火曜日, 11月 28, 2006

北陸 倶利伽羅峠散歩 そのⅠ; 源平の合戦地を歩く

晩秋の連休を利用し、倶利伽羅峠を歩くことになった。源氏だか平氏だか、どちらが主人公かは知らないが、源平争乱の時代を舞台にした恋愛シミュレーションゲームがあるそうな。そのゲームに嵌った同僚諸氏が、行きませんか、とのお誘い。源平争乱絵巻は別にして、歩くことができるなら、と二つ返事で承諾。倶利伽羅峠って、木曽義仲が平家を打ち破った合戦の地。それなりに興味はあるのだが、どこにあるのかもよくわからないまま、加賀路に飛んだ。

2泊3日 の行程では、倶利伽羅峠を歩くほか、安宅の関、斉藤実盛ゆかりの地などあれこれ源平合戦の跡、また、名刹・那谷寺などを巡る。が、そこはレンタカーでの旅でもあり、散歩というほどのこともない。メモしたい思いもあるのだが、散歩のメモという以上、少々歩かないことには洒落にならない。ということで、今回は10キロ程度の行程ではあった倶利伽羅峠越えをメモすることにする。(火曜日, 11月 28, 2006のブログを修正)


本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


倶利伽羅峠

倶利伽羅峠とは、正式には砺波山のこと。倶利伽羅はサンスクリット語。「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」を意味する、とか。峠に倶利伽羅不動寺があり、日本三大不動でもある、ということで、砺波山ではなく「倶利伽羅」が通り名となったのだろう。
こ の倶利伽羅峠、富山県小矢部市埴生より石川県津幡町倶利伽羅・竹橋に至るおよそ10キロの行程。旧北陸街道が通る。標高は70mから270m程度。メモの前にカシミール3Dで地形図をつくりチェックしてみた。越中・砺波平野と加賀を隔てる山地の、最も「薄い」、というか「細い」部分となっている。どうせの山越え・峠越えであれば、距離が短く、標高差の少ないとことを選んだ結果の往還であったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

和銅6年(713年)、この地に関が設けられる。砺波の関と言う。越の三関のひとつである。古伝に曰く;「京都を発し佐渡にいたる古代の越(高志)の道は、敦賀の愛発(あらち;荒乳山)を越える。ここから越前。次いでこの砺波山を越える。ここから先が越中。最後に名立山を越える。この地が越後。で、この峠の関を越の三関」、と。
この砺波山・倶利伽羅峠が有名になったのは、寿永2年(1183年)、木曽義仲こと源義仲が平家・平維盛(たいらのこれもり)を破ってから。天正13年(1586年)、豊臣秀吉が前田利長とともに佐々成政を破ったのも、この峠である。

JR石動駅(いするぎ)
さてさて、散歩に出発。今回のルートは富山側から石川県へと歩く。JR石動駅(いするぎ)からはじめ峠を越え、JR倶利伽羅峠駅に下りる、といったルーティング。金沢を出発し石動駅に。このあたりは昔「今石動宿」と呼ばれた北陸街道の宿場町。大名の泊まる本陣から庶民が宿をとる旅籠、木賃宿が集まり、大いに繁盛した、と。駅を降り、倶利伽羅峠への上り口のランドマーク、護国八幡宮に向かう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


護国八幡宮
もとは埴生八幡宮。奈良時代・養老年間に九州の宇佐八幡を勧請してつくられた、と伝えられる。万葉歌人としても有名な大伴家持、実は越中の国守でもあったわけだが、この神社で国家安寧・五穀豊穣を祈願したとも伝えられる。上に述べた「砺波の関」を舞台に東大寺の僧・平栄を接待して家持が詠んだ、『焼太刀を礪波の関に明日よりは守部やりそへ君をとどめむ』という歌が万葉集に載っている。「(奈良への)お帰りは早すぎます。もっとゆっくりしてください」といった意味、のよう。ちなみに、万葉集には家持の歌が473首載っているが,そのうち223首は越中で過ごした5年間に詠んだもの、とか。

大伴家持
ちょっと脱線。大伴家持って、万葉集の選者として知られる。が、万葉集のほとんどは、家持が親ともたのむ橘諸兄がまとめ終えてあり、家持が諸兄から依頼されたのは、「怨みの歌」であった、といった説もある。王家のために怨みをのんでなくなった人々、政治的犠牲者の荒魂を慰める、ために集められた、とか。悲劇の人々の歌を連ね、最後に刑死した柿本人磨呂の歌で終わらせる、といった構成。政敵・藤原氏の「悪行」を「表に出す」といった思惑もあった、とも言われるが、仏の力で鎮護国家を目指す大仏建立と相まって、言霊によって荒魂の怨霊を鎮め、王道の実現を目指すべく「恨みの歌」が集められた、とか。

木曽義仲は埴生八幡様に陣を張る
埴生八幡様に戻る。この埴生八幡が護国八幡宮となったのは、江戸慶長年間。領主・前田利長が凶作に苦しむ領民のために豊作を祈願。その効著しく、ために「護国」という名称をつけた、とか。埴生八幡が有名になったのは、源平・倶利伽羅峠の合戦において、倶利伽羅峠に布陣する平家の大軍を迎え撃つ源氏の大将・木曽義仲がこの地に陣を張り、戦勝を祈願。華々しい戦果を挙げた、ため。武田信玄、佐々成政、前田利長といった諸将が篤い信仰を寄せることになったのも、その霊験ゆえのことであろう。

佐々成政
そうそう、そういえば佐々成政も、この倶利伽羅峠で豊臣秀吉、前田利長と戦い、そして敗れている。佐々成政のメモ;織田信長に14歳で使えて以来、織田信長の親衛隊である黒母衣組(ほろ)の筆頭として活躍。上杉への押さえとして越中の国主として富山に城を構える。で、本能寺の変。信長の忠臣としては、その後の秀吉の所業を良し、とせず、信長の遺児・信雄(のぶかつ)を立て、家康を味方に秀吉と対抗。が、信雄が秀吉と和睦・講和。ために、家康も秀吉と講和。それでも成政はあきらめることなく、家康に立ち上がるよう接触・説得を図る。が、周囲は完全に包囲され、残された唯一の手段は真冬の立山越え。これが有名な「さらさら越え」。
この「さらさら越え」を描いた小説を読んだ覚えがある。確か新田次郎さんの作?ともあれ、雪の立山を越え、家康のもとにたどり着く。が、家康は動くことはなかった。天正13年(1585年)、秀吉の越中攻め。このとき、倶利伽羅峠での戦いに破れ、成政は降伏。秀吉の九州征伐に従い肥後一国を与えられるが、国人一揆の責めを負わされ切腹させられることになる。もっとも、雪の立 山越えに異論を唱える人も多い。またまた寄り道に。散歩に戻る。

倶利伽羅峠源平の郷 埴生口

護国八幡の前に「倶利伽羅峠源平の郷 埴生口」。歴史国道整備事業の一環として設立された施設。歴史上重要な街道である倶利伽羅峠の歴史・文化をまとめてある。峠の全体を俯瞰し、またいくつか資料を買い求め峠道に向かう。

旧北陸街道・ たるみ茶屋跡

道筋に医王院といったお寺。その裏手には若宮古墳。6世紀頃につくられた前方後円墳。埴輪が出土されている。
医王院を先に進み旧北陸街道に入る。整備された道を進むと「たるみ茶屋跡」。碑文には藤沢にある時宗・遊行寺総本山清浄光寺の上人とこの地の関わりが説明されていた。石動のあたりにあった、とされる蓮沼城主・遊佐氏と因縁が深かった、ため、と。「旅の空 光のどけく越路なる砺波の関に春をむかえて」といった上人さまの歌も。
ちなみに、この時宗ってこの当時、北陸の地にもっとも広まっていた宗教であった。そういえば、この倶利伽羅峠の前日に訪れた斉藤別当実盛をまつる実盛塚も、時宗・遊行上人がその亡霊を弔った、と。当時、この地の有力な宗教勢力が時宗であったとすれば、大いに納得。ちなみに浄土真宗というか、真宗というか、一向宗、というか、どの名前がいいのかよくわからないが、この宗派が北陸にその勢を拡大したのは、もう少し後のこと。もっとも時宗も浄土教の一派ではあるのだが。時宗の開祖・一遍上人は愛媛の出身。ちょっと身近に感じる。

峠の茶屋
先に進む。「峠の茶屋」の碑。碑文のメモ;「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九がこの地を訪れ、「石動の宿を離れ倶利伽羅峠にかかる。このところ峠の茶屋いずれも広くきれいで、東海道の茶屋のようだ。いい茶屋である。たくさんの往来の客で賑わっている」、と。倶利伽羅峠にはこういった茶屋が10軒もあった、とか。
道の途中、どのあたりか忘れたが藤原顕李(あきすえ)句碑があった:堀川院御時百首の一首 「いもがいえに くものふるまひしるからん 砺波の関を けうこえくれば」。藤原顕李、って何者?

源氏方の最前線・矢立山

峠の茶屋の少し先、旧北陸道と車道が合流するあたりが矢立山。標高205m。そこに「矢立堂」。ここは倶利伽羅合戦時の源氏方の最前線。300m先の「塔の橋」あたりに進出していた平氏の矢が雨あられと降り注ぎ、林のように矢が立った、ということから名づけられた。

源氏ケ峰

「塔の橋」で北の「埴生大池」方面からの道と車道が交差し十字路となる。車道を南に下ると「源氏ケ峰」方面、西に直進すると「砂坂」。この砂坂、かつては「七曲の砂坂」と呼ばれた倶利伽羅峠の難所であった。難所・砂坂に進む、といった少々の誘惑もあったが、結局は「源氏ケ峰」方向に。理由は、その道筋が「地獄谷」に沿っているようであった、から。

地獄谷は「火牛の計」の地

地獄谷って、あの有名な「火牛の計」というか、松明を角につけた牛の大群によって平家方が追い落とされた谷、のこと。はたしてどんな谷なのか、じっくり見てみよう、といった次第。「源氏ケ峰」には展望台がある。が、木々が茂り見晴らしはよくない。「源氏ケ峰」と言うので、源氏が陣を張ったところか、と思っていたのだが、合戦時は平家方が陣を張ったところ。義仲が平氏を打ち破った後に占領したためこの名がついた、と。勝てば官軍の見本のような命名。
近くに芭蕉の句碑。「あかあかと 日は難面も あきの風」。もっともこの句は越後から越中・金沢にいたる旅の途中でえた旅情を、金沢で詠ったもののよう。

猿ケ馬場に平家の本陣が

地獄谷を眺めながら進む。砂坂からの道と合流するあたりが「猿ケ馬場」。平家の大将・平維盛の本陣があったところ、である。
平家の本陣まで歩いたところで、倶利伽羅合戦に至るまでの経緯をまとめる。それよりなにより、木曽義仲って、一体どういう人物?よく知らない。で、ちょっとチェック。

木曽義仲
祖父は源為義。源義朝は伯父。両者敵対。祖父の命で武蔵に下ったのが父・源義賢。義仲は次男坊として武蔵国の大蔵館、現在の埼玉県比企郡嵐山町で生まれる。義朝との対立の過程で父・義賢は甥・源義平に討たれる。
幼い義仲は畠山重能、斉藤実盛らの助けを得て、信濃の国・木曽谷の豪族・中原兼造の元に逃れ、その地で育つ。木曽次郎義仲と呼ばれたのは、このためである。
で、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵。義仲は9月に挙兵。2年後の寿永元年(1182年)、信濃・千曲河畔の「横田川原の合戦」で平家の城資永(資茂との説も)氏の軍を破り、その余勢をかり、越後の国府(現在の上越市の海岸近く)に入城。諸国に兵を募る。

倶利伽羅峠での合戦
までの経緯
一方、当時の平家は重盛が早世、維盛が富士川の合戦で頼朝に破れ、清盛が病没、といった惨憺たる有様。平家の総大将・平維盛の戦略は、北陸で勢を張り京を覗う義仲を叩き、その後、鎌倉の頼朝を潰す、といったもの。で、寿永2年(1182年)全国に号令し北陸に大軍を進める。

平氏北征の報に接し義仲は平氏と雌雄を決し京に上ることに決す。先遣隊は今井兼平。寒原、黒部川を経て富山市から西に2キロの呉羽山に布陣。寒原って、親知らず・子知らずで知られる難所のあたり。「寒原の険」と呼ばれたほど。

一方の平氏。先遣隊長・平盛俊は5月、倶利伽羅峠を越えて越中に入る。小矢部川を横断し庄川右岸の般若野(富山県礪波市)に進。が、今井隊による夜襲・猛攻を受け、平氏は敗走。これが世に言う、「般若野の合戦」。結局、平家は倶利伽羅峠を越えて加賀に退却する。



本隊・義仲は越後国府を出立。海岸線を進み、5月9日六動寺国府(伏木古国府)に宿営。一方平氏の主力軍はその頃、加賀・安宅付近に到着。進軍し、安宅、美川、津幡、倶利伽羅峠に達する。また、平通盛の率いる別動隊は能登方面に進軍。高松、今浜、志雄、氷見、伏木付近に。


義仲は志雄方面に源行家を派遣。自らは主力を率い般若野に進軍。今井隊と合流。5月10日の夜、倶利伽羅に向かった平氏の主力は既に倶利伽羅峠の西の上り口・竹橋付近に到着の報を受ける。倶利伽羅峠を通せば自軍に倍する平家軍を砺波平野・平地で迎え撃つことになる。機先を制して倶利伽羅峠の隘路を押さえるべし、との軍令を出し、先遣隊・仁科党を急派。隘路口占領を図る。
仁科党は11日未明、石動の南・蓮沼の日埜宮林に到着。白旗をたなびかせ軍勢豊なりしさまを演出。同時に、源氏軍各部隊は埴生、道林寺、蓮沼、松永方面、つまりは倶利伽羅峠の東の上り口あたりまで進出。義仲の本陣は埴生に置いた。倶利伽羅峠を挟んで源平両軍が対峙する。思いのほかメモが長くなった。このあたりで一休み。次回にまわすことにする。

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