金曜日, 6月 15, 2007

北武蔵 武蔵嵐山散歩 ; 畠山重忠と木曾義仲の足跡を辿る

先日の寄居散歩の途中、気になっていた地名、武蔵嵐山・小川町・男衾あたりの地図を眺めていた。と、武蔵嵐山に県立歴史資料館のマーク。

菅谷館跡も近くにマークされている。菅谷館って、鎌倉武士の亀鑑・畠山重忠の館跡。歴史資料館があるということは、そこに行きさえすれば、なんらかの新たなる「発見」もあろうかと、例によって前もってなにも調べず、お気楽に武蔵嵐山に向かう。

この地が木曾義仲ゆかりの地であったことなど、そのときは知る由も、なし。




本日のルート;東武東上線・武蔵嵐山>道254号線>県立歴史博物館>畠山重忠の館跡>都幾川>槻川>鎌形八幡宮>班渓寺>渓流・武蔵嵐山>平澤寺>東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山


東武東上線・武蔵嵐山下車。駅前で軽く昼食、などと思っていたのだが、それらしきレストランなど見当たらない。閑散としている。商店街もほとんどシャッターが閉まっており、まことに静かなるものである。駅前で観光案内をチェック。菅谷館の案内。そのほかに、木曽義仲産湯の清水とか義仲の妻・山吹姫の墓といった案内があった。 北陸・倶利伽羅峠を歩き、木曽義仲のあれこれを調べたとき、木曽義仲って、木曽で育ってはいるが、生まれは奥武蔵(外武蔵?)であったことを思い出した。思いがけなく義仲の登場。畠山重忠ゆかりの地を歩く、といった思いでこの地に来たのだが、源平争乱の雄・義仲が現れた。行き当たりばったりの散歩の醍醐味ではある。急遽、重忠&義仲ゆかりの地を巡る散歩とする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国道254号線
平屋建ての家並みの多い商店街を北にすすむ。国道254号線と交差。この国道、東京都文京区から埼玉、群馬を経て、長野県松本市に通じる。昔は、川越街道・川越児玉往還・信州街道とも呼ばれていた。国道254号線を越え、更に南に進む。菅谷中学校、菅谷小学校の間を抜けると大きな道。これも国道254号線。先ほどの道筋が旧道で、この道筋はバイパスとしてつくられたのであろう、か。

県立歴史博物館

国道を渡ると菅谷館跡。館跡の入口にある県立歴史博物館を訪ね、この地の歴史の概略を頭に入れる。菅谷館は鎌倉時代に畠山重忠が構えた館をその始まりとし、戦国期に小田原北条氏により館から平城へと拡張されていった。この地は鎌倉街道に面する交通の要衝でもある。元久2年(1205)武蔵二俣川の合戦の際、畠山重忠はこの館より鎌倉街道を下っていった、と『吾妻鏡』にある。また、1488年(長享2)には、近くの須賀谷原で、山内・扇谷両上杉氏が戦い戦死者700名、傷ついた馬数百等にもおよんだ、という事である。

畠山重忠の館跡
館跡を南に進む。遺構の規模も大きい。館跡は台地上にあり、南は都幾川によって浸食され屹立した崖。東と西は幾筋もの谷が走り外堀となっている。この館というか城跡は地形をうまく活かし、高い土塁と空掘に囲まれた縄張がおこなわれている。 土塁の規模も大きく、高さ12mにもなるものも、ある。本郭は南の崖線に近いところ。それを囲むように二郭・三郭・西郭・南郭の四つの郭が配置されている。こういった縄張りは小田原北条氏によるものであろう。さきほどの県立歴史博物館は二郭と三郭の間に建つ。二郭門の後にある土塁上には畠山重忠の像がある。

畠山重忠のあれこれ;頼朝のもっとも信頼したという武将。が、当初、頼朝と戦っている。父・重能が平氏に仕えていたため。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。上にメモした二俣川の合戦がそれ。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿である。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。

で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

都幾川
主郭に続く土橋を渡り都幾川へ下る崖線に向う。崖を下り、「ホタルの里」とか「蝶の里公園」の中を歩き、都幾川(とき川)に。都幾川の源流は比企郡ときがわ町大野地区。標高400mから900mという秩父山地東部の山間からはじまり、菅生のある比企郡小川町を経て東松山に進み、比企郡川島町長楽で越辺川と合流する。

槻川
この都幾川に秩父郡秩父村を源流とする槻川(つきかわ)が合流する地点にかかる二瀬橋を渡り、都幾川の堤防を南に下る。右手は山間の景観、左手は畑地、堤防は桜堤。ゆったりした時間が流れる。千騎沢橋を越え、八幡橋に。八幡橋を渡れば鎌形八幡宮に着く。


鎌形八幡宮
鎌形八幡宮は坂上田村麻呂が創建したとされる。代々源氏の氏神として尊祟された、とか。現在は、少々寂しい構え。往時の面影を偲ぶのは少々むずかしい。社にむかって右側にいかにも湧き水といった小さな池。境内の手水場に注がれる水は「木曽義仲産湯の清水」とあった。
義仲の生まれたところは比企郡嵐山町にある大蔵館。父・義賢の館である。鎌形神社から1キロほど東。ということは、このあたりに別邸でもあったのだろう。 義仲の父・義賢は帯刀(たてわき)先生と呼ばれる。帯刀の長ということ。で、帯刀は皇太子の護衛官である。義賢はもともと京都の堀川にある源氏館にいた。が、義賢の父・為義と争い相模に下っていた兄の義朝に抗すべく、上野国大胡の地を領する。大蔵に館を構えるのはその後のこと。

義朝の長男・義平が大蔵館を急襲し義賢を討ったのは、義賢が大蔵の地に移ったことと関係ありそう。相模,上野と互いに威をとなえ、バッファー地域であった武蔵の地に移った義賢の動きに危機感を抱き、事を起こすことになったのだろう。 父義賢を討たれた遺児駒王丸こと義仲を助け木曽に逃がしたのは畠山重忠の父・重能と斉藤実盛。斉藤実盛は武蔵の国・長井庄というから、いまの熊谷市が本拠。もともとは義朝派。が、武蔵に館をもった義賢に伺候した時期がある。義朝への恩義もあって畠山重能から託された駒王丸を助けたのであろう。 
木曽に逃れた駒王丸は木曽の豪族中原兼遠の庇護を受け、ために「木曽義仲」と呼ばれる。ちなみに、斉藤実盛は最後まで平家方の武将として奮戦。加賀・篠原の合戦で義仲軍に討ち取られる。命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、涙した、ということである。命の恩人斉藤実盛を討った義仲であるが、もうひとりの命の恩人・畠山重能の息子である重忠と宇治川の合戦で戦う。義仲は武運つたなく戦に敗れ、滅びることになる。なんとも因果な巡り合わせである。

班渓寺
鎌形神社を離れ、都幾川に沿って南に進む。ほとんど農家の庭先を歩く、といった按配。すぐに川筋は西に向かって湾曲。班渓寺橋手前を北に折れる。すぐに班渓寺。お寺の前の石碑には、木曽義仲生誕の地、とある。このお寺の裏に、木曽殿館跡がある。
寄り合いがあるのだろうか、地元人の出入りが多い。少々遠慮しながら境内に。 ここには義仲の妻・山吹姫の墓がある。義仲の妻は巴御前が知られるが、山吹姫も妻のひとり。平家物語には、『木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女)を具せられたり。山吹はいたはりあい、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。』とある。 巴御前は女武者で有名。倶利伽羅峠の合戦では一軍を率い、勝利に貢献。京の三条河原で畠山重忠と一騎打ちをした、と『源平盛衰記』にある。中原兼遠の娘と言われる。
山吹姫も妻のひとり。木曽義仲が逃れた、木曽・中原兼遠の縁の者とも言われるが、定かではない。ともあれ、このお寺は、山吹姫が義仲との間にできた子供・義高の供養のために建てたもの、と。鎌倉散歩のときメモしたように、頼朝の娘・大姫との縁組が決まっていた義高であるが、頼朝・義仲の争いに巻き込まれ、鎌倉を逃れる。が、入間川原で追っ手によって討ち取られた。これに嘆き悲しんだ大姫のあれこれは、唐木順造さんの『あずま みちのく(中公文庫)』に詳しい。

渓流・武蔵嵐山
班渓寺を離れ北に進む。一度、鎌形八幡宮社方面へと折れ、八幡橋の手前で北に進む。ちょっと小高い丘に進むと郷土館。旧日本赤十字社埼玉県支部社屋である。木造の建物。鎌形小学校の敷地内のようであった。とはいえ、館内に入れるといった雰囲気はなく、通り過ぎる。
学校の門の前を西にすすみ県道173号線に。 渓流・武蔵嵐山へと成行きで進む。冠水橋の手前まで進む。案内板をチェック。森へと続く細い小道に入る、槻川手前に出る。崖になっており、下りることができない。
川にそって森の中を東に進む。ブッシュが生い茂り、先に進むこと叶わず。南に農家が見える。失礼とは思いながらも庭先を犬に吼えられながら抜ける。元の道に戻る。で、成行きで進み、再び冠水橋を目指す。が、着いたのは槻川に架かる槻川南詰。橋の脇に嵐山渓谷バーベキュー場。多くの家族連れで賑わっている。ここまで戻ってきてしまえば、冠水橋にいく気力なし。ということで、次の目的地白山神社・平澤寺を目指す。平澤寺には大田資康詩歌会跡がある、という。

平澤寺
県道173号線を北に進む。国道254号線と交差。国道に沿って西に向かう。JA埼玉中央農産物直売所の交差点を左に折れ、大平山方面に。登り道。適当なところで北に下りる坂道。坂道を下りきったあたりに平澤寺、そしてその裏手に白山神社。 
このお寺、現在では堂宇ひとつ、といった構えであるが、往古、七堂伽藍を誇る、大寺院であった、よう。「まぼろしの大伽藍」と言われる。裏手の丘に白山神社。境内に大田資康詩歌会跡がある。資康は道潅の嫡子。父の仇・上杉定正を討つべくこの地に陣を張る。菅谷館跡の地に館を構えていた、とも言われる。上でメモした須賀谷原の合戦にも加わっている。

須賀谷原の合戦に際し、友人・万里集九との別れの歌宴をこの神社で開いたといわれる。この禅僧は道潅とも親交があり、越生に隠居した道潅の父・道真を訪れ、歌会を開いたりもしている。集九は室町期の禅僧・歌人。全国各地を旅している。そういえば、墨田散歩の時、梅若伝説の残る木母寺に集九が訪れていたって記録があったような気もする。

東武東上線・武蔵嵐山
白山神社を離れ、国道354号線に戻り、東へ進み菅谷館跡の交差点まで戻る。後は、来た道を駅に戻り、本日の予定終了。畠山と義仲という因縁浅からぬふたりの足跡を楽しめた一日であった

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