金曜日, 2月 11, 2011

田無散歩そのⅡ;田無から東久留米の清流を辿る

先回の散歩で、田無から落合川の湧水点のある南沢に辿る予定が、田無の時空にフックがかかり、田無をあちこち彷徨い、あまつさえ保谷へと足を運ぶこととなった。結局その日は南沢までたどり着けず後日へと持ち越し。今回はあまり寄り道をすることなく、田無から南沢道を落合川の湧水地、東久留米の南沢へと向かおうと思う。



本日のルート:西武新宿線柳沢駅>富士街道>新青梅街道>北原交差点>所沢街道>六角地蔵尊>南沢道>五小東>笠松坂>竹林公園入口>落合川>南沢氷川神社>南沢湧水地>落合川>竹林公園>都道15号小金井街道>米津寺>落合川上流端>都道15号小金井街道>坂の地蔵さま

西武新宿線柳沢駅
田無からスタート、とは言うものの、下りた駅は西武柳沢駅。「やぎさわ」と読む。住所は西東京市保谷町とある。田無市と合併し西東京市となる前の保谷市である。先回の散歩で柳沢駅前の商店街を少し彷徨ったのだが、駅前を通る富士街道の雰囲気を、もう少々味わいたいと思い、田無駅のひとつ手前のこの駅で思わず下り立った。田無からの予定が最初から変更。正確には、保谷からのスタートとなった。
駅を下り、北口商店街にでる。昔ながらの商店街、といった雰囲気。その商店街中を通るささやかな道筋が富士街道である。商店街を彷徨い、少し東へ進み西武柳沢駅東交差点に。角に小さな祠があり、庚申塔と廻國塔が祀られている。廻國塔とは、「法華経六十六部を六十六の霊場に祀るべく諸国を廻る巡礼者を供養して建てられることが多い、とか。ともに18世紀初頭の造立、と言う。
富士街道は、江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐにこの地に下っている。この地から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。一説には、柳沢商店街を出たところにある、六角地蔵石幢手前を南に下る深大寺道がそれ、とも伝わる。また、田無宿の西端、田無用水が青梅街道を渡る橋場から田無用水の水路に沿って南西に下る尾根筋、別名立川道がそれ、との説もある。ともあれ、多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かう。

新青梅街道
柳沢宿を離れ田無宿方面へと向かう。天保5年(1834)に書かれた『御嶽菅笠』には柳沢宿にあった幾つかの旅籠が描かれている。もっとも、「宿」といっても、単に石灰の継ぎ立て(伝馬宿)であり、本陣があるわけでもなく、柳沢宿と田無宿も、所詮、俗称であることに変わりは、ない。先回訪れた六角地蔵石幢前をかすめ、成り行きで道を北にとり、新青梅街道に出る。 保谷新道交差点で都道233号・東大泉田無線と交差。交差点を少し西に進んだ辺りが昔の田無市と保谷市の境。市境は西武池袋線・ひばりが丘から一直線に南に下り、五日市街道の武蔵野大学あたりまで続く。大雑把に言って、北部の大泉に近いあたりが下保谷、先日歩いた保谷の四軒寺のあたりが上保谷、そして武蔵野大学あたりに南が下保谷新田と呼ばれていたようだ。下保谷が日蓮宗の壇信徒が多く、上保谷は真言・曹洞宗、と言う。そういえば、下保谷のお隣である大泉のあたりも、番神さま信仰といった日蓮宗がほとんどであった。
保谷は16世紀の頃は、保屋と呼ばれていた。また江戸の頃は穂屋とも穂谷とも呼ばれていた。それが保谷となったのは江戸・元禄の頃(17世紀の後半)。幕府に提出する書類に誤って「保谷」と書き、それ以降、保谷が定着した。地名の由来は、穂の実る小さな谷とも、保谷氏が中心となって開発した村、との説もあるが、定説は、ない。

北原交差点
新青梅街道を西に進む。道脇の遍立院は越前一乗谷・朝倉義景の末子ゆかりの寺、と。江戸桜田門外に創建したが、谷中、浅草を経てこの地に移る。先に進み北原交差点に。青梅街道、新青梅街道、所沢街道などが交差する。古地図を見るに、北原交差点を中心に青梅街道から時計廻りに、富士街道、オナリ街道、府中道、立川道、芋久保道、粂川道、所沢道(秩父道)などが通る。往古より交通の要衝であったのだろう。
北原交差点で右に折れ、所沢街道に。所沢街道(所沢道)は江戸道とも呼ばれる。所沢側からの呼び名ではあろう。所沢からはじまり、清瀬・田無を抜けて小金井へと進む道筋、と言う。また、所沢街道は所沢道・秩父道とも呼ばれる。この北原交差点あたりで青梅街道を離れ、所沢をへて秩父へと向かう道故のことであろう。
通常所沢道と言えば、中野の鍋屋横町で青梅街道と分かれ、旧早稲田通りを進み保谷、清瀬から所沢に続く道を言う。道筋を追うと、中野五叉路から中野駅の西を抜け、環七・大和陸橋に。環七を越えると早稲田通りを進み、阿佐ヶ谷の北、本天沼二丁目交差点で旧早稲田通りに分かれ、下井草駅の西を抜け新青梅街道、千川通りを越え環八に。その先も、旧早稲田通りをひたすら進み、石神井公園の北を進み富士街道にあたり、保谷駅、清瀬駅へと上り小金井街道に。後は小金井街道に沿って所沢に、といったもの。このコースを見るに、田無で青梅街道と分かれる所沢道にかぶるところは何も、ない。思うに、所沢に向かう道は、どれも、所沢道と呼ばれていた、ということだろう。

南沢道
都道4号・所沢街道を北西に進む。しばらく進むと、先回訪れた六角地蔵尊交差点。交差点脇に六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井への道筋?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。それはともあれ、所沢街道を離れ、一筋東の道に入る。この道を進めば南沢に向かう。ために、南沢道、であろうと、思い込む。 緑町二丁目交差点脇には庚申塚が佇む。ひばりが丘団地西交差点を過ぎると、右手にひばりが丘団地。ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。

笠松坂
先に進み、五小東交差点を越えると道の左右が開けてくる。左手には緑地の緑も見えてくる。ほどなく笠松坂交差点に。このあたりから道は川筋に向かって下ってゆく。昔は大きな松の木があったようだ。
坂を下ったあたりにささやかな水路。立野川の上流部。いつだったか立野川を源頭部から落合川との合流点まで辿ったことがある。源頭部は向山緑地公園の崖面下にあった。崖下のほとんど道なき道を進み、極々僅か水が湧き出る場所を確認。立野川は住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。
立野川を越えて坂を少し上る途中に竹林公園入口交差点。公園は少々東に進んだところにあるので、後で辿ることにして坂を上り、そして下って落合川の川筋に。

南沢氷川神社
落合川にかかる毘沙門橋手前を左に折れ、南沢水辺公園に。先回落合川を辿ったときは工事中であった。自然の河畔林を残す公園をなりゆきで進み南沢氷川神社に。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川と湧水からの沢頭流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。
創建の頃は不明。湧水の守護神として祀られたのがはじまりであり、それが集落の発展につれ、社となった、とも伝わる。承応3年(1654)に再建の棟札が残る。棟札には関宿藩主・久世大和守、旗本・神谷与七郎、地頭・峰屋半之丞の名が残る。老中職を16年務めた久世大和守広之は東久留米の前沢で生まれた、と伝わる。家康の家臣であった広之の父は家康の勘気を被り、前沢の地に蟄居させられた、とか。神谷与七郎は南沢を知行地としていた。峰屋半之丞は地頭としてこの地で勢をもっていたのだろう。かくの如き有力者のバックアップもあり、社が再建されたのだろう。


南沢
ところで、この南沢の地、湧水豊かな沢の南の地、といったところだろうが、この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。永禄二年(1599年)、小田原北条家の『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」とある。これには道灌と南沢の関係がバックグランドにある、と言われる。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻す。ために、上杉方の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、このあたりの大石氏の領地が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と対峙する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無、南沢はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた。




南沢緑地保全地域
神社鳥居の先に沢筋。これが南沢緑地保全地域からの湧水・沢頭流。崖線方向と南沢浄水場あたりからの二流がある。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。崖線方向に少し進んだ緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。
神社鳥居の前に戻り、谷頭流のもうひとつ、南沢浄水場方面からの湧水を辿る。水量はいかにも豊富。水は南沢浄水場の中から勢いよく流れ出る。柵があり中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る(地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。)水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。
浄水場手前の沢頭部分にも湧水点がある。雑木林の崖下から湧き出る水は、いかにも、いい。いつまでも眺めていたい景観である。崖線を上ったり下ったり、しばしの湧水の趣を満喫し、南沢浄水場を俯瞰すべく、大廻りで浄水場の周囲を一周し、南沢の湧水地を離れる。

多聞寺
毘沙門橋まで戻り、落合川を渡り川向こうの多聞寺に向かう。先回の落合川散歩で一度訪れてはいるのだが、記憶も少々薄れてきたので再訪する。再訪の理由は「多聞」故。散歩の折々に多聞院とか多聞寺に出合うことがあるのだが、なんとなくいい感じのお寺様が多かった、といった記憶がある。墨田の多門寺(墨田区5丁目)、別名狸寺もいい雰囲気のお寺さまであった。そういえば、所沢の多聞院も狸に由来の話が伝わる。多聞とたぬき、ってなんらかの因果関係でもあるのだろう、か。
多門寺は南沢の中心にある古刹。真言宗智山派・石神井三宝寺の末。13世紀の初頭には天満宮が建てられ梅本坊と名付けられ、14世紀の中頃には薬師堂に毘沙門天を安置し多聞寺と名付けられた、と。毘沙門天は多聞天とも呼ばれるわけで、落合川にかかる橋が毘沙門橋であった所以も、納得。江戸時代につくられた重厚な四脚門・総欅の切妻造りの山門が美しい。




竹林公園
多門寺を離れ、竹林公園に向かう。先回の散歩で竹林公園内の湧水点が見つけられなかった、ため。落合川に沿って下る。水草の茂る川面は如何にも美しい。ところで、何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、このあたりは古多摩川のつくった扇状地の真上にあり、しかも標高が50m。武蔵野台地の湧水点はほぼ標高50m地点でもある。地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということだ。そのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、とのことである。 
老松橋で右折れ、緩やかな坂を上り竹林公園に向かう。竹林公園は武蔵野に古くから生えていた竹林を保存するため、1974年に開設された。敷地内には、約2000本もの孟宗竹が生い茂る。竹林の中の遊歩道を辿って低地部へ下りると水路が見え、その先を辿ると湧水池。水鳥が遊ぶ。流れる水は落合川に注ぐ。

米津寺
次の目的地は落合川の源頭部。川筋に沿って進み小金井街道を越えたあたりに源頭部がある。途中どこか寄り道すべきところは、と地図を見る。落合川と小金井街道との交差部を北に進んだところ前沢宿交差点あたりに米津寺がある。先回の落合川散歩の折り、時間切れで辿れなかったお寺さま。前沢宿、といった宿場をイメージするような地名にも惹かれ、源頭部の前に寄り道を。 川筋を上り、途中旧水路を辿りながら小金井街道に進み、右に折れ前沢宿交差点に。「宿(しゅく)」の由来ははっきりしないが、今は無きお寺様の門前町の名残、とも。また、現在の小金井街道は、江戸の頃の「大山道」とも呼ばれ、この前沢宿が起点であった、という。その故の「宿」でもあったのだろう、か。前沢の由来もはっきりしない。落合川の源頭部、沢頭部に面した地形故とか、この地を開いた前沢某に由来するとか、あれこれ。
前沢宿交差点を右に折れ米津寺に。「べいしん」寺と読む。臨済宗・京都妙心寺派の末。檀家のない大名寺、米津家の菩提寺として知られる。前沢の地は米津(よねきつ)氏の知行地。代々徳川家に仕えた三河武士である米津氏は、御書院番の頭、火の番頭、大阪城番などをつとめ、一万五千石の大名となる。元は東久留米・大門町にある浄牧院が米津家の菩提寺であった、とのことだが、下馬せず浄牧院境内に乗り入れ、それを咎めた住職に立腹し、さればとて、菩提寺を新たに建立した、とかしない、とか。境内には米津家代々が眠る、のみ。明治22年の火災で山門を残し総て焼失。その山門は現在武蔵国分寺に移されている。

落合川源頭部
寺を離れて落合川源頭部に向かう。前沢交差点に戻り、小金井街道を下り落合川に。川筋に沿って先に進むと水路は次第に細くなり、茅なのか葦なのか、背の高い水草の手前の人工の池で水路は一応途切れる。池を眺めていると地元の方が声を掛けてくれ、昔は、このあたりに柳が茂り、そこから水が湧き出ていた、と。茅なのか葦、その先はどうなっているのか、先に進む。落合川の左手を迂回し、芦原の先に細々とした水路が見える。





先に進み、誠に、誠に細くなった水路を辿ると落合川上流端とあった。その先は水もない溝があり、ほどなくその溝も消え失せる。美しい湧水の上流端は民家に囲まれた溝で終わっていた。

坂の地蔵様
上流端を離れ、家路へとバス停を探して小金井街道を下る。落合川を離れてほどなく、小金井街道から分かれる細路脇にお地蔵さまの祠。「坂の地蔵様」と呼ばれ、明和5年、というから、西暦1768年の建立。このお地蔵様は追分の道標も兼ねており、「右大山道 左江戸道」とある。

右の大山道とは現在の小金井街道。上でメモしたように江戸の頃は前沢宿を起点に府中、そして大山へと続いた。左の江戸道は、細路を辿ると現在の所沢街道と平行して走り、六角地蔵尊で所沢街道と合流していた。六角地蔵尊にあった江戸道(江戸側からみれば所沢街道)の道筋がこんなところで繋がった。なんとなく、嬉しい。心も軽く、一路家路へと、バスに乗る。

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