土曜日, 1月 27, 2007

新河岸川散歩 Ⅰ: 川越から新河岸へ

1月の連休を利用して新河岸川を歩いた。以前荒川区を散歩したとき、岩淵水門のあたりで新河岸川に出合った。江戸と川越をつなぐ舟運路であった、とか。川筋散歩フリークとしては大いに気になる川ではあった。が、如何せん、川越は遠い。川筋も結構距離がある。
川越から岩淵水門まで34キロ弱ほどあるだろう。歩きたし、と思えども、少々腰が引けていた。
今年に入り白子から平林寺まで歩いた。昨年末にも野火止用水を歩いた。そのいずれも、知恵伊豆こと、川越藩主・松平伊豆守信綱ゆかりの地。新河岸川もこの信綱が整備し舟運を発展させた川、である。知恵伊豆つながり、というわけでもないのだが、この機を逃すべからず、と一気呵成に新河岸川散歩に進むことにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本 日のルート;川越駅>埼玉医科大行バス(連雀町>松江町>大手町>市役所前>裁判所前>川越氷川神社>川越街道・氷川前>51号>伊佐沼入口)>伊佐沼>九十川>小仙波>川越街道・小仙交差点>新河岸川>(仙波河岸)>大仙波>16号交差>川越線交差>不老川合流>(扇河岸)>(上新河岸)>(下新河岸)>日枝神社>

新河岸川のメモ
新河岸川のこと、そして新河岸川の舟運のメモ;江戸の頃、新河岸川は川越・伊佐沼に源を発し、武蔵野台地の東端に沿って志木、朝霞を下り、和光市新倉のあたりで荒川に合流していた。現在の新河岸川は狭山から流れる赤間川とつながり、和光市から都内に入り、板橋区を流れ、荒川区の岩淵水門で隅田川に合流する。
新河岸川の舟運のはじまりは、寛永15年(1638年)。川越大火による街の復興のため、特に家康をまつる仙波・東照宮再興のためであろうが、当時の川越藩主・堀田正盛や天海僧正が中心になって建築資材の荷揚げ場をつくったこと、による。この河岸の名前は寺尾河岸。川越市街から4キロほど下ったところにある。当時「内川」と呼ばれたこの川筋は、現在とは異なり、伊佐沼からこの寺尾方面に下っていた。
この寺尾河岸は、あくまでも街の復興のためのもの。舟運による物流整備のために計画されたものではなかった。で、街の復旧の目処がたつと、お役御免となる。半年ほどしか使われなかった、とも言われている。
新河岸川の舟運を本格的にはじめたのは川越藩主となった松平信綱。川越と江戸を結ぶ舟運を整備するため寺尾河岸の少し上流に河岸を開いた。その河岸は「新河 岸」と呼ばれた。名前の由来は、寺尾河岸に対して新しい河岸、という意味。内川と呼ばれた川筋もこれを契機に「新河岸川」と呼ばれるようになる。
新河岸舟運は、もともとは、川越藩の公用として開かれた。が、新河岸の近くに扇河岸が開かれる頃から、川越藩にかわり、商人が中心となって新しい河岸建設、舟運をつかった商業活動がはじまる。川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷の物流幹線として機能した。
明治になると、鉄道による影響などにより舟運にかげりが見え、昭和6年に新河岸舟運の終焉を迎える。河川改修により通船不可能になった、ため。この間300年近くこの新河岸川は物流の幹線として地域発展に大きな役割を果たした、と。(土曜日, 1月 27, 2007のブログを修正)

東武東上線
さて、本日の散歩の一応のルーティング。新河岸川の源流点である伊佐沼からはじめ和光市・新倉あたりまで下ることに。新河岸川は現在でも、ゆるやかな蛇行を繰り返しながら流れている。が、往時は九十九曲がり、といわれるほど蛇行を繰り返していた、とか。もともと曲がりくねった川ではあったようだが、舟運の便宜を図るため、信綱がより一層の「曲がり」を加えた、わけだ。水位を高め、水流をゆるやかにするため、である。もっとも、現在の川筋は明治に洪水対策のため河川改修工事が行われ、極力直線で流れるようになっている。そのため距離も当時より10キロ程度短縮されている。ということは、本日の散歩は20キロ程度の散歩となりそう、である。
東武東上線で川越駅に。この街には一度来た事がある。小江戸、などと呼ばれ江戸の雰囲気を今に留める街並みを楽しむため、などと言いたいところだが、きっかけは映画「ウォーターボーイ」。川越高校の水泳部がモデルと言われている。どんな高校か、と、足を運んだ次第。さすがに構内に入るわけにもいかず、高校の南隣にある小高い丘に登り雰囲気を楽しんだ。この丘は川越城・富士見櫓跡、であった。御岳神社、浅間神社も祀られていた。で、ついでに、といては何だが、駄菓子横丁、蔵造りの町並み、川越城の本丸御殿、天海僧正ゆかりの喜多院、その南にある家康を祀る仙波東照宮なども訪れた。
川越には蓮馨寺、三芳野神社、氷川神社、それから川越市の西・入間川を越えたところにある河越氏の館跡・常楽寺など、訪れたいところは数多い。三芳野神社のあたりって、大田道潅なのか、その父の大田道真なのか、どちらが築いたのか不明だが、川越城のあったところ。わらべ歌「とおりゃんせ」の舞台でもある。「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ」といった路地もゆっくり歩いてみたい。が、とてもではないが、今回は時間がない。ということで、川越巡りは次のお楽しみとして、今回は、とっとと伊佐沼に向かうことにする。

伊佐沼
駅から伊佐沼に歩こう、とは思ってはいた。が、なにせ川越についたのが午後2時頃。毎度のことながら、時間がない。駅前からバスを利用する。埼玉医大行きのバスで伊佐沼入口下車。畠というか水田のど真ん中に降ろされる。どうも、別ルートで伊佐沼の近くに行くバスがあった、よう。ともあれ、コンパスで方角を調べ、バス停から南に下る。
用水路が南北に続いている。地図でチェックすると、入間川から分水し、伊佐沼に流れ込んでいる。あたり一帯の灌漑用水として使われているのだろう。用水路に沿って下る。昔はこのあたり一面、沼沢地。弥生時代から水田が開かれ「美田地帯」になったためであろうか、伊佐沼から川越の市内北側にかけての一帯は、三芳野と呼ばれていた。意味は「すぐれた良い土地」ということ。
遮るものの何も無い水田地帯を1キロ弱歩き伊佐沼に。結構大きい沼。南北1.3キロ。東西300mといった、ところ。関東では印旛沼につぐ沼。昔はもっと大きく、南北2キロ弱、東西330m余りもあった、とか。第二次大戦時、食料増産のため北半分が干拓された。沼の案内板によれば、この沼が新河岸川の源流。この沼から九十川(くじゅう)という細流、と いうか泥川が水田を蛇行しながら流れ、寺尾地区で往時「内川」と呼ばれていた新河岸川に合流していた。
この沼がどのようにしてできたのかは不明ではある。が、入間川の流路が変更になり、取り残されたのではないか、と言われている。名前の由来も諸説。村人の名前から、とか、漁(いさり)する沼>漁り沼、が転化した、とか。往時、このあたりは雁の渡ってくる名所でもあった。川越城が別名「初雁城」と呼ばれる所以である。ちなみに、「ウォーターボーイ」のモデルとなった川越高校の徽章は「三羽の雁」である、と。

九十川
沼に沿って下る。桜並木が続く。西隣にある「伊佐沼公園 冒険の森」が切れるあたりから九十川が流れ出す。流れに沿って進むと16号線と交差。これって、あの横浜とか八王子を走る国道?チェックすると、その通り。国道16号は横浜を始点に、東京を環状にとおり埼玉から千葉の富津まで続く。
交差地点でどちらに進むか少々迷う。九十川筋に沿って4キロ程度南に歩き寺尾地区・寺尾河岸跡あたりまで下るか、はたまた16号に沿って川越市街方向に向かい、新河岸川・仙波河岸あたりに進むか、はてさて。地図をチェック。 新河岸は寺尾河岸より結構上流にある。九十川を下れば、上流に戻らなければならない。どうせのことなら、上流から下流に進もう。
ということで16号に沿って歩き、仙波地区に進むことに。小仙波交差点で川越街道を越えると「新河岸川」。これからが新河岸川散歩の始まり、となる。

小仙波
小仙波の歩道橋を渡り新河岸川脇に立つ。川筋は北から続いている。このあたりの川筋は正確には「赤間川」、と呼ぶべき、か。源流点は狭山市笹井と入間市鍵山に境を接する入間川の笹井堰。この堰より入間川の水を取り入れ、しばらくは入間川に沿って、その後は国道16号線に沿って北東に進み、舌状台地上にある川越の街をぐるっと廻り、この地・小仙波に続いている。
赤間川は昔は伊佐沼に流れ込んでいた。昭和9年になって、赤間川の瀬替え工事をおこない、新河岸川とつなげられた。1キロほど下ったところに新河岸川最上流箇所の河岸・「仙波河岸」がある。そのあたりまで掘り進み、繋いだのであろう。

仙波
川筋に沿って「仙波」地区を進む。川沿いの武蔵野台地のうえに、いくつもの貝塚がある。縄文時代の頃は、このあたりまで海が入りこんでいた、ということ。いわゆる「古東京湾」と呼ばれるもの、である。仙波の地名の由来ともなった、仙芳仙人の伝説の中にも、一面の海であったこの地を陸地にした、といった話が残る。仙(芳)+海原(波)=仙波、ということ、か。古墳時代から平安時代にかけてかなりの規模の集落があった、というし、台地上にある長徳寺は仙波氏の館があった、とも言うし、この仙波の地は、川越でも古くから開けたところの、ようだ。
ちなみに、仙波氏とは東村山から多摩丘陵一帯に勢力をふるっていた村山党の一党。平安末期に、頼朝の父・義朝の関与する保元の乱に、仙波党の仙波七郎が参陣との記述があるが、川越の歴史に登場することは、あまりない。

仙波河岸史跡公園
16号線と交差。仙波町と富士見町の境目あたりに、「仙波河岸史跡公園」がある。川筋から木の橋、というか、ちょっとした木の遊歩道を進み、仙波河岸跡に。いかにも荷揚げ場といった雰囲気の舟着場跡が残されている。この河岸は新河岸川で最も新しく、明治12年から13年頃つくられたもの。新河岸川で最も上流部にあった河岸、でもある。公園内には「仙波の滝」の碑。昭和の中ごろまで、台地上にある愛宕神社の崖下から流れ出る豊かな湧水が滝となって流れ落ちてい た、と。愛宕神社って、防火・火伏せの神様。京都の愛宕山に鎮座する愛宕神社は全国に900ほどある、とか。

不老川(としとらずかわ)
新河岸川に戻る。対岸に「新河岸川上流水循環センター」。すこし下ったところで、「不老川(としとらずかわ)」が合流する。不老川の水源は、都下西多摩郡瑞穂町にある狭山池からの伏水流とされる。入間市、狭山市をへて新河岸川に合流。全長17キロ。霞川、残堀川、野川などとともに往古の多摩川の名残である川、と。
で、この川、1983年の頃、日本一汚染された川、などと、あまりありがたくないタグ付け、を。生活排水が「水源」ともなった時期もある。現在は、浄化も進み、平成10年からは、新河岸川上流水循環センターで処理した下水をポンプで12キロほど上流に圧送。不老川放流幹線を通し、一日39000立方メートルの水を還流している。
都内では、呑川しかり、目黒川しかり、落合の「落合水再生センター」で高度処理された下水を還流するのは見慣れた光景ではあった。埼玉のこの地でも、急速な都市化の中で同じ状況が生まれた、ということか。

扇河岸
不老川との合流点あたりにあったのが「扇河岸」。天和3年(1683年)につくられた。川越五河岸のひとつ。扇河岸の名前の由来は、扇形の河岸屋敷があったから、とか。開設のきっかけは天和2年(1682年)、火事で焼け落ちた江戸の松平家・江戸屋敷復興のため。建築資材を運ぶためにこの地に河岸がつくられることになったわけだ。
が、この河岸の歴史的意義は、河岸建設が川越藩ではなく、商人の手によってつくられた、こと。内川につくられた寺尾河岸にしても、新河岸にしても川越藩の公用が主眼。一方、この扇河岸は、川越の大商人など17名が加わり資金を出し合ってつくられた。この地は、台地のはたで湧水があり、その丸池の周囲に河岸場をつくるには大量の土盛りが必要となる。ということは、多くの資金が必要。ために、商人の力が必要となった、ということだろう。
初めの頃は川越藩の公用として、藩の援助を受けてはじまった新河岸川舟運ではあるが、この扇河岸以降、次第に藩の手を離れて川越の商人を中心として運営されるようになってきた。要するに、この頃には、この新河岸川をつかっての江戸と川越の舟運が大きな利益を生むようになっていたのであろう。この河岸は明治に仙波河岸が開設されるとともに、衰えていった、と。

新河岸
扇河岸から少し下り旭橋のあたりが「新河岸」のあったところ。正保4年(1647年)、川越藩主・松平信綱によって開かれたもの。川越発展のためには、川越と江戸をつなぐ舟運路の整備が必要と考えたのであろう。ここから1キロほど下流の寺尾には、寛永15年の川越大火による町の復興のため既に「寺尾河岸」つくられていた。半年ほどで使われなくなってはいたが、、河岸を開くに際し、下流の河川整備は済んでいた。江戸から建築資材を運ぶための舟が通りやすいよう、橋の改修、具体的には、土橋を板橋に変えるなどの河川整備が行われていたわけだ。


で、信綱はこの地に注目し、新しく河岸を開き、「新河岸」と名付けた。「寺尾河岸」に対して新しく開いた河岸、といった意味である。「内川」と呼ばれていた流れも、この河岸の成立の後は、「新河岸川」と呼ばれるようになった。
「新河岸」と呼ばれていた河岸場は、元禄6年(1693)年の頃には旭橋を隔てて北が「上新河岸」、南が「下新河岸」と分かれていたようだ。ともに川越五河岸のひとつ。旭橋のそばに如何にも由緒ありげな商家。舟問屋伊勢安のお屋敷。現在は米穀業をおこなっているように見えた。実際に問屋跡など目にすると、リアリティが大きくなってきた。
伊佐沼から下った新河岸川散歩も、新河岸で日没となった。本日はここまで。東武線・新河岸駅まで歩き、残りは明日に、ということで家路を急ぐ。

(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交 差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目 川合流>
黒目(根岸)河岸>

0 件のコメント:

コメントを投稿