金曜日, 2月 11, 2011

田無散歩そのⅠ;青梅街道筋から田無発祥の地・谷戸へと歩く

昨年の秋だったろうか、石神井川を源頭部である小金井公園から王子へと辿ったことがある。その途中、向台の台地に沿って田無駅の南を西に進んだ。その時は石神井川の生活排水が気になっていたのだが、昨年はそれほどでもなかった。しかしながら、川筋の道は相変わらず行き止まりの道が多く、迷い道くねくね、といった状況はそれほど変わってはいなかった。田無の中心は川筋を台地へと上った青梅街道筋にある。江戸の頃は宿場として栄えたとも聞く。どのような街並みであろうか、とは思えども、石神井川下りの先を急ぐあまり、石神井川の谷筋を東へ向かった。
そのうちに、田無へと想いながらも、今ひとつ田無散歩へのフックがかからず数ヶ月たったとある週末、田無に出かけることにした。きっかけは、東久留米の落合川の湧水をもう一度見たくなって、というか、先回落合川を辿ったとき撮った写真がほぼ、ピンぼけであったので、写真を取り直しに行こう、と思った、から。落合川へのアプローチは何処から、と地図を見る。田無から北西に進めば落合川の湧水点、南沢にあたる。何となく田無散歩へのフックがかかった。ということで、田無へと向かう。
当初の予定では、青梅街道筋の田無宿跡の雰囲気でも感じ、とっとと南沢へ、などと想っていたのだが、結局は、田無をあちこち彷徨うことになり、また成り行きで保谷まで辿ることになった。南沢には当日たどり着けなかったけれど、行き当たりばったりの散歩は、なかなな、いい。


本日のルート:西武新宿線田無駅>青梅街道・富士街道交差>六角地蔵尊>青梅街道>田無神社>総持寺>観音寺>やすらぎのこみち>青梅街道・橋場交差点>田無一号水源>新青梅街道>府中道>都道4号線>六角地蔵尊>東大大学院付属演習林>南沢道>緑街2丁目交差点>西東京いこいの森交差点>都道112号・谷戸1丁目交差点>尉殿(じょうどの)神社>東禅寺>如意輪寺>宝晃院>宝樹寺>都道233号保谷小前交差点

西武新宿線・田無駅
駅の北に下り、田無の見どころなどないものかと、駅前の地図をチェック。駅を少し東にいったところに田無神社がある。その先、西武柳沢駅近くに六角地蔵尊が見える。六角地蔵尊という言葉に惹かれ、まずはお地蔵様の元に進む。

富士街道
線路に沿って成り行きで東に進み、青梅街道にあたる。少し南に下ると、西武新宿線の手前で東から青梅街道に合流する道がある。追分に弘法大師供養塔が佇む。嘉永七年(1854)の銘があり、側面が道標になっている。「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と書かれて、と。
追分を左に曲がると富士街道。江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐに田無に下っている。田無から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かった、と。

六角地蔵石幢
富士街道を東に進み、西武柳沢駅前商店街手前に六角地蔵石幢。ほぼ正六角の石柱で、各面の上部に地蔵菩薩立像が彫られている。富士街道と深大寺道が交差するところに佇む、との説明。お地蔵様の東側に西武線を渡る小径があるが、これが深大寺道だろう、か。
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。先日清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、この六角地蔵石幢脇を抜けて大師通り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

田無神社
六角地蔵石幢から、西武柳沢商店街を抜ける富士街道を少し進み、商家一体となった「街道」の雰囲気を味わい、適当なところで折り返す。次の目的地は田無神社。富士街道を西に戻り、青梅街道に合わさるところを右に折れる。先に進むとほどなく田無神社。結構大きい構えである。もとは尉殿大権現と呼ばれていたが、明治になって近隣の熊野や八幡の社を合祀し田無神社と改めた。
先日立川を歩いたとき、阿豆佐味神社といった、あまり耳なれない名前の神社があったが、この尉殿大権現も初めて出合った名前。創立時期は不詳であるが、鎌倉期には鎌倉街道の枝道(横山道・府中道)に沿った谷戸の宮山(現在の田無二中のあたり)に、既に鎮座していたようである。その後、1622年、上保谷(現在の尉殿神社があるところ)へ分祠、1642年には本宮も現在の地に移った。
尉殿大権現を現在の地に移したのは、青梅街道を開いたことによる。江戸城の城壁等を固める漆喰をつくるため大量の石灰を必要とした幕府は、八王子の代官・大久保長安に命じ、石灰を産地である青梅(成木村)から江戸に早急に運ぶよう命じた。長安は往来の混み合う甲州街道を避け、田無を起点に一直線に内藤新宿を結んだ。これが青梅街道である。内藤新宿から所沢に通じる所沢街道をベースにした、と言う。
街道はできた。が、荷の運搬に必要な人力(助馬・伝馬)が、足りない。当時、柳沢宿に五、六軒の農家があっただけ、と言う。ということで、人手を増やすべく、青梅街道の北、古くから集落が開けた谷戸地区から馬持百姓を街道筋に移すことになる。田無は幕府の直轄地であるわけで、村人は幕府の命に従うしか、術は、ない。かくして村人の心の拠り所でもある尉殿大権現は街道筋に移される。村人が街道筋に移はじめて40年後の事である。
ところで、尉殿大権現とは男神の級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命 (しなとべのみこと) よりなる夫婦の神々。水と風を治める、と言う。水の乏しい武蔵野台地、また風の強いこの地故の、神々だろう、か。また、神仏習合の影響もあり、尉殿大権現とは倶利伽羅不動明王と同一視され、明治の神仏分離まで信仰された。ちなみに、「尉」ってどういったものか今ひとつはっきりしない。神楽の黒面とも、能の黒色尉面とも言われる。能の尉面はただの面ではなく、一緒の神と見なされた、と。尉殿大権現の神名は能の尉と関係がるとの説がある(『多摩の歴史1;武蔵野郷土史刊行会(有峰書店)』)。また、関東にある「尉」がつく神社は水にまつわるものが、多いとのことである。

境内を歩いていると、作家の五木寛之が田無神社に住んでいた、といった案内を見つけた。早稲田大学学生の頃、大学の近くの穴八幡の床下を塒(ねぐら)としていた、のは知られるが、さて、田無神社は、社務所にでも居候していたのであろうか、とチェックする。作家のエッセーに「僕は敗戦後、朝鮮から引き揚げてきた。出身校は福岡県の福島高校。諸君は自宅なり、縁者なり、下宿なりから通学しているだろうが、僕は前には穴八幡、そして今は田無神社の床下を寝ぐらとして通学している。金がないからしかたなくそうしているのだ。しかし、なんとかしてロシア文学をやりたいと思っている」、と。ここでも床下生活であった。
本殿にお参りし南側の出口へと向かう。途中に賀陽(かや)玄節の案内。江戸末期の備前岡山藩の藩医。諸国を修行の途中で、田無宿の名主下田半兵衛富永と会う。半兵衛の依頼を受け入れ当時無医村の田無村に居を構え、医を施す。賀陽玄節の子で医師の濟(わたる)は、田無で塾を開いて子弟の教育にあたった。ちなみに、神仏分離令により、総持寺から独立して田無神社ができたとき、濟は田無神社の初代宮司となった。その後、田無神社の宮司は代々賀陽氏が継いでいる、と言う。

総持寺
田無神社を出て、お隣にある総持寺へ。総持寺と言えば鶴見にある曹洞宗の大寺の印象が強く、その流れかとも思ったのだが、そうではないようで、近隣のお寺さまが総て、と言っても三寺ではあるが、集まって一寺となしたため、総持寺と称した。宗派も真言宗である。
総持寺の前身は田無発祥の地・谷戸地区にあった西光寺。青梅街道脇に移住させられた住民がこの地に移し、尉殿大権現の別当も兼ねる。明治に入り神仏分離令により寺社が分けられるとき、尉殿大権現の倶利伽羅不動尊をこの寺に移す。無住となった観音院、光蔵院を会わせ総持寺となったのは明治8年(1875)のことである。
総持寺といえば、幕末の争乱時、幕臣振武軍が駐屯したところである。上野での彰義隊との意見の相違から、同志90余名とともに渋沢成一郎は田無に移動。西光寺に本拠を置き、軍資金を集めるなど少々不可解な行動を取る。10日余、田無に滞在した後、振武軍は瑞穂の箱根ヶ崎に移る。隊員は300余名まで増えていた、と。その地で上野の合戦の報を受け、一躍進軍するも高円寺村で彰義隊壊滅の報を受け田無に転進。上保谷に陣を敷くも官軍の到来はなく、敗残兵を集め1500余名となった振武軍は飯能に移り、その地での飯能戦争の結果、部隊は壊滅した。

田無用水跡
総持寺を離れ、小径を西に向かう。武蔵境通りに出ると、その先に「やすらぎの小径」との案内。道路を越えて小径を進む。総持寺境外仏堂・観音寺の脇をかすめ西に向かう。この小径、如何にも水路跡といった雰囲気である。チェックするとここは田無用水の水路跡であった。
承応3年(1654)、玉川上水が開削されてまもなく、明暦3年(1657)に玉川用水から小川分水が引かれる。その小川分水から更に分水されたのが新堀用水。そして、元禄9年(1696)、玉川上水に沿って進んだ新堀用水から更に分水されたのが田無用水である。玉川上水の喜平橋のあたりから、北東に田無へと進んでいる。石神井川の谷筋に落ちないよう、尾根道を進む。
この田無用水ができるまでは、青梅街道沿いの集落に移った人々は水に苦労した、と。元の谷戸に湧き出る湧水を汲んでは運ぶ生活を続けざるを得なかったのだろう。心の拠り所となる尉殿大権現を移すのに移住後40年近くかかった、ということが、その苦労のほどを物語る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」) 橋場
用水路跡の小径を進むと赤い鳥居のお稲荷さま。小径は南へ下り青梅街道の橋場交差点に。橋場は田無用水が青梅街道を渡るところ。往古、ここには橋が架かっていたのだろう。三叉路になっており、西に進むのは青梅街道、北西に向かうのは成木往還(東京街道)、南西に下るのは立川道(鈴木街道)。この鈴木街道がほぼ田無用水の水路跡のようである。青梅街道と成木往還の分岐点にはささやかな祠があり、地蔵尊と庚申塔が並んで立っている。
田無宿はこの橋場が西端。田無村の伝馬分担は箱根ヶ崎までの20キロ。明暦2年(1656)、中間に小川村ができるまでは負担が大きかったようである。元禄13,14年の頃は石灰の運搬に、1年間に馬60頭が28回も田無宿を通った、と言う。

田無一号水源
次の目的地は東京大学付属農場(東大農園)。先日、白子川の水源となる井頭池を訪ねたとき、その水源に、更に上流から注ぐ新川に出合った。その新川の源頭部が東大原子核研究所跡(現在の西東京いこいの森公園)と東大農園あたりの二カ所にあった。地名も谷戸であり、如何にも湧水のイメージを感じる。もとより、現在谷戸の景観が残るとは思えないが、その昔の豊かな湧水地帯の名残でもないものかと、訪ねることにした。
橋場から成り行きで北に進む。新青梅街道の西東京消防署西原出張所に出る少し手前、民家の建ち並ぶ住宅街の直中に田無一号水源。地下水を組み上げて水源としているのだろう、か。水源施設が先にあり、民家が後からだろう、とは思うのだが。それにしてもちょっと意外な水源施設であった。

府中道
新青梅街道を越える。新青梅街道は青梅街道のバイパス、といったもの。西に立派な屋敷などを眺めながら成り行きで北に進む。都道4号・所沢街道に合流する手前に道標があり、「府中道」とある。地図をチェックすると、都道4号・所沢街道との出合いから、新青梅街道・西原町交差点を越え、向台町へと下る道筋がある。

その先は小金井公園で途切れているが、往古、この地より府中の大国魂神社や国分寺の武蔵国分寺へと通る道があったのだろう。この道が別名横山道とも呼ばれるのは、府中への途中、武蔵七党のひとつ・横山党の本拠地である八王子へ向かう道が分かれていた、ため。鎌倉街道上ッ道の枝道とも伝わる。

六角地蔵尊
合流点を北に進むと六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は変形四差路、細いがそれらしき道を入れても五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井街道、か?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。はっきりはしないが、保谷道は東大演習林の中にかき消えてしまった、との記述(『東京地名考;朝日新聞社会部(朝日文庫)』)もあるので、これって鎌倉街道上ッ道(横山道・府中道)のことか、とも。
さてと、ここから先のルートを想いやる。当初の予定では、ここから北西に、たぶん南沢道だろう、と思うのだけれど、その道筋を進み落合川の南沢湧水群へと進むつもりではあったのだが、田無をあれこれ彷徨っているうちに、田無発祥の地である谷戸地区に行ってみたくなった。またそこは先日、白子川源流点を辿ったとき、その源流点に、更に上流から注ぐ水路があり、その水路(新川)の源流部が谷戸地区でもあった。思わず知らずのことではあったが、谷戸地区にアテンションがかかった。場所は六角地蔵尊のほぼ東。間に東大の演習林や東大農場があるが、見学かたがた、通り抜けようと。

東大演習林田無試験地
六角地蔵尊を少し戻り、東大演習林に。鬱蒼とした林相の入口にある事務棟で記帳し、試験地へ進む。「アカマツやコナラ、クヌギを主体として、イヌシデ、エゴノキ、ケヤキ、ミズキなどが混在しながら点在」とあるが、ブナの原生林である白神山地を訪ねたとき、二日目になって、「ところで、ブナ、ってどれだ?」といった「体たらく(為体)」の我が身には、どれがどれやら、いまひとつピン、とこない。
それよりもこの試験地が「武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)上に位置し、海抜高約60m、地形は平坦です。地質は層厚6~8mの火山灰層(関東ローム層)の下に、砂礫層(武蔵野礫層)が続いています。土壌はローム層の上に火山灰層を母材とする黒色土が50~60cmの厚さで分布しています」といった記事にフックがかかる。武蔵野台地の湧水点って、標高50mのところが多い。この地の海抜約60mからローム層の8mほどを引くと、丁度標高50mあたり、となる。新川の水源、谷戸の谷頭から流れ出す湧水の源がこのあたりであったのだろう、と妄想しながら試験地を辿る。道なりに進み、先に農地やマンションなどが見えるのだが、如何せん塀に阻まれ通り抜けはできそうも、ない。ぐるっと一周し、入口戻る。

谷戸一丁目交差点
六角地蔵尊まで戻り、南沢道(と勝手に名付けた道筋)を先に進み、緑町一丁目交差点で右に折れ、東大演習林の北端をかすめ西に向かう。前方に大きな公園が現れる。西東京いこいの森公園と呼ばれるこの公園は東大原子核研究所の跡地に造られた、と。公園を横切り、ひばりが丘団地を見やりながら通りを東に進み、住友重工田無工場を過ごし谷戸一丁目交差点に。
ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。
中島飛行機工場跡地、と言えば、戦前には東久留米駅から中島飛行機工場へ貨物引き込み線があった、と何処かで聞いたことがある。Google Mapの航空地図でチェックすると、自由学園の西を、立野川を越え市立南中学校方向へと南西に一直線に下る道筋がはっきり見える。南中学校方向からは、更に西方向へシフトしひばりが丘団地へと向かっている。これが引き込み線の跡地であろう。団地建設時は資材運搬に使用されたようだが、現在はその大半が「たての緑道」として整備されている、と。自由学園の辺りを彷徨ったことはあるのだが、この引き込み線跡は見落とした。そのうち、再訪したいものである。

谷戸せせらぎ公園
谷戸一丁目交差点を少し北にすすんだところ、道路の東側に「谷戸せせらぎ公園」がある。新川の源頭部も、この交差点を少し下った谷戸小学校のあたり、と言うし、このせせらぎ公園にも、湧水の名残でもないものか、と訪ねることに。公園は整地された、ごくありふれた公園。池は人工的なもので、湧水の雰囲気は、ない。ただ、周囲の雰囲気は南側が少し小高くなっており、公園あたりの低地にその昔、湧水点があってもよさげな気もする、というか、そう思い込む。
カシミール3Dで地形図を作成してみると、標高60mから40mくらいの比高差をもつ、樹枝状の台地、そして谷筋が見て取れる。如何にも谷戸といった地形でもある。谷戸とは、「丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形であり、その谷頭は往々にして湧水点となっている」ということだから、湧水があっても不思議では、ない。現在は地下水の大量組み上げの影響で水位が低下し、湧水の名残はなにも、ない。
公園に案内板:田無発祥の地「谷戸」、とある。この地には稲荷社、白山社、弁天社、総持寺の元となった西光寺、そして田無神社の元である尉殿大権現が現在の田無第二中学のあたりにあった、と。小田原後北条家の文書『永禄年間小田原衆所領役帳』にも「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残り、室町の頃にはこのあたりは既に開けていた、ようだ。鎌倉街道上ッ道の枝道でもある横山道(府中道)に沿って集落が形成されていのだろう。道筋は谷戸地区から東大農園を貫き六地蔵尊をへて南に下る。田無発祥の地の人々が幕府の政策故に青梅街道筋に移されたのは、先にメモしたとおりである。
公園の案内に「田無」の地名の由来があった。ひとつには文字通り「田の無い」ところであった、との説。次には、湧水の流れが浅い階段状の「棚瀬」になっていたとの説。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、思わずその気になる説である。その他いくつかの説を紹介していたが、どれ樋って定説はないようである。

『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残る、とメモした。この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。これには道灌とこの田無の関係が背景にあるようだ。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻し、上杉方家宰の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、田無や東久留米の大石氏の領地の一部が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と敵対する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた、と。

尉殿神社
次の目的地は尉殿神社。北東に少し進んだところにある。そのあたりは、その昔上保谷字上宿と呼ばれ、保谷の四軒寺といった寺社もあり、村でも最も早く開けたところ。横山道(府中道)も、田無の谷戸の田無二中あたりから、この上宿を経て保谷高校、そして下保谷へと抜けている。昔は、池もあった、とか。古き谷戸の景観が残るとは思えないけれども、とりあえず歩を進める。谷戸せせらぎ公園の北端に沿って東に進む。宅地が密に立ち並び、おおよそ谷戸の雰囲気は何も、ない。谷戸町を離れ住吉町に入ると、そこは昔の保谷市である。道を成り行きですすみ尉殿神社に。
この尉殿神社は谷戸の宮山(現在の田無二中)にあった尉殿権現が、元和8年(1622年)に分祠されたもの。その後正保3年(1646年)、宮山の尉殿権現が青梅街道沿いの現在の田無神社の地に分祠されるとき、この地の尉殿神社より夫婦の神のうち、男神の級長津彦命を田無に遷座した。ちなみに寛文10年(1670)には宮山の本宮そのものを田無神社の地に遷座した。お参りを済ませ長い参道を南に下る。

保谷の四軒寺
神社を離れ、次は保谷の四軒寺と呼ばれたお寺さまを巡る。最初は東禅寺。尉殿神社のすぐ南にある。開基は一六世紀末。東久留米にある浄牧院の隠居寺として建てられた、とか。この地に共の者と土着した保谷出雲守入道直政の開基とも伝わるが、確たるエビデンスはないようだ。落ち着いたお寺さまであった。
次は如意輪寺。民家の間を成り行きで進む。古い間の名残か、道がわかりにくい。彷徨っているうちに境内南側の塀のあたりに接近。塀に沿って進むと、いかにも水路跡といった暗渠が塀に沿って進む。西東京いこいの森公園(元東大原子核研究所)、そしての新川の東大農場(北原二丁目交差点あたり)を源頭部とする新川はひとつに合わさり泉小学校あたりへと進んでいたようだ。ということは、この暗渠は新川の水路跡であろう。こんなところで新川の名残に出合うとは、思ってもいなかったので、少し嬉しい。
保谷・志木線の道路に出て如意輪寺に入る。赤い山門には仁王さま。境内には江戸の頃の路傍の石仏が佇む。旧上保谷村の富士街道脇などに立てられていたものをこの境内に集めた。石仏は18世紀のもの、と言う。
如意輪寺の西には宝晃院。江戸の頃は尉殿神社の別当寺であったお寺さま。その南の宝樹院。江戸の頃は、幕府の寺院本末制のもと、如意輪寺、宝晃院とともに新義真言宗本山三宝時の末寺であった、とか。
この四軒寺のあたりにはその昔、池があった、とか。それぞれの寺には観音堂、薬師堂の堂宇とともに弁天堂があった、と言う。弁天堂といえば、水の神様であろうから、池などがあっても不思議ではない。実際この一帯は、一度大雨が降ると、一面水たまりとなり難儀したとのことである。この上宿を通る横山道とクロスする小川、多分、新川ではあろうと思うが、その川には駒止橋とか縁切橋といった橋が架かっていたようであるが、その面影は、今は、ない。
田無から東久留米の南沢へと辿る予定が、田無そして保谷といった現在の西東京を辿る一日となった。田無の駅を下りたときは、何にもわからなかった田無、そして保谷の歴史の一端に触れることができた。次回は寄り道せずに田無から南沢へと心に想い、保谷・志木線を南に進み、都道233号との保谷交差点を左に折れ、保谷郵便局あたりからバスに乗り、一路家路へと。

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