1:初台川の源流を辿る
初台川の源流点は初台2丁目14あたり。甲州街道・渋谷本町1丁目から山手通り・初台坂下交差点に抜ける急勾配の坂道からすこし奥まったところにある。すぐ上の尾根道には玉川上水が流れているので、分水か、とも思うが、どうもそうではないらしい。
初台坂下交差点で山手通りに
川筋は初台坂下交差点への道筋と平行に路地裏を下る。坂道も代々木中学あたりまで下ると、往時は一面の水田地帯。「初台たんぼ」と呼ばれ、代々木八幡まで続いていた、とか。
初台坂下に進むにしたがい川筋跡が大きくなる。初台坂下交差点近くには橋の跡が残る。初台坂下で山手通りを越える。山手通りの東、代々木八幡の台地の下を進み、代々木八幡前交差点あたりで再び山手通りの西に。半円を描きながら代々木八幡の駅前に進み宇田川本流と合流。初台川はここまで。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
代々木八幡
お正月に初台川を歩いたとき、久しぶりに代々木八幡に初詣にでかけた。神社は代々木台地と並んで南に突き出た初台台地の先端・台岬にある。標高はおよそ 32m。境内には縄文時代の遺跡もある。縄文時代、海は台地の下まで入り込んでいた。明治神宮や代々木公園のある代々木台地にも古墳があるように、このあたりの台地上では人々が竪穴式住居をつくり生活していた、という。代々木八幡は代々木村の鎮守。この地に住む鎌倉二代将軍頼家ゆかりの荒井何某が、鎌倉八幡宮にまつわる夢を見た。で、1212年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとのこと。作家・平岩弓枝さんはこの神社のひとりむすめ。『御宿かわせみ』はすべて読み終えた。善き人達の話はいかにも心地よい。
2;富ヶ谷支流の源流を辿る
富ヶ谷支流の水源は上原2丁目23辺り。井の頭通りの上原1丁目の交差点から斜め方向・南西に入る道筋を辿る。いかにも川筋といった道を進み、ゆるやかな台地に登りきったあたりが源流点。
結構複雑な地形の富ヶ谷
台地を歩いたことがある。結構複雑な地形。富ヶ谷、というくらいだから「谷」はあったのだろう、とは思ったが、これほど凸凹の激しい地形とは想像もしなかった。上原3丁目の谷から代々木上原駅あたりで宇田川本流に流れ込む支流とは、この上原の台地が分水嶺となる。
富ヶ谷は元々「留貝谷(とめがいや)」と呼ばれていた。谷地に大量の貝殻が堆積していたからだ。代々木八幡に縄文時代の竪穴式住居があった、とメモした。当時の人たちの残したものだろう。
三田用水からの分水も
富ヶ谷支流にはこの上原2丁目の谷筋からの流れとは別に、上原2丁目と富ヶ谷2町目の境目を南から進む水路がある。三田用水からの分水なのだろう。このふたつの川筋は上原2丁目7あたりで合流。上原1丁目交差点の少し山手通り寄り、富ヶ谷2丁目45あたりで井の頭通りを交差。北東に進み山手通りを越えて代々木八幡駅前の合流点に向う。ちなみに「代々木」の由来。村人が代々サイカチの木を植えていたから、とか。
3;神泉谷からの支流を探る
松濤公園
宇田川には神泉の谷、松濤からの支流も合流する。松濤公園は紀州徳川家の屋敷跡。明治にこの地で鍋島公爵が茶園を経営していた。池には三田用水神山口からの分水も流れ込んでいた。三田用水は世田谷区の北沢5丁目あたりで玉川上水から分水。目黒、渋谷の境の尾根筋を走り、代官山・目黒、白金・芝に進む用水路。
井の頭線神泉駅
神泉の谷からの水は井の頭線神泉駅方向の谷筋を下ってくる。円山町と松濤1丁目の境あたりで松濤公園からの川筋に合流。すべての水をあわせて宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた。
初台川の源流点は初台2丁目14あたり。甲州街道・渋谷本町1丁目から山手通り・初台坂下交差点に抜ける急勾配の坂道からすこし奥まったところにある。すぐ上の尾根道には玉川上水が流れているので、分水か、とも思うが、どうもそうではないらしい。
初台坂下交差点で山手通りに
川筋は初台坂下交差点への道筋と平行に路地裏を下る。坂道も代々木中学あたりまで下ると、往時は一面の水田地帯。「初台たんぼ」と呼ばれ、代々木八幡まで続いていた、とか。
初台坂下に進むにしたがい川筋跡が大きくなる。初台坂下交差点近くには橋の跡が残る。初台坂下で山手通りを越える。山手通りの東、代々木八幡の台地の下を進み、代々木八幡前交差点あたりで再び山手通りの西に。半円を描きながら代々木八幡の駅前に進み宇田川本流と合流。初台川はここまで。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
代々木八幡
お正月に初台川を歩いたとき、久しぶりに代々木八幡に初詣にでかけた。神社は代々木台地と並んで南に突き出た初台台地の先端・台岬にある。標高はおよそ 32m。境内には縄文時代の遺跡もある。縄文時代、海は台地の下まで入り込んでいた。明治神宮や代々木公園のある代々木台地にも古墳があるように、このあたりの台地上では人々が竪穴式住居をつくり生活していた、という。代々木八幡は代々木村の鎮守。この地に住む鎌倉二代将軍頼家ゆかりの荒井何某が、鎌倉八幡宮にまつわる夢を見た。で、1212年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとのこと。作家・平岩弓枝さんはこの神社のひとりむすめ。『御宿かわせみ』はすべて読み終えた。善き人達の話はいかにも心地よい。
2;富ヶ谷支流の源流を辿る
富ヶ谷支流の水源は上原2丁目23辺り。井の頭通りの上原1丁目の交差点から斜め方向・南西に入る道筋を辿る。いかにも川筋といった道を進み、ゆるやかな台地に登りきったあたりが源流点。
結構複雑な地形の富ヶ谷
台地を歩いたことがある。結構複雑な地形。富ヶ谷、というくらいだから「谷」はあったのだろう、とは思ったが、これほど凸凹の激しい地形とは想像もしなかった。上原3丁目の谷から代々木上原駅あたりで宇田川本流に流れ込む支流とは、この上原の台地が分水嶺となる。
富ヶ谷は元々「留貝谷(とめがいや)」と呼ばれていた。谷地に大量の貝殻が堆積していたからだ。代々木八幡に縄文時代の竪穴式住居があった、とメモした。当時の人たちの残したものだろう。
三田用水からの分水も
富ヶ谷支流にはこの上原2丁目の谷筋からの流れとは別に、上原2丁目と富ヶ谷2町目の境目を南から進む水路がある。三田用水からの分水なのだろう。このふたつの川筋は上原2丁目7あたりで合流。上原1丁目交差点の少し山手通り寄り、富ヶ谷2丁目45あたりで井の頭通りを交差。北東に進み山手通りを越えて代々木八幡駅前の合流点に向う。ちなみに「代々木」の由来。村人が代々サイカチの木を植えていたから、とか。
3;神泉谷からの支流を探る
松濤公園
宇田川には神泉の谷、松濤からの支流も合流する。松濤公園は紀州徳川家の屋敷跡。明治にこの地で鍋島公爵が茶園を経営していた。池には三田用水神山口からの分水も流れ込んでいた。三田用水は世田谷区の北沢5丁目あたりで玉川上水から分水。目黒、渋谷の境の尾根筋を走り、代官山・目黒、白金・芝に進む用水路。
井の頭線神泉駅
神泉の谷からの水は井の頭線神泉駅方向の谷筋を下ってくる。円山町と松濤1丁目の境あたりで松濤公園からの川筋に合流。すべての水をあわせて宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた。
ちなみに、神泉の谷、松濤からの合流点より代々木八幡寄り、富ヶ谷1丁目と神山町の境を通り、宇田川に合流する支流もあるようだ。
神泉の谷や台地を歩いたことがある。井の頭線・神泉の駅は谷地を横切るようにつくられており、駅の半分は台地下のトンネルの中にある。渋谷で飲んだ後、駒場東大前に抜ける途中でこのあたりを辿ることも多い。
凸凹の地形はいつ歩いても楽しい。神泉の由来は、ありがたい水・霊泉から。江戸時代に刊行された『江戸砂子』:「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」、と。江戸時代から明治20年ころまで、弘法湯という共同浴場として賑わった。で、浴場の2階に料亭がつくられ、料亭に出入りする芸者、芸者の置屋ができ、それが後の円山を中心とする盛り場のルーツ、とか。
神泉の谷や台地を歩いたことがある。井の頭線・神泉の駅は谷地を横切るようにつくられており、駅の半分は台地下のトンネルの中にある。渋谷で飲んだ後、駒場東大前に抜ける途中でこのあたりを辿ることも多い。
凸凹の地形はいつ歩いても楽しい。神泉の由来は、ありがたい水・霊泉から。江戸時代に刊行された『江戸砂子』:「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」、と。江戸時代から明治20年ころまで、弘法湯という共同浴場として賑わった。で、浴場の2階に料亭がつくられ、料亭に出入りする芸者、芸者の置屋ができ、それが後の円山を中心とする盛り場のルーツ、とか。
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