本日のルート;新河岸駅>(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目川合流>東武東上線・朝霞台駅
東武東上線・新河岸川駅
東武東上線・新河岸川駅で下車。舟問屋・伊勢安のお屋敷に向かって進む。どっしりとした構えの屋敷に往時を偲び、川傍の日枝神社に。少々の高みから川筋を眺める。川筋から、この台地上の問屋まで運びあげるのは、少々難儀なことではなかったか、などと勝手な想像を巡らし、旭橋に。
牛子河岸
東武東上線・新河岸川駅
東武東上線・新河岸川駅で下車。舟問屋・伊勢安のお屋敷に向かって進む。どっしりとした構えの屋敷に往時を偲び、川傍の日枝神社に。少々の高みから川筋を眺める。川筋から、この台地上の問屋まで運びあげるのは、少々難儀なことではなかったか、などと勝手な想像を巡らし、旭橋に。
牛子河岸
旭橋の対岸は牛子地区。「牛子河岸」があったところ。寛文4年(1664)に川越城主松平伊豆守輝綱によって開設。輝綱は信綱の子。旭橋南詰めを下ると寺尾地区。ここが新河岸川舟運のはじまりとなった「寺尾河岸」がつくられたところ。きっかけは寛永15年(1638年)の川越大火。焼失した川越の町や喜多院、東照宮再建のため建築資材を、川越・仙波に運ぶことになった。家康をまつる東照宮が燃え落ちたわけでもあるので、川越藩主・堀田正盛や天海僧正など江戸からの復旧資材を心待ちにしたこと、であろう。
当時の川越への舟運は荒川の平方河岸が使われていた。が、時期は春。渇水の時期。舟で運ぶことができない。で、外川・荒川の内を流れる「内川」に着目し、この地に河岸場を設けることにした。これが「寺尾河岸」。「寺尾河岸」をつくるに際し、荒川へ合流するまでに三箇所ほどあった古い土橋を板橋に架け替えるなどして、舟が通れるように整備した、と。ちなみにこの三箇所は川越市の古市場、富士見市の難畑(南畑)、志木市引又であった、という。板橋に反りをつけて舟が通りやすいようにしたわけだ。が、この「寺尾河岸」は所詮急場しのぎが目的。建築資材の搬入などが一段落すると、引き払われることになる。本格的に新河岸川の舟運がはじまるのは、先にメモした「新河岸」がつくられてから、である。
九十川
今は何の面影もとどめない寺尾地区を下る。川筋が蛇行するあたりに北から川筋が合流。この川は九十川。伊佐沼から下ってくる。江戸時代は九十川からの川筋が内川の本流。これより北の新河岸川の川筋って、川越台地の細流・遊女川、台地崖下から湧き出る湧水、不老川などの流れがあつまって、川筋をつくっていたのだろう。
遊女川、って少々艶かしい。が、由来は「およね」さん。姑による嫁苛めのため川に身を投げる。それを悲しんだ夫も同様に身を投げ、およねさんのもと、に。以来地元の人はこの川を「およね川」と。が、いつの間にか「夜奈川」とか「遊女川」と書くようになった、とか。
古市場河岸
川崎橋を越え、蛇行した流れに沿ってしばし南に下ると養老橋と交差。このあたりの東岸にあったのが「古市場河岸」。川越市古市場地区にある。橋のあたりが荷揚げ場であった、とか。成立時期は詳しくはわからない。が、寛延元年(1748年)以前にはできていた、よう。ここの河岸は舟問屋・橋本屋が、家業の醤油の出荷だけに使っていた、と。
福岡河岸
養老橋を渡った対岸にあったのが「福岡河岸」。入間郡福岡村、現在のふじみ野市。河岸場の成立は、天保8年(1837)に編まれた、『福岡名所図会』によれば、「古へは比地藪なりしが、享保の頃、当村民、冨田紋右衛門といふ者此処二住、始めて此河岸を始めけるより紋右衛門河岸と称しけるが、後に福岡河岸と云ふ。船多くありて、山方三ヶ嶋、勝楽寺其外飯能辺より薪炭其外木材等、並に諸荷物附出して此河岸より江戸へ積送り、入船出船日々には賑はしくぞなりにける」とある。享保というから、1716年頃には開かれていたのだろう。
福岡河岸には、3軒の船問屋があった。『武藏國郡村誌』福岡村の頃には、 「荷船廿九艘百石積四艘九十石積二十五艘」とあり、舟運が盛んであった様子が偲ばれる。現在も、このあたりは福岡河岸記念館など、屋敷や土蔵が残されている。
百目木(どめき)河岸
福 岡河岸跡から少し下り、川の西側に大日本印刷の工場があるあたりの対岸に蓮光寺。ここは川越市。立派な構えの総門をもつ曹洞宗の古刹である。しばしゆったりとした時を過ごす。蓮光寺を離れ、少し歩くと「川越富士見有料道路」と交差。このあたり、ふじみ野市中福岡に「百目木(どめき)河岸」があった。成立は明治期に入ってから。
「川越富士見有料道路」を越えると川筋はふたつに分かれる。一方は新河岸川放水路。東に進み「びん沼自然公園」、びん沼川をへて荒川に合流する。一方、新河岸川は南東に下る。
今は何の面影もとどめない寺尾地区を下る。川筋が蛇行するあたりに北から川筋が合流。この川は九十川。伊佐沼から下ってくる。江戸時代は九十川からの川筋が内川の本流。これより北の新河岸川の川筋って、川越台地の細流・遊女川、台地崖下から湧き出る湧水、不老川などの流れがあつまって、川筋をつくっていたのだろう。
遊女川、って少々艶かしい。が、由来は「およね」さん。姑による嫁苛めのため川に身を投げる。それを悲しんだ夫も同様に身を投げ、およねさんのもと、に。以来地元の人はこの川を「およね川」と。が、いつの間にか「夜奈川」とか「遊女川」と書くようになった、とか。
古市場河岸
川崎橋を越え、蛇行した流れに沿ってしばし南に下ると養老橋と交差。このあたりの東岸にあったのが「古市場河岸」。川越市古市場地区にある。橋のあたりが荷揚げ場であった、とか。成立時期は詳しくはわからない。が、寛延元年(1748年)以前にはできていた、よう。ここの河岸は舟問屋・橋本屋が、家業の醤油の出荷だけに使っていた、と。
福岡河岸
養老橋を渡った対岸にあったのが「福岡河岸」。入間郡福岡村、現在のふじみ野市。河岸場の成立は、天保8年(1837)に編まれた、『福岡名所図会』によれば、「古へは比地藪なりしが、享保の頃、当村民、冨田紋右衛門といふ者此処二住、始めて此河岸を始めけるより紋右衛門河岸と称しけるが、後に福岡河岸と云ふ。船多くありて、山方三ヶ嶋、勝楽寺其外飯能辺より薪炭其外木材等、並に諸荷物附出して此河岸より江戸へ積送り、入船出船日々には賑はしくぞなりにける」とある。享保というから、1716年頃には開かれていたのだろう。
福岡河岸には、3軒の船問屋があった。『武藏國郡村誌』福岡村の頃には、 「荷船廿九艘百石積四艘九十石積二十五艘」とあり、舟運が盛んであった様子が偲ばれる。現在も、このあたりは福岡河岸記念館など、屋敷や土蔵が残されている。
百目木(どめき)河岸
福 岡河岸跡から少し下り、川の西側に大日本印刷の工場があるあたりの対岸に蓮光寺。ここは川越市。立派な構えの総門をもつ曹洞宗の古刹である。しばしゆったりとした時を過ごす。蓮光寺を離れ、少し歩くと「川越富士見有料道路」と交差。このあたり、ふじみ野市中福岡に「百目木(どめき)河岸」があった。成立は明治期に入ってから。
「川越富士見有料道路」を越えると川筋はふたつに分かれる。一方は新河岸川放水路。東に進み「びん沼自然公園」、びん沼川をへて荒川に合流する。一方、新河岸川は南東に下る。
川筋を下ると、橋の手前に大杉神社。茨城県稲敷市に本社が鎮座。嵐にあった船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰されていた。関東・東北地方に分布する。名前の由来は、大杉を神体としていた、から。大杉の巨木が航海の目印となっていたの、かも。
伊佐島河岸
川筋を進む。遠くに富士山が見える。ふじみ見野市と呼ばれる所以である。カシミールDで、このあたりから眺めた富士の姿をつくってみた。まさか富士が見えるとは思っていなかったので、少々うれしい。川筋西側に富士見野市運動公園、東側に福岡高校。先に進み「新伊佐島橋」と交差。この橋の北詰にあったのが「伊佐島河岸」。入間郡勝瀬村伊佐島にあったため、「勝瀬河岸」とも呼ばれた。天保10年(1839)以前に成立したものと、考えられている。河岸場は宅地と竹林になっていて、その一角に水神祠が今も祀られている。
砂川堀
少し下ると「砂川堀」が合流する。狭山湖の北、埼玉県所沢市の早稲田大学所沢キャンパスの演習林を水源とする都市下水路。上流部は狭山丘陵北側の湿地であり自然河川。途中、調節池があったり、地下の導水管へ入ったり、人工的なせせらぎ水路を設けたり、暗渠になったり、あれこれ姿を変えながら、新河岸川に流れ込む。砂川堀と新河岸川の合流点には蛇島遊水地(西・東池)がある。
上南畑河岸
川筋の富士見サイクリングコースを下ると南畑橋。このあたりは上南畑地区。昔の入間郡上南畑村(現富士見市)。「上南畑河岸」のあったところ。上南畑河岸は、蛇木(はびき)河岸、とも呼ばれていた。
鶴馬本河岸
しばらく歩くと再び、「富士見川越有料道路」と交差。このあたりにあったのが「鶴馬本河岸」。入間郡鶴馬村(現富士見市)。成立は天明元年(1781)とされる。
富士見江川
道路を越えると「富士見江川」が合流。三芳町藤久保あたりからはじまる荒川水系の準用河川。準用河川って、市町村長の管轄。ちなみに一級河川は建設大臣。二級河川は都道府県知事の管轄。で、このあたりのあったのが「鶉(うずら)河岸」。入間郡鶴馬村鶉町(現富士見市)、現在の市立本郷中学校の東側あたり、と言われている。成立は、天明 元年の頃、と。
山下河岸
更に進み水染橋に。このあたりに「山下河岸」があった。水染橋の下流右岸、入間郡水子町(現富士見市)。河岸場の成立は、延享3年(1746)以前、と。河岸場のあったあたりは、竹やぶに変わっている。歩を進め、川越街道・岡坂橋と交差。岡坂橋の先、袋橋のあたりに旧新河岸川跡が残っている。このあたり、入間郡水子町(現富士見市)にあったのが「前河岸」。成立年代は、元禄11年(1698)、とも言われている。河岸場は新河岸川が蛇行した屈折部の先端にあり、現在の川筋とはかなり離れている。周辺には旧流路が残っているが、河岸場のあったところは埋め立てられ、宅地と道路になっている、とか。
柳瀬川と合流
袋橋を過ぎ、いろは橋を越えると柳瀬川と合流。ふたつの川がつくる三角州の突端部分から志木市となる。この突端部分に志木市役所があった。柳瀬川は所沢市の狭山湖を源流とし、ほぼ都県境を東北方向へ流れ、この地で新河岸川に合流する。
引又河岸
柳瀬川にかかる栄橋を経由し新河岸川に戻る。「引又河岸」があったのはこのあたり。新座郡志木宿。引又河岸は、明治7年(1874)引又町が志木宿と改名され志木河岸と呼ばれる。寛永年間(1624―1643)頃開業、と。新河岸川はかつて、現在の志木市役所周辺で大きく蛇行していて、柳瀬川との合流点は河岸場の上流にあった、とか。
宗岡河岸
この付近にはもう一箇所河岸があった。「宗岡河岸」が、それ。現在の「いろは橋」の上流、新河岸川左岸。入間郡宗岡村(現志木市)。「宗岡河岸」の成立は元禄期後半から享保期、と言うから、17世紀後半。「宗岡河岸」のあったところは、河川改修後に埋めたてられ、住宅地となっている。
いろは樋(とい)
栄橋を渡り、黒目川の堤防にそって新河岸川の合流点まで進む。途中に「いろは樋(とい)」の案内。昔、この地に、野火止用水宗岡地区に送る樋(かけひ)が架かっていた。新河岸川の北、上・下宗岡村を知行していた旗本岡部忠直の家臣・白井武左衛門は、灌漑水の乏しかった宗岡地区に、新河岸川に落ちていた野火止用水を送水しようと試みる。寛文2年(1662)、舟の運航を妨げないようにと、水面からの高さ約4mに、長さ約260mの木樋を設ける。 掛樋(かけひ)は48個の樋でつながれていたため、「いろは樋」と呼ばれた。
宮戸河岸
先に進むと宮戸橋。この橋の近くに「宮戸河岸」があった。新座郡宮戸村(現朝霞市)。成立は安永期(1773年)よりも古い、といわれる。現在、河岸場のあったところは埋め建てられ、全くその跡を留めていない。
朝霞浄水場
川脇に「朝霞浄水場」。埼玉県朝霞市にあるが、東京都水道局の施設。東日本最大。また、大阪府枚方市・村野浄水場に次ぎ、日本第二の処理能力をもつ。利根川・荒川の水を、荒川の秋ヶ瀬取水堰から取水。ここから杉並区上井草、および文京区本郷給水所に送水している。村山浄水場のとことでメモしたが、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるように東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管を設置。利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにしている。ちなみに利根川と荒川との間は武蔵水路と呼ばれる連絡水路で結ばれている。
浜崎河岸(お台場河岸)
武蔵野線を越えると新盛橋。この橋の上流にあったのが「浜崎河岸(お台場河岸)」。新座郡浜崎村(現朝霞市)。成立時期は不明。この河岸場は、荷出しはなく、 田畑の肥料類を降ろすだけ。品川の台場の倉庫から肥料を運んだので、お台場河岸と呼ばれた。
黒目川と合流
新盛橋を越え、先に進む。日が落ちてきた。外環道の「ハープ橋」が遠くに見えてきた。外環道を越えれば和光。なんとか日が暮れる前に、和光へと、の思い。
川筋を進む。黒目川と合流。あれ?道がない。黒目川を合流点の突端部から上流に。が、道がない。愕然。戻るしかない。気力が失せる。完全に日も暮れた。残念ながら本日はここまで。最後の気力を振り絞り、新堀橋まで戻る。既に歩く気力もなく、丁度走ってきたタクシーに乗り、最寄りの駅へ、と。東武東上線・朝霞台に戻り、一路家路に。和光までの残り少々は次回のお楽しみ、とする。
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