火曜日, 7月 20, 2010

利根運河散歩そのⅢ;小金牧の名残りを辿る


利根運河散歩をきっかけにはじまった流山から野田へと北に辿る散歩も、流山旧市街、そして利根運河の谷津と、二度の散歩になってしまった。基本成りゆき任せの散歩のため、散歩のメモの段となって、はじめて見逃しに気がつくことが多いのだが、今回は特に小金牧に関連した人物や事跡で取りこぼしが多い。ということで、野田へと進む前に、小金牧での新田開発で善政を施した岩見石見守ゆかりの地や野馬除土手、馬の水飲み場、そして明治になって旧幕臣が中心となり進めた小金牧跡の開墾地跡など、気になった事跡をまとめて辿ることにした。
目的の場所も結構バラけている。また、家を出るのも例の如くゆったりとしたものであり、柏駅についた時には既にお昼をはるかに過ぎている。今回は、歩きのみ、という散歩の基本方針を少々「封印」し、見残し・後の祭りを1日で終えるべく、歩きと電車の乗り継ぎを組み合わせることにした。それにしても結構タイトな1日とはなった。

本日の散歩;東武野田線柏駅>東武野田線・豊四季駅>坂川放水路>天形星神社>諏訪神社>東武野田線・豊四季駅>(東武野田線)>東武野田線・流山おおたかの森駅>オランダ観音>東武野田線・流山おおたかの森駅>(つくばエクスプレス)>つくばエクスプレス柏の葉キャンパス駅>厳島神社>こんぶくろ池>常磐道>皇大神社>流通経済大柏高校・野馬除土手>大青田の谷津>円福寺>利根運河>駒形神社>下三ヶ尾谷津>東武野田線・運河駅>オランダさま>東武野田線・江戸川台駅

東武野田線・柏駅
最初の目的地は天形星神社。岩見石見守が祀られる。最寄りの駅は東武野田線・豊四季駅。常磐線・柏駅で東武野田線に乗り換えることになる。JR柏駅の改札を出て東武野田線の改札からホームに入ると、駅はターミナル・終点駅となっており、南の船橋行も、北の大宮行きも柏駅が始発駅である。
地図を見るに、大宮方面からの路線は土浦・水戸など「下り方向」にカーブを描き柏駅のホームに入る。また、船橋からの路線も「下り方向」に向かって柏駅に入る。東武野田線は千葉県船橋から埼玉県大宮を結ぶわけで、何故このような直通運行には不都合な入線仕様となっているのかチェックすると、歴史ゆえの状況が見えてきた。
明治44年(1911)、野田の醤油を常磐線柏駅と結ぶべく千葉県営軽便鉄道が開設された。その時、柏駅には「下り方向」に向かって常磐線と合流させたわけだが、その理由は、駅近くにあった柏競馬場を避けるには「下り方面」へと繋げるのが工費の観点でメリットがあった、とのこと。柏競馬場は現在の豊四季台3丁目と4丁目の豊四季台団地あたりにあったが、昭和27年に廃止された。県営軽便鉄道は、大正10年(1921)、千葉県から払い下げを受け、その路線の継承と同時に船橋と柏間の建設を目的として北総鉄道(現在の北総鉄道とは関係なし)が設立された。完成された柏・船橋間の入線は下り方向に向かって柏駅に入る。野田からの入線が下り方向になっている以上、それに接続させるには路線を西、と言うか北方向から大回りさせる必要があるだろうし、そもそも駅自体が、船橋方面駅が常磐線柏駅の東、野田方面駅が柏駅の西と、常磐線を挟んでサンドイッチといった状況であり、接続させることができない状況であったのか、とも思う。単なる妄想。根拠なし。
その後、大正15年(1926)、野田から東武線粕壁をへて大宮を結ぶ構想がもち上がり、その路線が完成した昭和4年(1929)には北総鉄道を総武鉄道(現在の総武本線とは関係なし)と改称。昭和5年(1930)には別々であった船橋線・野田線の駅を野田線の駅に統合した。
昭和18年(1943)には東武鉄道と合併し、野田線・船橋線という呼称も野田線に一本化し、東武野田線として現在に続いている。東武野田線という如何にも直通路線といった呼称に引っ張られ、何故に柏でのスイッチバックか、とチェックしたのだが、本来別の会社、というか路線(野田線・船橋線)が後になって名称統合された、と言うことであった。
そういえば、西武線の飯能駅もスイッチバックであった。これも、まずは、木材の集散地でもあった飯能と池袋が結ばれ。その後、秩父のセメント輸送のため飯能から吾野へと路線が延ばすに際し、地形故の制約より飯能を始発とした時計逆回り方向への路線を余儀なくされ、スイッチバックの形になったのではあろう。その後飯能をパスした直通路線も検討されたようだが、輸送量が少ない割に飯能が発展してしまっていたため、敢えて短絡直線路線を敷く必要性がなくなっていた、と言うことだった、よう。物事にはそれなりの理由がある、ということではあろう。

東武野田線・豊四季駅
柏駅より豊四季駅に向かう途中、車中でiphoneであれこれ本日のコースをチェックしていると、豊四季駅から南柏駅方面へ少し戻ったところに豊四季稲荷神社があり、そこに「豊四季開拓百年碑」があるとのこと。当初の予定では豊四季駅で下り、最初に岩見石見守が祀られる天形星神社へ、などと思っていたのだが予定変更。少々戻ることにはなるが、稲荷神社へと向かうことに。
豊四季とは小金牧が徳川幕府の崩壊とともにその役割を終えた後、その跡地を開拓地とする計画により開墾された集落の名前に由来する。その時開墾された13の集落名は現在も地名として残る。地名は開拓された順に数字で示され、1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧。豊四季は四番目に開墾された集落であり、四季を通じて豊かなれ、といった思いを込めた地名となっている。
豊四季駅で下車。駅には南口はないので、北口に下り、線路を跨ぐ通路を通り南口に。豊四季駅南口交差点を柏方面に向かって進む。道は豊四季と野々下の境を進む。野々下は小金野の南下が地名の由来、とか。西に向かって緩やかに下る地形が感じられる。

稲荷神社・豊四季開拓百年記念碑
道なりに進み柏第二小学校脇、稲荷神社前交差点の西に稲荷神社があった。境内の右隅に「公爵岩倉具視報恩碑」、右側に「豊四季開拓百年記念碑」がある。まずは社殿にお参りし、記念碑前に。
「豊四季開拓百年記念碑」は昭和48年に建立されたもの。長文の内容を簡単にまとめると、「明治維新の社会不安、民生の安定のため窮民対策として小金牧・佐倉牧を廃し、東京窮民を開拓農民とする計画が立案された。開墾局を設け、明治2年、三井八郎衛門などを中心とした開墾会社が設立され、開拓地積を1万町と推定し、1万人の入植を計画。募集に応じた東京窮民のうち6461人が入植。入植者は「三年間衣食住は勿論万事世話致し、四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成、開墾入費を十ケ年の内に会社に返済致候得ば、会社一般独立農夫」となり、其の後自力新開は地主となれる、という文言で開墾に努めた。しかしながら、その労働条件は「会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した」との表現が示す通り過酷を極め、「会社は経営よろしきを得ず」、明治5年事業解散するに至る。この時点で開拓農民は半数にまで減っていた、とのこと。
明治6年、開墾事務は県に移管され、出資社員(富民)は土地を得、それも地券面の数倍といった有利なものであったが、一方入植者(力民小作人)に開墾地の所有権もなく、債務処理など会社に対して裁判に訴えるも敗訴の連続。その抗争の間、「住家は雨露を凌ぐまでにて、眷属襤褸を纏い」「畠は枯痩の色を呈し収穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず、その他悉く四方に離散し」「一戸の人煙みざる所あり」といった悲惨な状態であった。このような状況の中でも、この地に残った東京窮民と野付村移民、通い村民たち先人が切り開いた茨の道を偲んでたてられたのがこの石碑である。
維新当時の東京の人口は50万人。そのうち、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民は10万人に上った、と言う。社会不安に対する民政安定が焦眉の急であったのだろう。なお、この豊四季は三井八郎衛門の引請地であり、明治2年に122戸478人が入植したが、明治5年までには約半数の50戸が脱落した、と言う。また入植者が開墾土地を自分のものとするのは戦後の農地改革を待ってからであった。
次いで、「公爵岩倉具視報恩碑」に。何故にこの地に岩倉具視?チェックすると、岩倉具視と東京窮民による小金牧開墾地の関係が見えてきた。まずは、そもそもが、民生安定を目的とし開墾計画を発意した元水戸藩士北島秀朝は岩倉具視の知遇を得て幕末・明治維新に活躍した人物。討幕軍司令を務めた岩倉の次男を補佐し実質的軍司令官として活躍。明治維新に入ると、東京府判事として東京を治める立場となり、民生安定のため下総の牧跡の開墾策を提言。下総開墾局知事として開墾事業に関与した。
その開墾会社が解散するに際し、開墾された土地の大部分、719町歩のうち714町歩が三井のものとなり、入植者のもとに所有権がなく、ゆえに長年にわたる裁判沙汰となるわけだが、その裁判を有利に運ぶべく三井はその土地を大隈重信、岩倉具視、青木周蔵といった明治の元勲に譲渡した、と言う。この記念碑はこの地の大地主となった岩倉具視の記念碑といったものだろう。少なくとも開拓農民の感謝の碑とは思えない。

坂川放水口
稲荷神社で次の天形星神社へのルートをiphoneの地図でチェックしていると、豊四季の西、野々下に坂川の川筋がある。ということは最上流点には坂川放水口がある。ついでのことではあるので、坂川放水口に向かうことにする。
野々下はその地名が示すように、豊四季地区のある台地の平坦地から川筋に向かって下ってゆく。坂川の水の恵み故か、室町の頃より開けたという野々下の地は起伏豊か。緩やかな傾斜地を先に進むと低地となり坂川筋に出た。
川の上流端へと進むと放水口近くは親水公園となっている。小川を配した公園を辿ると放水口に到着。放水口は堰といった造りで坂川へと流れ落ちていた。坂川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にあるこの坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。
いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがあるる。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、江戸川筋への放水口・放水路に出合えて、誠にうれしい。
天形星神社・岩見大明神

やっと、最初の目的地であった天形星神社(流山市長崎2-57番地)に向かうことに。予定になかった寄り道も、岩倉公記念碑といった思わぬ事跡に出合ったりと、成り行き任せの散歩はやはり、いい。
坂川放水口から成り行きで台地に上る。金乗院を右手に眺め、畑地や宅地の間を長崎地区へと向かうと深い緑の中に天形星神社があった。境内に入り、左手に岩見神社を見やり、まずは本殿にお参り。本殿に限らず幣殿、拝殿、そして岩見神社も結構新しい。説明によると、寛文2年(1662)創建とあるが、このあたりの長崎、野々下は戦国の頃には既に集落が形成されえいたようであり、そうであれば社が祀られたのは更に時代を遡るとも。時を経て荒廃した古き社を昭和62年に改築された、とあった。
境内の岩見神社にお参り。社脇の感恩碑によると、「寛政年間、徳川幕府の房総三牧の野馬方総取締・旗本岩本石見守をお祀りしたお宮。長崎、野々下の両村は小金牧の野付の村として、隣接した牧内に野馬入り新田を開拓することは多年の願であった。この願いを許したのが石見守。寛政六年のこと。この新田は原新田と呼ばれた。林畑であり、秣の育成、松、杉、楢等の植林がなされ、薪、炭の生産も成果を上げ豊かな村となった。
村民一同、石見守の人徳のお陰と感謝の念を深め、報恩の一念から文化九年には「石見大明神」の石碑を建てる。明治初年にはこの碑を御神体として長崎一丁目七四二番地に境内を定め、社を設け、鳥居も建てて代々祭祀を続けたが、昭和62年、天形星神社境内に造営竣工された新社殿に遷座された」、とある。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によると、村民の野馬入新田開墾の願いは石見守により、半年もたたず認められ、広さは村の面積に相当し、燃料に困ることもなくなり、馬の飼料も得られえ、また、薪、炭などにより現金収入も手に入り、生活は豊かになった、とのこと。新田開発とは言うものの、それは単に水田開墾だけ、と言うわけではなく、林畑、そこから生まれる薪、炭など、その意味するところは、広範囲なものであったようである。
岩本石見守正倫は、甲斐の国に生まれ、徳川幕府に仕える知行二千石の岩本正利を父とし、長姉お富の方は、一橋中納言治済卿に仕えて、第十一代将軍家斉の生母となる。家斉は将軍職を五十年つとめ、正倫は将軍の信任篤く、要職を経て寛政五年(1793・37歳)に、小金、峯岡、佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、以後も栄進を果たす。

ところで、この天形星神社、はじめて出合う神社である。名前に惹かれてチェックする。祭神は素戔嗚命(スサノオのミコト)。この素戔嗚命と天形星との関係であるが、道教というか陰陽道では天形星は牛頭天王と同一視される。仏教の守護神でもある牛頭天王、祇園精舎のガードマンでもあったため「祇園さん」とも呼ばれた牛頭天王であるが、その父は、道教の神であるトウオウフ(東王父) 、母は セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・泰山府君(タイザンフクン)とも同体視される。

泰山府君は、十王信仰(十人の冥界の王が、冥土で亡者の罪を裁くと信じられた)では、十王のひとりである泰山王(タイザンオウ)(閻魔さま) とも同体視されるに至るが、その泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、天形星=牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がった、とも。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。
この神社、もとから天形星の社と呼ばれていたのか、牛頭天王の社と呼ばれていたのが定かではないが、ともあれ天形星神社に素戔嗚命が祀られるのはかくのごとき所以からではあろう。

諏訪神社

天形星神社を離れ、北東に続く道を成り行きで辿り県道278号に向かい、県道を進むと東武野田線と交差。線路に沿って右に向かえば豊四季の駅に出るのだが、線路の少し先、道の左手に鬱蒼とした森の中に諏訪神社がある。流山や柏の散歩の折々に、「駒木のお諏訪さま」として登場するため、どんな社かと訪れることにした。
境内に入ると、誠に立派なう社である。木々に覆われた参道を進み随神門をくぐり、本殿にお参り。祭神は健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。広い境内には姫宮神社とか大鳥神社など八つの社が合祀されている。
童謡をテーマにした散歩道などを彷徨い、本殿脇に戻ると騎馬武者の像。源義家とある。奥州での後三年の役を終えた義家が武運のお礼として乗馬と馬具を奉納した、とのこと。奉納の際に鞍を掛けた松の伝説を示す鞍掛け松の碑もあった。
義家の鞍掛け松や腰かけた岩といった伝説は散歩の折々によく出合う。最初はあまり気にもしていなかったのだが、その伝説の跡を見やると、奥州への古道跡を示したり、といったこともあり、伝説も伝説以上の意味をもつこともあるようだ。
本殿の脇には御神水。天保12年(1840)、江戸の文人友田次寛が、その著小金紀行に「神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ」と描く。「道問へば大根曳いて教えけり」と詠む蕪村碑も残る。

諏訪神社の創建は古く、平安時代のはじめとも、それより古いとも伝わる。大和の国より天武天皇の第一皇子である高市皇子の後裔がこの地に移り、その心の拠り所として信濃の諏訪大社より勧請したのが駒木のお諏訪さまである。移住の理由は、高市皇子の第一皇子である長屋王が、その英明さ故に藤原一門に「睨まれ」、長屋王の乱という陰謀により妻子共に自刃に追い込まれる。そういった一門の危機を避けるべく、大和を離れ、この地に移った、とも。また、諏訪社勧請の理由は、高市皇子の養親が奈良の大神社の祭祀者であり、大神神社の祭神が大国主命。また、高市皇子の母は九州宗像族の出身。宗像族は出雲系の一族であり、出雲族と言えば国ッ神系・大国主命がその代表格。諏訪大社の祭神である健御名方富命は大国主命の子であり、諏訪神社勧請のストーリーは理屈にあっている。
この諏訪神社、由緒ある神社故なのか、兼務社が多く、30近くもある、と言う。今までの散歩で出合った神社のうち、先ほど訪れた天形星神社、豊四季開拓百年記念碑のあった稲荷神社、先日訪れた流山旧市街・加の大杉神社、青田の香取神社、小青田の姫宮神社なども諏訪神社の兼務社であった。そういえば、それらの神社には社務所がなかったように思う。

諏訪道
境内を出て、再び県道278号に。県道278号は流山から諏訪神社まで北東へと上り、諏訪神社の北で右に折れ、東武野田線に沿って柏に向かう。その昔、布施弁天の北、県道47号が利根川を渡る近くにあった布施河岸から流山の加村河岸を結ぶ諏訪道と呼ばれる道があった。もともとは、布施から諏訪神社を結ぶ信仰の道であったようだが、江戸の中期以降は利根川の布施河岸で荷揚げされた物資を江戸川の加村河岸へと運び、そこから江戸川を下り、江戸へと物資を運ぶ道となった。
利根川筋から江戸への物資運搬ルートは、もともとは、利根川を関宿まで上り、そこから江戸川を江戸まで下っていたとのことだが、関宿付近が土砂の堆積で浅瀬となり、冬場の渇水期には船の航行ができなくなったため、この地で陸揚げされた。布施河岸の少し上流には鬼怒川の利根川合流点もあり、北関東の物資も布施河岸を経て江戸へと結ばれた。最盛期の寛政期頃には年間16000駄の荷受け量があったという。
諏訪道は大雑把に言って、布施弁天の北にあった布施河岸から県道47号に沿って南東に下り、大堀川と国道16号が交差する辺りで北南西から北東へと方向を変え、大堀川の北を進み、諏訪神社の北で再び方向を南西に変へ諏訪神社に。諏訪神社からは、おおよそ現在の県道278号に沿って流山に向かう。かつては江戸川には多くの渡しがあったようであり、埼玉との往来も盛んで、諏訪道を通り諏訪神社へと向かう埼玉側からの参拝者も多くいたとのことである。

利根川から江戸川への「バイパス」はこの諏訪道だけでなく、布佐の納屋河岸から松戸を結ぶ「鮮魚街道」、木下(きおろし)から行徳河岸を結ぶ木下街道などがある。木下街道は印旛沼散歩のとき、一部を歩いたのだが、そのうちにこれらのバイパスも歩いてみたい、と思う。ちなみに、諏訪道は、手賀沼・印旛沼名産のうなぎ故に、「うなぎ街道」と呼ばれた、とも。

東武野田線・つくばエクスプレス流山おおたかの森駅

次の目的地は流山おおたかの森駅近くにあるオランダ観音。今回は「歩き&トレイン」ということで、先ほど下車した東武野田線・豊四季駅に向かう。豊四季駅から一駅。駅を下りると駅周辺は再開発の真っ最中。すでに完成したショッピングセンターや高層マンションと造成工事中の建設機械、掘り起こされるも、未だ整地されていない荒地などが入りまじり、雑とした状況。駅の西に駅名の由来ともなった、おおたかの営巣地である「おおたかの森」も宅地開発で半減し、現在は20ヘクタールほど。かつてはつくばエクスプレス線の北と流山おおたかの森駅から北に進む東武野田線の西側一帯の50ヘクタールが鬱蒼とした森であったとのことであるが、現在は宅地や建設予定地で囲まれながら、かろうじて森の緑を保っている。

オランダ観音
流山おおたかの森駅の北に下り、東武野田線の東側の造成地の中を進むと住宅街の家と家の間の細路の先にオランダ観音(流山市東初石5‐153)があった。祠の中には二基の馬頭観音が祀られる。諸説あるも、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹であろう、と。オランダ観音の由来は、オランダの東インド会社長崎商館を通して輸入された、ため。
小金牧の野馬は蒙古系の馬であり、馬高は1.2m程度。現在私たちが目にするサラブレッドの馬体とは似ても似つかない、かわいいものである。乗馬すると足が地面につくといってもそれほどオーバーな表現ではない。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によれば、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した。当時の値段ではペルシャ馬一匹は野馬360匹に相当するという高価なものであった、と言う。
オランダ観音の説明には、「葦毛の三歳駒を輸入し牧に放牧したが、気候や風土の違いから小柄な日本馬ともなじめないまま気質が凶暴になり、野馬堀を一気に超え作物を食い荒らし、人にも危害を及ぼすようになった。これを見かねた牧士頭は勢子を動員して駒を追いよせ狙撃してし、傷を負った葦毛馬は四苦八苦の末、日頃住みなれた十太夫新田の沢にたどりつき、そこで水を飲みながら息絶えた、と。その哀れな姿に村人や狙撃した牧士たちは、馬を哀れみその霊を慰めるためにその近くに祠を建てた」、との説明もあるが、そんな高価な馬を射殺するのは不自然であり、また碑文は後世になって建てられたものであり、「伝説」として伝わっていた射殺説が刻まれたのではないか、と言う。

つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅
次の目的地は厳島神社にある「高田原開拓碑」。つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅の近くにある。今回は取りこぼし・後の祭りを1日でカバーするため「歩き&トレイン」が段取りの基本。流山おおたかの森駅よりつくばエクスプレスに一駅乗り、柏の葉キャンパス駅に。
駅の周辺は流山オオタカの森駅周辺の開発途上の乱雑さ、一駅先の柏たなか駅前の開発がはじまったばかりの「なにも無さ」に比べ、結構整備されている。思うに、この地域一帯は国有地が多かったため、地権者との折衝の困難さはないわけで、それ故に開発計画が容易に進めることができたのではないだろうか。

この一帯の土地の歴史を眺めるに、江戸の頃は小金牧のひとつである高田牧、明治に入り東京窮民を入植者とした三井を中心とする開墾会社が開墾した開墾地・十余二である。そして、その開墾会社が解散した後、開墾地の土地の大半が入植者ではなく三井の手に落ち、その後、入植者との裁判沙汰を有利に図るために大隈重信などの明治に元勲に土地を譲渡している。戦前にはこのあたりに柏陸軍航空隊と飛行場があったと言うことだが、その大半は大地主となった大隈など明治の元勲の土地であろう、か。それはともあれ、飛行場跡地は戦後は一時米軍に接収され通信基地となっていたが、それも昭和54年(1979)には日本に返還されている。その跡地に東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設された、ということである。

厳島神社・高田原開拓碑

厳島神社は県道47号脇にある。線路に沿って進めば距離は近いのだが、工事用の空き地などで行く手を阻まれ、結局、大回りして県道47号を歩くことになった。県道を進み、つくばエクスプレスの高架をぐぐると、最初の交差点手前に、誠に、誠にささやかな祠があった。
祠にお参りし、脇にある高田原開拓碑を見る。裏には「当地は元小金原高田台牧也 明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」と刻まれる。
柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる高田台牧は、明治に三井ら政商を中心につくられた開墾会社によって開墾されるも数年で会社は解散。土地は入植者の手にならず、大半が三井のものとなり、それも裁判沙汰を有利に運ぶため明治の元勲に譲渡した、とは上にメモした。実際このあたりは大隈重信の土地となり大地主として広大な土地を所有した。土地が開墾民の手になるのは記念碑が刻むように戦後の農地改革が行われてからであり、それまでの裁判、小作民としての遺恨故か、「大隈及鍋島」と呼び捨てにしているのが直截で誠に、いい。なお、この神社も駒木の諏訪神社の兼務社であった。

柏の葉公園
厳島神社を県道に沿って少し進み、最初の交差点で右に折れ、道の右手に柏の葉高校や千葉大学環境健康フィールド科学センター、左手に柏の葉公園をみやりながら進む。この柏の葉公園のあたり、西は航空自衛隊システム通信隊の敷地から東の東京大学柏キャンパスのあたまでは戦前には陸軍の柏飛行隊と飛行場があったところである。
日中戦争勃発直前の昭和12年(1937)、首都防衛の飛行場としてこの地に開設することが決定され、昭和13年(1938)に工事が着工され同年完成。陸軍東部百五部隊の飛行場、柏飛行場が開設され、立川より陸軍飛行第五戦隊が移転してきた。
太平洋戦争が勃発すると、飛行第五戦隊はジャワ島に移り、柏飛行場にはいくつかの飛行戦隊の変遷があり、フィリピンでのレイテなど戦地への移動、また首都防衛の任にあたった。戦争末期に開発されたロケット戦闘機である「秋水」の飛行基地に予定されていた、とか。また、柏飛行場の南、高田には第四航空教育隊が設置され、そこで短期訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻基地に移っていたとのことである。

戦後は一時戦後海外からの引揚者、旧軍人ら約140人に払い下げられ開墾されたが、朝鮮戦争時には一部が米軍に摂取され、昭和30年(1955)には「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設され、200mの大アンテナなどのアンテナが林立していた、とか。
昭和54年(1979)には米軍から日本に返還。雑草の生い茂る荒地となっていたが、その跡地に柏の葉公園が整備され、東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設されている。
ちなみに陸軍飛行第五戦隊は立川から移ったとメモしたが、
いつだったか玉川上水を辿っていたき、立川市の砂川地区で上水が突然暗渠となり、何故に、とチェックしたことがある。暗渠化の理由は立川の航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったわけだが、その飛行隊は柏に移り、結局滑走路の延長はなくなった、とのこと。散歩をすれば、いろんなところで、いろんなものが紐づいてくる。誠に面白い。

こんぶくろ池
道の左手に柏の葉公園、右手に科学警察研究所や税関研修所などの建物を見遣りながら進むとT字路にあたる。T字路の先は東大柏キャンパス、右手の国立がんセンター東病院に沿って折れ、がんセンター東病院の敷地が切れるところで右手を見ると森が見える。こんぶくろ池はその中であろう、と右に折れると「NPOこんぶくろ池自然の森」の旗がたっていた。こんぶくろ池のある森一帯はNPOの活動によって環境保護がたもたれているのだろう。
左手にNPOの管理小屋を見ながら、とりあえず森に入る。雑木林の中を成り行きで進むと湧水池があり弁天池とあった。小さな祠は弁天さまではあろう。弁天池からの水路に沿って遊歩道を進むとT字路にあたり、左に折れると弁天池より大きな池が見えてきた。それが「こんぶくろ池」であった。池の畔には水神社のささやかな祠が祀られていた。
こんぶくろ自然の森は東京ドーム4個分の広さがある、と言う。また、弁天池とこんぶくろ池から湧き出る水は大堀川の水源でもあり、手賀沼へと注いでいる。そのためか、こんぶくろの主(うなぎ?)と手賀沼の主(蛇)が年に一度デートをする、といった伝説も残る。
こんぶくろ池は小金牧のひとつ、高田台牧に放牧される馬の水飲み場であった、とのこと。こんぶくろ池の左手には小ぶりな野馬除土手も残っていた。小ぶりの野馬除土手は、牧内に開墾された新田、と言うか、林畑、村地への侵入を防ぐために造られたもの、と言う。
「こんぶくろ」の名前の由来は、池の形が「小さな袋」のようであったから、とか、巾着(金のふくろ)とか、「子を産むふくろ」、とか、「米を産む袋」など、あれこれ。

常磐道
次の目的地は流通経済大学付属柏高校付近に残るという野馬除土手。こんぶくろ池から北東に常磐道を超えた先にある。こんぶくろ池自然の森を離れ、東京大学柏キャンパスの東端を進み、キャンパス北端を西に折れ、成り行きで進む。右手には森が続く。先日歩いた大青田の湿地手前の森の緑であろう。先に進むと森の手前に常磐道。土地を掘り割って進んでいた。

皇大神社

常磐道を超えると流通経済大学付属柏高校前交差点。道脇に野馬除土手らしきものを探すも、それらしき風情はない。キャンパスに沿って成り行きで東へと進むと高校の敷地に組み込むように社がある。とりあえずお参りと境内に入ると皇大神社とあった。
創建は新しく明治15年。十余二開墾住民の心の拠り所となるべく、三井組の市岡晋一郎によって建てられた。市岡晋一郎は現在の長野県塩尻市に生まれ,明治初め,開墾会社の三井組代人として小金牧12番目の開墾地である十余二の入植事業に携わった。
岩倉具視に見出された農民出身の開墾地の監督官として、農業(製茶・さとうきび・養蚕)を振興し、農民のために三井学校(伊勢原学校)を開校したと言う。皇大神宮といえば、伊勢神宮(内宮)のこと。このあたりの地名も、この神社勧請に由来するのだろう。なお、この神社も先ほど訪れた駒木の諏訪神社の兼務社であった。

大青田の野馬除土手
皇大神社を離れ、野馬除土手を探して先に進む。それらしきものは見当たらない。それではと、校舎裏手のグランド側に向かうことに。成り行きで進み、左手に入る野道を大青田の森の方向へと向かう。大青田の森は一度歩いているので、勝手知ったる、といった按配ではある。
道なりに進み、校舎裏手、グランドとの間を抜ける道を野馬除土手を探して西へと戻る。道の左手のグランドではサッカーの練習中。流経大付属柏って、サッカー名門校であった、かと。サッカーの練習を見ながら進むと、校舎敷地と道を隔てる土手がいかにも、野馬除土手の風情。ところどころに土手の切れ目があり、そこに入り土手を眺めるに、案内はないものの、これは間違いなく野馬除土手であろう、と確信。比高差も大きい。南柏でみた野馬除土手ほどの高さがある。江戸川台や先ほど「こんぶくろ池」で見た土手は高さも低く、土手もひとつであったが、この地の土手は大土手と小土手の二重土手となっていた。

既にメモしたとおり、野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。特に享保や寛政の改革に伴い、幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。その結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、とのことである。先ほど訪れた長崎の天形星神社の「岩見大明神」、先日訪れた大青田の円福寺の「岩見大権現」は、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったとのことである。

円福寺次の目的地は国道16号が利根運河を渡った北にある駒形神社。これといって理由はないのだが、先日の利根運河の谷津を辿る散歩の時に、この神社を見落としていたので、今回の後の祭り・取りこぼしフォロー散歩に加えることにした。
流経大付属柏高校を離れ、先日も歩き、「通いなれた」大青田の森を抜け、大青田の湿地・谷津に出る。谷津を辿り、国道16号が利根運河を渡るところに進む。と、そこには先日訪れた円福寺があり、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「岩見大権現」がある。今回に散歩は、小金牧の名残を辿る、ということでもあり、ちょっと立ち寄り。岩見大権現は天形星神社の岩見神社のような祠もなく、小ぶりな石塔が残るだけである。






駒形神社

利根運河を超え、最初の信号を左に折れるとほどなく道を少し南に入った民家の間に駒形神社、と言うか、香取駒形神社があった。香取神社と駒形神社のダブルブランドである。ダブルブランドが、いかなる理由でできたのか定かではないが、下総や常陸にはいくつか目にする。
それはともあれ、先日の散歩のおり、この神社にあたりにB29 が撃墜された、とメモした。柏の航空隊からの迎撃か、高射砲によるものか定かではないが、東京空襲を終え帰還中の第314航空団29爆撃群所属のB29一機が被弾。村の上空を旋回し空中分解、香取駒形神社周辺に落下した。乗組員のうち機長含め10名が墜落死、2名が捕虜となるも、そのうち一名が憲兵隊へ送られる途中重体で死亡、残り1名は東京刑務所に収監中、米軍の空襲によって亡くなった、とのことである。

東武野田線・運河駅

駒形神社を離れ、里道を成り行きで進むと利根運河の堤に出た。利根川運河の北側を東武野田線・運河駅へと向かうと、土手の右手下に雑木林に囲まれた池が見える。美しい。下三ヶ尾の湿地・谷津の景観であろう。東京理科大のキャンパスの一部でもあろう、か。見慣れた土手道を進み運河駅に。
ここで本日の予定は終了、とも思ったのだが、日暮には未だ少々時間がある。運河駅と江戸川台駅の中間に「おらんだ様」もあるわけで、小金牧の名残を辿る散歩の締めにと、あと少々散歩を続けることにした。

駒形神社運河駅前の流山街道を南に下る。と、ほどなく駒形神社交差点。道脇にある神社にちょっとお参り。結構立派な構えである。鳥居の横には馬の銅像。社伝によれば、八幡太郎義家公の駒繋ぎの伝説が残る、と。
社殿にお参りし、境内左奥に並ぶ庚申塔と思しき石塔のもとに。その脇には小ぶりな富士塚と浅間神社。また、その脇には「待道大権現」と刻まれた小ぶりな石塔。あまり聞いたことがない名称でありチェックする。
待道講は我孫子を中心とし、利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた北総地区に限られた女人講。本社は我孫子・岡発戸の八幡神社、とか。観音講、子安講、十九夜講などと同じく、毎月17日に集い、子育てや安産祈願を願う。待道大権現の軸を掲げ念仏を唱え皆で会食する(「我孫子市史文化財編」)。とあった。

道六神
道を進むと道脇に誠に構えの立派な旧家がある。塀の前には浅間神社の祠がある。浅間神社にお参りし、右手を見ると社といくつかの石塔が見える。社は八坂神社、石塔群は道六神や馬頭観音。道六神は道祖神と同じ。塞の神とも呼ばれ、村の入口に祀られ、村に厄病が入るのを防ぐ(塞ぐ)。ちなみに、塞の神は石だけでなく、木を祀られることもある。いつだったか、信州から越後へと塩の道を辿り、大網峠を下ったところにあった「大賽の一本杉」が記憶に残る
道六神の前に「成田さん」と刻まれた道標があった。この地は旧日光街道(日光街道の脇往還)の辻であったよう。旧日光街道脇往還は南柏のあたりで分岐し、流山・野田・関宿を抜けて日光街道本道に合流する。日光参詣のためだけでなく、大名の参勤交代や物資の運搬などにも利用されたようである。南柏駅付近の国道6号・水戸街道には「旧日光街道入口」と呼ばれる交差点がある。

オランダ様
東深井地区から美原地区に入ると、道脇にコンクリートブロックに囲まれた祠がある。少々窮屈そうな祠に二基の馬頭観音が祀られていた。これがオランダ様である(美原3丁目44)。祠脇の碑文には、「徳川八代将軍吉宗は馬匹改良のためオランダ馬を輸入し小金牧に放牧した。このペルシャ馬のうち此の地で死んだ馬を祀ったのがこの馬頭観世音である。元文二年(1737年)の建立で古くよりオランダさまとして信仰され、またこの前にあった坂はオランダ坂と呼ばれていた」とある。
オランダ観音のところで、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』)とメモしたが、それがこのことではあろう。オランダ観音に祀られるペルシャ馬は、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹のようだが、ここに祀られるペルシャ馬は少し時代が下った、亨保年間に輸入された馬のようである。

少々長かった本日の散歩もこれで終了。一部公園とし残る樹林に、江戸川台開発前の景観を想いながら東武野田線・江戸川台駅に向かい、一路家路へと。これで、流山、利根運河散歩で取り残した事跡はほぼカバー。次回はやっと野田市街へと。

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