかしこの王朝はアレキサンダー大王の遠征より滅びることになる。



セレウコス朝(紀元前312年 – 紀元前63年)
セレウコス朝の最大版図 by Wjkipedia
次いでディナールを領したのはセレウコス朝(紀元前312年 – 紀元前63年)。この王は、アレクサンドロス大王の後継者の一人であるセレウコス1世ニカトルが築いたヘレニズム王朝の一つである。
アレクサンドロス大王の死後、その広大な帝国はディアドコイ(後継者)たちによって分割された。セレウコス1世(在位:紀元前305年 - 紀元前281年)は、バビロニアを中心に勢力を拡大し、最終的にはシリア、アナトリア、イラン高原、バクトリア(イランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタンおよびトルクメニスタンの一部)など広大な領土を支配した。しかし、その広大さゆえに統治は困難を伴い、各地で独立の動きが生じることになる。
アンティオコス3世(大王、在位:紀元前223年 - 紀元前187年)は一時的に王国の再統一と拡大を実現したが、ローマとの戦争で敗北し、領土を失うことになった。 セレウコス朝は、領土の広大さと内部の権力闘争、さらに外部からの侵攻により徐々に衰退し、最終的には、紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスによって征服され、王朝は滅亡することになる。
このセレウコス朝の文明史的意義はは、ギリシャ文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化の発展に寄与したことであり、新たな都市の建設や交易の促進を通じて、東西の文化交流を推進した。
もとはディナル近郊、マイアンドロス川(現在のマニサ川)沿いに位置する古代都市ケラエネ(Celaenae)を拠点としたが、紀元前3世紀初頭、アンティオコス1世によって、ケラエネの下流に新たに建設されたアパメア ・ケラエネドス(Apamea Cibotus)に拠点が移ったようである。「アパメア」は母親の名前にちなむものという。
以上の経緯より、古代名をアパメア・ケラエネドスと呼ばれたディナールは、紀元前188年、セレウコス朝とローマ共和国との間でアパメア条約が結ばれ、セレウコス朝はアナトリア半島の大部分の領土を失うことになる。

ぺルガモン王国・アッタロス朝(アッタリド朝)
ペルガモン王国の版図(BC188年)by Wikipedia
その後、アパメアはローマの同盟国であるペルガモン王国の支配下に置かれた。アッタロス朝(アッタリド朝)は、紀元前282年から紀元前133年にかけてアナトリア西部(現在のトルコ)に存在したヘレニズム国家で、ペルガモン王国とも呼ばれる。
この王朝は、ディアドコイ(後継者)の一人でマケドニア王国の王リュシマコスから、パフラゴニア人(古代アナトリアの北部、現在のトルコの黒海沿岸地域に位置するパフラゴニア地方に居住していた民族)であるフィレタイロスがペルガモンの管理を任されたことに始まる。
フィレタイロスはペルガモンの城主として勢力を拡大し、事実上の独立を果たした。 エウメネス1世(在位:紀元前263年~紀元前241年)はフィレタイロスの甥で、ガラテア人を破り、王国を宣言した。次いで、アッタロス1世(在位:紀元前241年~紀元前197年)はガラテア人(ケルト人の一派で、紀元前3世紀、小アジアにガラティア王国を建設し、たびたびペルガモン王国に侵入するが、紀元前241年に撃退される)との戦いに勝利し、タウロス山以北のセレウコス朝の領土を一時掌握する。エウメネス2世(在位:紀元前197年~紀元前160/159年)はローマと同盟し、マグネシアの戦い(紀元前190年)でセレウコス朝に勝利し、小アジアの広範な領土を獲得。アッタロス2世(在位:紀元前159年~紀元前138年)は親ローマ政策を継続し、続くアッタロス3世には子がなく、死後、王国をローマに遺贈し、紀元前129年にローマの属州アシアとして組み込まれた。
アッタロス朝の下で、ペルガモンは小アジアのヘレニズム文化の中心地として栄え、特にペルガモン大祭壇などの壮大な建築物が建設された。
古代ローマ時代(紀元前1世紀 - 4世紀
ローマ帝国の支配下で、ディナール地域は東部属州として繁栄し、都市が発展した。特に交易の要所として重要な役割を果たした。ローマ時代の遺跡や建造物が現在も残っており、考古学的な価値がある。
ビザンティン帝国時代(4世紀 – 11世紀)
ローマ帝国が東西に別れた後は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の領土として、ディナールはキリスト教文化の影響を受け、数多くの教会や修道院が建立さた。宗教的な中心地としても知られる所以である。
●セルジューク朝時代(11世紀 – 13世紀)

1071年のマラズギルトの戦い後、セルジューク朝がアナトリアに進出し、ディナール地域もその支配下に入った。イスラム文化の影響が強まり、多くのモスクや学校が建設されることになる。
オスマン帝国時代(14世紀 – 20世紀初頭)
次いで、ディナールはオスマン帝国の領土となり、地域の行政と経済の拠点となる。交易や農業が盛んに行われた。オスマン建築様式の建造物が多く残り、現在のディナールの景観に影響を与える。
アパメア ・ケラエネドス(Apamea Cibotus)と呼ばれた地が「ディナル」だが、中世から近代にかけてのオスマン帝国時代には、地域の言語や文化の変化に伴い、徐々に「ディナル」という名称が一般的に使用されるようになった。しかし、具体的にいつ正式に改名されたかについての明確な記録は見つからなかった。

それにしてもアナトリア半島(小アジア)は、古代から多くの文明や民族が興亡を繰り返している。その地政学的な重要性を理解するための主要な要因は以下の通りと考えられる。 まず、この地域が地理的要衝にあたること。アナトリア半島は、アジアとヨーロッパを結ぶ位置にあり、さらには中東のアラブ諸国からアフリカへと繋がる東西(南北)の交易路や軍事的進路の交差点として機能してきた。このため、多くの文明がこの地を巡って争奪戦を繰り広げることになる。
次いで、半島内には山岳地帯、平野、海岸線など多様な地形が存在し、農業や鉱業などの経済活動が盛んに行われてきた。これにより、多様な文化や経済基盤が形成されたことも挙げられる。
更に、アナトリアは、東西の宗教や文化が交わる地点として、多様な信仰や習慣が融合し、新たな文化を生み出してきた。この多様性は、地域の独自性と豊かさをもたらした。 これらの要因により、アナトリア半島は地政学的に重要な地域として位置づけられ、多くの文明や民族がこの地を求めて興亡を繰り返してきたわけである。
中近東
中東という言葉を上で使い、ふと「中近東」ってどこを基準にしての位置関係名の夏季になった。英語ではMiddle and Near Eastと言う。この英語からもわかるように中近東は中東と近東からなり、近東はオスマン帝国領を指し、トルコやバルカン半島を含む地域のこと。一方、「中東」は、それよりも東側の地域、具体的にはアフガニスタン以西の西アジアやリビア以東の北東アフリカを指す。つまりは西アジアと北東アフリカのこと。ヨーロッパ・西洋からみて最も近い東洋を近東、最も遠い東洋を極東とし、その中間を中東とした場合の、中東と近東を合わせた地域。
この呼称は19世紀の英国の軍事戦略家によって作り出されたもので、地理的用語ではあるが、ヨーロッパと極東を分けることと、これら両極端の間の貿易ルートを暗示する極めて政治的意味合いの強い用語である。
第二次世界大戦後は「中東」という呼称が一般的となり、「中近東」はほぼ「中東」と同義に用いられるようになっている。

ディナール(Dinar)からコンヤ(Konya)に

バスはディナール(Dinar)からエーリディル湖(Eğirdir Gölü)、ベイシェヒル湖(Beyşehir Gölü)を経てコンヤ(Konya)に向かう。この地域は、トルコの中央アナトリア地方に位置し 、標高約900メートルから1,120メートルの範囲で変化し、湖や山脈、平原など多様な地形が広がる。

エーリディル湖(Eğirdir Gölü)
ディナールから東に90キロ弱進むと、エーリディル湖に着く。この湖はトルコで4番目に大きい淡水湖で、標高約920メートル。湖は、ひょうたん型の独特な形状を持ち、北部は「ホユン湖」、南部は「エーリディル湖」ではあるが、一般的には全体を指してエーリディル湖と呼ばれている。
エーリディル湖は、その豊かな生物多様性から、世界自然保護基金(WWF)の保護下に置かれている。湖の周囲は山々に囲まれており、特に西側にはスルト山脈(Sultan Dağları)がそびえている。
湖岸にはエーリディルの町がある。バスは湖畔の町に下りていくのだが、湖と町が織りなす美しい景観を楽しむことができた。湖畔のレストランで昼食をとる。

ベイシェヒル湖(Beyşehir Gölü)
昼食後エーリディル湖を離れ、湖の東岸をしばらく北に進み、その後湖を離れ東北に向かいスルト山脈(Sultan Dağları)を抜ける山間部に入る。山脈を抜けた後、バスは南東へと向かい、ベイシェヒル湖の東岸を下る。
ベイシェヒル湖はトルコで3番目に大きい湖で、標高約1,120メートルに位置している。湖の周囲はタウロス山脈(Toros Dağları)の一部であるアナトリア高原の丘陵地帯が広がり、森林や農地が点在する。湖自体は多くの島々を有し、多様性豊かな生態系を保つ。



エシレフォール・モスク(Eşrefoğlu Camii)
39本の柱が天井を支える
ベイシェヒル湖の東岸を下り、エーリディル湖(Eğirdir Gölü)からおよそ150キロ弱、湖の東南端にベイシェヒル(Beyşehir)の町がある。ここに建つエシレフォール・モスク(Eşrefoğlu Camii)に立ち寄る。
エシレフォール・モスクは、1297年から1299年の間に建設された。このモスクは、エシレフォール・ベイリク(Eşrefoğlu Beyliği)の創設者であるスレイマン・ベイ(Süleyman Bey)によって建立された。
「カルルク」と呼ばれる井戸

このモスクは最大規模の木造建築のモスクであり、内部の木製柱や天井には精巧な木彫るり装飾が施されており、特にミフラーブ(礼拝の方向を示す壁のくぼみ)は、華麗なタイル装飾が施されている。木材に描かれた赤い色の装飾は、アジアや中東の影響を感じさせ、漆喰の使用なども見られる。また、冬季には内部を暖かく保つための独自の暖房システムが備えられていることも特徴となっている。
モスクの中央には「カルルク」と呼ばれる井戸があり、湿気を調整して木材の腐敗を防ぐ役割を果たしているとの説明があった。 建物の保存状態は非常に良かった。
トルコにはエシレフォール・モスク以外にも木造のモスクが存在するようだ。2023年に世界遺産に登録された「木柱と木製上部構造を備えたアナトリアの中世モスク群」は、その代表例。これらのモスクは、10~11世紀に中央アジアで流行していた木の柱や木製上部構造を取り入れており、13世紀以降に建造された5つのモスクが含まれている。これらはトルコでも特殊なタイプのモスクで、内部の木材の表面にはカラフルな装飾が見られるのが特徴となっている。
エシレフエォール・ベイリク
タイル装飾が施されたミラーブ
このモスクを建設したエシレフエォール・ベイリクは、13世紀末から14世紀初頭にかけてアナトリア西部に存在したトルコ系の小国家であり、その首都がこの地ベイシェヒルであった。
エシレフォール・ベイリク(Eşrefoğlu Beyliği)は、13世紀末から14世紀初頭にかけて、このベイシェヒル(Beyşehir)周辺を中心に存在したトルコ系の小国家である。
ベイリク(Beylik)は、トルコ語で「ベイ(Bey)の領地」を意味し、中世アナトリア半島におけるトルコ系の君侯国を指す。これらの国々は、ベイ(君侯、ベグ)と呼ばれる君主によって統治されていた。ベイリクは、11世紀末からルーム・セルジューク朝の衰退期である13世紀後半にかけて、アナトリア各地に成立した。
ベイリクの成立とセルジューク朝トルコ、オスマン帝国との関係
11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝は現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に広大な領土を支配していた。しかし、13世紀に入ると、内部の後継者争いや東方からのモンゴル帝国の侵攻、特に1243年のキョセ・ダグの戦いでの敗北により、セルジューク朝の勢力は大きく衰退した。これにより、アナトリア半島内で複数のベイリク(君侯国)が台頭し、地域ごとに独立した政権を樹立する状況が生まれた。
ベイリクの街

このような背景の中で、エシレフォール・ベイリクは成立した。エシレフォール家は、セルジューク朝の衰退に伴い、ベイシェヒル周辺で独自の支配権を確立し、小規模ながらも独立した政権を築いた。エシレフォール・ベイリクは、セルジューク朝の文化や行政制度を継承しつつ、地域の安定と発展に寄与した。
オスマン帝国との関係は14世紀に入ると、オスマン帝国がアナトリア半島で勢力を拡大し始め、多くのベイリクを併合していった。エシレフォール・ベイリクもその影響を受け、最終的にはオスマン帝国の版図に組み込まれることになる。

ベイシェヒルを離れコンヤに向かう

ベイシェヒルからコンヤは90キロ強。アナトリア高原の多様な地形の中を通過することになる。標高1130mほどのベイシェヒル湖から東に進むと、標高が徐々に下がり、平坦な地形が広がる中央アナトリア高原に入る。
この地域は農業が盛んで、広大な農地が広がっている。さらに東進すると、コンヤ盆地・平原に到達し、最終的にコンヤ市に至る。標高約1,020メートルの広大なコンヤ平原(Konya Ovas)はトルコ最大の平野であり、肥沃な土壌を持つため、古くから農業が盛んな地域。周囲は比較的平坦で、一部に小さな丘陵が見られる。
この地域は歴史的にセルジューク朝の首都として栄え、現在もトルコの重要な都市の一つとなっている。

コンヤ(Konya)
コンヤは標高1,026メートルに位置する内陸都市であり、人口は約74万人とのこと。 その歴史は古く、紀元前3000年頃にまで遡る。
古代の起源紀元前3000年頃、コンヤ周辺には初期の人類集落が存在していたようだ。考古学的発掘により、この地域が新石器時代から人々の居住地であったことが示されている。
ヒッタイト帝国
紀元前2000年から紀元前1200年にかけて、コンヤはヒッタイト帝国の影響下にあった。 ヒッタイト帝国は、紀元前1600年頃から紀元前1200年頃まで、現在のトルコ中央部に位置するアナトリア高原を中心に栄えた古代王国であり、 その首都ハットゥシャ(トルコの首都アンカラから東に200キロほどのところ:Hattusas)は、1986年に世界遺産に登録された。
ヒッタイト王国最大の版図(BC1350-1300) by Wikipedia
ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族に属し、アナトリアの先住民であるハッティ人から影響を受けつつも、独自の文化と国家を築いた。 ヒッタイト帝国は、鉄器の使用や戦車の導入など、古代オリエント世界において技術的・軍事的革新をもたらした。これらの遺産は、後のアナトリア地域の文化や技術発展に影響を与えている。また、ヒッタイトの遺跡や出土品、特にハットゥシャ遺跡はトルコの歴史的遺産として国内外から注目されている。
ヒッタイト帝国の滅亡は、未解明の部分が多く、その原因については複数の説が存在する。 一説には、紀元前12世紀頃、地中海東部に「海の民」と呼ばれる諸民族が出現し、エジプトやアナトリア半島などの地域に侵攻した。彼らの攻撃により、ヒッタイト帝国は大きな打撃を受けたとされる。 また政治的な不安定や経済的な困難、そして王位継承争いなどの内部要因が、帝国の弱体化を招いた可能性も指摘される。一部の研究者は、干ばつや地震などの自然災害が農業生産に影響を及ぼし、社会的混乱を引き起こしたと指摘している。つまるところ、これらの要因が複合的に作用し、ヒッタイト帝国の滅亡を促したとする。
フリギア王国
この混乱期に、バルカン半島方面からアナトリア半島に移住してきたフリギア人が、ヒッタイトの旧領土の一部に定住し、フリギア王国(上述ディナールの箇所で説明済み)を建国したと考えられている。つまり、ヒッタイト帝国の滅亡によって生じた権力の空白が、フリギア王国の成立を可能にしたといえる。
●リディア王国からアケメネス朝ペルシャ
この地域に独自の文化を築いたコンヤは、デイナールがそうであったように、フリギアの支配後、リディア王国やアケメネス朝ペルシャの支配下に入る。
リディア王国は紀元前7世紀から紀元前6世紀半ばにかけて小アジア西部を支配していたが、紀元前547年頃にアケメネス朝ペルシャのキュロス2世に敗れ、その領土はペルシャ帝国に組み込まれた。
ヘレニズム国家のセレウコス朝
その後、アケメネス朝は紀元前330年にアレクサンドロス大王によって滅ぼされ、コンヤを含む地域は彼の帝国の一部となった。この地にヘレニズム文化が広がることになる。アレクサンドロスの死後、彼の後継者たち(ディアドコイ)の間で領土が分割され、コンヤ周辺は、これもディナールと同じくセレウコス朝の支配下に入ることになる。

ローマ帝国からビザンツ帝国
その後、ローマ帝国の支配下に入り、「イコニウム(Iconium)」として知られるようになる。コンヤの古代名であるイコニウム(Iconium)の由来は未だ解明されていない。この時期、この古代都市は重要な交易拠点として繁栄した。
ローマ帝国の東西分裂後、コンヤはビザンティン帝国の一部となり、キリスト教の中心地として発展する。多くの教会や修道院が建設され、宗教的な重要性を持つ都市となった。
セルジューク朝トルコの首都となる
セルジューク朝の最大版図(1092) by
11世紀末、セルジューク朝がアナトリアに進出する。ルーム・セルジューク朝 と呼ばれが、「ルーム」は、「ローマ」を意味する。これは、かつてローマ帝国、特に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土であったアナトリア(小アジア)を指す言葉として、イスラム教徒の間で用いられていた。ルーム・セルジューク朝は、1077年にスライマーン・イブン・クタルムシュによってアナトリアに成立し、当初の首都はニカイア(現在のイズニク)であったが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、コンヤを都とした。
この時期、コンヤは政治、経済、文化の中心地として大いに繁栄し、多くのモスクやマドラサ(神学校)が建設された。
オスマントルコ
14世紀末には、オスマン帝国がコンヤを征服し、その統治下に置かれた。オスマン時代、コンヤは農業と商業の拠点として発展し続けた。
コンヤの長い歴史は、多様な文化と文明の交差点としての役割を示しており、その遺産は現在も都市の至る所に残されているとのことである。
セルジューク朝 
セルジューク朝は、11世紀から14世紀にかけて西アジアで栄えたトルコ系のイスラム王朝。その起源は、中央アジアの遊牧民であるオグズ族の一派、セルジューク族に遡る。彼らは10世紀末にイスラム教に改宗し、次第に勢力を拡大していった。
セルジューク族の指導者トゥグリル・ベクは、1037年にホラサーン地方のニーシャプールを占領し、セルジューク朝を樹立した。その後、1040年のダンダーナカーンの戦いでガズナ朝を破り、ホラサーン全域を支配下に置く。さらに、イラン高原やイラク、シリア、アナトリア東部など広大な領土を征服し、イスラム世界の大部分を支配する大帝国を築き上げた。大セルジューク朝の成立と拡大といえる。
□ルーム・セルジューク朝の成立
ルーム・セルジューク朝の版図(1240 ) by Wikipedia
1071年、セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンは、マラズギルトの戦いで東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に勝利し、小アジア(アナトリア)への進出を果たした。この勝利により、多くのトルコ系遊牧民がアナトリアに移住し、各地にベイリク(小侯国)を建設した。その中で、セルジューク家のスライマーン・イブン=クタルミシュが1077年にルーム・セルジューク朝を建国し、ニカイア(現在のイズニク)を首都とした。
ルーム・セルジューク朝は、12世紀末から13世紀初頭にかけて最盛期を迎え、コンヤを新たな首都として繁栄した。しかし、1243年のキョセ・ダグの戦いでモンゴル帝国に敗北し、以降はイルハン朝の支配下に置かれた。その後、14世紀初頭にルーム・セルジューク朝は滅亡し、アナトリア各地にはオスマン帝国をはじめとするベイリクが台頭しする。

セルジューク朝は、イスラム文化とトルコ文化の融合を促進し、建築や芸術、学問の分野で多大な影響を残した。特に、イランやアナトリアにおけるモスクやマドラサ(神学校)の建設は、後のイスラム建築に大きな影響を与えた。また、ペルシャ語を行政言語として採用し、ペルシャ文化の保護・奨励を行ったことも特筆される。
このように、セルジューク朝は中世イスラム世界において重要な役割を果たし、その遺産は現在のトルコやイランなどの文化や歴史に深く根付いている。
コンヤはイスラム神秘主義旋舞教団(メヴレヴィー教団)の拠点としても知られている。 特に、メヴラーナ博物館は、イスラム神秘主義の詩人メヴラーナ・ジェラレッディン・ルーミーの霊廟として有名で、多くの観光客が訪れる。
ガズナ朝
ガズナ朝の最大版図
ガズナ朝は、10世紀から12世紀にかけて、現在のアフガニスタンのガズナを首都とし、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝。 この王朝は、サーマーン朝(中央アジアに置ける最初のイスラーム王朝)のトルコ系マムルーク(奴隷出身の軍人)であったアルプティギーンが962年に建国した。
ガズナ朝の最盛期は、スルタン・マフムード(在位:998年~1030年)の時代であり、彼は北インドへの度重なる遠征を行い、イスラームのインド進出の先駆けとなった。 しかし、これらの遠征は主に略奪が目的であり、恒常的な支配を確立するには至らなかった。
マフムードの死後、ガズナ朝は次第に衰退し、12世紀末にゴール朝によって滅ぼされた。

コンヤからアクサライ(Aksaray)

コンヤ(Konya)からアクサライ(Aksaray)までの距離は、約140キロメートル。中央アナトリア地方の内陸部となり、全体的に平坦な地形の中をバスは進む。

スルタンハン(Sultanhanı)のキャラバンサライ(Caravanserai)
コンヤから100キロほど進むとスルタンハン(Sultanhanı)の町があり、そこに隊商の宿(キャラバンサライ)がある。キャラバンサライは、シルクロードなどの交易路に沿って築かれた隊商宿(宿泊施設)で、特にトルコ(アナトリア地方)にはセルジューク朝時代(11~13世紀)を中心に多くのキャラバンサライが建設された。
キャラバンサライは商人や巡礼者、旅人が安全に泊まることができる施設であり、交易ルートに約30~40kmごとに配置された。これはラクダ隊が1日に移動できる距離に基づいているとのこと。
キャラバンサライは厚い石造りの壁で囲まれ、敵の襲撃から守る要塞のような構造となっており、一部には見張り塔も備えられていた。
交易商人たちはここで品物を売買し、情報交換を行った。修理工房や倉庫も備えられ、隊商の維持に重要な役割を果たした。
無料で宿泊や食事、医療が提供されることもあり(特にイスラム教の精神に基づく慈善活動の一環)、公共施設の役割も果たしていたようだ。モスクやハマム(浴場)が併設されていることもあった。
この地のキャラバンサライはトルコ最大級のキャラバンサライであり、美しい門や中庭、モスクが特徴となっている。
とはいうものの、バスが到着したの時には入場時間が過ぎていたのか、砦内に入れる時間も過ぎていたようで、周囲を少し歩いてバスに戻る。

アクサライ(Aksaray)
スルタンハン(Sultanhanı)のキャラバンサライ(Caravanserai)から50キロほど東にアクサライの街。この地は、トルコ中部のカッパドキア地方となる。バスはこの街を通り過ぎるが、この地の歴史も古く、アクサライ周辺には、新石器時代(紀元前7,000年〜6,000年頃)の遺跡が複数発見されており、この地域の古い歴史を物語る。
この地は、今まで通り抜けてきたトルコの他の地と同様にヒッタイト帝国、ペルシア帝国、アレクサンドロス大王のヘレニズム時代、ローマ帝国、ビザンチン帝国、セルジューク朝、オスマン帝国と、古代から多くの文明の洗礼をうけている。
Çanlı Kilise(チャンル・キリセ)
アクサライ市から南東約15km、アクヒサール村の北東約4km、ハサン山の向かいに位置するところに10~11世紀のビザンティン時代の遺跡がある。 
この遺跡は、中央にある石造りの教会と、その周囲に広がる岩をくり抜いた住居群で構成されている。カッパドキア地方における稀少な石造りの教会の一例であり、中央アナトリアにおけるビザンティン建築の優れた例として知られる。教会の周囲には、約1kmにわたって岩をくり抜いた住居が広がっており、これらは「修道院の丘」とも呼ばれる丘の南側に位置してる。南側の広い谷を越えると、ハサン山の峰々が見渡せます。 
Çanlı Kiliseの名称は、「鐘の教会」または「鐘楼のある教会」を意味し、かつて教会のドームに鐘が吊るされていたことに由来するとされているが異説もある。

カッパドキア王国
その間、カッパドキア地方は紀元前331年から紀元17年まで古代アナトリアの王国であるカッパドキア王国が支配していた時期がある。
紀元前331年、アケメネス朝ペルシャのカッパドキア総督であったアリアラテス1世が独立を宣言し、王国を建国した。その後、アリアラテス朝(紀元前331年–紀元前96年)、アリオバルザネース朝(紀元前96年–紀元前36年)、アルケラオス朝(紀元前36年–紀元17年)と3つの王朝が続いた。
アルケラオス1世(在位:紀元前36年 – 紀元前17年)は、ローマ帝国との関係を深め、王国の独立性を維持しつつ、ローマとの同盟を強化した。彼の治世は、カッパドキアの繁栄と安定の時期として知られている。最後の王であるアルケラオスの死後、カッパドキア王国はローマ帝国に併合され、カッパドキア属州となった。
ローマ帝国が東西に分かれてからは、 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の支配下で、アクサライは重要な交易拠点として栄え、シルクロード上の要衝として活発な商業活動が行われた。
1071年、マラズギルトの戦いでセルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンが東ローマ帝国の皇帝、ロマノス4世を破った後、アナトリア半島へのトルコ系民族の進出が本格化し、この地もセルジューク朝が進出。セルジューク家の一族であるスライマーン・イブン=クタルミシュは、1077年にアナトリア地方で独立を宣言し、ルーム・セルジューク朝を建国した。アクサライは、ルーム・セルジューク朝の支配下で商業と文化の中心地として栄え、シルクロード上の重要な中継地点として機能した。
ルーム・セルジューク朝は、最初はニカイア(現在のイズニク)を首都としてたが、後にイコニウム(現在のコンヤ)に移転したことは既に述べたが、この時期、アクサライを含むアナトリア地方では、イスラーム文化とトルコ系文化が融合し、建築や芸術が発展することになる。
14世紀に旅行家イブン=バットゥータがアクサライを訪れた際、商人階級の発展や美しい都市景観について記録している、とのことである。
アクサライ周辺地域は、古代ローマ時代には「ガルサウラ(Garsaura)」と称されたが、カッパドキアの王アルケラオスによって「アルケラエイス(Archelaïs)」と改名され、セルジューク朝時代に「タクサラ(Taksara)」と改名され、最終的に現在の「アクサライ」という名称が定着したと考えられる。
この地は古代から中世にかけて東西交易路であるシルクロード上に位置し、商業と文化の交流拠点として栄えた。このため、隊商宿(キャラバンサライ)などの宿泊施設が多数建設され、交易活動が盛んに行われた。
イフララ渓谷の洞窟教会群
アクサライ周辺には、古代の遺跡や歴史的建造物が点在しており、特に、イフララ渓谷近くの古代遺跡は、約1万年前の人類の定住跡とされ、考古学的にも重要な場所とされる。
アクサライの街から南東40キロほどのところにあるこの渓谷は今回のツアーには入ってはいなかった(お気軽にいけそうもない)のだが、渓谷内の岩壁や洞窟には、初期キリスト教徒たちが築いた多くの教会や修道院が存在し、その数は100以上とも言われている。これらの教会や修道院は、4世紀から13世紀にかけて使用されており、その内部には鮮やかなフレスコ画が描かれる。
代表的な教会としては、アーラプ教会(Ağaçaltı Kilisesi)。「木の下の教会」とも呼ばれ、内部にはキリストの生涯を描いたフレスコ画が残されている。
ヘルマヌス教会(Yılanlı Kilise)。「蛇の教会」とも称され、壁画には聖人たちと蛇が描かれている。
スュンギュルル教会(Sümbüllü Kilise)。「ヒヤシンスの教会」として知られ、美しいフレスコ画が特徴となっている。
これらの教会群は、初期キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害から逃れるための避難所として籠ったところのようである。


アクサライ(Aksaray)からオルタヒサール(Ortahisar)まで

アクサライ(Aksaray)からオルタヒサール(Ortahisar)までの距離は約100キロメートル。標高980メートルの中央アナトリア高原にあるアクアサライを出たバスは丘陵地帯に入ることになる。カッパドキア地方は、アナトリア高原の一部に位置し、全体的には高原地帯に分類されるが、この地域には、エルジェス山(標高3,917メートル)やハサン山(標高3,268メートル)といった火山が存在し、これらの火山活動によって堆積した火山灰や溶岩が、長い年月をかけて風雨により侵食され、現在の奇岩や独特の地形が形成されましたわけだが、それゆえに、カッパドキアの地形は、高原地帯に点在する火山性の山々と、その周囲に広がる丘陵地帯と表現することができるだろう。

オルタヒサール(Ortahisar)
大な岩山の城塞(ヒサール)
バスは未だ日没とはなっていない丘陵地帯を進む。南に進むとカイマクルの地下都市へと向かうネウシェヒルの街を東に抜け、ほどなく幹線道路から南に別れいかにも観光地といった街並みの中をバスがゆっくりと進み、オルタヒサール(Ortahisar)のホテルに到着。ホテルの南には地名の由来でもある巨大な岩山の城塞(ヒサール)が家並の上に姿を見せる。
ホテルは洞窟ホテルという。崖面の洞窟を活用しホテルとしたもの。部屋も坂道の途中からそれぞれの部屋に通じる門に入り、そのあともあるいは石段を上り、あるいは下ってそれぞれの部屋に入る。
洞窟ホテㇽ

写真では素掘りのいかにも洞窟って風情の部屋が掲載されるが、割り当てわれた部屋は普通のホテルと同じスタイルであった。それでも洞窟をリノベーションしたのであろうから、洞窟ホテルではあろう。
一旦坂道の門を出て、別の門から入り直し石段を上り下りして食堂に向かい夕食をとったあと、明日の訪問地であるギョレメの谷、カイマクルの地下都市をちょっとググった後、眠りに就いた。

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