火曜日, 4月 18, 2006

江東区散歩 そのⅥ:木場・東陽エリアへ

木場一帯が埋立てられたのは、明暦3年(1657年)以降。同年、江戸を焼きつくした、いわゆる明暦の大火の後、幕府は防火を主眼とした都市計画をおこなう。市街地の再開発、拡張、寺町の移転などを実施。当初永代島にあった貯木場をこの地に移す。元禄14年(1701年)の頃である。 木場の東、千田から扇町にかけての「十万坪」、仙台堀川の南の東陽町が埋立てられたのは、18世紀の初頭から中頃のことである。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
元禄11年(1698年);築地町・十五万坪(木場・平野)/ 六万坪・石小田新田(東陽4・5・6・7丁目)
享保年間(1716年);十万坪(千田・千石・扇橋)
明和2年(1765年);平井新田(東陽3・5丁目)



本日のルート;地下鉄東西線・東陽町 ; 江東区役所 ; 横十間親水公園 ; 平井新田跡 ; 洲崎神社 ; 大横川 ; 宇迦八幡宮・「十万坪」 ; 木場公園

地下鉄東西線・東陽町;永代通り・四ツ目通りの交差点からスタート

地下鉄東西線・東陽町で下車。永代通りと四ツ目と通りの交差点を北に。前々から気になっていたのだが、この四ツ目って何だ?三ツ目もあるし、ということで調べてみた。昔、堅川の北、現在の両国2,4丁目あたりに本所相生町というところがあった。この地に本因坊さんが住む。本因坊って囲碁の名家。この相生って名前も、本因坊に由来する。囲碁の真髄は相手とともに成長する>ともに暮らし、老いる=相老>相生となった、とか。
それはさておき、相生町1丁目,2丁目は碁盤の目に因んで一ツ目、相生町3町目・4丁目・5丁目は二ツ目。その道にかかる橋を一ツ目の橋>一の橋、二ツ目通りにかかる橋を二つ目の橋>ニノ橋と呼ばれた。三ツ目通り、四ツ目通りも同じ理屈でつけられたのだろう。現在、一ツ目通りは一ノ橋通り、二ツ目通りは清澄通り、三ツ目通り、四ツ目通りはそのまんま。五ツ目通りは明治通りになっている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

江東区役所
四ツ目通りを少し北に。江東区役所。広報課公聴課に行き、『江東区のあゆみ』『江東文化財マップ』などが購入できる。『江東区のあゆみ』は江戸から平成までの江東区をまとめた小冊子。100円で手に入れる。125ページ。江東区の埋め立ての歴史がよくわかる。『こうとう文化財マップ』は500円。江東区の全体像をまとめるには便利そう。
話は少々それるが、広報資料として、戦前の江東区の写真集もあった。1000円だったと思う。ぱらっと眺める。埃っぽい道、汚染の進んだ河川などなど、今の江東区の姿からは想像するのが難しい風景。実のところ、散歩を始めて江東区を歩くまでは、こんなに美しく整備された川筋など想像もしていなかった。団塊世代の我が身としては、江東区=ゼロメートル地帯、荒れた・少々美しくない川筋を想像していた。10年かけたのか、20年かけたのか、ともあれ豊かな川筋・町並みに様変わりしていた。

江東区役所のすぐ北に横十間親水公園
直ぐ北に横十間親水公園・井住橋が架かっている。南北に貫く横十間川が、東西に走る小名木川、仙台堀川を越え、更に葛西橋通りを過ぎたところで進路変更。西へと進み大横川に合流している。

東陽3丁目のあたりには「平井新田」があった

横十間親水公園は、その雰囲気だけ感じ、もとの永代通りまで戻る。西に進み、東陽3丁目から5丁目を。このあたりは平井新田。

明和2年というから1765年、平井満右衛門、虎五郎が江戸城の掘り浚いの土で埋め立てる。明和3年(17766年)には塩浜も開かれた。先に進み木場5丁目に。大横川にかかる沢海橋に。東詰めに関東大震災殉難者供養碑。

横川・沢海橋のすぐ南に「洲崎神社」
沢海橋のすぐ南、弁天橋の近くに洲崎神社。元禄13年(1700年)、将軍綱吉時代、護持院隆光が、江戸城中より弁天像を安置したのが州崎弁天社の始まり。その後州崎弁天への沿道には料理茶屋などができ、賑わった。
深川洲崎十万坪と呼ばれ、浜の真砂が続くこの景勝の地も寛政3年(1791年)暴風雨・大津波で壊滅的打撃を受ける。以降埋め立てが進むことになる。州崎神社となったのは明治になってから。
洲崎神社の西に波除碑。寛政3年の高波・津波の被害の経験から、洲崎神社から平久橋まで一帯を空き地にして家屋建築を禁止。洲崎神社の前・木場6丁目と平久橋の西の2箇所に波除碑を建てて目印とした。

平久橋は大横川が西に進み、平久川と交差するところにある。平久川(へいきゅうがわ)。旧町名・平富町と久右衛門町の間にあったのが名前の由来。ちなみに、平久橋のすぐ南には、古石場川親水公園。江東区散歩のスタート地点。ぐるっと一周して元に戻ってきた。

横川を北に
沢海橋から大横川を北に木場4丁目方向に進む。大横橋、横十間川親水公園との分岐をそのまま直進。豊木橋、茂森橋・葛西橋通り、仙台掘を越え、大栄橋、福寿橋と進む。東が千石、西が平野地区。更に北に三石橋、亥之掘橋へ。東が石島、西が三好地区。


千田地区・宇迦八幡宮のあたりは「十万坪」とよばれる埋立地

清洲橋通り手前を右折。石島地区を越え千田地区に宇迦八幡宮。当地の開発者千田庄兵衛が建立。千田稲荷神社と呼ばれる。このあたり、千石・石島・海辺・扇橋一帯はその昔、十万坪と呼ばれる埋め立て地。享保8年というから1723年、近江屋千田庄兵衛と井籠屋万蔵の両名により開発。江戸の塵芥をつかい、2年の歳月をかけて完成。庄兵衛の名字をとり千田新田と。寛政8年(1796年)には一橋家の領地となり、一橋家十万石と呼ばれる。
また、十万石の南、現在の東陽6,7丁目あたりは宝永7年(1710年)より、開発が進み、六万坪町・石小田新田ができる。江戸の塵芥で埋め立てる。石小田新田は、石川・小柴・豊田という3名の開拓者の名前から。歌川広重の描く『名所江戸百景 深川洲崎十万坪』にその広大な景観が感じられる。

木場公園
このエリアを代表するのは木場公園。もとの貯木場。寛政18年(1641年)、江戸の大火で日本橋の材木置き場が焼失したことがきっかけで、深川(佐賀・福住あたり)に材木置場を移す(元木場)。のちに一時猿江に移るが、元禄14年(1701年)にこの地木場に。それ以来300年に渡り、この地が木材流通の中心となる。が、昭和49年、新木場への移転がはじまり、この地は平成4年に木場公園に。

江東区散歩も残すところ、亀戸地区だけに。

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