木曜日, 4月 19, 2007

黒目川散歩 Ⅱ;黒目川を新河岸川へと下る

黒目川散歩の2回目。前回は、思わぬ展開で出水川から黒目川源流点へと歩くことになった。今回は、出水川と黒目川の合流点から黒目川を下流に向かい、新河岸川との合流点へと向かうことにする。途中、ちょっと野火止用水の走る台地に登り、地形のうねりを少々実感したい、とも思う。



本日のルート:平成橋付近(出水川と黒目川の合流)>黒目川>東京コカコーラ・ボトリング多摩工場>上落馬橋・小金井街道>中橋>曲橋>大円寺>子の神社>小山台遺跡公園>小山緑地保全地域>野火止用水>西武池袋線>氷川台緑地保全地域>黒目川筋>厳島神社>門前大橋>浄牧院>門前大橋>黒目川筋>平和橋>神山大橋>宝泉寺>昭和橋>黒目橋>落合川との合流>栗原橋>貝沼橋>馬喰橋>川筋を離れ36号・保谷志木線>新座市歴史民俗史料館>産業道路交差>関越自動車道交差>黒目川筋に戻る・大橋>市場坂通り>市場坂橋>山川橋>陸上自衛隊朝霞演習場の台地下>川越街道と交差・新座大橋>川越街道>朝霞警察署前交差点>幸町3丁目>朝霞中央公園入口>青葉台公園脇>朝霞市役所前交差点>東武東上線・朝霞駅


西武・多摩湖線の荻山駅
西武・多摩湖線の荻山駅。例によって、出発時間が遅く、到着は1時過ぎ。合流点までの時間をセーブするためバスを探す。が、それらしき路線は、なし。ということで、合流点近くの「都大橋」までタクシーに。都大橋から少し下り、新小金井街道との交差手前の合流点に。ここから本日の散歩スタート。

平成橋下に「黒目川雨水幹線」の合流部
平成橋の下に開口部。先回の散歩でメモした「黒目川雨水幹線」の合流部、とか。川と野火止台地の間には下里本邑遺跡公園がある。結構大きな公園。旧石器から奈良・平安までの遺跡が残る。降馬橋を越えると川の東側に東京コカコーラ・ボトリングの多摩工場。ここからも浄化処理された水が排水される。黒目川の水源のひとつ、と言ってもいい、か。

大円寺
小金井街道に架かる上落馬橋を越える。中橋、曲橋を越えると大円寺。落ち着いた、いいお寺さま。馬頭観世音塔で知られる。道標も兼ねており、板橋・八王子・四谷・川越へとそれぞれ5里の距離にあるので、「ゴリゴリ馬頭」とも呼ばれる。

子ノ神社
大円寺を離れ、小山台遺跡公園に向かう。途中に「子ノ神社」。小山1丁目。黒目川の河岸段丘崖といったところ。以前、目黒区の立会川を散歩していたとき、碑文谷八幡近くの高木神社(第六天)で「子の神」に出合った。「子の神」と呼ばれた付近の集落の守護神であった、とか。その名前故、なんとなく気になりながらも、そのままにしておいたのだが、ここで再び出合ってしまった。

神社前に「子ノ神社略記」:「小山村の鎮守。文禄元年(1592)8月、領主矢部藤九郎により本地仏は地蔵の勧請と伝えられ(中略)神社名はもと「根神明神」と称したが、後世にいたり十二支の子(ね)を用い「子ノ神社」と変更された。子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われる。祀神大国主命は出雲大社の祭神と同一神にして国土開発の神であると共に、縁結び・子孫繁栄・五穀豊穣の神とされている。(中略)創立者矢部氏は相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていたが、徳川時代の始め、三百石を賜り小山村の地頭となった」、と。


略記をきっかけに、あれこれ調べてみる。子の神、って、もともとは、「根ノ上社・根上明神・根之神社」、などと呼ばれていた、と。祭祀圏は南関東から東海にかけて集中的に分布。川崎というか昔の相模には4箇所ある、という。武蔵野線・矢部駅の近くにもある、とか。これって小田原・北条期の矢部氏の所領、との説も。矢部駅の近くには現在も小山という地名もあり、氏神さまも地名も一緒にこの地にもってきたのだろう、か。

もともと「根の神」など呼ばれていた「子の神」であるが、神社の由来・縁起も「根」に関連したものが目に付く。海上に突き出た大岩の「根」の部分に舟が乗り上げており、その中に神さんがいた、とか、やんごとなき君が放った矢の「根」をおまつりした、といったものだ。が、なんとなく、本当になんとなくだが、この「根」って「根の国」、黄泉の国のことではないだろうか、と想像する、というか、してみた。理由は単純。子の神社の祭神が大己貴(オオナムチ)命=大国主命であるから、だ。

神話に、「オオナムチ命はスサノオ命(須佐之男命)のいる地下界(根之堅州国)に逃れ、将来の妻となるスサノオ命(須佐之男命)の娘・スセリ姫(須勢理毘売)と出会う。夫婦となるために、スサノオ命から与えられた四つの試練を乗り越え、スセリ姫とともに「根の国」からの脱出を図る。スサノオ命も最後にふたりを祝福しはオオナムチ命を「大国主命」と命名する」、とある。スサノオ命曰く;「その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟は坂の御尾に追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇津都志国主神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。この奴。」、と。この神話から、根の神「根」って、根の国=根之堅州国、の「根」と関係あるのではない、かと、想像。神社の縁起にでてくる、岩とか矢なども、上にメモしたスサノオ命の台詞に散りばめられている。と考える。


少し横道に。諏訪大社の御柱祭の話である。「御柱道」沿いに「子之神」という地があり、そこに御旅「寝神社」がある。御柱を曳き下ろすときに、ここで「寝る」ために「寝神社」と呼ばれる、と。これもオオナムチ命の神話に、四つの試練のうち、初めての夜は蛇のいる室(ムロ)に「寝かされ」、次の夜にはムカデと蜂がいる室に「寝かされる」、といったエピソードと大いに関係があるのでは、と想像。諏訪神社の祭神・タケミナカタ命(建御方命)は、大国主命の第二子であるので、まんざらでもない解釈では、と思い込む、ことに。
根の国は「黄泉の国」=死者の国、ではある。が、同時に、オオナムチ命が大国主命に成長する、再生のプロセス、でもあろう。ということは、五穀豊穣と結びつく。また、根の神が子の神となった由来は「子は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたもの」という。この神社略記からもあきらかなように、大国主命=大黒様、との関連から神仏習合の時に「根>子」となったのであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

想像の拡がりついでに、もう少し寄り道。大己貴(オオナムチ)命=大国主命、ということは、出雲系。武蔵の地はもともと出雲族の支配地、であった。出雲から信州を経て、武蔵の地に進んできたのだろう。古事記の上巻の大国主命の国譲りの条に、諏訪神社の由来が書かれている:「コトシロヌシの子のタケミナカタ神は国譲りに反対し、タケミカズチ神と力比べして破れ、科野国(しなの)の州羽海(すわの)に逃れて殺されようとしたところを命乞いして、「此処以外他所に出ず、また父の大国主の命に背かないことを約束して許された」、と。
こうして武蔵に入った出雲族の痕跡は南関東=荒川以西に多く分布する氷川神社の存在によっても明らか。氷川神社が出雲の「簸川(ひのかわ)」からきているし、武蔵一ノ宮が大宮にある氷川神社である、ということからも、武蔵における出雲族の力の程が偲ばれる。
子の神も南関東が祭祀圏である。また、祭神は大己貴(オオナムチ)命=大国主命。ということは、子の神=根の神は、大和朝廷の「尖兵」として物部氏が国造として武蔵支配する以前にこの地に住んでいた出雲系の氏族が信仰していた神さまであった、のだろう。と、あれこれ、自我流の解釈で空想・想像・を楽しむ。真偽の程定かならねども、自分としては十分に納得。このあたりで矛を収めて先に進む。

小山台遺跡公園
野火止用水が走る尾根道へと坂を登る。途中に小山台遺跡公園。縄文時代中期の住居跡が発掘されている。東南に傾斜した斜面にあるこの高台からは東久留米市を望むことができる。斜面下には黒目川が流れ、縄文の人々にとっても、暮らしやすい場所であった、ことだろう。

尾根道に「野火止用水」が流れる
公園を離れ「小山森の広場」を抜け尾根道へ。水道道路に沿って「野火止用水」が流れる。この水路を平林寺まで歩いたのは昨年の初冬であったろう、か。


と ころで、「野火止」って野焼き、というか焼畑の火を止める塚のようなものを指すのだろう。伊勢物語に「武蔵野は今日はな焼きそわか草のつまもこもれり我もこもれり」って歌がある。武蔵野には焼畑の伝統が昔からあったのだろう。草茫の地といわれる武蔵野だが、これは、夏まえに林の木々を伐採し、秋には西北からの風を利用し一帯を焼き尽くし、そのあとを畑とし、数年し地味が衰えると一旦お休みし草地とし、牧草にあてる。この繰り返しのなせる業であったのかもしれない。

氷川台緑地公園
西武池袋線を越えると、直ぐに台地を下りる。途中に、氷川台緑地公園・成美森の広場。東京都には43の緑地保全地域がある。そのうち東久留米には7箇所。先回歩いた柳窪もそうだが、この小山台緑地公園もそのひとつ。思わず足を踏み入れたくなる、美しい雑木林である。フェンスで囲まれているようでもあり、行き止まりになるか、などと少々気になりながらも、林の中を歩く魅力に抗えず先に進む。うまく台地下に下る 通路があり、緑地を抜ける。台地中腹の氷川神社におまいりし、台地を下り黒目川に戻る。門前大橋に

浄牧院
このあたり、門前大橋とか大門とか、由緒あるお寺がありそうな地名。地図をチェックすると近くに浄牧院というお寺さま。たぶんこのお寺さま故であろう、と門前大橋を渡り、大門1丁目にある浄牧院に。曹洞宗の立派なお寺様。
文安元年(1444年)、大石顕重によって創建、堂宇は最近になって建てかえられたように見える。お寺の前を浄牧院通りが走るが、これは1997年に都市計画によって浄牧院の敷地を分断してできたもの。ということは、堂宇の再建はその補償費でなされているもので、あろうか。つくりは安っぽくない。立派に造り直されている、よう。ここには南沢の領主・旗本の神谷家九代の墓所がある。

大石顕重
大石顕重が気になった。ひょっとして、あの大石一族?チェックする。八王子の滝山城を築いた大石定重などといった、あの大石氏の一統、であった。大石氏は木曽義仲の後裔と称し、戦国時代に武蔵で活躍した氏族。信濃国大石郷(佐久地方)に居を構え「大石氏」と。後に功あって足利氏より入間・多摩(八王子から秋川、村山、東久留米)に領地を拝領。あきるの市二ノ宮に居を構える。大石顕重は本拠を二宮から高月城に移した人物、である。

ちょっと脱線。高月城は秋川と玉川の合流点・加住丘陵にある。まだ行ったことがない。前々から気にはなっている。尾根続きといった滝山城には足を踏み入れた。とはいっても、到着したのが冬の午後6時過ぎ。あたりは真っ暗。ヘッドランプを頭につけ、城山に登った。枯れ葉の騒ぐ音に、身震いしたものである。もう1年以上前のこと。近々、昼間の滝山城から高月城へ行ってみよう、と思う(追記;その後、高月城も滝山城にも訪れた)。

厳島神社
浄牧院を離れ、門前大橋・黒目川筋に戻る。厳島神社。全国に500ほどある、という。田舎の愛媛には境内社も含めると300ほどある、とか。祭神は宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)。「いつくしま」は市杵島姫命=イツキシマヒメ、からきているのだろう。「イツキシマヒメ」は水の神という。
数日前京都に出張に出かけた。週末、京都御所に寄ったとき、京都御苑に厳島神社が鎮座していた。また、脱線。祇園女御が三女神に加えて祭神となっていた。これは、安芸の厳島神社を祟敬していた平清盛が母・祇園女御を合祀したもの。もともと神戸にあったものが、この地・九条家の邸宅に移した、と。直ぐ近くに、宗像神社もありました。

宝泉寺
厳島神社の近くの台地には「金山森の広場」。ここも東京都の緑地保全地域。先に進み、平和橋、神山大橋へ。台地中腹に宝泉寺。東久留米の七福神ひとつ。弁才天がまつられている。東久留米の七福神はそのほか、米津寺の布袋尊、多門寺の毘沙門天、大圓寺の恵比寿・福禄寿・寿老人、浄牧院の大黒天、となっている。

落合川との合流点
神山大橋に戻り、先に進む。昭和橋を越えると、落合川との合流点。美しい流れである。この川の源流へも歩いてみたい。
合流点の三角地には下谷ポンプ場、そして東久留米スポーツセンター。これらの施設の下は調整池となっていた。黒目川雨水幹線といい、白山公園の調整池といい、北原公園の調整池といい、そしてこの調整池といい水防対策が盛んになされている。豊かな湧水地帯も大雨時には、洪水地帯であったのだろう。

新座市歴史民俗資料館

落合川との合流点を離れ神宝大橋に。このあたりから埼玉県。護岸のスタイルも東京都とは心持ち異なっている。栗原橋、貝沼橋、馬喰橋と進む。馬喰橋からは川筋を離れ、片山にある新座市の歴史民俗資料館に。しばし展示資料を眺め、先に進む。

妙音沢
しばらく歩くと関越道と交差。道は関越道・新座料金所のすぐ下あたりを進む。しばらくすすみ、大橋で黒目川と再会。再び川筋を進む。市場坂通り。台地に登る市場坂橋の手前で南から川が合流している。妙音沢と呼ばれる、とか。新座高校近く、ふたつの水源から豊富な湧水が湧き出ている、と。

川越街道・新座大橋
山川橋を越え、東の台地に陸上自衛隊朝霞駐屯地・演習場。先にすすむと川越街道・新座大橋に。日もとっぷり暮れてきた。新河岸川合流点にはいけそうもない。方針変更し、川越街道を東武東上線・朝霞駅に向かうことに。

東武東上線・朝霞駅に
以前、白子の宿から平林寺へと下った坂道を上る。膝折公団前、朝霞警察署前と進み、第四小前で川越街道を離れ、北に折れる。幸町3丁目を越え、朝霞西高、青葉台公園に沿って歩く。このあたりはキャンプドレーク跡地。米国の第一騎兵師団が駐留した基地。朝鮮戦争、ベトナム戦争に出動した部隊でもある。本町1丁目で東に折れる。朝霞市役所前をとおり、東武東上線・朝霞駅に。本日の予定終了。

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