金曜日, 10月 07, 2005

多摩丘陵散歩 Ⅰ;多摩センターから玉川学園まで

日曜、娘の学校の文化祭が。とりあえず顔を出し、そそくさと散歩に出かける。京王線沿線でもあるので、多摩へ。鎌倉街道、それもできるものなら古道を歩いてみようかと考えた。どこかで町田市の小野路から野津田にかけて鎌倉古道が残っていると見たことがある。ちょっと距離はあるものの、京王多摩センターから南に下ることにした。



本日のルート;京王多摩センター>多摩中央公園>一本杉公園>小野路>小島資料館>小野神社前>小野神社>野津田公園>日本ろう学校>日本ろう学校入口>芝溝街道・並木交差点>鶴見川>七国山>今井谷戸>藤の台団地>鶴川街道>玉川学園

京王多摩センター

京王多摩センター下車。ベネッセ東京本社のビルの脇を歩く。二日前に来たばかり。この近くに落合遊歩道があるようなのだが、如何せん案内がない。とりあえず南に。

一本杉公園
ベネッセのすぐ南に多摩中央公園が。このあたりに落合遊歩道があればいい、などと期待しながら公園内に。案内はない。道なりに進む。南西に向っている。この公園丘陵の尾根道。結構高い。谷は深い。だいぶ歩いて道が開ける。一本杉公園に渡る陸橋が。

多摩よこやまの道
一本杉公園内に道案内。多摩丘陵の尾根道を西、というか西南に進む「多摩よこやまの道」。多摩丘陵は武蔵の国府から眺めると横に長くつらなる山々。夕暮れの姿などは万葉の時代から「多摩の横山」「眉引き山」などと呼ばれていた、と。
「多摩よこやまの道」は最近になって独立行政法人都市再生機構によって整備されたもの。もちろん、この尾根道自体は古代よりずっと重要な交通路。東国と西国を結ぶ交通の要衝であったわけだ。鎌倉古道、奥州古道、奥州廃道、古代の東海道などの古街道がこの尾根道と並走したり、南北に交差したりしている。この「多摩のよこやまの道」もおもしろそう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




小野路へと
が、本日は西ではなく南の小野路へと下りたい。ということで、案内をじ

っくりチェックする。公園の南出口から小野路へと南に向う道がある。公園内を進む。一度谷地に下り、鉄パイプの階段を上る。丘は高いし、谷は深い。
道の途中に鎌倉街道の案内が。が、どちらに進めばいいのか良くわからない。案内碑の横に、公園からの出口があった。とりあえず先に進む。公園から出る。結構大きな通り。出口にも鎌倉街道の案内。そして「よこやまの道」の案内。鎌倉古道、小野路への道案内はない。
公園出口をうろうろしたが、結局先の公園内の案内碑まで戻ることにした。後日わかったのだが、この案内図、よこやまの道の要所要所にあるガイド。よこやまの道の散歩者が対象であり、よこやまの道の散歩を豊かにするものであり、それ以外のものではなかった。他の道への案内がないのも納得。

鎌倉裏街道?


一杉公園の裏口みたいな出口から外に。が、これも右に行くのか、左に行くのかわからない。右に行ったり、左に行ったり、うろうろ。何度か行き来する。結局は左に、坂を下ることにした。この道は鎌倉裏街道(日野往還・小野路道)、などと呼ばれている道筋(じゃないか、と思う:後日、鎌倉古道は一筋隣にあるのがわかった)。車が来る。古道といった雰囲気ではない。
竹やぶの脇を更に進む。結局麓まで下りてしまった。小野路のバス停留所。古道への思い、絶ちがたく坂道に戻り脇道を山に入る。が、結局それっぽい道は見つけることができなかった。あきらめて野津田あたりの古道に一縷の望みを託す。

小野路
小野路を道なりにすすむ。小野路の地名の由来は武蔵国府・府中の古来の名称・小野郷への道筋であることから。武蔵国府があった府中には小野?の子孫が武蔵の国司として赴任していたわけだ。この小野路、かつては鎌倉と武蔵を結ぶ鎌倉街道の宿場町として発達した。また、この道筋は相模大山不動尊への参道道・大山道でもある。

小島資料館
途中立派なお屋敷。小島資料館。小島家はこの地の寄場名主。名主の総代といった立場。幕末期の当主は近藤勇と義兄弟の契りを結ぶ。ゆえに新撰組の資料が多数保管されている。幕末、天然理心流の稽古場を提供。土方、沖田、山南敬介などが出稽古に先の日野往還をとおり、この小野路のスポンサー宅に出向いていたのであろう。

小野神社
資料館をあとに進む。小野神社前。T字路の角に小野神社。案内板によれば、10世紀初頭小野篁(たかむら)の七代目の孫の小野孝泰が武蔵の国司として赴任した折り、この地に小野篁の霊を祀ったことがはじまり。小野篁は平安時代前期の人。学問の神様。菅原道真の先輩のようなもの。安中期の書家「小野道風」の祖父にあたる。ちなみに栃木県の足利学校の創始者も小野篁となっている。小野郷、府中の小野神社、小野路、このあたりには古代、小野一族が活躍していたのであろう。

ちなみに多摩市(聖跡桜ヶ丘)と府中市に小野神社がある。武蔵各地から大国魂神社・総社六所明神に勧請された六社のうちの一宮と言われる。府中の地に国府ができ、「府中」と呼ばれる以前は小野郷と呼ばれたことも頷ける。ちなみに武蔵六社とは、小野神社(府中市・多摩市) 小河神社(都下あきるの市) 氷川神社(埼玉県大宮市)秩父神社(埼玉県秩父市) 金佐奈神社(埼玉県児玉)杉山神社(神奈川県横浜市)。一宮であった小野神社が多摩市のものか、府中市のものか、はっきりしていない。

野津田へ
神社をあとに野津田へと。小野神社前の車の多い坂道を登る。途中から左手脇道に入れば古道がありそう。それっぽい道を進む。結構奥に入る。が、行き止まり。戻る。南方向に車の通る坂道。進む。野津田へと。元は「野蔦」。ツタが多く生い茂っていたのが地名の由来。フォークダンスの曲が聞こえる。野津田競技場。運動会でもやっているのだろう。尾根道を進み、これってオンコース、かとおもったのだが、結局急な下りで野津田公園に。またまたどこにいるのかわからなくなった。

野津田公園
掲示板を探す。出口が何箇所も。この公園結構大きい。とんでもなく大きい。道なりに歩き出口に。北出口。逆だ。引き返す。南出口方面に。よくわからない。大きすぎる。適当に進む。結構急な坂を登り展望台に。眺めはいい。一面の森。藤村ではないけれど、「小野路はみんな、森の中」といった雰囲気。多磨の尾根ひとつ越えると、別世界。自然が深い。依然、居場所がわからない。どうもこのあたり南というより西の出口に近いような気もする。ここは公園からのぼってきた展望台というか展望公園なのだが、横は住宅街。町田のほうから切り開かれた宅地となる。

芝溝街道に
公園横の道を進む。すごい下り坂。これを一度下りたら、また登るのは結構大変、などと怖れながらすすむ。日本ろう学校の運動場。地図を確認。OK、これなら野津田公園の南に行ける。坂を下りきると、日本ろう学校入口の横断歩道。オンコース。さらに下り芝溝街道・並木交差点に。結局、野津田公園あたりの鎌倉古道には今回もかすらなかっ た。芝溝街道は東京の芝と相模原の上溝を結ぶ道。

七国山

芝溝街道から先のルートは目の前にある七国山(なかくにやま)を越え、今井谷戸へと続く鎌倉古道がある、とか。最後のチャンス。古道を目指す。上溝街道を適当に右に折れ、鶴見川を渡り山に向う。
鶴見川の源流は町田市上小山田あたり。いつだったか、鶴見川の源流点を訪ねたことがある。滾々と湧き出る湧水が見事であった。ともあれ、山麓に沿って歩く。 が、案内なし。適当に歩く。山に向う道。といっても舗装している。古道のわけがない。七国山緑地といった案内。このあたりなのだろうが、結局頂上まで、里山を眺めながら上る。
頂上近くなり、七国山の町田側が見え始めると、これが結構開かれた山。頂上あたりには南の麓から続く住宅街が。結局、古道見つけることはできなかった。

今井谷戸の交差点
坂をおりる。今井谷戸の交差点。谷戸は里山に続く谷間のこと。通常は雑木林の尾根に挟まれて細長く延びているという地形。が、今井谷戸の交差点は車の通り激しく様変わりではある。
いつだったか、恩田川の源流点を求めて、この今井谷戸あたりまで遡ったことがある。源流点といったイメージとはほど遠い、交通量の多い交差点に、少々愕然としたものである。

玉川学園駅
日も暮れてきた。玉川学園へ急ぐ。今井谷戸の交差点を藤の台団地方向に曲がる。結構歩き鶴川街道に。あとは適当に鶴川街道と小田急線の間の丘陵、住宅街の丘を登り、
道なりに歩き、玉川学園駅に。
本日の予定終了。いやはや、午後1時から歩き、小田急玉川学園駅についたのは午後5時過ぎ。結構歩いた。が、目的の鎌倉古道は一切かすりもせず。3回もチャンスがあったのに、すべて見つけること叶わず。まあ、こういう日もあっていいか。とはいうものの、まったくの土地勘のなかったこのあたりも今回の彷徨でほぼ「掴んだ」。作戦建て直し、次回鎌倉古道、大山道、鶴見川散歩に備える。

0 件のコメント:

コメントを投稿