金曜日, 1月 30, 2009

甲州街道を歩く そのⅡ:小仏峠越え

小仏峠を越えて相模湖に

甲州街道の昔道を辿る散歩の第二回。高尾から小仏峠を上り、相模湖まで歩くことにした。JR高尾駅から高尾山の北側、通称裏高尾を経て小仏峠に上り、そこからは相模湖に向かって山中を下ることになる。
小仏峠越えは難路であった、と言う。小仏峠には一度訪れたことがある。が、そのときは、高尾山から景信山を経て陣場山に登るため、高尾・景信の鞍部である小仏峠を通過しただけ。街道をのぼってきたわけではない。
小仏峠の手前まで歩いたこともある。景信山への直登ルートの登山口まで旧街道を歩いたわけだが、どうといったことのない舗装された道。とてものこと、険峻な峠道といった印象はなかった。はてさて、その先が難路であったのだろう、か。小仏峠への難路を少々期待しながら散歩に出かける。

本日のルート:JR高尾駅>小仏関跡>荒井バス停>小仏バス停>景信山登山口>小仏峠>JR、中央高速と接近>小仏峠への西からの登山口>旧甲州街道を底沢に下る>小原の里>中央線JR相模湖駅


JR高尾駅

JR高尾駅で下車。この駅には幾度来たことだろう。鎌倉街道山の道を、この高尾から五日市筋、それから青梅筋、次いで名栗の谷筋、そして妻坂峠を越えて秩父には進んだことが懐かしい。八王子城跡に歩くときも、この高尾の駅から歩を進めた。
高尾は高尾山薬王院に由来する。で、そもそもの「高尾」は京都の三尾(高尾、栂尾、槇尾)のひとつ、から。室町時代に入山した俊源大徳が京都の醍醐寺に入山していたためである。
駅前のロータリーで小仏峠行きのバスを待つ。終点の小仏バス停までは4キロ強。時間もないし、また、このあたりは数回歩いているので、今回はバスに乗ることにした。
バスは駅から国道20号線に出る。両界橋で南浅川を渡り、JR中央線のガードをくぐる。ほどなく西浅川交差点。バスはここで国道20号線を離れ、小仏峠への旧甲州街道(以下甲州古道)に入る。角のコンビニは裏高尾の最終コンビニ。

小仏関跡
交差点から800mほど入った駒木野バス停のところに、ちょっとした公園が見える。これって小仏関跡。もともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移されたもの。何時だったかここを訪れたことがある。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあったように思う。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、かと。
駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。

荒井バス停
バスは進む。道も狭くなり、バスが道を塞ぐ、ほど。対向車待ちが必要といった道幅である。駒木野の次のバス停は荒井。荒井のバス停の近くから八王子城に上る道がある。道というか山道である。これもいつだったか、あまりきちんと調べないで、このルートを辿ったことがある。八王子城山の山裾を通る散歩道程度だろう、と思っていたのだが、これが大間違い。山稜に引っぱり上げられ、アップダウンの激しい尾根道を富士見台を経て城山まで1時間以上の山道歩きとなった。軽々に山道に入るべからず、ということ、か。

小仏バス停
荒井バス停を越え、圏央道と中央高速のジャンクションの南を進む。バスの窓から浅川国際マス釣場などを眺めながら小仏川に沿って進む。小仏川って南浅川の上流の名前。裏高尾ののどかな景色。ほどなく小仏バス停に到着。ここから歩きが始まる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




景信山登山口
バス停を少し進むと宝珠寺。道を離れ小高い崖面上のお寺にお参り。境内のカゴノキは都の天然記念物。鹿子の木と書く。樹皮がはがれて鹿の子模様になるから、とか。クスノキ科の常緑高木。昔、行基がこの寺に仏を置いた。それが小仏峠の由来、との説がある。
小仏川に沿って舗装された道を進む。次第に傾斜がきつくなってくる。小仏川が見えなくなる辺りで道は大きくS字にカーブ。中央道が小仏トンネルに入るあたりの南をかすめ、道を進む。道路は舗装されており、厳しい峠道にはほど遠い。
ほどなく景信山登山口の案内。いつだったか、ここから景信山に取り付いたことがあったのだが、ペットボトルを道の途中で落とし、水分補給ができず厳しい思いをしたことを

思い出した。
景信山の由来は、八王子城代である横地景信が八王子城攻防戦に破れ落ちのびたとき、この地で討取られたから、とか。もっとも、横地景信という人物は存在せず、横地吉信であったという説もあり、しかもこの人物は、八王子城を脱出した後、檜原城に逃れた後、小河内で自刃したという説もあり、本当のところはよくわかってはいない。

急峻な山道
しばらく進むと駐車場。結構広い。10台ほど車が駐車している。舗装道路はここでお終い。道はここから急に山道となる。山道の始点からしばらくは、それほど厳しい道筋でもない。道幅もゆったりしている。こういった調子で峠まで続くのか、急峻ってイメージではないなあ、などとお気楽に進んでいると、突然道が厳しくなる。人ひとり通れるかどうか、といった幅しかないし、ジグ
ザグの急角度。急な山道に息が上がる。これはとてものこと車というか、馬車を走らせる道など通せそうもない。山道の途中から下を見ながら、現在の甲州街道・国道20号線が小仏峠筋を避けたもの当然だろう、と実感する。
現在の甲州街道が開かれたのは明治21年。この小仏峠筋ではなく、大垂水峠を越える道筋に車、というか、馬車が通れる道筋がつくられた。一方、鉄路の開設は明治34年頃。車道とは異なり鉄路はこの小仏峠筋にトンネルを通す。大垂水ルートの頻繁なる高低差は鉄路には好ましくない、ということなのだろう。2キロ程の山塊を開削している。中央高速も然り、である。
誠に急な山道。幕末、近藤勇率いる甲陽鎮武隊が甲府防衛のため、この山道を通った、と言う。大砲を曳いていったとのことだが、さぞかし難儀なことであったろうと思う。ここを歩くまでは、どうして現在の甲州街道が小仏峠筋を通らないのか、少々疑問に思っていたのだが、そんな疑問をすっきり解消してくれるほどの急坂であった。
あれこれ思いながら、歩を進める。山道を上り切ったところに、やっと小仏峠が現れた。地形図でチェックすると、山道にはいったところから峠まで200mで高度が80mほどあがっている。最大斜度が30度ほどのところもあった。結構な「崖道」であった。

小仏峠
高 尾山と景信山の按部である小仏峠は広場となっている。地形図でチェックすると、景信山から高尾山につづく山塊のもっとも幅の狭い部分となっている。この峠道が開かれたのは大月城主・小山田信繁による滝
山城急襲のとき。上州碓井峠方面からの武田軍主力に呼応し、この小仏筋から攻め込む。滝山城を守る北条軍は、この道筋から軍勢が攻め込むなど想像もしていなかった、と言う。それほど人を寄せ付けない急峻な山塊であったのだろう。先日の大月散歩のときの案内によれば、小山田信繁は岩殿城山の修験者の先導のもと、道なき道を切り開いた、と言う。岩殿山の修験者を庇護していたもの、むべなる、かな。
峠に関が設けられたのは室町末期。小山田軍の急襲により廿里の合戦(高尾駅の北)で北条方が破れる。ために、北条氏照は裏高尾筋への備えを固めるため主城を滝山城から八王子城へ移す。そして、小仏峠に八王子城の前線基地としての砦を築く。当時は富士関役所と呼ばれていた、とか。これが小仏の関のはじまり。北条氏の対武田防御最前線で
もあったのだろう。
北条が秀吉に破れ、秀吉の命により家康が関東を治めるようになると、家康により関が設けられる。家康は武田の遺臣を召し抱え八王子千人同心を組織。八王子、そしてこの関の防衛の任を命じる。その後、関
は駒木野の地に移されることになる。こんな山奥ではあれこれ不便であったのだろう。
峠の広場を歩く。北端にいくつかのお地蔵様。その横には登山ルートマップ。景信山にはその脇から上ってゆく。いつだったかこのルートで景信山に上ったことがある。峠に上る途中にあった景信山への「直登ルート」に比べて少し楽だった。南端は高尾山の小仏城山への登山道。手前に明治天皇が山梨巡行のとき、この峠を通ったことを記念する石碑。そして南西端に旧甲州街道の案内。ここから相模湖に向かって下ることになる。


JR、中央高速と接近
杉木立の中をどんどん下る。はじめのころは比較的傾斜も緩く歩きやすい。500mで100m下る程度。その後少し傾斜が急になる。500mで200m下る。下っているからいいものの、下から上ってくるには少々骨が折れるだろう。道は尾根筋を下っている。

尾根道の北に沢筋。その下をJR中央線のトンネルが走っている。中央高速の小仏トンネルはその北の山塊を穿って走る。
送電鉄塔などを見やり、峠から1キロ程度下ると、車の音が聞こえてくる。中央高速を走る車の音だろう。ほどなく、木々の間から中央高速が見えてくる。山道を抜け、小仏峠の登山口の案内のある里に出ると、前方にJR中央線、中央高速が現れる。トンネルから出た鉄道も高速も、ここからは西に迫る山塊を避け、沢筋を相模湖方面に向かって下る。

小仏峠への西からの登山口
登山口の案内のところから道は舗装道路となる。山道を下りたところで、舗装道路を南に行けばいいのか、北に行けばいいのかわからない。結局南へと歩いたのだが、甲州古道はこの道を北に進み、中央高速を越え、美女谷温泉方面へとのぼり、それから再び中央高速を越え、中央高速と並走するJR中央線との間を相模湖に向かって下るようであった。後の祭り。
美女谷温泉は陣場山からの下りで幾度か目にしていた。気になる名前ではある。名前の由来は美女伝説、から。この地は小栗判官に登場する絶世の美女・照手姫出生の地、であった、とか。
小栗判官の話は熊野散歩のときにr出合った。その照手姫が、この地に生まれたとのことであるが、例に寄って諸説あり、真偽のほど定かならず。それよりなりより、この話自体が伝説に過ぎない、とも。ともあれ、照手姫のお話のさわりをちょっとメモする。
相模・武蔵両国の守護代の館に姫が生まれる。照?手と名付けられた姫は美しく成長し、その美しさは、世間の評判。この噂を耳にしたのが常陸の国司、小栗判官。この地に赴き、強引に婿入りする。が、これに怒った照手姫の親により小栗判官は毒殺される。で、あれこれあって、照手姫は美濃の国の遊女宿で下働きに。また、小栗判官が閻魔大王の恩赦で地獄からよみがえる。物言わぬ餓鬼阿弥の醜い姿で遊女宿の前に現れる。熊野本宮の峰の湯に入れば元の体に戻ると言われ、?人の情けを受けながら熊野を目指す旅の途中であった。照手姫は夫とも知らず、小栗判官の乗った車を引いて近江まで進むが、宿との約束もあり、遊女宿に引き返す。小栗判官は熊野に着き,峰の湯温泉につかって元の小栗判?官に戻り、照手姫と再会。幸せに暮らしたとさ。

旧甲州街道を底沢に下る

中央高速の高架橋、そしてJR中央線に沿って南に下る。高速の高架橋が美しい。高速は山裾を縫って走る。ちょっとし沢など高い橋桁でひと跨ぎ。技術力のパワーを実感する。昔道は自然に抗わず、尾根を進み、沢に沿って下る。山塊の間の沢筋の道を数百メートル進むと、国道20号線と合流。この沢を流れる川筋は底沢川とも美女谷川、とも。

小原の里

国道を少し西に歩いたところに底沢バス停。バス停を見やり先に進む。少し進んだところに「小原の里」。この地、小原宿の案内所。気さくな職員の応接のもと、しばし休憩。一時のおしゃべりを楽しみ、近くにある小原宿の本陣を訪ねる。この本陣は神奈川に残る唯一のもの、とか。
本陣利用は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩のみ。それぞれ小さな藩である。江戸幕府の防御ラインが主として甲州街道に重点を置いており、ためにこの街道は大いに軍事街道の性格が強いように思えるのだが、そういったことも参勤交代の数が少ない事と関係があるのだろう、か。甲府城しかり、八王子千人同心しかり、また江戸においても四谷といった甲州街道筋には大番組(戦闘集団)を配置している。ちなみに大番組が住んでいたところ

が番町、である。素人解釈のため、真偽のほど定かならず。また、甲府城は危急の際の将軍家の退避城であった、とか。

中央線JR相模湖駅
そうそう、それと甲州街道を利用した公的往来としては、宇治のお茶を将軍に献上する「お茶壺道中」もあった、なあ
。宇治のお茶とは関係ないのだろが、このあたりの地名には京都ゆかりの地名が多い、なあ。相模川はこのあたりでは桂川と呼ばれるし、小原は京都の「大原」。そして、少し西にある与瀬も京都の「八瀬」からとの説もある。はたして、その由来は、などとあれこれ想像をふくらましながら一路JR相模湖駅に向かい、本日の予定終了。京都との関係、その真偽のほどはそのうちに調べてみよう。



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