本日のコース:京急線・金沢八景駅 > 上行寺 > 朝夷奈切通し > 熊野神社 > 峠・磨崖仏 > 十二所神社 > 浄明寺 > 報国寺 > 衣張山 > 巡礼古道 > 名越切通し > 八雲神社 > JR鎌倉駅
京急線・金沢八景下車
京急線・金沢八景下車。最初の目的地「朝比奈切り通し」の最寄りのバスは朝比奈バス停。バスもいいが、今回は歩くことに。国道16号線を六浦の交差点へ。交差点で右折し横浜・横須賀道路の朝比奈インター方面に。金沢の地名は秩父の金沢郷、から。源氏武士の華・畠山重忠一党が、現在の釜利谷のあたりに住まいした。重忠に従って来たものの中には鍛冶職人も多く、地名を「金沢」としたとのことである。釜利谷のある谷戸には、重忠ゆかりの地も多い。金沢八景は、江戸期、妙見台から眺めた景色が美しく、明の名勝地にちなんで名づけられた。
上行寺
道沿いに上行寺。日蓮上人ゆかりの寺。当時、この寺あたりが海岸線。元は真言宗・金勝寺。日蓮上人が千葉・下総と鎌倉を往復する際に、船中にて在地豪族と問答。結果、真言宗から日蓮宗に改宗。これが「船中問答」。六浦地区を越え、大道地区に。道脇に摩崖仏。往時、この「鼻欠け地蔵」の手前を右に入り、天園の尾根道から鎌倉に入る道があった。天園ハイキングコースを歩いていたとき、いかにも釜利谷方面に抜けるような道筋があったが、朝比奈の切り通しができるまでは、こういった尾根道を通って鎌倉に入っていたのだろう。
朝夷奈切通し
朝比奈バス停から、すこし進んだところに「朝夷奈切通し 200メートル」の掲示。朝比奈?朝夷奈?一夜のうちに峠を切り開いたとされる「朝夷奈」三郎義秀の名前を忠実に峠道に使っているのだろうか。真偽のほど不明。ともあれ、左折し朝夷奈切通しの横浜側のスタート地点に。由来書:鎌倉七切通しのひとつ。国指定史跡。執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。朝執権自ら監督、と。鎌倉の外港、下総などとの窓口・六浦との連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路としての位置づけであったのだろう。
峠道への入口には、お地蔵さまが迎えてくれる。野趣豊かな道を進む。すぐ、横浜・横須賀道路の下をくぐる。石が多く足場のよくない坂を登る。峠の手間に「熊野神社左」のサイン。朝夷奈切通しの工事の無事をいのって頼朝が熊野三社を勧請したと。熊野神社に向う。この道も朝夷奈切通しができるまでは鎌倉に通じる尾根道。谷へと下り、そして太 刀洗方面に至るルートがあるのだろう。神社まではそれほど遠くない。5分程度か。到着。
熊野神社
神社の階段スタート地点に鉄の進入禁止柵。なんのため?意味不明。階段を上りおまいり。先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり。
もっとも、この山吹の里って、散歩の途中であっただけでも数箇所ある。埼玉・越生、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということ、か。峠・磨崖仏、そしてお地蔵さま。
ともあれ、おまいりを済ませ、分岐へと戻る。峠を越えた下り道は水多し。湧き水だろうが、道を湿らす。足場よくない。途中、朝比奈切通しの由緒書が再び。そのあたりは、真に崖が切り取られている。磨崖仏も。結構な景観。道端にお地蔵さま。いい表情。更に坂を下り、出口、というか、鎌倉側の切通し入口に。水量の多い滝があった。三郎の滝。朝夷奈三郎から来たもの。平地を十二所方面に。太刀洗川に沿って歩く。梶原景時の太刀洗水があるとのことだが、見落とした。滑川と合流。すぐ先で朝比奈峠を越え鎌倉霊園から鎌倉に入る車道に出る。十二所は道の反対側。
十二所神社
十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。
そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。
浄明寺
稲荷小路、宇佐小路、明石地区と歩く。明石橋の交差点。左に坂を登れば、ハイランド住宅街。この道は逗子の駅前に抜ける近道としてよく利用した。道なりに直進。浄明寺地区に。道の北側に浄妙寺。浄明寺?浄妙寺?地区名と寺の名前が異なる。往古このあたりは浄妙村だった。が、江戸時代になり、浄妙寺中興の祖・足利貞氏の戒名が「浄妙寺殿」。畏れ多いということで、村の名前を浄「明」寺とした、と。で、この寺、鎌倉五山の第五位、結構あっさりとしたお寺さん。これといった印象に乏しい。境内の石窯ガーデンといった小洒落たカフェでお茶ができるのはいいかも。
報国寺
道の反対側に人が多い。報国寺への人波、か。臨済宗建長寺派の禅寺。足利貞氏(浄明寺中興の祖)の父・家時(尊氏の祖父)が開く。永享の乱のおり、幕府・関東管領軍に破れ、永安寺で自刃した鎌倉公方・足利持氏の長子・義久が自刃した寺でもある。悲劇の話はともかく、かやぶきの鐘楼などなんとなくいい感じ。拝観料を200円払う。何があるのか、と思ったが、孟宗竹の茂る庭園、やぐらを借景にした庭の拝観料といったところ。一周し寺をでる。
衣張山
山というか崖に沿って歩く。極力崖から離れないように歩いていると、「衣張山まで15分」といったしごく控えめな案内板。15分ならちょっと上り、戻ればいいか、と思ったのが、鎌倉散歩の中でも最高の眺めを楽しめることになる、衣張山へのプレリュード。
衣張山に向かって登る。結構きつい登り。15分? そんなはずはない。結構登る。森は深い。どこまで続くのか、と少々の後悔をしながら登る。山が開ける。尾根近くに。展望コースという掲示。
ハイランド住宅地方面が一望。途中、石切り場跡地。中に入るも少々気味悪く、すぐ退散。すぐに上り道。頂上。ここからの眺め、本当に素晴らしい。鎌倉の街並み、山々、相模湾、すべて一望のもと。天園ハイキングコースの峠の茶屋からの眺め以上、か。
衣張山の名前は、北条政子が、夏の暑い日にこの山を白い絹布でカバーし、冬山に見立て涼をとったという話に由来する。こんな大層な話はともかく、確か北条一族は、三浦半島地区に勢力をもつ三浦一族にそなえるため、名越地区に館をかまえていたはず。この山の近くの釈迦堂の切り通し付近という説、海より光明寺近く、弁ケ谷近くといった説もある。が、 ともあれ、このあたりが北条一族の本拠地。政子の話もこの地区における北条一族の力の象徴と意味合いとすれば納得。
巡礼古道
名残惜しくはある。が、頂上にあるお地蔵さんのお顔を心に留めながら下山。上りとは逆方向の下り道へ。結構長い。下っていたと思ったら、また登る。本当に大丈夫か、と不安になったころ麓、というか住宅地に。ハイランド住宅地区の一部だろうから、正確には未だ山の上のハズ。
掲示で、「左 巡礼古道5分、報国寺20分」「右 名越切り通し15分」。巡礼古道の名前に惹かれ、左に進む。5分行って、すぐ戻り、名越切通しへ、と決めた。左に進む。広い芝生の公園。遊歩道を進む。
住宅地の道路に出る。左手、山道方向に「巡礼古道」のサイン。報国寺まで15分と。最初は入口の雰囲気だけ、と思っていたのだが、やはり巡礼、しかも古道、これは歩くにしかず、ということで予定変更、報国寺まで歩く。
巡礼古道。かつて鎌倉ニ街道・杉本寺のあたりから逗子駅近くの岩殿寺にかけて巡礼の道があった。頼朝は岩殿寺の観音様を守り本尊しており、毎月18日の観音様の縁日には、必ず月詣にこの巡礼道を辿ったと「吾妻鏡」 は伝えている。現在ではハイランド住宅地の開発により、大半が潰え去ったが、一部、報国寺裏手から崖線に沿ってハイランド住宅地の瑞まで残っているってことのようだ。 崖道は誠に、いい感じ。道の途中に庚申塚、石仏・金剛窟地蔵尊も。森は深い。谷も深い。衣張山頂から、大して下りていなかったということだ。下り道。足を踏み外せば谷底に、といった急峻な道。道が開け、住宅街、報国寺の屋根が見下ろせるあたりまで下る。
名越切通し
もとの分岐に戻り、名越切り通しへ。このとき、名越切り通し、って舗装道路、幹線道路って勝手に決めていた。後になってわかったのだが、これって大間違い。極楽坂の切り通しと混同していたよう。ハイランド住宅地の外周部、 崖に沿って散歩道を進む。子ども自然ふれあいの森を越えたあたりから山道へ。結構進む。尾根道近く一軒の住宅が見えた。その家の裏、狭い道を進む。野趣豊か。どこまで続く?麓は未だか?不安になりはじめたころ、少し大きな道と合流。名越の切り通しの案内。
尾根道から名越の切り通しへの合流地点はごつごつした岩場。左に行けば逗子。右に行けば鎌倉市内に戻る。切り通しを越えて逗子に至る山道は往古、鎌倉を東西に走る二本の幹線道路のひとつ。相模と千葉・房総を結んでいた。名越の切り通しの道は、海側東西道。旧東海道である。ちなみにもうひとつの東西道は、朝比奈切通しから六浦に抜ける山側東西道、である。
右方向に進む。下り道。いい感じの道。すこし歩くと道が開き眼下に横須賀線が。足元はトンネル。横須賀線にそって崖道を下る。大町5丁目。 降りきったところで踏み切りを左に。少し歩き、交通量の多い道に当たり、道なりに踏み切りを右に渡る。鎌倉駅まで1キロ弱、といったところ。
八雲神社
駅への途中、八雲神社。仕上げも兼ねお参り。鎌倉最古の厄除け神社。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が疫病退散を祈願し京都祇園の八坂神社を勧請したもの。社殿裏から祇園ハイキングコースのサイン。道なりに歩き、鎌倉駅に到着。
京急線・金沢八景下車
京急線・金沢八景下車。最初の目的地「朝比奈切り通し」の最寄りのバスは朝比奈バス停。バスもいいが、今回は歩くことに。国道16号線を六浦の交差点へ。交差点で右折し横浜・横須賀道路の朝比奈インター方面に。金沢の地名は秩父の金沢郷、から。源氏武士の華・畠山重忠一党が、現在の釜利谷のあたりに住まいした。重忠に従って来たものの中には鍛冶職人も多く、地名を「金沢」としたとのことである。釜利谷のある谷戸には、重忠ゆかりの地も多い。金沢八景は、江戸期、妙見台から眺めた景色が美しく、明の名勝地にちなんで名づけられた。
上行寺
道沿いに上行寺。日蓮上人ゆかりの寺。当時、この寺あたりが海岸線。元は真言宗・金勝寺。日蓮上人が千葉・下総と鎌倉を往復する際に、船中にて在地豪族と問答。結果、真言宗から日蓮宗に改宗。これが「船中問答」。六浦地区を越え、大道地区に。道脇に摩崖仏。往時、この「鼻欠け地蔵」の手前を右に入り、天園の尾根道から鎌倉に入る道があった。天園ハイキングコースを歩いていたとき、いかにも釜利谷方面に抜けるような道筋があったが、朝比奈の切り通しができるまでは、こういった尾根道を通って鎌倉に入っていたのだろう。
朝夷奈切通し
朝比奈バス停から、すこし進んだところに「朝夷奈切通し 200メートル」の掲示。朝比奈?朝夷奈?一夜のうちに峠を切り開いたとされる「朝夷奈」三郎義秀の名前を忠実に峠道に使っているのだろうか。真偽のほど不明。ともあれ、左折し朝夷奈切通しの横浜側のスタート地点に。由来書:鎌倉七切通しのひとつ。国指定史跡。執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。朝執権自ら監督、と。鎌倉の外港、下総などとの窓口・六浦との連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路としての位置づけであったのだろう。
峠道への入口には、お地蔵さまが迎えてくれる。野趣豊かな道を進む。すぐ、横浜・横須賀道路の下をくぐる。石が多く足場のよくない坂を登る。峠の手間に「熊野神社左」のサイン。朝夷奈切通しの工事の無事をいのって頼朝が熊野三社を勧請したと。熊野神社に向う。この道も朝夷奈切通しができるまでは鎌倉に通じる尾根道。谷へと下り、そして太 刀洗方面に至るルートがあるのだろう。神社まではそれほど遠くない。5分程度か。到着。
photo by jmsmytaste
熊野神社
神社の階段スタート地点に鉄の進入禁止柵。なんのため?意味不明。階段を上りおまいり。先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり。
もっとも、この山吹の里って、散歩の途中であっただけでも数箇所ある。埼玉・越生、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということ、か。峠・磨崖仏、そしてお地蔵さま。
ともあれ、おまいりを済ませ、分岐へと戻る。峠を越えた下り道は水多し。湧き水だろうが、道を湿らす。足場よくない。途中、朝比奈切通しの由緒書が再び。そのあたりは、真に崖が切り取られている。磨崖仏も。結構な景観。道端にお地蔵さま。いい表情。更に坂を下り、出口、というか、鎌倉側の切通し入口に。水量の多い滝があった。三郎の滝。朝夷奈三郎から来たもの。平地を十二所方面に。太刀洗川に沿って歩く。梶原景時の太刀洗水があるとのことだが、見落とした。滑川と合流。すぐ先で朝比奈峠を越え鎌倉霊園から鎌倉に入る車道に出る。十二所は道の反対側。
十二所神社
十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。
そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。
浄明寺
稲荷小路、宇佐小路、明石地区と歩く。明石橋の交差点。左に坂を登れば、ハイランド住宅街。この道は逗子の駅前に抜ける近道としてよく利用した。道なりに直進。浄明寺地区に。道の北側に浄妙寺。浄明寺?浄妙寺?地区名と寺の名前が異なる。往古このあたりは浄妙村だった。が、江戸時代になり、浄妙寺中興の祖・足利貞氏の戒名が「浄妙寺殿」。畏れ多いということで、村の名前を浄「明」寺とした、と。で、この寺、鎌倉五山の第五位、結構あっさりとしたお寺さん。これといった印象に乏しい。境内の石窯ガーデンといった小洒落たカフェでお茶ができるのはいいかも。
報国寺
道の反対側に人が多い。報国寺への人波、か。臨済宗建長寺派の禅寺。足利貞氏(浄明寺中興の祖)の父・家時(尊氏の祖父)が開く。永享の乱のおり、幕府・関東管領軍に破れ、永安寺で自刃した鎌倉公方・足利持氏の長子・義久が自刃した寺でもある。悲劇の話はともかく、かやぶきの鐘楼などなんとなくいい感じ。拝観料を200円払う。何があるのか、と思ったが、孟宗竹の茂る庭園、やぐらを借景にした庭の拝観料といったところ。一周し寺をでる。
photo by compose-r.net
衣張山
山というか崖に沿って歩く。極力崖から離れないように歩いていると、「衣張山まで15分」といったしごく控えめな案内板。15分ならちょっと上り、戻ればいいか、と思ったのが、鎌倉散歩の中でも最高の眺めを楽しめることになる、衣張山へのプレリュード。
衣張山に向かって登る。結構きつい登り。15分? そんなはずはない。結構登る。森は深い。どこまで続くのか、と少々の後悔をしながら登る。山が開ける。尾根近くに。展望コースという掲示。
ハイランド住宅地方面が一望。途中、石切り場跡地。中に入るも少々気味悪く、すぐ退散。すぐに上り道。頂上。ここからの眺め、本当に素晴らしい。鎌倉の街並み、山々、相模湾、すべて一望のもと。天園ハイキングコースの峠の茶屋からの眺め以上、か。
衣張山の名前は、北条政子が、夏の暑い日にこの山を白い絹布でカバーし、冬山に見立て涼をとったという話に由来する。こんな大層な話はともかく、確か北条一族は、三浦半島地区に勢力をもつ三浦一族にそなえるため、名越地区に館をかまえていたはず。この山の近くの釈迦堂の切り通し付近という説、海より光明寺近く、弁ケ谷近くといった説もある。が、 ともあれ、このあたりが北条一族の本拠地。政子の話もこの地区における北条一族の力の象徴と意味合いとすれば納得。
巡礼古道
名残惜しくはある。が、頂上にあるお地蔵さんのお顔を心に留めながら下山。上りとは逆方向の下り道へ。結構長い。下っていたと思ったら、また登る。本当に大丈夫か、と不安になったころ麓、というか住宅地に。ハイランド住宅地区の一部だろうから、正確には未だ山の上のハズ。
掲示で、「左 巡礼古道5分、報国寺20分」「右 名越切り通し15分」。巡礼古道の名前に惹かれ、左に進む。5分行って、すぐ戻り、名越切通しへ、と決めた。左に進む。広い芝生の公園。遊歩道を進む。
住宅地の道路に出る。左手、山道方向に「巡礼古道」のサイン。報国寺まで15分と。最初は入口の雰囲気だけ、と思っていたのだが、やはり巡礼、しかも古道、これは歩くにしかず、ということで予定変更、報国寺まで歩く。
巡礼古道。かつて鎌倉ニ街道・杉本寺のあたりから逗子駅近くの岩殿寺にかけて巡礼の道があった。頼朝は岩殿寺の観音様を守り本尊しており、毎月18日の観音様の縁日には、必ず月詣にこの巡礼道を辿ったと「吾妻鏡」 は伝えている。現在ではハイランド住宅地の開発により、大半が潰え去ったが、一部、報国寺裏手から崖線に沿ってハイランド住宅地の瑞まで残っているってことのようだ。 崖道は誠に、いい感じ。道の途中に庚申塚、石仏・金剛窟地蔵尊も。森は深い。谷も深い。衣張山頂から、大して下りていなかったということだ。下り道。足を踏み外せば谷底に、といった急峻な道。道が開け、住宅街、報国寺の屋根が見下ろせるあたりまで下る。
名越切通し
もとの分岐に戻り、名越切り通しへ。このとき、名越切り通し、って舗装道路、幹線道路って勝手に決めていた。後になってわかったのだが、これって大間違い。極楽坂の切り通しと混同していたよう。ハイランド住宅地の外周部、 崖に沿って散歩道を進む。子ども自然ふれあいの森を越えたあたりから山道へ。結構進む。尾根道近く一軒の住宅が見えた。その家の裏、狭い道を進む。野趣豊か。どこまで続く?麓は未だか?不安になりはじめたころ、少し大きな道と合流。名越の切り通しの案内。
尾根道から名越の切り通しへの合流地点はごつごつした岩場。左に行けば逗子。右に行けば鎌倉市内に戻る。切り通しを越えて逗子に至る山道は往古、鎌倉を東西に走る二本の幹線道路のひとつ。相模と千葉・房総を結んでいた。名越の切り通しの道は、海側東西道。旧東海道である。ちなみにもうひとつの東西道は、朝比奈切通しから六浦に抜ける山側東西道、である。
右方向に進む。下り道。いい感じの道。すこし歩くと道が開き眼下に横須賀線が。足元はトンネル。横須賀線にそって崖道を下る。大町5丁目。 降りきったところで踏み切りを左に。少し歩き、交通量の多い道に当たり、道なりに踏み切りを右に渡る。鎌倉駅まで1キロ弱、といったところ。
八雲神社
駅への途中、八雲神社。仕上げも兼ねお参り。鎌倉最古の厄除け神社。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が疫病退散を祈願し京都祇園の八坂神社を勧請したもの。社殿裏から祇園ハイキングコースのサイン。道なりに歩き、鎌倉駅に到着。
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