本日のルート;西武秩父駅>13番札所・慈眼寺>15番札所・少林寺>秩父神社>14番札所・今宮坊>今宮神社>16番札所・西光寺>23番札所・音楽寺>22番札所・太子堂>17番札所・定林寺>18番番札所・神門寺
13番札所・慈眼寺
市街地をはしる通りにそった入口には、切妻つくりの薬王門。境内には正面に観音堂。左右に鐘楼、経堂と薬師堂。明治11年の秩父大火で焼失する前は、大きな寺域を誇った、という、本尊は行基作と伝えられる聖観音。秩父札所を開いた、十三権者の像が祀られている。十三権者とは先にメモしたように、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
ご詠歌;「御手にもつ蓮のははき残りなく 浮世のちりをはけの下でら」
15番札所・少林寺(福寿殿)
慈眼寺を離れ、秩父線に沿って少し北に。15番札所・少林寺(福寿殿)に向かう。秩父鉄道を越えると、白塗り白亜の本堂がみえる。このお寺も明治の秩父大火に見舞われ、防火の意味も込めて再建時、木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもの。少々洋風建築風ではあるが、入母屋つくり・瓦葺といった和風建築の伝統は踏まえたものになっている。この寺は、もともと母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にあった。が、明治維新の神仏分離令で廃寺に。札所15番がなくなることを憂えた信者が、市内柳島にあった五葉山少林禅寺をこの地に移し両寺合わせて札所15番を継承することにした、と。
石段を上がった右手のお堂は鎌倉の建長寺の山にある半僧坊からの分霊。半僧坊大権現は、特に火災予防の御利益があると。鎌倉・建長寺散歩のときの半僧坊への急な石段がなつかしい。また、先日歩いた新座の平林寺でも半増坊大祭がある。また京都の金閣寺にも半増坊がある、とか。結構ありがたい権現さま、のよう。静岡にある方広寺開山の祖・無文禅師が留学先の明から帰国するとき、暴風雨に遭い難破しかけたとき、「無事帰国し、正法を伝えるべし」と船を救う。また、後に禅師が方広寺開山のとき、禅師に教えを乞い、山をまもり鎮守となった。で、その姿が半俗半僧であったために、半僧坊と呼ばれるようになった、と。無文禅師は禅の高僧。後醍醐天皇の皇子でもある、とか。
境内のお地蔵さんは「子育て地蔵」。また、境内には「秩父事件」で殉職した警察官のお墓と、両警部補に対し、内務大臣山縣有内務大臣が贈られた碑文がある。秩父事件とは、明治17年11月、生活に苦しむ農民約1万人が蜂起し、各地で戦斗が展開された騒乱事件。
ご詠歌;「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかいもらすな
ちょっと脱線。鎌倉の建長寺で半増坊の話が出てきたとき、何ゆえ鎌倉の大寺院の話の中に、半僧坊が登場するのか、いまひとつしっくりしなかった。何ゆえ、という最大の理由は、浜松という、どちらかというと地方都市にあるお寺の神様を、何ゆえ建長寺に関連付けなければならないのか、よくわからなかった。で、このメモをまとめるに際し、半僧坊由来のもととなった人物が無文禅師であり、後醍醐天皇の皇子であったことがわかった。ということは、宗良親王とは兄弟、ということ。浜松というか、浜名湖の北、無文禅師が開山した方広寺のあるあたりは、宗良親王が南朝方の拠点のひとつとして、南朝勢力を回復するため積極的に活動したところ。宗良親王も天台座主をつとめたほどの人物。半僧坊をまつる、方広寺、って、宗教的にも政治的にも大きな力をもつ地域にある大寺院であったのだろう。半増坊への疑問もひょんなところで解決した。あれこれが繋がってくるのも散歩の楽しみのひとつ。
秩父神社
秩父の国の総社。武蔵国より先に開けた知知夫の里を2000年まもってきた。主祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命、天之御中主神。もともとは武甲山を神奈備(かむなび;神の居ます山)として遥拝する聖地としておこったわけだが、知知夫国の国造に任じられた知知夫氏が祖神である主祭神・八意思兼命や知知夫彦命をあわせまつることになった。鎌倉時代に落雷により社殿焼失。再建時には、秩父平氏、つまりは武士団の信仰篤い星の信仰である妙見の信仰・妙見菩薩が習合し、明治の神仏分離令まで「妙見宮」として栄える。名称も本来の秩父神社というよりも、「秩父大宮妙見宮」が通り名となった。「秩父夜祭り」も妙見のまつりとし受け継がれたものである。
徳川時代には徳川家からの信仰も篤く、現在の社殿は家康により寄進されたもの。本殿左手には左甚五郎の作と伝えられる「つなぎの龍」がある。15番札所少林寺あたりの池に棲む龍があばれたとき、この場所に水たまりができた。が、龍をつなぎとめると、その後龍が現れることがなくなった、とか。東・西・南・北の鬼門を守護神「青龍」「百虎「朱雀」「玄武」にのっとり、表鬼門(東)を守る「青龍」であろう、と思ったのだが、南に「亀(玄武)」、北に「北辰の梟(朱雀)」となっており、西には虎ではなく「お猿」さん、とあり、どうも鬼門云々というわけでもなさそうだ。
で、このお猿さん、東照宮は「見ざる・言わざる・聞かざる」と、庚申信仰にのっとった様式であるのに対し、ここのお猿さんは「お元気三猿」。人間の元気の源を司る妙見信仰の影響もあるのだろうか。また、拝殿四面には虎の彫り物。武田信玄による焼き討ちのあと再建した家康が寅の年、寅の日生まれ、ということで虎のオンパレード。その中の子育ての虎は、左甚五郎の作。で、妙見宮も明治の神仏分離令で秩父神社に戻る。そのとき、妙見菩薩の「神様バージョン」が天之御中主神、ということで、この神様が主祭神として登場し現在に至る、って次第。
14番札所・今宮坊
少林寺を離れ、荒川方面に向かって北西に今宮坊に向かう。このお寺のあたり一帯は往古、近くにある今宮神社とともに「今宮坊」と呼ばれる聖護院直末の神仏習合の修験の地。聖護院とは修験道の中心寺院。白河上皇の熊野詣での先達をつとめた園城寺・増誉の開山。先達の功により、熊野三山検校、つまりは、熊野三山霊場のまとめ役となり役の行者創建といわれる常光寺を与えられた。それが聖護院のはじまり。つまりは、修験道者にとっては、ありがたいお寺さま、ということ。何年か前、家族で秋の京都に訪れた際、聖護院の宿坊に泊まった。最近はあまり名前を聞くことがなくなったが、弁護士中坊さんの経営する宿坊であった。
で、この今宮坊、701年役行者が、この境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつった。ために、今宮神社は八大宮とも呼ばれている。 現在の札所14番観音堂は、もともとは今宮坊の境内にある一堂宇。巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのが通例であった、とか。方形造りの観音堂。本尊は木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音。本堂のすぐ前に、石の後生車。輪廻塔とも呼ばれる。後生の幸せを願い、回すことになる。境内には樹齢1000年を越える古木・龍神木。幹の周囲9mという大ケヤキ。竜神池、今宮弁天堂などがある。
ご詠歌;「昔よりたつとも知らぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん」
16番札所・西光寺
今宮坊から北東に少し歩くと西光寺。山門をくぐると正面に本堂がある。堂々とした構え。本尊は千手観音像。堂の東側にはコの字形の回廊。四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでいる。ここを廻れば四国お遍路道を歩いたと同じ功徳、と。もとは天明3年、というから、1783年の浅間山大噴火の犠牲者をとむらうためにつくられたもの。
回廊に囲まれた中庭には二つの小さな堂。金比羅堂と納札堂。金毘羅様は戦いの神でもあり、戦時中は出征兵士、最近は受験戦争に勝つべくおまいりするところ、とか。納札堂は、江戸時代には秩父札所の各寺に必ずあったもの。が、今ではこの寺に残るだけ。柱には無数の釘跡。札所を巡拝することを「札所を打つ」という。現在では納札は紙で各札所の納札箱に入れるわけだが、江戸時代の巡礼は、納札をお堂に打ち付けていた、から。
境内には大きな酒樽に草葺屋根をのせたお堂が。酒樽大黒様に。名刺を貼り付けると、お金が増える、とか。そうそう、四国八十八ヶ所をおさめた回廊にオビンズル様がいた。自分の体の悪いところと、オビンズル様(御賓頭盧)。のおなじ箇所をなでると、あら不思議、痛みを癒してくれる、とか。「撫で仏」といわれる所以。サンスクリット語(梵語)の「ピンドーラ」の音訳。東京都内散歩で何箇所かで出会った。最初に出会ったのはどこだったか忘れたが、足立区の関原不動・大聖寺の赤白青の着物・紐に結ばれたオビンズル様だけはなんとなく覚えている。
ご詠歌;「西光寺ちかいを人にたづぬれば ついのすみかは西とこそきけ」
西光寺の次は音楽寺。名前に惹かれる。また、観光ガイドで見た、峠に並ぶ地蔵尊の美しさにも惹かれた。が、場所が市街から少し離れている。荒川を隔てた長尾根丘陵の中腹にある。本日の計画からして往復徒歩は少々無理。ということで、行きはTAXI、帰りは歩きという段取りとする。荒川にかかる「秩父公園橋」を渡り、曲がりくねった道を上る。長尾根丘陵にある広大なレジャーパーク・「秩父ミューズパーク」への道でもあるので、きれいに整備されている。音楽寺に到着。
23番札所・音楽寺
名前の由来は、開山の聖が、山の松風を菩薩の音楽と感じたから、とか。この札所のご詠歌の中にある「峰の松風」ってそのこと、か。観音堂は三間四面、銅板葺きの方形造り。堂前に鐘楼がある。秩父事件のときは、秩父困民党の農民が、この鐘を打ち鳴らしながら市街地に攻め込んだ、と。鐘楼近くには「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
観音堂の裏手の坂を登る。5~6分歩いた峠・小鹿坂峠に十三地蔵尊。なかなかいい風情。「小鹿坂」の名前の由来は、昔、慈覚大師がこの地で道に迷ったとき一頭の小鹿が現れて大師を案内した、から。秩父市街地や奥武蔵・武甲山など秩父連山が一望できる。
しばしば秩父事件が登場する。メモしておこう;開国以来、最大の輸出産品は生糸。生糸の生産地・秩父は生糸景気で大いに賑わっていた。が、その後のデフレ政策により、生糸の価格が大暴落。そのうえ、世界大恐慌の余波もあり秩父の生糸産業は大不況に見舞われた。その生糸生産農家を救うべく地元の有志がたちあがり、金利据え置きなどの救済策を郡役所に請願。その動きに自由民権運動が合流し「秩父紺民党」を組織。地元の侠客も幹部に加わるなどし、政府に請願を続ける。が、政府は無視。ために武装蜂起を決意。11月1日下吉田椋神社に農兵数千名集結。11月2日、小鹿峠を越えこの音楽寺に。
当初は警官隊を打ち破るなどして郡役所を占拠。が政府が鎮台軍や憲兵をもって鎮圧に乗り出し、結果秩父困民党軍は壊滅。蜂起からわずか9日間であった、と。ちなみに、秩父の自由党員は「自由党党首・板垣退助の命により立ち上がる」といったことを宣言しているが、当の退助は「あれは自由民権運動などではない」、と言った、とか。
ご詠歌;「音楽のみ声なりけり小鹿坂の しらべにかよう峰の松風」
小鹿坂峠から山道を麓に下る。今回はじめての山道。雑木林が心地よい。麓に降り、里の風景を楽しみながら童子堂に。
22番札所・太子堂(童子堂)
童子堂の名前の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、観音さまを勧請し祈祷したところ、疫病は治まる。以来子供の病気一切に霊験あらたか、ということで名づけられた。入口に茅葺の仁王門。茅葺の山門は秩父でもこのお堂だけ。童子堂と呼ばれる如く、仁王様、いかにも「子供向き」、というか子供がつくったのか、と一瞬間違うほど、まったくもっての、素朴な風情。「童子仁王」と呼ばれている、とか。境内といった仕切りもないようで、仁王門の先の、一見寺域と思われるところに畑があり、農作業をしておりました。
観音堂は方形瓦葺。昔、讃岐国の住人が旅僧の願う一食の布施を断わる。たちまちその人の息子が犬の姿に。この子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてこのお堂に訪れると、息子は元の姿になったといった話が伝えられている、とか。
ご詠歌;「極楽をここで見つけてわろう堂 後の世までもたのもしきかな」
童子堂を離れ、荒川に沿って秩父公園橋に戻る。この橋はハープ橋と言われる。周りが音楽寺であり、ミューズ(音楽;musicの語源)公園、であるので、てっきり楽器のハープ、からもってきた名前かと思った。が実際は、ハープ形式という橋の種類。斜張橋といわれ、塔から斜めに張ったケーブルで直接橋桁を支える工法。ハープに似ているからこの通称があるのは間違いない。が、世界中にあるわけで、とくに音楽寺やミューズが近くあるから、命名されたわけではないだろう。橋からの秩父市街、秩父の山々の姿は美しい。長尾根丘陵から荒川に向かってゆっくり下り、そして荒川を越えると今度は秩父の山地に向かってゆったりとのぼっている秩父の地形がはっきり見える。地形のうねりフリークとしてはありがたいひと時であった。
17番札所・定林寺(林寺)
ハープ橋を越え、先ほど訪ねた西光寺を過ぎ、再び秩父市街地に入る。市民病院前を北に折れ、しばし進むと定林寺。お寺の名前は、林太郎定元という武家の名前に由来する。東国の武将・壬生良門が寺に雨宿り。接待にあたったお坊さん、実はその昔、この殿様に諫言し暇を出された林定元のこどもであった。で、前非を悔い改めた壬生良門が、林定元の菩提をとむらうためにこのお寺をたてた、と。
どこかで、壬生氏と秩父霊場を開いた性空上人のつながりを書いたコメントを見たことがあるような、ないような。壬生良門って、平将門の係累であるとか、ないとか。そうでもなければ、突然の壬生氏の登場は唐突、か。観音堂は宝形屋根。周りに回廊が囲む。境内には諏訪神社や蚕影神社。蚕影神社は戦前養蚕が盛んだった秩父地方ならではのもの。梵鐘は昭和63年ころ造られたものだが、日本百観音の本尊、そのご詠歌を刻んでい
る。
ご詠歌;「あらましを思い定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける」
定林寺は初期の巡礼札所1番。32番札所・法性寺に残る秩父札所について記された最古の古文書「長享二(一四八八)年秩父札所番付」にその記録が残る。この文書により、室町のこの頃には既に33の札所ができているのがわかる。ただ、札所の番号は20番を除いてみな異なっている。札所1番はこの定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)、現在1番札所四萬部寺は当時24番となっている。先回のメモでものべたが、その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなもの。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたもの。西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたからだろう。
その後札所番号が変わったのは、これも先回メモしたが、時代によって秩父往還の主要道が変化したことによる。室町時代の秩父への往還は名栗>山伏峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷>皆野>鬼石といった南北路の往還か、飯能>正丸峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷といった「吾野通り」。ただ、その当時は秩父観音霊場巡礼って、それほどポピュラーであったわけではなかった、のだろう。すくなくとも敢えて札所を変えなくてはならないほどの外部・内部要因がなかった、ということ。
現在の札番号となったのは江戸時代となってから。豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
現在札番では栃谷の四萬部寺が1番となっている。理由は簡単。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。
18番番札所・神門寺
定林寺をはなれ、本日最後の札所・神門寺に向かう。「ごうとじ」と詠む。秩父鉄道を越え、彩甲斐街道・国道140号線近くにこのお寺はある。もとは今宮坊に属する一修験寺。神門の由来も、かつてこの地に神社があり、境内にはえる榊の枝が楼門のようであったから、と言われる。別の説もある。『秩父回覧記』には「神門」ではなく、「神戸」と記されている。神戸=カンベ、とは神社に諸税を収める神領域およびその民を意味する。神門寺の裏にある丘陵には9世紀から10世紀にかけて秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が最初にまつられたところ、とされる。で、現在の神門寺のあたりって、その妙見様の神域である可能性も高く。であれば、その神戸が神門に転化した、という。この説のほうがなんとなく納得感が高い。
で、このお猿さん、東照宮は「見ざる・言わざる・聞かざる」と、庚申信仰にのっとった様式であるのに対し、ここのお猿さんは「お元気三猿」。人間の元気の源を司る妙見信仰の影響もあるのだろうか。また、拝殿四面には虎の彫り物。武田信玄による焼き討ちのあと再建した家康が寅の年、寅の日生まれ、ということで虎のオンパレード。その中の子育ての虎は、左甚五郎の作。で、妙見宮も明治の神仏分離令で秩父神社に戻る。そのとき、妙見菩薩の「神様バージョン」が天之御中主神、ということで、この神様が主祭神として登場し現在に至る、って次第。
14番札所・今宮坊
少林寺を離れ、荒川方面に向かって北西に今宮坊に向かう。このお寺のあたり一帯は往古、近くにある今宮神社とともに「今宮坊」と呼ばれる聖護院直末の神仏習合の修験の地。聖護院とは修験道の中心寺院。白河上皇の熊野詣での先達をつとめた園城寺・増誉の開山。先達の功により、熊野三山検校、つまりは、熊野三山霊場のまとめ役となり役の行者創建といわれる常光寺を与えられた。それが聖護院のはじまり。つまりは、修験道者にとっては、ありがたいお寺さま、ということ。何年か前、家族で秋の京都に訪れた際、聖護院の宿坊に泊まった。最近はあまり名前を聞くことがなくなったが、弁護士中坊さんの経営する宿坊であった。
で、この今宮坊、701年役行者が、この境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつった。ために、今宮神社は八大宮とも呼ばれている。 現在の札所14番観音堂は、もともとは今宮坊の境内にある一堂宇。巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのが通例であった、とか。方形造りの観音堂。本尊は木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音。本堂のすぐ前に、石の後生車。輪廻塔とも呼ばれる。後生の幸せを願い、回すことになる。境内には樹齢1000年を越える古木・龍神木。幹の周囲9mという大ケヤキ。竜神池、今宮弁天堂などがある。
ご詠歌;「昔よりたつとも知らぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん」
16番札所・西光寺
今宮坊から北東に少し歩くと西光寺。山門をくぐると正面に本堂がある。堂々とした構え。本尊は千手観音像。堂の東側にはコの字形の回廊。四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでいる。ここを廻れば四国お遍路道を歩いたと同じ功徳、と。もとは天明3年、というから、1783年の浅間山大噴火の犠牲者をとむらうためにつくられたもの。
回廊に囲まれた中庭には二つの小さな堂。金比羅堂と納札堂。金毘羅様は戦いの神でもあり、戦時中は出征兵士、最近は受験戦争に勝つべくおまいりするところ、とか。納札堂は、江戸時代には秩父札所の各寺に必ずあったもの。が、今ではこの寺に残るだけ。柱には無数の釘跡。札所を巡拝することを「札所を打つ」という。現在では納札は紙で各札所の納札箱に入れるわけだが、江戸時代の巡礼は、納札をお堂に打ち付けていた、から。
境内には大きな酒樽に草葺屋根をのせたお堂が。酒樽大黒様に。名刺を貼り付けると、お金が増える、とか。そうそう、四国八十八ヶ所をおさめた回廊にオビンズル様がいた。自分の体の悪いところと、オビンズル様(御賓頭盧)。のおなじ箇所をなでると、あら不思議、痛みを癒してくれる、とか。「撫で仏」といわれる所以。サンスクリット語(梵語)の「ピンドーラ」の音訳。東京都内散歩で何箇所かで出会った。最初に出会ったのはどこだったか忘れたが、足立区の関原不動・大聖寺の赤白青の着物・紐に結ばれたオビンズル様だけはなんとなく覚えている。
ご詠歌;「西光寺ちかいを人にたづぬれば ついのすみかは西とこそきけ」
西光寺の次は音楽寺。名前に惹かれる。また、観光ガイドで見た、峠に並ぶ地蔵尊の美しさにも惹かれた。が、場所が市街から少し離れている。荒川を隔てた長尾根丘陵の中腹にある。本日の計画からして往復徒歩は少々無理。ということで、行きはTAXI、帰りは歩きという段取りとする。荒川にかかる「秩父公園橋」を渡り、曲がりくねった道を上る。長尾根丘陵にある広大なレジャーパーク・「秩父ミューズパーク」への道でもあるので、きれいに整備されている。音楽寺に到着。
23番札所・音楽寺
名前の由来は、開山の聖が、山の松風を菩薩の音楽と感じたから、とか。この札所のご詠歌の中にある「峰の松風」ってそのこと、か。観音堂は三間四面、銅板葺きの方形造り。堂前に鐘楼がある。秩父事件のときは、秩父困民党の農民が、この鐘を打ち鳴らしながら市街地に攻め込んだ、と。鐘楼近くには「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
観音堂の裏手の坂を登る。5~6分歩いた峠・小鹿坂峠に十三地蔵尊。なかなかいい風情。「小鹿坂」の名前の由来は、昔、慈覚大師がこの地で道に迷ったとき一頭の小鹿が現れて大師を案内した、から。秩父市街地や奥武蔵・武甲山など秩父連山が一望できる。
しばしば秩父事件が登場する。メモしておこう;開国以来、最大の輸出産品は生糸。生糸の生産地・秩父は生糸景気で大いに賑わっていた。が、その後のデフレ政策により、生糸の価格が大暴落。そのうえ、世界大恐慌の余波もあり秩父の生糸産業は大不況に見舞われた。その生糸生産農家を救うべく地元の有志がたちあがり、金利据え置きなどの救済策を郡役所に請願。その動きに自由民権運動が合流し「秩父紺民党」を組織。地元の侠客も幹部に加わるなどし、政府に請願を続ける。が、政府は無視。ために武装蜂起を決意。11月1日下吉田椋神社に農兵数千名集結。11月2日、小鹿峠を越えこの音楽寺に。
当初は警官隊を打ち破るなどして郡役所を占拠。が政府が鎮台軍や憲兵をもって鎮圧に乗り出し、結果秩父困民党軍は壊滅。蜂起からわずか9日間であった、と。ちなみに、秩父の自由党員は「自由党党首・板垣退助の命により立ち上がる」といったことを宣言しているが、当の退助は「あれは自由民権運動などではない」、と言った、とか。
ご詠歌;「音楽のみ声なりけり小鹿坂の しらべにかよう峰の松風」
小鹿坂峠から山道を麓に下る。今回はじめての山道。雑木林が心地よい。麓に降り、里の風景を楽しみながら童子堂に。
22番札所・太子堂(童子堂)
童子堂の名前の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、観音さまを勧請し祈祷したところ、疫病は治まる。以来子供の病気一切に霊験あらたか、ということで名づけられた。入口に茅葺の仁王門。茅葺の山門は秩父でもこのお堂だけ。童子堂と呼ばれる如く、仁王様、いかにも「子供向き」、というか子供がつくったのか、と一瞬間違うほど、まったくもっての、素朴な風情。「童子仁王」と呼ばれている、とか。境内といった仕切りもないようで、仁王門の先の、一見寺域と思われるところに畑があり、農作業をしておりました。
観音堂は方形瓦葺。昔、讃岐国の住人が旅僧の願う一食の布施を断わる。たちまちその人の息子が犬の姿に。この子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてこのお堂に訪れると、息子は元の姿になったといった話が伝えられている、とか。
ご詠歌;「極楽をここで見つけてわろう堂 後の世までもたのもしきかな」
童子堂を離れ、荒川に沿って秩父公園橋に戻る。この橋はハープ橋と言われる。周りが音楽寺であり、ミューズ(音楽;musicの語源)公園、であるので、てっきり楽器のハープ、からもってきた名前かと思った。が実際は、ハープ形式という橋の種類。斜張橋といわれ、塔から斜めに張ったケーブルで直接橋桁を支える工法。ハープに似ているからこの通称があるのは間違いない。が、世界中にあるわけで、とくに音楽寺やミューズが近くあるから、命名されたわけではないだろう。橋からの秩父市街、秩父の山々の姿は美しい。長尾根丘陵から荒川に向かってゆっくり下り、そして荒川を越えると今度は秩父の山地に向かってゆったりとのぼっている秩父の地形がはっきり見える。地形のうねりフリークとしてはありがたいひと時であった。
17番札所・定林寺(林寺)
ハープ橋を越え、先ほど訪ねた西光寺を過ぎ、再び秩父市街地に入る。市民病院前を北に折れ、しばし進むと定林寺。お寺の名前は、林太郎定元という武家の名前に由来する。東国の武将・壬生良門が寺に雨宿り。接待にあたったお坊さん、実はその昔、この殿様に諫言し暇を出された林定元のこどもであった。で、前非を悔い改めた壬生良門が、林定元の菩提をとむらうためにこのお寺をたてた、と。
どこかで、壬生氏と秩父霊場を開いた性空上人のつながりを書いたコメントを見たことがあるような、ないような。壬生良門って、平将門の係累であるとか、ないとか。そうでもなければ、突然の壬生氏の登場は唐突、か。観音堂は宝形屋根。周りに回廊が囲む。境内には諏訪神社や蚕影神社。蚕影神社は戦前養蚕が盛んだった秩父地方ならではのもの。梵鐘は昭和63年ころ造られたものだが、日本百観音の本尊、そのご詠歌を刻んでい
る。
ご詠歌;「あらましを思い定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける」
定林寺は初期の巡礼札所1番。32番札所・法性寺に残る秩父札所について記された最古の古文書「長享二(一四八八)年秩父札所番付」にその記録が残る。この文書により、室町のこの頃には既に33の札所ができているのがわかる。ただ、札所の番号は20番を除いてみな異なっている。札所1番はこの定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)、現在1番札所四萬部寺は当時24番となっている。先回のメモでものべたが、その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなもの。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたもの。西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたからだろう。
その後札所番号が変わったのは、これも先回メモしたが、時代によって秩父往還の主要道が変化したことによる。室町時代の秩父への往還は名栗>山伏峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷>皆野>鬼石といった南北路の往還か、飯能>正丸峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷といった「吾野通り」。ただ、その当時は秩父観音霊場巡礼って、それほどポピュラーであったわけではなかった、のだろう。すくなくとも敢えて札所を変えなくてはならないほどの外部・内部要因がなかった、ということ。
現在の札番号となったのは江戸時代となってから。豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
現在札番では栃谷の四萬部寺が1番となっている。理由は簡単。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。
18番番札所・神門寺
定林寺をはなれ、本日最後の札所・神門寺に向かう。「ごうとじ」と詠む。秩父鉄道を越え、彩甲斐街道・国道140号線近くにこのお寺はある。もとは今宮坊に属する一修験寺。神門の由来も、かつてこの地に神社があり、境内にはえる榊の枝が楼門のようであったから、と言われる。別の説もある。『秩父回覧記』には「神門」ではなく、「神戸」と記されている。神戸=カンベ、とは神社に諸税を収める神領域およびその民を意味する。神門寺の裏にある丘陵には9世紀から10世紀にかけて秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が最初にまつられたところ、とされる。で、現在の神門寺のあたりって、その妙見様の神域である可能性も高く。であれば、その神戸が神門に転化した、という。この説のほうがなんとなく納得感が高い。
観音堂は寛政(1789~1800)のころ焼失、現在の観音堂は天保時代(1830~1843)に再建された、と。堂は宝形銅葺き、名匠藤田若狭の作。正面の破風は秩父屋台・宮地屋台に似ている、と。藤田若狭はその屋台をつくった名匠の子孫であれば、むべなるかな。観音堂の寺額は幕末・秩父出身の彫刻家・森玄黄斉の作。印籠や仏像彫刻で有名。本尊は室町時代につくられた聖観音像。
このお寺には札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木がある。往古これを刷って信者に配ったと。「新編武蔵風土記稿」に、「別当神門寺。神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」と。現在は曹洞宗のお寺ではあるが、明治五年(1872)の修験道禁止まで今宮坊の修験寺として続いてきた。
ご詠歌;「ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまえる」
本日の札所巡りはこれで終了。秩父鉄道・大野原駅に向かい、御花畑で下車。西武秩父駅に。お宿のある西武・横瀬駅に向かい本日のメモを終える。
このお寺には札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木がある。往古これを刷って信者に配ったと。「新編武蔵風土記稿」に、「別当神門寺。神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」と。現在は曹洞宗のお寺ではあるが、明治五年(1872)の修験道禁止まで今宮坊の修験寺として続いてきた。
ご詠歌;「ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまえる」
本日の札所巡りはこれで終了。秩父鉄道・大野原駅に向かい、御花畑で下車。西武秩父駅に。お宿のある西武・横瀬駅に向かい本日のメモを終える。
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