月曜日, 10月 30, 2006

中野区散歩そのⅡ;鷺宮・上高田・青梅街道・本町地区

本日の散歩は上高田地区の寺町を巡り、宝仙寺そして成願寺へと、というのがおおまかなルート。上高田地区の寺町は、江戸3大美人笠森お仙が眠る正見寺があるのが気になっていた、から。宝仙寺は杉並散歩のときから気になっていた古刹。成願寺は中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、ということでこれも少々気になっていた。今日はなんとなく「気になる」寺巡りの1日というところ、か。


本 日のルート;西武新宿線鷺宮駅>八幡神社>福蔵院>天神山の森>笠付きの庚申堂>つげのき地蔵>北原神社>西武新宿線鷺宮駅>(電車)>西武新宿線新井薬師駅前>氷川神社>高田中通り>功運寺>宝泉寺>境妙寺>金剛寺>願正寺>神足寺>早稲田通り>正見寺>青源寺>源通寺>高徳寺>龍興寺>松源寺>宗清寺>保善院>天徳院>中野6丁目>JR中央線>大久保通り・紅葉山公園下>中野1丁目>追分>鍋屋横丁>慈眼寺>明徳稲荷神社>宝仙寺>白玉稲荷神社>山手通り>氷川神社>塔山>桃園川緑道>神田川>淀橋>相生橋>長者橋>成願寺>象小屋の跡>お祖師様まいりの道>新橋通り>福寿院>地下鉄丸の内線・中野新橋駅


JR高田馬場駅

JR山の手線で高田馬場駅に。西武新宿線に乗換える。で、切符を買う際、なんとなく「鷺宮」って名前が気になった。鎮守の森に鷺が飛び交っていた、というのが地名の由来であるし、ということは、湿地帯であったのだろうし、妙正寺川が鷺宮あたりで大きく迂回している、ってことは、そのあたりって舌状台地がせり出しているのだろうし、ということで、「地形のうねり」を足で感じることを散歩の最大の楽しみとする我が身としては、少々予定を変更し鷺宮まで足を延ばすことにした。

鷺宮地区

西武新宿線・鷺宮駅下車
西 武新宿線・鷺宮駅下車。鷺宮とか、上鷺宮とか、白鷺とか、美しい地名が目に付く。大雑把にいって、15世紀の頃には、このあたりに既に村落がつくられていた、と。北のほうは杉並散歩でメモした今川家の支配地、妙正寺から南は幕府の直轄地であった、と。とはいうものの、直轄地の中に今川家の飛び地があったりと、江古田地区と同じように、領地が入り組んでいたとのこと。


八幡神社
八幡神社に向かって台地をのぼる。このお宮様、康平7年(1064年)の勧請。鷺宮一帯の鎮守さま。当初は、鷺大明神、と。正保2年(1645年)今川氏がこの地を支配するときに、八幡神社と名を改める。江戸幕府からは朱印7石を頂戴。区内唯一の御朱印神社、とか。

福蔵院
神 社のお隣に福蔵院。美しいお寺さま。紅葉の季節に再度おまいりするのも、いいかも。境内には十三仏。不動明王(初7日)、釈迦如来(27日)、文珠菩薩(37日)、普賢菩薩(47日)、地蔵菩薩(57日)、弥勒菩薩(67日)、薬師如来(77日)、観世音菩薩(100日)、勢至菩薩(1周忌)、阿弥陀如来(3回忌)、阿しゅく如来(7回忌)、大日如来(13回忌)、虚空蔵菩薩(33回忌)、と13体すべてそろっている。冥界で生前の審判を受ける近親者の救済を願っておまいりしたのだろう。白鷺の地名の由来は、このお寺様から。山号を白鷺山と呼ぶ。ためにこのあたりを「白鷺」と。鷺宮の地名の由来とは関係 なし。


台地上を成り行きで歩く。鬱蒼とした屋敷森をもつ旧家などを眺めながら、中杉通りを越え、台地の西端・天神山の森に。野方丘陵が妙正寺川の浸食をうけてつくられた崖地に公園が。見晴らしはよくない。早々に台地を下り、鷺宮駅に戻る。

新青梅街道
駅前から中杉通りを北に進む。新青梅街道に。少し西に進み新青梅街道の一筋南を通る旧道を歩き、再び新青梅街道にあたる。道の北側に「つげの木地蔵」。現在はつげの木もなく、お地蔵さまも盗難にあい、昭和29年につくられたもの、とか。

北原神社

北に進む。北原神社に。なんとなく名前に惹かれたから。何とか見つける。いやはや、こじんまりしたお宮さま。祠、と言うべけんや。道標を兼ねた庚申塔が:「右ぬくい道 左やわら道」と書いている、そうな。


上高田地区

鷺宮駅に戻る。後の時間のこともあり電車に乗ることに。当初の散歩プランであった上高田地区の寺町を訪れるべく西武新宿線・新井薬師前駅に。

氷川神社
駅を降り線路に沿って東に進む。上高田4丁目に氷川神社。上高田の鎮守さま。大田道潅手植えの松があるとか。もともとはこじんまりとしたお宮様。現在の規模になったのは、大正11年に氏子から土地の寄進を受けてから、と。

桜ケ池不動尊
お宮を離れ、桜が池通りに。道脇に「桜ケ池不動尊」(上高田4丁目―32-2)。池とちょっとした滝。現在はポンプアップではあるが、昔は池の大きさも現在の3倍くらいであり、清水こんこんと湧き出ていた、と。往古、「雑木林の中清水湧く所野佛在り」と記載されたところではあるが、今はすっかり開け、その趣少なし。

「垣根の垣根の曲がり角
上高田4丁目から少し駅方面へと台地をのぼり、上高田3丁目に。3丁目―26-17に鈴木家の 屋敷。江戸時代の上高田の名主さま。鈴木家の「垣根」は、あの「たきび」の歌のモデル、とか。上高田4丁目に住んでいた巽聖歌(本名;野村七蔵)が、このお屋敷のあたりを散歩しているときに詩情を湧かせた、と:
1 垣根の 垣根の 曲がり角
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  北風ピープー 吹いている
2 山茶花 山茶花 咲いた道
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  しもやけおててが もう痒い

上高田の寺町
上高田本通を下り寺町に。明治末期から大正にかけ、東京市の都市計画などによりこの地に集められた。浅草からの移転は区画整理。四谷・牛込からの移転は博覧会会場や明治神宮の敷地確保のため、とか。トラックとてない当時、大八車に墓石を乗せて移転するわけで、大変であっただろう。上高田4丁目に6寺、早稲田通り沿いの上高田1丁目にある10のお寺は大名や政治家、学者、芸術家など高名な人物が眠っている。寺の移転で思い出したが、墓石は移したが、骨もちゃんと運んでいったのだろうか。鈴木理生さんの本:『東京の町は骨だらけ』だったと思うが、墓石は移すが、あまり「骨」は大切にせず、結構そのままにしていた、といった記事が妙に記憶に残っているのだが。。。

功運寺には吉良上野介

上高田4丁目の台地上に功運寺。吉良家の墓所。さすがに立派なお寺さま。境内も広い。赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介など吉良家四代のお墓がある。そのほか今川長徳(義元の子)、水野十郎左衛門、歌川豊国、林芙美子のお墓もある。水野十郎左衛門って、旗本奴・大小神祇組を組織し町奴と対立。1657年(明暦3年)幡随院長兵衛を殺害。1664年(寛文4年)幕府によりに切腹を命じられ、家名も断絶した。

宝泉寺には板倉重昌

直ぐ隣に宝泉寺。「島原の乱」鎮圧軍の総指揮官・板倉重昌の墓がある。父は京都所司代・板倉勝重。三河以来の家康近習ではあり、能吏でもあったが、いかんせん、大大名といったわけでもなく、派遣軍の細川・鍋島藩といった大藩の部隊など、重昌をあなどり命令聞くわけもなし。で、状況打開をはかった幕府は大物・「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の派遣を決定。重昌は武士の面目なし、と死を覚悟した突撃をおこない討ち死。この攻撃での幕府側の死者4,000人。一方の一揆がわはわずか100人だった、とか。

境妙寺に塙保己一
宝 泉寺の南というか東の道を進むと境妙寺。ちょっと奥に金剛寺。どちらもこじんまりしたお寺さん。境妙寺は塙保己一の菩提寺とのこと。江戸時代の国学者。『群書類従』の編纂者。が、新宿の愛染院にお墓がある、ということだし、よくわからない。それよりなにより、このメモをする際、塙保己一、って盲目であった、とはじめて知った。七歳で失明。15歳で埼玉の保木野村(本庄市)より江戸に出る。按摩・音曲の修行をおこなうが、どうもうまくいかない。が、塙保己一の学才に気づいた弟子入り先の検校から学問させてもらうことに。誰かに音読してもらったものを暗記し学識を高め『群書類従』の編纂をするまでに。『群書類従』って江戸の初期までに刊行された史書や文学作品をおさめている。

金剛寺には内田百閒


金剛寺は内田百閒(うちだひゃっけん)のお墓が。夏目漱石に私淑。が、実家の老舗の酒屋の没落、そして借金地獄。「百鬼園先生言行録」や『百鬼園随筆』の「百鬼園」って「借金」のもじり。戦災でバラック生活。そのときにものしたのが黒澤明作品ともなった「まあだだよ」。百閒といえば「阿房列車」三部作だが、これって、特急に乗るためだけに大阪まで行ったときの話。なんとなく魅力的な人物。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

願正寺に新見正興

すぐ東に願正寺。新見豊前守正興の墓。江戸末期の旗本。安政6年(1859年)外国奉行に。万延元年(1860年)日米通商条約批准のためアメリカ船・ポータハン号に乗り込み、咸臨丸とともにアメリカにわたり条約批准の大命を果たした。その奥に神足寺。伊豆の武将・伊東氏の開基。もとは織田信長の旗下にあり、一向一揆勢力と戦っていた。が、本願寺・教如上人の矢文を偶然目にし、織田方の非を悟り、一揆軍に参軍。後に僧となった、とか。

正見寺には江戸三大美人・笠森お仙
台地上の寺町巡りを終え、高田中通りを下り早稲田通り・清原寺交差点に。交差点の東に正見寺。江戸三大美人・笠森お仙のお墓。先日の谷中散歩のとき、三崎坂の途中にあった「大円寺」にお仙の碑があった。鍵屋という茶屋の看板娘であったが、ある日突然失踪。鍵屋は大打撃、ってまことしやかな話しもある。が、実際は笠森稲荷の祭主、倉地政之助と祝言をあげたって、こと、らしい。倉地政之助さん、幕府の隠密・お庭番とかで、桜田御用屋敷に住んでおり、外部との付き合いは「制限」していた、との、それらしき説もあり。ともあれ、お仙は幸せな人生を送った、と。

笠森稲荷は谷中・感応寺門前にあったよう。ちなみに、江戸明和の三大美人って、お仙のほかは浅草観音裏の「柳屋のお藤」、二十間茶屋の蔦屋のおよし。お仙は鈴木晴信の浮世絵に描かれたり、歌舞伎や人情本に取り上げられたり、はては手ぬぐいとか人形までもつくられた、とか。アイドルであったのでありましょう。


青原寺に朱楽菅公
交差点から早稲田通りに沿って西にお寺が続く。青原寺。寛政年間(1789-1800年)の狂歌師・朱楽菅公(あけらかんこう)。「あっけらかん」からきていることは言うまでもない。幕臣。本名は山崎景貫。。「いつ見てもさてお若いと口々にほめそやされる年ぞくやしき」。
お散歩の折々に登場する人物として、蜀山人というか太田南畝、というか四方赤良がいる。ちょうど、蜀山人を描いた。『蜀山残雨;野口武彦(新潮社)』、『橋の上の霜;平岩弓枝(新潮社)』など読んでいるのだが、その中に朱楽菅公も登場しており、なんとなく身近な感あり。ちなみに狂歌師には結構面白い名前が多い。宿屋飯盛(やどやのめしもり、酒上不埒(さけのうへのふらち)、土師掻安(はじのかきやす、多田人成(ただのひとなり)、といったもの。

源通寺には河竹黙阿弥
横に源通寺。河竹黙阿弥の墓。歌舞伎「白波5人男」、「鼠小僧次郎吉」などの義賊を主人公にした生世話(きぜわ)狂言の作者として有名。幕末から明治にかけて活躍。七五の名セリフで有名。三人吉三での「月も朧(おぼろ)に白魚(しらうお)の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ烏(がらす)のたゞ一羽塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手(ぬれて)で泡、思いがけなく手に入る百両」。
また、白波五人男・弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう  浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵、百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字、百が二百と賽銭の,くすね銭せえ段々に、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの、似ぬ声色でこゆすりたかり名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がこと だぁ!」などは、なんとなく、どこかで聞いたことが、ある。

高徳寺は新井白石

高徳寺には新井白石の墓。江戸中期、将軍家宣、家継に仕えた朱子学者。貿易の制限、通貨の改良、国内産業の振興といった、いわゆる正徳の治世、として名高い。

龍興寺には橘染子
龍興寺には柳沢吉保ゆかりの、というか側室橘染子が眠る。嫡男の生母。また後世江戸期における禅の研究テーマとなった『参禅録』を残している。
松源寺は「さる寺」とも
少し途切れて松源寺。江戸の触頭4カ寺のひとつ。さる寺。触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院に伝へたり、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申する役のお寺さん。さる寺、とは、お猿にまつわる話が伝わっているから。かいつまんでメモする;いたずらお猿にこりごりした小坊主、こらしめようと。それを助けた和尚さんが、船の転覆という危難に際し、お猿に教えられてあやうく助かった、という猿の恩返しの話がつたわっている、から。

宗清寺に水野忠徳

宗 清寺には幕末の外交官水野忠徳の墓。旗本であったが、浦賀奉行から長崎奉行に。嘉永七年には日米和親条約締結に尽力。その後勘定奉行、安政五年にははじめての外国奉行に就任。翌年勃発したロシア海軍士官兵殺傷事件の責任を取り西の丸留守居役となる。が、実質的に外国奉行として腕を振るった。戊辰戦争の混乱の中、慶應四年に五十四歳で病死した。たつ寺、とも、なが寺、とも。

保善寺は信玄ゆかりの寺

保善寺。武田信玄の従兄弟が開く。このお寺様が牛込寺町にあったとき、同地の酒井邸を訪れた時、この寺に立ち寄った将軍家光から賜った猛犬が獅子のようでもあったため、獅子寺とも。

天徳院に梶川怱兵衛

隣に、天徳院。江戸城・松の廊下で浅野匠頭を抱きとめた梶川怱兵衛の墓。天徳院で寺町は切れる。

北野神社
早稲田通りを南に入り、中野6丁目をぶらぶら。桃園二小のあたりから西に進み、南北に下る大日橋通りに出る。少し西に北野神社。もとは打越天神と呼ばれていた、と。打越の由来は、このあたりは少し南に流れる桃園川に対する小高い台地となっており、北に向かうには、その台地を「打ち越えて」いく必要があったから、とか(「なかのの地名とその伝承;中野区教育委員会」より)。神社はこじんまりとしたもの。境内に三体の石仏。新井薬師参詣者の安全祈願をかねた道標の役割も。

道灌とりで
大日橋通りに戻り、JR中央線を交差、紅葉山公園脇をくだり、大久保通りに。東に折れ、少し進むと「谷戸運動公園」」。運動公園の北にあるマンションのあたりに土塁があったようで、堀江氏の屋敷跡、と言われる。
案内板をメモ:堀江氏は小田原後北条氏の中野五郷の小代官。豊臣秀吉の命を受けた中野の土豪。戦国末期の城山は小城塞を兼ねた土豪屋敷であった、よう。湧き水のある中野川の谷戸をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は平忠常、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」とも言われている、と。

桃園川緑道


横を下り、大久保通りを越えると桃園川緑道。桃園川は現在は完全に暗渠となっている。もとは、杉並区天沼の天沼弁天社内の弁天池を水源とし、東に進み杉並区立けやき公園のあたりで中央線を越え、そこからはほぼ大久保通りに沿って東に進み中野区と新宿区の境にある末広橋あたりで神田川に合流する。
いつだったか源流点を求め、歩いたことがある。弁天池はその地が西武グループの総帥であった堤氏の「杉並御殿」となったとき埋め立てられた、よう。また、当時、その「御殿」も工事中であった。時が時だけに、取り壊されていたの、かも(後日その地を歩いたとき、もうすっかり公園となって、いた。確か弁天公園だった、かと)。


鍋屋横丁

青梅街道・鍋屋横丁交差点に。鍋屋横丁って、杉並堀の内の妙法寺への参詣道。妙法寺横町とも呼ばれていたようだが、青梅街道からこの妙法寺横町への入口に「鍋屋」という茶屋があった。なにせ厄除けで有名な妙法寺・お祖師さまへの参道。おおいに賑わい、また、その鍋屋の屋敷内に立派な梅林があり、あれもこれもあいまって、妙法寺横町が、いつの間にか、「鍋屋横丁」になった、とか。

追分

鍋屋横丁交差点のちょっと西に「追分」。石神井道(井草、石神井、所沢方面)への分岐点。中野通りに向かって、ゆったりとしたカーブで道が分岐している。青梅街道を少し東に慈眼寺。桃園川慈眼堂橋脇からここに移転。東に進み、中野警察署西交差点あたりから北に入る。宝仙寺方面に、

明徳稲荷
中央2丁目を成行きで進むと明徳稲荷(中央2-52-1)。江戸時代、中野村の名主をつとめた堀江家の屋敷の鬼門よけ。堀江家の敷地は21,000平方メートル。このあたりから青梅街道まであった、とか。堀江氏の先祖は、天正4(1576)年戦国大名後北条氏領中野郷を治める小代官。秀吉の時代には秀吉に属 した中野の土豪、であった。城山のところでメモしたとおり。
山政醤油醸造所跡
明徳稲荷から宝仙寺に向かう途中の公園の中に赤レンガ。なにかと、ちょいと足を止める。「山政醤油醸造所跡」の案内。明治5年創業の醤油醸造所跡。この赤レンガ、セメントのない時代、石灰、つのまた(海草)、砂を混ぜてつくったもの。また、この醤油醸造の生産量は中野の80%。敷地も広く、青梅街道を越え、桃園小学校あたりまで続く広大な敷地であった、とか。

宝仙寺
宝仙寺に到着。杉並散歩のときメモしたように室町期に阿佐ヶ谷から移る。創建は平安後期の寛治年間,源義家によって創建されたという。奥州・後三年の役を平定して 凱旋帰京の途中で,陣中に護持していた不動明王像を安置するためにこの寺を建立した、と。
お寺をつくるとき、地主稲荷の神が出現して義家に「この珠は希世之珍 宝中之仙である 是を以て鎮となさば 即ち武運長久 法燈永く明かならん」と告げ白狐となっていづこともなく去った、とか。で、これが「宝仙寺」の由来。とはいうものの、杉並に覇を唱えた、阿佐ヶ谷殿がその力の証として阿佐ヶ谷の地にお寺をつくったのだが、その勢の衰えとともに、この地に移った、というのがほんとうのところか。その後、この地において寺勢拡大し大寺となった。
護持院住職の隆光(五代将軍綱吉に畜生憐れみの令を出させた僧)や桂昌院(綱吉生母)との関係も深く,護国寺を開山するに当たり宝仙寺属の子院を寄付したことが記録に残っているほど。仁王門を入ると、明治になっての中野町役場跡。その後東京市中野区の庁舎として昭和初期まで利用された。墓地には堀江家歴代の墓がある。

塔山
宝仙寺を離れ塔山(とうのやま)に向かう。途中山手通りに沿って白玉稲荷神社。中野下宿の鎮守さま。名前に惹かれて足を止める。こじんまりしたお稲荷さま。山手通りの東に塔山。区立十中敷地内。戦前まで江戸名所図会に描かれた三重塔があった。で、このあたりを江戸初期から「塔の山」と。むかしはこのあたりも宝仙寺の境内であった、ということ。三重塔は中野長者・鈴木九郎が寄進した、とか。

氷川神社

少し北に進み、大久保通りを北に入ったところにある。中野村の鎮守さま・氷川神社をおまいりして再び南に少し下り、桃園川緑道に戻り、歩を東にすすめ末広橋から神田川に。

淀橋
神 田川に沿って南に下り、青梅街道・淀橋に。この橋、「姿見ずの橋」とか「面影橋」などと呼ばれていた。「姿見ずの橋」の名前は、熊野からこの地に移り住み中野長者と呼ばれるほどになった鈴木九郎に由来する。
財宝を隠し場所に運んだ下僕を、そのありかを隠すためこの橋で殺したため、その姿が見えなくなったから、との説あり。また、父親の悪行のゆえ婚礼の直前に呪われて蛇となり、それを悲しみ長者のひとり娘が投身自殺。ためにその姿が見えなかったことに由来する、とか諸説あり。こういった伝説もあり、後世、婚礼の時、花嫁はこの橋を避けて嫁入りした、と。

淀橋、となった由来も諸説あり。鷹場に向かう途中、「姿見ずの橋」を通った徳川家光だか、徳川吉宗が橋の名前の由来が不吉であると、淀川に似ていたことから淀橋と改名した。川の流れが淀んでいたので淀橋と家光が名づけた。豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移してきた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」、さらには淀橋となった。 柏木、中野、角筈、本郷の4つの村の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。といった按配。淀橋には昔水車があった。淀橋の水車と呼ばれるが、ペリー来航をきっかけに火薬製造のために活用。が、嘉永7年(1854年)大爆発をおこした、とか。

成願寺
神田川に沿って、相生橋、長者橋と進み山手通りと交差。すこし北にのぼり成願寺に。今まで何度か登場した中野長者こと、鈴木九郎の屋敷跡。上の「姿見ずの橋」でメモした財宝にまつわる悪行の因縁で失った、ひとり娘のことを深く反省し、仏門に入り、供養のために自宅を寺としたのがはじまり。九州肥前・鍋島家累代の墓もある。
鈴木九郎は応永年間、というから14世紀末から15世紀はじめに、熊野よりこの地に来る。もとは、馬喰であった、とか。この地は多摩と江戸湊、そして浅草湊への交通の要衝。荷駄を扱う問屋場押さえ勢力をのばす。もちろん、熊野衆であるわけだから、水運を抑えていたわけで、陸運・水運を支配することにより「長者さま」となったのであろう。神田川沿いにある和泉熊野、尾崎熊野、善福寺川沿いの堀の内熊野神社を見るにつけ、熊野衆の勢力を大いに感じる次第。ちなみに西新宿にある十二社熊野神と社は鈴木九郎が勧請し、建てたもの。

象小屋の跡
成願寺を離れ一筋北の道に。朝日が丘児童館の公園のところに「象小屋の跡」の案内。享保13年(1728年)、安南国(べトナム)から吉宗に献上された象だが
、餌代なども大変ということで、「浜屋敷」において象の面倒をみていた中野村の農民源助にさげわたされた。
源助は象を見世物として金儲けをたくらむ。が、暖房費をけちったり、当初幕府からもらっていた餌代も、金儲けしているのであれば、ということで打ち切られ、3年もたたないうちに死んでしまったと。それにしても、長崎に到着した象は2ヶ月かけて江戸まで歩いてきた、と。街道は大騒ぎ。京都では天皇や法皇も見物にきた、とか。

お祖師様まいりの道を中野新橋駅に
象小屋跡から道なりに北に進む。本町2丁目43あたりで「お祖師様まいりの道」に当たる。杉並・妙法寺に通じる道筋である。お祖師様まいりの道を西に進み、新橋通りに。南に下り、丸の内線・中野新橋駅。昭和初頭、このあたりは花柳界で賑わった、とか。ともあれ、地下鉄にのり、自宅に向かう。

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