日曜日, 10月 08, 2006

杉並区散歩 そのⅣ;今川観泉寺から善福寺川・妙正寺川の分水界を歩く

杉並散歩も杉並の西端・南端あたりを残すのみとなった。今回杉並のことを少し調べると、「今川観泉寺」って結構由緒ありそう。以前善福寺川を巡ったときには源流点・善福寺池まで歩いた。妙正寺川を巡ったときには源流点・妙正寺まで歩いた。が、川筋をひたすら歩く、といった按配で周囲の神社・仏閣への寄り道はほとんどしていない。ということで、今回は今川・観泉寺を第一ターゲットに、善福寺池から妙正寺池のあたりの時空散歩からはじめ、あとは成り行きで歩こう、と思う。


本日のルート;
JR西荻窪駅>荻窪八幡神社>観泉寺薬師堂(薬王院)>観泉寺>(今川地区)>青梅街道>井草八幡宮>善福寺公園(市杵島神社・遅い井の滝)>善福寺>青梅街道>切り通し公園>井草遺跡>(井草川)>三谷公園・上井草3丁目・上井草2丁目>西部新宿線交差>井草5丁目>井草4丁目>西武新宿線交差>上井草1丁目>環状8号線>井荻駅前>下井草4丁目>妙正寺池>妙正寺>四面堂>荻窪白山神社>光明院>神明天祖神社>南荻窪中央公園>中道寺>松湲遺跡公園>天桂寺


JR西荻窪駅
Jr西荻窪駅下車。商店街を北進む。善福寺川にかかる関根橋を越え、東に折れ道なりに進む。 

荻窪八幡神社

 青梅街道・荻窪警察署交差点の南に「荻窪八幡神社」。旧上荻村の鎮守さま。寛平年間(889-898年)創祀と伝えられる。永承6年(1051年)、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征のとき、この地に宿陣・戦捷を祈願。康平5年(1062年)凱旋するにあたって社を修繕・祝祭を行った、と。文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻略するに あたり軍神祭をとり行う。社前に「槙樹」1株を植栽。「道灌槙」である、と。どこにあるのだろか。丁度、ウォークラリーの参加者の大集団。多勢に無勢ですぐにお宮を退散する。

観泉寺薬師堂
青梅街道を渡ると信号東に観泉寺薬師堂(薬王院)。観泉寺の境外仏堂。本尊は薬師如来像。秘仏ゆえに公開されない、と。門も閉じられていた。元禄年間(1688~1703)に創設。この地の領主である名門・今川氏の祈祷所となる。1747年頃には観泉寺の末寺。明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)と。また、一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺・玉光山薬王院万福寺、とも言われている。

旧中島飛行機製作所跡


北に進む。西手に大きな公園。これって、昔日産プリンスの荻窪工場があったところ。我が愛車「Nissan Skyline GT-R」誕生のところ、か?現在は更地となり公園、に。
で、この地は旧中島飛行機製作所跡。大正14年にエンジン研究工場として建設。太平洋戦争中の世界の名機・ゼロ戦のエンジンもここで開発された。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


今川観泉寺

道なりに北に進むと山門に突き当たる。今川観泉寺。この地の領主・今川氏ゆかりの菩提寺。「慶長2年(1597年)、中野成願寺の和尚が下井草2-25に観音寺を創立。正保2年(1645年)に領主となった今川範英(直房)が現在地に移し観泉寺と。慶安2年(1649年)に将軍家光公より、寺領十石の朱印状が下付された。山門を入ると正面に立派な本堂。手入れの行き届いた庭。いい雰囲気のお寺さま。

この今川氏は駿河の名族。今川義元が織田信長に討たれてから衰退していたところ、名門好きの家康に旗本として召抱えられ、正保二年(1645)範英の代に杉並区今川付近に知行地を与えられた。家光の命により、朝廷におもむき家康の御霊に「東照大権現」の称号を授与されるに、多大の功績があった、ため。5ケ村の加増を受けた、とか。
石高は2500石。一万石以下ではあったが、名族故に、大名の格式を得て領内の青梅街道沿いに陣屋を構えた。が、この陣屋も長くは続かず、宝永四年(1707)に領内の開拓が一段落したとのことで陣屋を破却して耕地に払い下げられた。大名の格式は財政負担が重く、少ない石高では陣屋を維持できなかった、というのも理由のひとつ。

四面道交差点から2つ目の交差点に「八丁」というところがあるが、それは陣屋の敷地が八町あり、その跡地付近であった、から。陣屋がなくなってからは、観泉寺の境内で年貢の取立や裁判なども行われていた。つまりはこのお寺は代官所としての役割も兼ねていたよう。今川地区。地名の由来は「今川氏」にあるのはいうまでもない。

井草八幡宮
今川3丁目・4丁目を道なりにすすみ青梅街道に交差。道を隔てて鬱蒼とした鎮守の森。「井草八幡宮」。往古、「遅ノ井八幡」と呼ばれた、旧上下井草村の鎮守様。この地には縄文時代から人々が生活していた、と。すぐ隣の善福寺池の豊富な湧水がポイントか。
境内地及び周辺地域からも縄文時代 (約四千年前)の住居址が発見され、また多くの土器や石器が発掘されて、 「井草新町遺跡」と呼ばれている。南に善福寺川の清流を望む高台にあり、中世初頭まで宿駅として、また交通の要衝として栄えた。

神社としての体裁がととのったのは平安末期。はじめは春日社をおまつりしていた。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して松樹を手植す。以来、八幡さまを主祭神と。
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏攻略の折り、当社に戦勝を祈願したとの言い伝えもある。江戸時代になると三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、慶安3年(1649年)に朱印領六石を寄進。また歴代将軍何れも朱印地を寄進し江戸末期の 萬延元年に及んでいる。 今川家の氏神さまでもあった。

善福寺池
井草八幡を離れ、台地道を善福寺公園・池に下る。善福寺川の水源。古来より武蔵野台地からの湧水地として知られる。ここに限らず、東京の湧水点は標高50m程度のところから湧き出ている。石神井の池しかり、井の頭の駅しかり、である。

池の西南部に弁天様(市杵島神社)をまつった小島。そのそばには「遅野井の滝」。源頼朝が奥州討伐からの帰途、この地に滞在。折からの旱魃で将士、渇きに苦しむ。頼朝、弁財天に祈り、7箇所地を穿つ。将士、渇きのあまり、「水の出ること遅し」とて、「遅ノ井」と。島の弁天さまは江ノ島弁才天をこの地にもってきた、もの。現在の「遅野井の滝」は千川上水から導水した人工の滝。昭和5年に町営水道の深井戸が近くで掘られて以来、泉は枯れた、と。

善福寺
善福寺公園の周囲を歩き、青梅街道へと向かう。途中に善福寺。もとは今川観泉寺の境外仏寺で、福寿庵と呼ばれていた。善福寺となったのは昭和になってから。ということは、中世のころ、この地にあった善福寺ではないわけで、では本物の善福寺は?麻布善福寺を歩いていたとき、その寺勢がこの地まで及んでいた、とメモしたが、果たして??よくわからない。

井草遺跡

青梅街道を越え、上井草4丁目に進む。都立杉並工業高校脇のゆるやかな坂を登ると、坂の途中に「井草遺跡」の碑。メモ;上井草4丁目13を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)の遺跡。
草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面に小規模な集落を形成する例が多く見られる。この遺跡もそのひとつで、井草川の西側斜面に位置しています。うむ?井草川?ということはこのあたりに井草川跡が。ちょっとしらべてみよう、と。

切り通し公園

地図をチェック。青梅街道にほど近い、「切り通し公園」あたりから、いかにも流路のような道筋が。道に沿って三谷公園、道潅橋公園、上瀬戸公園など、いくつもの公園が続いている。川筋を利用した緑道であろう。ということで、「切り通し公園」に。
結構な勾配のある公園。谷頭あたりから昔、湧水が湧き出ていたのであろう、といった雰囲気。公園下から、緑道を進み道潅橋公園に。太田道潅に由来のあるのだろう、とは思う。実際この公園の南、早稲田通りの今川3丁目交差点のあたりは「陣幕」と呼ばれていたらしい。道潅が豊島氏の居城・石神井城を攻めるに際し、この地に陣を敷いた、とか。

西武新宿線井荻駅

歩を進め、上井草8丁目を過ぎ上井草2丁目。四宮森公園を過ぎると西武新宿線に当たる。道はここで切れる。迂回し西武新宿線の北に回り、さきほどの行き止まりのあたりまで戻る。再び緑道が続く。矢頭公園を越えると再び西武新宿線に交差。南に下ることになる。

線路を渡り柿木北公園を過ぎると環八。環八を越えると西武新宿線井荻駅に。井荻駅前に「科学と自然の散歩道」の案内図。井草川遊歩道をノーベル賞受賞科学者・小柴先生の受賞記念事業としてつくられたもの。小柴先生の日常の散歩コースであったらしい。井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館をつないだ散歩道になっている。

妙正寺公園

下井草5丁目・4丁目を下り、早稲田通りを過ぎると妙正寺公園にあたる。井草川はこの妙正寺池に流れ、この池の湧水を合わせ妙正川となって下ることになる。妙正寺池は昭和30年頃までは湧水が溢れていた、とか。

妙正寺
公園から南に少し進むと妙正寺。いつだったか、妙正寺川を巡ったとき、訪れた。慶安2年(1649年)、家光が鷹狩の途中この地に立ち寄り、寺領5石と葵の幔幕を寄進した、と。どこにいっても鷹狩、って話があるので、どこまでほんとうなのか、と思っていたのだが、杉並・中野の鷹場の話を知った今となっては、少々のリアリティを感じる次第。

四面道
清水の町並みを南に進み、青梅街道と環八が交差する「四面道」の交差点。この交差点は天沼・下井草・上井草・下井草の4カ村の境。そこに秋葉神社があり、その角柱の常夜灯・灯篭(四面塔・四面灯籠)が四カ村・四方面を照らしていたので、「四面燈」と呼ばれていた。で、「四面塔」「四面燈」。が、、いつしか灯籠も無くなり、「塔」が「道」に。現在秋葉神社と常夜灯は荻窪八幡に移されている。

荻窪白山神社
環八を南に下ると荻窪白山神社。JR荻窪駅から駅前商店街を進むと、参道入口に。結構長い参道。下荻窪村の鎮守。文明年間(1469-1487年)、地頭・中田加賀守が加賀の白山(しらやま)比め神社から分霊。歯痛の神様として知られていた。

光明院
環八がJRと交差するあたりに光明院。門は閉められている、というか脇の門があいているので、お邪魔する。なかなか寺域が広い。荻窪の観音様。伝承「和銅元年(708年)、観音さまの仏像を背負って諸国行脚していた行者が、この地に来たとき、突然観音様が重くなり、動くこと叶わず、といった状態に。この地に留まりたい、という観音様の意思であろう、と、この地にとどまり、付近の萩を刈り、草堂をつくり観音様をおまつりした」と。これが寺のはじまり。
また、草堂はその後荻堂と呼ばれ、荻窪の地名のはじまりとなった、と。さすがに和銅年間ということはないにしても、南北朝の頃の創建ではないかと言われる。

神明天祖神社

光明院脇の道、JRとの間に続く細い道を進む。すぐ、JRをくぐる地下道。JRを南に出る。善福寺川を渡り、南荻窪2丁目を道成りに進む。神明天祖神社。結構広い境内。天祖神社って、こじんまりしたものが多かったようでもあり、予想外。
創建は天正19年(1591年)、下総国、香取郡水刀谷の城主・水刀谷影賢の孫正近が社殿修復。正近は姓を井川と改め、紀州家に仕官。神社の東に馬場をつくったので、そのあたりを桜の馬場とよばれていた。

南荻窪中央公園

神社を出て、南荻窪を進む。南荻窪中央公園。与謝野鉄幹・晶子邸のあったところを公園とした、と。関東大震災を契機に、この地に移る。当時、このあたりは一面の野原。『木漏れ日の街で』の中で、当時の風景が。描かれている;「我が家は高台にあるので、駅までの道のりの半分はだらだら坂を下る。(中略)坂を下りきる手前に小さな木の橋が架かっている。下を流れているのは善福寺川である。水は空が映るほど澄みきっていて、水底の小石の数まで数えられそうだ。(中略)坂を下りきった角には変電所がある。子供の頃、このあたりは見渡すかぎりの野っ原で、変電所の建物だけが場違いなほど堂々とそびえ立っていた。今は民家が点在しているものの、それでもこの界隈は草が生い茂ってもの寂しい。変電所から駅まではゆるい上り坂になる。坂の途中に青バスの車庫があって、上りきったところが荻窪駅である」、と。

中道寺
再び環八に戻り、善福寺川・春日橋の南に中道寺。開創は天正10年(1582)、本尊日蓮上人像は通称「黒目の祖師」といわれ山門は欅作りの二階建。二階には梵鐘が吊ってある。


松湲遺跡公園
中道寺から、すこし南に「松湲遺跡公園」。縄文中期の住居跡3基発掘される。保存のため地下に埋められている。近くには川南遺跡もある。
日が暮れてきた。が、杉並散歩の締めくくりとして、今回はなんとしても、天桂寺には行っておきたかった。理由は、杉並の名前の由来をつくった、岡部氏の菩提寺である、ということ。また、ここでも「中野成願寺」、ってキーワードが現れるから、である。場所は地下鉄の南阿佐ヶ谷の少し南。直線距離で2キロ弱だろう、か。
中道寺に戻り、善福寺川を渡り、荻窪2丁目、4丁目を足早に進む。荻窪2丁目43番には荻外荘(てきがいそう)。近衛文麿邸。この名は西園寺公望が命名したもので、昭和12年6月に第一次近衛内閣を組閣以後、服毒自殺した20年12月16日まで住んだところで、16年10月の対米和戦会議、20年2月の戦争終結方針など、わが国の歴史を左右した重大会議が行われた、と。
3丁目には太田黒公園。音楽評論家の太田黒元雄氏の邸宅を整備した公園。そのうち、このあたりも歩いてみよう。

天桂寺

さてさて、あたりは真っ暗。携帯のGPS情報だけがたより。成田東5丁目、成田東4丁目をなりゆきで歩き天桂寺に。
寛永10年(1633年)田端・成宗の領主岡部田忠正が中野成願寺の鉄叟和尚を招いて開く。忠正は薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。杉並の地名は忠正が青梅街道に植えた杉から、ということでもあるし、杉並でしばしば現れる「中野成願寺の」って、フレーズのお寺を真っ暗ではあるが雰囲気だけ感じ、杉並散歩をしめくくる。

なんとなく思いついた、というか書き忘れたメモを残す。
1.奈良時代は武蔵国多下郡
2.平安時代は多摩郡海田郷
3.宝徳3年(1451年)5月 25日付の「上杉家文書」には、和田、堀之内、泉(今の和泉)の3つの村が武蔵国中野郷に所属していると記されている。 
4.貞治元年(1362年)12月17日付の「武蔵国願文」では大宮八幡宮も中野郷にあったことを示唆する箇所がある
5.永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」では高井堂(今の高井戸)、永福寺(今の永福町)の2つの村が中野郷に所属していたと推測できる箇所がある
6.つまりは、平安時代までには、和田、阿佐谷、和泉、堀之内、永福寺、高井戸村は成立していた事。
7.鎌倉時代の杉並
大宮八幡宮、井草八幡宮の周辺には集落があった、だろう、と。井草、今川、清水地域の集落は市のためのもの、とも。が、それ以外は見渡す野原。

後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学である「とわずがたり」の巻四の描写;浅草の観音様へお参りするときの様子をメモしたもの;「八月(はづき)の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・芒(すすき)よりほかは、またまじるものもな く、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあ れ、はるばる一とほりは、来(こ)し方(かた)行く末野原なり。」。このようにほとんどが萩、女郎花、荻、芒、萱などの名前が出てくるだけの野原が広がっていたのだろう。
8.江戸時代には、20村
9.阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、堀之内の4つの村は麹町山王日枝神社の領地
10.上井草、下井草の2つの村は旗本今川氏の領地
11.和田村の全部と和泉、永福寺村の大部分は旗本内田氏の領地
12.残りの11の村は幕府直轄の天領。 
13.五代将軍徳川綱吉の時代には、中野から天沼にかけての約29万坪に 「お犬様」の犬小屋が作られ、約10万頭の犬が養われていました。
14.19世紀前半で、推定7,763人。明治5年の人口は、9,563名


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