火曜日, 12月 19, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅳ;第二回秩父札所巡り(1)

9月の第一回秩父行きに引き続き11月の末、会社の同僚と男ふたりで再び秩父に向かう。紅葉の頃である。1泊2日。初日は三峯神社。二日目は成り行きで札所を巡り、長瀞で紅葉見物。そして宝登山神社で締めくくるって段取り。先回の秩父神社と合わせ、三峯神社・宝登山神社を巡れば秩父三社におまいりしたことにもなる、と同僚の言。時空散歩というか、時=歴史、空=地理には大いに興味はあるものの、神や仏にそれほど思い入れのない我が身ではあるが、秩父といえば三峯でしょう、ということで少々のワクワク感は否めず。(火曜日, 12月 19, 2006のブログを修正)


本日のルート;西武秩父>三峯山>三峯神社>妙法ケ岳・三峯神社奥宮>西武秩父

朝8時半の池袋発の西武特急に乗り、西武秩父に。通常は秩父鉄道で三峯口まで行き、バスで大輪まで。で、ケーブルで登山、ということではあるが、現在は運行停止中。来春まで続く、とか。ということでもあり、西武秩父から三峯神社行きの西武直通バスにのり、神社を目指す。140号線・彩甲斐街道を進む。影森>浦山口>武州中川>武州日野>白久>そして三峯口と、秩父鉄道の駅と付かず離れず道は進む。

バスはさらに進み、大輪>大滝村を越えると秩父湖。二瀬ダムにより荒川を堰きとめてできた人造湖。ちなみに140号線ってどこに続くのか辿ってみると、秩父湖の先から南西に下り、全長6625mの雁坂トンネルを越え、山梨の西沢渓谷、そしてその先は塩山市。恵林寺のあたりに続いていた。秩父往還・甲州道とほぼおなじコースであろう。ついでのことながら、この恵林寺、織田信忠軍による武田方の武将の引渡し要求を拒否。焼き討ちにあった。その際の快川和尚が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発したことは、あまりに有名。

三峯神社は秩父湖からは10キロ程度。曲がりくねった道をどんどん上る。秩父湖の標高は600m。三峯神社は1060mであるので、400mほど一気に駆け上がる感じ。11月後半の紅葉の見ごろ、でもある。昨年は紅葉を求めて、鎌倉や高尾など歩き廻ったが、結局見事な「赤」の紅葉は秩父・長瀞でしかお目にかかれなかった。今回の秩父への旅も長瀞の紅葉を、などと思っていたのだが、思いがけなく、この秩父湖のあたりで美しい紅葉を見ることができ、大いに満足。大滝村営駐車場でバスを下りる。石段を上がり三峯神社に向かう。

三峯神社
最初に本殿に。イザナギノ尊、イザナミノ尊をまつる、と。春日造りのこの本殿はおよそ340年前に建てられたもの。神社の歴史は古く、いまから1900年ほど前、日本武尊が景行天皇の命により東征のおり、この地に赴き、その美しき景観を愛で、美しき国産みの神様であるイザナギノ尊、イザナミノ尊の二神をまつった、とか。三峯の名前は神社東方にそびえる雲取山(2017m)、白岩山(1921m)、妙法嶽(1329m)の三つの峯が美しく連なることから名付けられた。寺伝によれば、景行天皇が日本武尊の足跡を偲び東国を巡行されたとき、上総国(千葉)で、この三峯が美しく連なることを聞き、「三峯山」、そして社を「三峯宮」と名付けた。
神話の時代は所詮、神話。時代を下り「歴史時代」の三峯神社をチェックする。天平時代。国々に厄病が蔓延したとき、聖武天皇は勅使として葛城連好久公をこの宮に遣わし「大明神」号をさずける。平安時代になると、修験道の開祖・役小角がこの地で修行し、山伏の修験道場となる。伊豆からこの地を往来した、と。役小角って、いろんなところに現れる。実際この地に来たのかどうか知らないけれど、それはそれとして、黒須紀一朗さんが書いた『役小角』、『外伝 役小角』は真に面白かった。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻む。三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈って宮の本地堂とした。こうしてこの三峯宮は次第に佛教色を増し、神仏習合の社となってゆく。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、鎌倉武士の華・畠山重忠もこの宮を篤く祟敬した、と。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて大いに賑わった三峯宮も、その後に不遇の時代を迎える。正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つべく挙兵。戦い敗れて三峯山に身を潜めたわけだが、そのことが足利氏の怒りにふれて、社領を奪われる。こういった状態が140年も続く。再興されるのは後柏原天皇の文亀二年(1503)になってから。修験者月観道満は27年という長い年月をかけて全国を行脚し、資金を募り社殿・堂宇の再建を果たした、という。天文2年(1533)には山主が京に上り聖護院の宮に伺候。「大権現」の称号を授かり、坊門第一の霊山となる。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称する。札所巡りで、今宮坊が聖護院の系列である、ということと、ここでつながった感じ。
江戸時代には享保5年(1720)日光法印が各地に三峯信仰(厄除け)を広め、今日の繁栄の基礎を築く。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代。三峯神社の神の使い・眷属は狼。狼・山犬は不思議な力を持つと信じられ「大口真神(おおくちのまかみ)」とも呼ばれ、山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたかと信仰も篤く、この「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られる。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至る。
社殿前には青銅の鳥居。塩原太助の名前もある、とか。塩原太助も散歩をはじめ各地でお目にかかった。亀戸天神、江東区の塩原橋、そして足立だったか、太助のお墓。いろんなところで足跡に触れる。祖霊社、国常立神社、摂末社へと境内を進む。境内より少し下ったところに仁王門。随身門と称す。200年前に作られた、と。表参道からここを通るのが古来の正参道。表参道とは、ケーブルなどができるまで、麓の大輪から神社までおよそ2時間半ほどかけてのぼってきた道。随身門から見て少し小高い場所にある遥拝殿の脇にその道が続いている。で、遥拝殿。展望が美しい。ここは三峯神社奥宮を遥拝するところ。近くには日本武尊の銅像のほか、「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧(さぎり)秩父三峰霧の中」と詠う野口雨情の歌碑がある。で、本日のメーンイベント、奥宮・妙法嶽への散歩を始めることにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


妙法ケ岳・三峯神社奥宮
杉並木の中、舗装された道が続く。南斜面に60戸ほどの集落。江戸時代までは神領村として、年貢を神社に納めていた。古風な神領民家は最近まで使われていた三峯の民家を移築、復元したもの。先に進むと「一の鳥居」。ここで舗装は終わりになる。20分程度歩いただろうか。本当のところを言うと、奥宮、とはいうものの、おだやかな舗装道の参道を歩いていくものだと、勝手に思っていた。それが、とんでもなかったのは後の祭り。「一の鳥居」をくぐってから、しばらくは雲取山への縦走路を歩くことになる。参道ではなく、これって登山。
15分程度歩くと「二の鳥居」。ここが妙法ケ岳への分岐点。雲取山への縦走路を離

れ、杉並木の中、きつい登りを進む。登りが一段落したところにベンチがあり休憩できる。これから先がもっと厳しい登り、となる。片側が急斜面のところもあり、高所恐怖症の我が身には少々厳しい。30分程度の苦行のあと、「三の鳥居」に到着。東屋もある。鳥居をくぐり尾根筋を進み、アップダウンを繰り返しながら進む。岩場も出始める。やがて小さい木の鳥居。鳥居があるたびに、奥宮か、などと甘い期待を裏切られながら進む。険しさの増す岩場が続く。山頂までは3つの岩峯越えとなる。急な階段もあり、傷めた膝には少々厳しい。
階段を下り、少し歩くと今度は急な登り階段。険しい登り。階段の上場は岩場であり、鎖にすがって登る。「三の鳥居」から20分程度。登りきったところが山頂。標高1392m。三峯神社奥宮が鎮座する。奥宮の創建は寛保元年(1741年)。小さな社ではあるが、風格がある。両脇には「お犬さま」が控える。山頂からは両神山(1723m)など奥秩父の山々、西上州の稜線が一望のもと。

三峰山博物館
少々休憩し、下山開始。下りは膝にきつい。艱難辛苦の末、三峯神社になんとかたどり着く。本来であれは、遥拝所脇から大輪に下る「表参道」を歩きたかったのだが、なにせ膝が限界。午後1時半の後は3時半まで無いバスを待つ。待ち時間を利用し、秩父宮記念「三峰山博物館」に。三峯講社の登拝・参籠に関する資料、三峯神社が修験の山として栄えていた別当・観音院時代の宝蔵・資料が展示されている。もちろん、秩父宮家ゆかりの品が展示されているのはいうまでもない。また、世界で7例・8例目のニホンオオカミの毛皮も展示されている。

三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と上でメモした。この記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠かみ>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。

都市化された三峯信仰の例は散歩の折々に出会った。千住宿・氷川社末寺もそのひとつ。縁起には「宿内信心の講中火災盗難為消除、御眷属を奉拝」と、「猪鹿除け」は消えている。「白波は三峰山をよけて打ち」って川柳があるほど、だ。これって、歌舞伎の白波5人衆、泥棒5人組み、のことである。泥棒は三峯山(お札)を避ける、って意味。江戸時代後半以降、三峯講が盛んとなり、各地で講が組織される。組からは毎年2人ほどが代表となり参拝し、お札をもらってくることになるわけだが、講の加入者に渡される札は火防・盗賊除け・諸災除けの3枚、であり農作業に関わる願意は見られない。

信仰の都市化の傾向は江戸だけではない。島崎藤村が小諸市を舞台に描いた『千曲川スケッチ』の中で、村落部に張られたお札は「盗賊除け」と。時代・世相・生産基盤の変化に応じ、願意も変化していったのであろう。それに応じて、霊験もきっちりと変化していった、ということだろう。マーケティング戦略であろう、か。マーケティングの話のついでに、お札の話。社寺で宝物でもあれば、江戸で出開帳でもすれば大きな利益もでようものを、三峯にはこれといった宝物もない。ということで、講をつくり、あれこれとご利益のあるお札を配布し普及していった、とか。

現在の三峯講は代参・団参あわせて4000余社、崇敬社は20
万人以上といわれている。そういえば亀戸・香取社にも三峯神社があった。世田谷のどこだったか、にもあった。講といえば富士講が有名だが、富士講、白山講、そして三峯講も、現在、どの程度の規模でどのようにおこなわれているのだろう。そのうちに調べてみたい。
あれこれしているうちにバスの時間。西武秩父についた頃には日も暮れた。宿に向かい、本日の予定終了。温泉というか鉱泉で痛む膝を癒し明日に備える。


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