水曜日, 7月 14, 2010

利根運河散歩 そのⅡ;利根運河の南北に広がる谷津を辿る


利根運河を散歩したとき、その南北に広がる谷津の景観や、流山へと下る今上落し(農業用水路)の流れが気になり、それではと流山からはじめ、利根運河周辺の谷津を南から北に辿り、谷津の景観を楽しみながら野田へと進もうと思い立った。その散歩の第一回は予定とは大きく異なり、流山に「捉まり」、結局は流山旧市街から先に進むことができなかった。今回は、流山の旧市街を離れ、利根運河の南北に広がる谷津を辿ることにする。スタート地点を探すに、東武野田線の江戸川台駅あたりから散歩をはじめれば、谷津へのアプローチが至便のよう。つい最近までは、まったくの不案内であった流山へのアプローチではあるが、今ではもう勝手知ったる、といった案配。秋葉原から、つくばエクスプレスで流山おおたかの森駅、そこから東武野田線に乗り換えて一路江戸川台駅に

本日のルート;東武野田線・江戸川台>野馬除土手>稲荷神社>香取神社>大青田の森と谷津>東深井古墳群>利根運河>円福寺>妙見神社>国道16号・柏大橋>普門寺>大杉神社>三ヶ尾の谷津>江川排水路>水堰橋>三峯神社>姫宮神社>つくばエクスプレス・柏田中駅

東武野田線・江戸川台駅
駅前には住宅街が広がる。広い野と森が点在する、といった景観を想像していたのだが、予想とは大いに異なる街並がそこにあった。江戸川台駅周辺は、1960年代に千葉県住宅協会によって大規模宅地開発が始まった。開発がはじまる前は、「狐の野」、「兎の村」などと呼ばれ、現在の江戸川台駅の西に農家が一軒だけ、という樹林地帯であったようである。江戸川台駅が開業したのも、宅地分譲が開始された昭和33年(1958)、と言う。
Google mapの航空写真を見るに、整然と区画整理された戸建て住宅が江戸川台駅南の初石から江戸川台駅の北まで広がる。特に江戸川台の東は、こうのす台やみどり台、そして大青田谷津に近い東深井のほうまで戸建住宅が広がっている。当初想い描いていた谷津の景観、その緑が駅近くから運河まで続く、といったイメージは早々に修正しなければならなくなった。

野馬除土手
駅の近くにどこか見処はと案内板を探す。と、駅のすぐ近くに野馬除土手と江戸川稲荷神社の案内。此の地で野馬除土手に再び出合えるとは思ってもいなかったので、偶然の賜を感謝しながら、まずは野馬除土手に。駅の東口を成り行きで進むと流山市江戸川台浄水場。深井戸と江戸川から取水・浄水された水を供給する。野馬除土手は浄水場のすぐ南、整備された緑地帯(江戸川台四号緑地)の中にあった。
野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。野馬除土手にはじめて出合ったのは南柏駅の近く、日光街道の北にある豊四季第一緑地の中である。そこで見た土手は外側の大土手と内側の小土手からなる二重土塁構造。大土手側は底からの比高差3m弱もあったろう、か。戯れにV字の底から土手を越えんと駆け上がるも、頃は秋、落ち葉に足をすくわれ、とてもではないが、一気に土手を越えることはできなかった。馬もこの土塁を越えるのは結構大変ではあろう。
それに比べこの地の土手はひと筋の土手で、高さも1m強、といったもの。昔は、土手の前には掘がつくられ、それなりの比高差があったのだろうが、馬なら簡単に飛び越せるように思える。一説には掘に木の柵が建てられ、馬の進入を防いだ、とも言う。
土手のサイズは幕府が牧をつくり始めた頃が大きく、時代が下って、江戸の亨保・寛政の頃、新田開発奨励に伴って、牧の中に開かれた新田、というか林畑の作物被害を防ぐ目的でつくられた土手は小さいものとなっていたようである。

野田市立図書館・電子資料室のHP、また『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房)』などを参考に小金牧や野場除土手についてまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて(野田、流山、柏、松戸、鎌ヶ谷、船橋、習志野、八千代、千葉、臼井、印西)点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。
徳川幕府は、慶長9年(1604)頃、綿貫氏を野馬奉行兼牧士支配役とし馬牧の経営や軍馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」である。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)である。
下野牧は京成本線・八千代台の南、新川を南端にした現在の陸上自衛隊習志野演習場から北に、おおよそ新京成本線に沿って木下街道あたりまでの船橋市域。中野牧は、新京成線と東武野田線の交差するあたりから北上する東武野田線の西側の鎌ヶ谷市から松戸市域。水戸街道・常磐線のラインが北端のようでもある。
上野牧は柏から野田市の境となる利根運河までの東武野田線の東西に広がる市域。高田台牧は上野牧の一筋東の柏市域。庄内牧は利根運河北、東武野田線の東の谷津と、すこし離れ東武野田線が江戸川を渡るために北への路線を西に変える一帯。印西牧は手賀沼の南の臼井市域である。江戸川台のこのあたりは、上野牧ということであろう。
牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。
慶長の頃はじまった幕府の牧経営も、八代将軍吉宗による亨保の改革(18世紀前半)にともない状況に変化が現れる。幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。牧支配も綿貫氏に加え、野方代官として小宮山杢之進が金ヶ作(中野牧;現在の松戸市。新京成線常盤台駅北)に陣屋を構え、従来綿貫氏が支配していた小金牧を南北に分け、南は小宮山氏(中野牧と下野牧)、北(高田台牧、上野牧、印西牧)を綿貫氏が支配することになる。
新田開発の結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくった、とのこと。
寛政の改革の頃(18世紀後半)、新田開発の責任者でもあった御小納戸頭取・岩本石見守は愛宕神社の他にも、野田の船形の香取神社、流山の大青田の円福寺、長崎の天形星神社にも「岩見大権現」とか「岩本大明神」などとして顕彰碑や祠が建つ、と言う。
小金牧で飼育した馬の数は、初期は400匹(疋)、中期は1000匹、後期は1500匹、幕末は1800匹ほどであった、と言う(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房))』)。馬や牛の数え方は「頭」と思っていたのだが、「匹」が正しいようだ。匹はもともと、一対の意味。牛馬の後ろから追うときに、牛馬の左右のお尻が一対に見えるから、とか。
ちなみに、村々の被害は馬だけではなかったようである。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあったよう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。数字は開墾された次期の順をも示している。13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、いつだったか、会社の同僚と平将門の営所のあった石井、現在の板東市に出かけたことがある。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだが、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。
実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしてもその姿を想像するのは難しいが、利根運河周辺の谷津は牧の一部であったとのこと。今回の散歩も、当初予定である谷津の景観を楽しむだけでなく、往昔の牧の景観の一端に触れる楽しみもできたようである。

江戸川台稲荷

野馬除土手を離れ、浄水場に沿って北に進み駅前から東に向かう通りの江戸川台東1丁目交差点に。交差点を右に折れ先に進むと、道脇に江戸川稲荷神社があった。社殿はトタン葺切妻造りの覆屋の中にこじんまりとした木の祠が祀られる。お稲荷さまではあまりみかけない造りでもあり、なんとなく惹かれる。11の朱塗りの明神造りの鳥居や唇・耳・爪に赤い化粧のほどこされた狐も面白い。御神木は松とのことである。
このお稲荷さまは江戸の頃、もとは江戸川台駅の西、流山の中野久木の中野久木貝塚の近くに住んだ鈴木家が祀った、と伝わる。後に平七稲荷大明神と呼ばれ信仰を集めた、とのことだが、江戸川台のあたりって、昭和になって宅地開発が開始される時でも、農家一軒だけの林野であった、と言う。鈴木家とは、その一軒だけあった農家であろう、か。また、平七稲荷大明神って、その由来はなんだろう。日本三大稲荷のひとつである豊川稲荷は平八郎稲荷とも呼ばれ、平八狐の話も残る。平七と平八、なんとなく関係あるのだろうか、などなど妄想が広がってゆくが、このあたりで止めておこう。なお、この地に移ったのは、昭和になってから。江戸川台の東地域に住宅を建てた住民によってこの地に祀られることになった、とか。

香取神社
駅前を東に進む通りを江戸川台東交差点を越え、みどり台と青田の境の道を進むと、常磐道の少し手前に香取神社。荒川流域より西は氷川神社、江戸川・利根川流域より東は香取神社、その間の元荒川流域には久伊豆神社とその祭祀圏がくっきりと分かれると言われるが、誠に今回の流山からの散歩では香取の社に出合うことが多い。
境内に入ると社殿は瓦葺入母屋造。趣があってなかなか、いい。この社は江戸の中頃に開発された青田新田の産土神。荒廃した社殿は昭和になって再建された、とか。境内には庚申塔、青面金剛石像などの石像群とともに「手児奈塔があった。これも、こんなところで「手児奈塔」に出合えるとは思ってもみなかったので、偶然の賜に再び感謝。成り行き任せの散歩の妙。

『万葉集』に詠われた娘子・手児奈に最初に出合ったのは市川市真間の手児奈霊堂。手古奈って、絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。そのロジックはいまひとつ理解できないが、ともあれ、万葉の頃から真間の手児奈のことは知られていたようで、『万葉集』の中で、山部赤人が「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」、「葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ゆ」、と詠う。「ここが葛飾の真間の手墓所。手児名ことは忘れることはないだろう」、「入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される、といった意味だろう。
ところで、「手児奈」であるが、東国では娘子のことを、「手児」とか「児奈」と呼ばれる。「手児奈」は、神格化し「別格」な娘子とすべく、万葉の歌人がつくった造語(「手児」+「児奈)との説もある(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。それはともあれ、伝説の娘子が安産・子育ての神となり、人々の信仰の対象となったのは19世紀前半分、江戸の文化・文政から天保時代の頃から、と言う。真間=崖の上にある日蓮宗の名刹・真間山弘法寺が、文政7年(1824)、ささやかな祠であった手児奈霊堂を再建し、安産子育てのお札を発行し、広く信仰を集めるように努めた、と言う(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。

江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵(宝暦10年1760~天保12年1841)が75歳の時というから、天保6年に真間を辿った記事がある。それによると、「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし(『江戸近郊ウォーク;小学館』より)」とある。
手児奈霊堂が再建される前後の様子が伺えて誠におもしろい。伝説の真間の手児奈が立派な霊堂となり安産・子育ての神様になってしまったのを嘆いているようでもある。少々メモがながくなったが、かくのごときプロセスを経て安産子育ての神として、此の地の香取の社に祀られているのではあろう。

大青田の谷津

香取神社を離れ、みどり台を成り行きで進み、大青田の湿地へと向かう。住宅街を成り行きで進むと前方に林が見えてきた。住宅街と林の境を辿り、林の中へと入る道筋に入る。鬱蒼とした林、と言うか森を進みながら、駅から辿った道筋も昭和の中頃までかくの如き森であったのか、少々の感慨を抱く。
森の中をゆったりと500m強歩くと前方が開け、大青田の湿地帯に出る。大青田の湿地帯は小金牧のひとつ、高田台牧の北端あたりではあるが、江戸の頃には新田開発が行われたため、牧は常磐道の南の伊勢原から十余二あたりとなっていたようである。牧には300匹ほどの馬が放牧されていた、とか。
大青田の湿地帯の畦道を進む。元々の湿地なのか、休耕田になった故に結果なのか定かではないが、湿地に葦が生い茂る。台地を開析してできた大青田の谷津には、湧水や小川が流れ込んでできた、如何にも自然の湿地といったところも目に入る。なかなか、いい。
谷津の谷を開いた田圃・谷津田の畦道を進む。畦道の分岐点で、右に向かえば葦の茂る湿地から谷津に開かれた畑地へとのぼり、左に折れれば、再び森に入り、その先に東深井古墳群がある。はてさて、右か左か少々迷うも、古墳群という言葉に惹かれ、左に折れることに。

東深井古墳群
左に折れ再び森に入り、そしてその森を抜けると一転、住宅街が広がる。利根運河の手前まで宅地開発が広がっていた。住宅街を西に進み、森を目安に成り行きで進み東深井古墳群に。森に入ると緑の平地があり低い柵で囲われており、8号墳とある。案内がなければなんだかわからない。先に進むと9号・前方後円墳、10号墳などとある。これも、一見するに単なるブッシュといったもの。成り行きで進むと東深井古墳群についての案内があった。
『東深井古墳群について ;東深井古墳群が作られたのは、古墳と埴輪の研究により六世紀から七世紀の初め頃と考えられています。古墳時代の人々は、一族の首長や権力のあった人が死ぬと、多くの時間と労力を費して古墳を築きました。古墳は、死者への敬意と悲しみを表現した重要な遺跡です。
古墳には、粘土で人・動物・家・武器などを形どった焼物がみられ、これを埴輪といいます。埴輪は、死者の供物として、また古墳を飾るために墳丘上や墳丘を囲むように立てられました。東深井古墳群では、発掘を行ったほとんどの古墳から見つかっています。なかでも七号墳からは珍しい魚とニワトリの埴輪が、また九号墳からは人物の埴輪が発見されました。このような埴輪の他に、円筒形の埴輪もあります。円筒形の埴輪は、墳丘の廻りに数多く立てられ、古墳が特別の場所であることを表したと考えられています(以下略)」、とあった。
案内板の横に古墳群の分布図がある。公園内には7号から18号古墳までがある。1号から6号古墳は古墳の森の南にある汚泥再生処理センターの敷地内にあるようだ。7号から18号まで成り行きで辿る。見落としもあったろうが、取り敢えず古墳群を一回りし、7号墳から最初に見た8号墳に戻る。
古墳といえば、埼玉・行田市のさきたま古墳群や、千葉でも印旛沼の北にある房総風土記の丘古墳群で規模の大きな古墳を見たわけだが、この地の古墳はいかにも小振り。前方公後円墳とされる9号墳にしても、後円部の径13.5m、高さ1.5m、前方部の最大幅は4.9m、墳丘の全長は20.8m。このようなささやかなる古墳もなんとなく、いい。

利根運河
東深井古墳群の森の東端に水路が見える。汚泥再生処理センターの入口付近の湧水を水源に利根運河へと注ぐ諏訪下川、とのこと。水路に沿って時に湿地に足を踏み入れたりしながら、利根運河の堤に出る。利根運河のあれこれは、先日歩いた記事に譲る。

円福寺
利根運河の堤を国道16号に向かって東に進む。国道16号に架かる柏大橋の手前で、右に入る道を成り行きで進み妙見山円福寺に。境内に入る手前に十九夜講の如意輪観音や馬頭観音、青面金剛像合掌型の庚申塔といった石塔が並ぶ。境内に入ると、左手に祠。真言宗のこのお寺様は下総三十三番札所の三十一番札所とのこと。
本堂にお参りし、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「石見大権現」の石塔を探す。と、境内を入った右手にこぶりな三つの石塔がある。近くに寄って眺めるに、右端の石塔に「石見大権現」とあった。右脇には寛政十年と刻んである。

上の野馬除土手のところでメモしたように、岩見石見守は幕府財政の疲弊を改革すべく行われた寛政の改革時、寛政5年(1793)に小金・峯岡・佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、新田開発につとめ、同時に、野馬による耕作物被害を防ぐことに尽力した。新田開発も農民の要請に応えて「野馬入新田」と呼ばれる野馬と農民が「共生」する施策も認め、その善政故に「大権現」などと家康並みの称号で祀られている。
流山の長崎にある天形星神社の境内に「岩本大明神」を祀る社殿があったが、それに比べると小振りな石塔のみである。もとは大青田の別の地に祀られていたものを、この地に移したとのことであるので、その過程で社殿が無くなったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。妄想ついでに、岩本石見守の長姉は11代将軍である家斉の生母とのことであり、将軍の叔父として家斉の信任篤く、故に大明神とか大権現といった称号が許されたのだろう、か。

妙見神社
円福寺の隣、国道16号脇に妙見神社。神仏習合の頃は、妙見山円福寺が、この妙見の社の別当寺であった。創建は元禄9年の頃。境内には青面金剛像合掌型など11の庚申塔が並ぶ。
妙見様とは北斗七星を神としたもの。大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮宗関連の寺院に妙見さんが目につくが、もともとは空海の真言宗からはじまったものである。
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていったのであろう。経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を讃えているのも人々に受け入れられた要因ではあろう。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、多種多様である。現在のお札の原型とされる護符も民間への普及には「わかりやすい」信仰モデルであった、とか。

下三ヶ尾の谷津
利根運河に架かる国道16号・柏大橋を渡り、橋を少し北に過ぎたあたりで最初の信号を右に入り台地を下り下三ヶ尾の谷津に入る。谷津の入口あたりでは湿地帯は休耕田となっているようで、少々荒れており、埋め返しの残土など、少々無粋な光景も見受けられる。それでも、道ばたに僅かに残る湿地や湧水や、湿地の水を集め谷津の中央を流れる水路のあたりでは、谷津の景観を楽しめる。眼を細め、利根運河が開削される前、この辺り一帯に広がっていたであろう三ヶ尾沼を想う。
下三ヶ尾や西三ヶ尾の谷津は小金牧の中の庄内牧のあったところ。庄内牧はこの地と、北の方の二カ所に別れていたようではあるが、新田開発により18世紀後半の寛政年間にはすべて消滅していたようである。三ヶ尾の名前の由来は不詳。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

普門寺

谷津を進み、台地に上り畑地を北に折れる道を進み普門寺に。開創は寛永元年(1624)。落ち着いた雰囲気のお寺様である。本尊の「涅槃図」は天文6年(1537)の作と言う。毎年2月11日に一般公開しているとのことである。
境内の左手には閻魔堂があり、承応元年(1652)に造られた寄木造りの座像を祀る。散歩の折々に閻魔様に出合うことも多い。印象に残るのは所沢を東川に沿って歩いた時に出合った長栄寺の閻魔様。関東随一の大きさとのことであった。あとは、文京句・小石川の「こんにゃく閻魔」も名前に惹かれる。
閻魔さまって、もとはインドのサンスクリット語「ヤーマ」の音訳。地獄の王である。それが中国に伝わり、道教における冥界・泰山地獄の王である泰山府君とともに、冥界の王とされ、十人の冥界の王のひとりとして、冥土で亡者の罪を裁くと信じられるようになった。十王信仰である。閻魔様が道教の修行者の服である道服を着ているのは、こういった事情ではあろう。
その閻魔様、地獄の大王である閻魔大王が日本に伝わると、閻魔天と呼ばれ、仏法を守り、人々の延命を助ける神様の色彩が強くなる。日本では閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされる。亡者を裁く裁判で被告を弁護するのが地蔵菩薩であり、判決を下すのが閻魔大王であるが、その閻魔大王が地蔵菩薩の化身とであれば、弁護人と裁判官が同一人物と言うことであり、閻魔様=地蔵様を熱心に信仰するのは「合理的」ではあろう、か。閻魔信仰が日本に伝わったのは平安末期であり、鎌倉期に盛んになった。この野田の地には17世紀中頃には、十王信仰が普及していたようである。

大杉神社

普門寺を離れ、台地を成り行きで進むと道脇にささやかな祠。境内も何もないが大杉神社とある。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この社はどのような由来があるのだろう、か。不明である。

三ヶ尾の谷津
大杉神社脇の小径を進み、成り行きで東へと向かい森を抜け、台地を下り、千葉商大野田総合グランドの北を抜け、三ヶ尾の谷津に向かう。低地の中程を江川排水路が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。
東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
江川排水路に沿って新江川排水機場まで進み、調整池脇を東に折れ、江川排水機場前を越えて利根運河の土手に戻る。

三峯神社・田中藩飛び領地代官所跡
堤を水堰橋まで戻り、先回の利根運河散歩で見逃した、橋近くにあるという農業用水の樋管を探す。煉瓦造りということですぐに見つかるかと思ったのだが、あちこち彷徨うも、結局見つからず、これも先回の散歩で見落とした田中藩の代官所に向かう。




北部クリーンセンター脇の道を、成り行きで進み先回訪れた医王寺を越え、三峯神社を目指す。台地を下り、田中調整池(地)への坂の途中小さな鳥居とこれまた小径のようなコンクリートの参道が坂道から小丘に向かう。参道を登り切ったところに三峯神社があった。
ささやかな石の祠。結構新しい。祠のそばにある記念碑を読むと、無病息災を祈り秩父郡大滝村の三峯神社を信仰し社を建てた。また講中を組織し、昭和28年までは秩父まで代参していた、と。その後荒廃したが、平成11年旧社を取り除き再建したとのことである。




三峯神社前の坂を少し下ったところに朱に塗られた木造の建物がある。少々古びたこの建物は不動堂。不動堂脇の案内によれば、田中藩飛び領地代官屋敷はこの不動堂の向かいにあった、とか。
田中藩は本多正重にはじまる。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。
田中藩の飛地領は流山市域にあった30余りの村のうち14を占めたとのこと。この船戸の代官所は飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心(東武野田線逆井駅の東)にあった、とのことである。なお、その他の村は大名領、旗本領、幕府直轄地が混在し、「碁石混じり」とも称された。
明治維新、下総の領地が上地となるとき、村民はこぞって留任を嘆願。願はかなわなかったが、小村合併の時、本多公の封地であった田中藩の名前を村名とした。田中調整池とか、柏たなか駅が残る所以である。

田中調整池
代官屋敷跡を離れ、田中調整池の周囲堤に沿って南に下る。先には常磐自動車道、堤下には田中調整池(地)と呼ばれる1175ヘクタールにおよぶ広大な農地が広がる。先回の散歩の時に訪れた船戸天満宮にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。
この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

姫宮神社
田中調整池周囲堤を進み、常磐道の下をくぐると、堤のすぐそばの台地に緑の一隅が眼に入る。地図で確認すると姫宮神社とある。名前に惹かれて境内に。神社の由緒などは不詳であるが、室町の頃にはこの辺りに集落があったとのことであり、創建はその頃、かと。
境内の案内によると、この社はお姫宮様として親しまれる小青田の鎮守さまであった、とか。小青田とは、なりたエクスプレス柏たなか駅周辺の地名である。神社が新しいのは、常磐鉄道新線(なりたエクスプレス)の施設に伴い、駒木の諏訪神社より隣地を寄進され、従来の境内と合わせて平成9年に鎮守の森として整備されたため。
駒木の諏訪神社とは「お諏訪様」として知られる社である。お諏訪様へのお参りの道として、諏訪道が残るくらいの由緒ある社であり、そこには姫宮神社が祀られ、その御祭神は八坂刀売神。諏訪大神の妃神である。諏訪神社の境内はその昔、現在よりずっと広く、西は諏訪神社、東は姫宮神社の境内であった、という。姫宮と言う地名の字名もあったようであり、また、此の地の姫宮神社は駒木の諏訪神社の兼務社と言うことでもあるので、諏訪神社およびその姫宮神社との関わりのある社ではなかったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
本日の散歩もこれでお終い。つくばエクスプレス・柏田中駅に向かい、一路家路へと。

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