日曜日, 11月 19, 2006

北武蔵 野火止用水散歩 ; 玉川上水分岐点から平林寺へと

何も考えず、ひたすらに歩きたい、と思うときがある。そういった時は、川筋を歩くことにしている。川の流路にそって、川の流れのガイドに従って歩くことができるからである。
今回もそういう気分。それではと、前々から機会を伺っていた「野火止用水」を歩くことにした。いつだったか玉川上水を歩いたとき、西武拝島線・玉川上水駅あたりから野火止用水が分岐していた、との、かすかな記憶。地図で確認すると、玉川上水駅あたりから新座市の古刹・平林寺あたりまで川筋・緑道が続いている。野火止用水だろう。玉川上水駅から平林寺まで、およそ20キロ。ひたすらに歩こう、と思う。

野火止用水のメモ;武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に入府以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく開拓農民は困窮の極みとなっていた。
承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37・8年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。(日曜日, 11月19, 2006のブログを修正)


本日のルート;J
R立川駅>多摩モノレール・玉川上水駅>水道局監視所>(東大和市)>西武拝島線にそって・松ノ木通り>村山街道・青梅橋>(開渠)>栄町1丁目・多摩変電所>野火止緑地・野火止橋>東野火止橋>ほのぼん橋>土橋>元仲宿通り>(緑道)>野火止通り>(開渠)中宿商店街>西武国分寺線交差>九道の辻公園>八坂>西武多摩湖線>多摩湖自転車道>西武新宿線交差>新青梅街道交差>稲荷公園・稲荷神社>万年橋>所沢街道・青葉町交差点>新小金井街道合流>小金井街道・松山3丁目>水道道路>西武池袋線>新堀>御成橋通り合流>西堀公園>新座市総合運動公園>関越道>平林寺


玉川上水駅

さて、歩き始める。自宅を出て、JR立川駅に。多摩モノレールに乗り換え、玉川上水駅に向う。モノレールはほぼ「芋窪街道」に沿って北上する。今風に考えれば少々「格好よくない」この街道の名前の由来は、芋窪村(現在の東大和市の一部)に通じる道であったから。その「芋窪」も、もともとは「井の窪」と呼ばれていた、とか。
玉川上水駅に到着。ここはまだ立川市。とはいっても立川市、東大和市、武蔵村山市とのほとんど境目。立川市の地名の由来は、東西に「横」に広がる多摩丘陵地帯・多摩の横山から見て、多摩川が「縦」方向に流れる、立川・日野近辺が「立の河」と呼ばれていたから。この「立の河」が「立川」となった、とか。また、地方豪族・立河氏が居城を構えていたから、とか例によって説はいろいろ。

水道局・小平監視所

駅の南に玉川上水かかる清願院橋。少し東に進むと、水道局・小平監視所。現在は、ここが玉川上水の終端施設、といってよい。ここで塵芥を取り除き、沈殿槽を通った水はここから東村山浄水場に送られる。つまりは、ここから下流には多摩川からの水は流れていない。玉川上水、また野火止用水は昭島の水再生センターからパイプで送られてきた高度処理下水が流れている。「清流復活事業」といった環境整備のために作られた流れとなるわけだ。
事情はこういうこと;昭和48年、玉川上水とつながっていた新宿・淀橋上水場の閉鎖にともない、玉川上水の水を下流に流す必要がなくなった。が、後に上水跡・用水跡の清流復活運動がおこったため、その水源を求めることになる。玉川上水の水を流せばいいではないか、とはいうものの、その水は村山浄水場に送られ都民の上水となっているわけで、それを使うことは既にできない。で、代わりに昭島の水再生センターからの水を使うことになった、ということ。
ところで、何故、「小平」監視所?地図をチェックすると、ここは小平市。西武拝島線と玉川上水に囲まれる舌状地域が小平市の西端となっている。小平の地名の由来は、昔のこのあたりの地名であった「小川村」の「小」と、平な地形の「平」を合わせて「小平」と。

西武拝島線・東大和市駅

監視所を過ぎると、西武拝島線に沿って緑道が続く。松ノ木通りと呼ばれている、ようだ。このあたりは「野火止用水歴史環境保全地域」となっており、保存樹林が続く。緑道は西武拝島線・東大和市駅まで続く。
東大和市駅は村山街道と青梅街道が合流する青梅橋交差点近くにある。駅名の割には市の南端。昔は青梅橋駅と呼ばれていた、と。青梅橋の案内によれば、「300年の歴史を持つ青梅橋も、昭和35年村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水跡を利用した暗渠となったため取り壊された。この橋から丸山台(というから南街3丁目)あたりまで、4キロにわたって道の中央に一列に植えられた千本桜があったが、今はない」と。
東大和の地名の由来は、少々面白い。村制が施行されるとき、それまであれこれ争っていた六つの村が、大同団結、「大いに和するべし」というとこで、「大和村」となる。また、市制施行時に、神奈川県の大和市と区別するため、「東」大和、とした、とか。同じような例として、愛媛の松山市と区別した埼玉の東松山市、九州の久留米市と区別した東久留米市、などがある、とか。郵便番号が無かった時代を思えば、少々納得。

駅前を過ぎ、西武拝島線の高架下をとおり先に進む。ここから府中街道・八坂交差点までは東大和市と小平市の境を用水が続く。住宅街を走る緑道を少し進むと、親水公園に。川筋には「ホタルを育てています」といった箇所も作られていた。
先に進み、栄1丁目の多摩変電所を越えるあたりで親水公園が終わり、自然の川筋が現れる。雑木林の入口あたりに「野火止用水 清流の復活」と刻まれた石標が。都市化が進み生活用水で汚れた川を、東京都と埼玉県で復元・清流復活事業を行い昭和59年に完成した。玉川上水の清流復活に先立つこと2年、ということだ。
清流の元の水は上でメモしたように昭島市の多摩川上流水再生センター(昭島市宮沢町3丁目)で高度処理された下水処理水である。ちなみにこの再生センターで処理された、この地域一帯の下水は多摩川に放水される。また、多摩川に流される処理水をさらに砂濾過処理、オゾン処理をおこない、野火止用水とともに玉川上水、千川上水の清流復活事業に供している。昭島市の地名の由来は、「昭」和村+拝「島」村=昭島、と。

野火止緑地

しばらく雑木林が続く。いい雰囲気。野火止緑地と呼ばれている。けやき通りと交差。野火止橋。先に進むと東野火止橋。雑木林はここで一旦途切れる。住宅街に隣接した川筋を少し進む。用水の両側は木に覆われている。「ほのぼの橋」に。用水の北側はこのあたりで東大和市が終わり、東村山市になる。東村山 市と小平市の境の用水をしばらく歩く。「こなら橋」あたりから再び雑木林が現れる。土橋を越えたあたりから雑木林が終わり、両側に団地が現れる。川筋の廻りも広い舗装道路となる。少し進むと左手に明治学院東村山中・高校。グラウンドのあたりで一度暗渠となるが、学院正面の橋あたりで、再び水路が現れる。このあたりの川筋に沿った住宅には、その家専用の橋が架かっている。いつか、六郷用水の上流部分・丸子川を歩いたときも、おなじようなMy Bridgeをもつ瀟洒な住宅街を見た。いい雰囲気でありました。
東村山の地名の由来は、武蔵野台地の西端は昔、村山郷と呼ばれていた、狭山丘陵の群れあう山々=群山>村山になった、とか。村山郷の東のほうに位置するので、東村山、と。西に武蔵村山市があるから、その東って、ことかもしれない。ついでに武蔵村山は山形県の村山市と区別するために「武蔵」をつけた、とか。

九道の辻公園
西武国分寺線を越えると、九道の辻公園(小平市小川東町2-3-4)。往古、このあたりには鎌倉街道(上道)、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、 宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道が交差しており、九道の辻と呼ばれていた。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の倒幕の命に呼応し、上州・新田庄で挙兵。武蔵野の原野を下ってきた新田義貞は、この辻にさしかかったとき、さて鎌倉に進むには、どちらに進めばいいものやら、と大いに戸惑った、とか。で、今後道に迷うことのないように、鎌倉街道沿いに桜を植えた。その名を「迷いの桜」と呼ばれたが、今はない。

多摩湖自転車道

公園が終わるあたりで府中街道と交差。八坂交差点。地名の由来は、交差点の北、府中街道に面したところに八坂神社があるから、だろう。府中街道を渡り西武多摩湖線の高架下を越えると多摩湖自転車道にあたる。この自転車道の地下には多摩湖~東村山浄水場~境浄水場~和田給水所を結ぶ水道管が通っている。小平市の境は、この西部多摩湖線に沿って南東に下る。つまりは、ここからしばらくは東村山市内を歩くことになる。

西武新宿線・久米川駅

多摩湖自転車道を越えたあたりから用水は一時暗渠となり、自転車歩行者専用の道筋となる。西武新宿線・久米川駅近くを越えると新青梅街道と交差。再び用水が姿を現わす。少し進むと稲荷公園・稲荷神社。江戸時代の大岱村の鎮守として京都伏見稲荷を分祀したもの。その先に恩田の「野火止の水車苑」。天保2年(1782年)から昭和26年まで、小麦等の穀物を製粉し、商品価値を高め江戸・東京に送られていた、と。
さらに少し進むと万年橋。万年橋のケヤキがある。ケヤキが用水を橋のように跨いでいる。用水を開削するとき、元からあったケヤキの大木の根元を掘り進んだからから、とか、用水ができたときに植えたケヤキが、橋づたいに根を延ばしたとか、説はいろいろ。

新所沢街道
万年橋を越え、しばらく進むと、車道と隣接して用水は進む。野火止通りと呼ばれている、ようだ。すぐに新所沢街道がT字に合流。ここからは南は東久留米市。東村山市と東久留米市の境を進む。しばらく進むと雑木林。野火止用水歴史環境保全地区となっている。雑木林が切れるあたり、青葉町1丁目交差点で所沢街道と交差する。
東久留米の地名の由来は、久留米村、から。久留米村は地域を流れる「久留米川」から。現在は「黒目川」と呼ばれているが、江戸時代は「久留目川」・「来目川」・「来梅川」と呼ばれていた。「東」久留米としたのは、前述の九州の久留米市と区別する、ため。

新小金井街道

野火止通りを進む。用水南にあるアパート(久留米下里住宅)が切れるあたりが東村山市の西端。清瀬市となる。清瀬市の地名の由来は、清戸村+柳「瀬」川=清瀬、と。しばらく歩くと用水脇に浅間神社(清瀬市竹丘)。富士塚が築かれており、ちょっと「お山」に登る。
浅間神社を越えると「新小金井街道」が野火止通りに合流。さらに歩を進めると小金井街道と交差。松山3丁目交差点。交差点を越えると、新座市。用水跡を南端に舌状に新座市が清瀬市と東久留米市に食い込んでいる。どういった事情かは分からないが、市境は用水を境に複雑に入り組んでいる。
新座市の地名の由来は歴史的名称から。758年、新羅からの渡来人がこのあたりに住み新羅郡が置かれる。その後、新倉郡、新座(にいくら)郡となった、その名称から。

野火止史跡公園

新座市に入った頃から川筋は「野火止通り」から「水道道路」と。西武池袋線を交差し、新堀交差点を越え、新座ゴルフ倶楽部を左手に見ながら先にすすむと、御成橋通りが南からT字に合流。さらに進むと富士見街道が北からT字に合流する西堀公園交差点に。
交差点を越えると野火止用水は水道道路とわかれ北に上る。このあたりは「野火止史跡公園」。用水も本流と平林寺堀と二手に分かれる。どちらを歩くか少々迷ったが、本流を進むことに。平林寺堀を進むと、用水は雑木林の中、細流となって続くようだ。

関越道と交差

遠くに雑木林を見ながら、のんびりとした田園地帯を進む。雑木林に入るころから、用水に沿って「本多緑道」がはじまる。桜並木が有名なようだ。雑木林と桜並木の道筋を進む。新座市総合運動公園を左手に見ながら進むと、関越道と交差。用水も関越道の上を懸樋でわたる。
関越道を越えると産業道路。野火止用水は産業道路を左手に見ながら緑道を進む。次第に深い緑。もうここは平林寺の寺域だろう。道なりに平林寺大門通りに向かい、やっと目的地・平林寺に到着。

平林寺

平林寺到着は午後5時。お寺は既に閉門。平林寺は次回のお楽しみとする。玉川上水をメモするとき、杉本苑子さんの『玉川兄弟;文春文庫』を詠んだ。絶版のためあきらめかけていたのだが、偶然入った古本屋で見つけた。その中で、取水口をどこにするか、技術的・政治的思惑が錯綜するストーリーが面白かった。

玉川上水の取水口は現在、羽村にある。が、当初日野・青柳村、次に福生、と通水失敗を重ね、三度目の正直で羽村になった、と。その間、というかはじめから松平伊豆守の家臣・安松金右衛門は玉川兄弟に羽村にすべし、とのアドバイスを繰り返した。羽村から取水しなければ玉川上水も通水しないし、羽村からでなければ野火止用水への導水など夢のまた夢、という事情もあったから、とか。結果的にはごり押しすることもなく、羽村に決まり、玉川上水も、野火止用水も完成したわけだが、その知恵伊豆の夢の跡を秋の一日、すっかり楽しんだ。

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