関ヶ原散歩の2日目は大垣からはじめる。関ヶ原の合戦の前哨戦、と言うか、ことによっては、主戦場ともなったかもしれない、西軍の居城・大垣城当たりを彷徨い、その後、大垣の北僅か4キロ程度、大垣城に対峙する東軍の本陣となった中山道・赤坂宿を訪れる。赤坂宿からは旧中山道の垂井宿を経て関ヶ原に移り、毛利勢が籠もった南宮山、小早川秀秋が布陣した松尾山に上る。後は時間次第、成り行きで、島津軍の撤退路である牧田路を辿ってみよう、と。
昨日の関ヶ原における西軍布陣の跡をメモしながらも、どうして主戦場が大垣城・赤坂のラインから関ヶ原にシフトしたのか、未だによくわからない。関ヶ原を主戦場とするような大きな戦略が、どこかで動いていたのか、それとも、東西両陣営の戦況次第の「成り行き」故のことなのか、はっきりしない。また、そもそもが、大垣城が何故に西軍の拠点となったのか、大垣の「有り難さ」もよくわかっていない。とりあえず、大垣を歩けば、何か、その「有り難み」の一端にでも当たるかも、といった、いつも通りの、お気楽な散歩スタイルで大垣を歩くことにする。
関ヶ原では、実際に南宮山や松尾山を上り、それぞれの山上の布陣跡を辿り、山上から関ヶ原の合戦の地でも眺めれば、文字面だけではない、それぞれの陣立ての合戦時のポジショニングなどを実感できるかも、と。同僚と3名、関ヶ原の合戦への空想・妄想の旅にでかけることに。
本日のルート;大垣・水門川>大垣城>中山道・赤坂宿>川湊跡>安楽寺・家康本陣跡>中山道・垂井宿>南宮大社>南宮山>桃配山・徳川家康最初の陣跡>不和の関跡>松尾山>牧田路
大垣:美濃と尾張・伊勢を結ぶ水陸の要衝
どこで手に入れたのか、今となっては、覚えてはいないのだが、「城下町大垣観光マップ」を手掛かりに、大垣の町を歩く。地図を見るに、水門川が大垣の城を囲む。水門川は、かつて、お城の外濠であった。お城の南、大垣城西総門跡を少しくだったところに「奥の細道むすびの地」の碑。松尾芭蕉は、およそ5ヶ月におよぶ「奥の細道」の旅を、ここ大垣で終えた。「蛤のふたみに別 行秋ぞ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ船で下った。奥の細道の終点、ということも、大垣と芭蕉の深い関係など、それはそれで面白いトピックではあるのだが、今回の散歩のテーマ、関ヶ原の合戦の視点からの「大垣の有り難さ」、からして気になったのは、桑名に船で下った、というくだり。水門川は揖斐川に合わさり、桑名と結ばれていた。桑名は古くからの東海道の要衝。七里の渡しをへて東海道・宮宿と結ばれ、南には伊勢路へと下る。大垣は桑名に通じる水運の要衝の地であった、ということだ。
水門川を隔て「奥の細道むすびの地」の逆側には、住吉燈台と船町港跡の碑があった。高さ8m、四角の寄せ棟造りの住吉燈台は、その菜種油の明かりで、船町港への出船・入り船の目印になっていたのだろう。地図を見ると、大垣の東を流れる揖斐川、西を流れる杭瀬川、養老山系からの牧田川の合流するあたりで、水門川も合流し、揖斐川となって伊勢へと下る。そして、この合流地点の福束に西軍に与する小城があった。この城が、8月16日に東軍に与する美濃衆の手に落ちた。福束城の落城により、大阪・大和・伊勢・桑名を経て濃尾に通じる補給路が断たれたことが、大垣籠城を見切った一要因、と言う説もある。大垣は、それほどまでに、重要な水運・兵站の拠点でもあった、ということだろう。
また、大垣市内を水門川に向かって歩いていたとき、美濃路大垣本陣跡とか、美濃路大垣問屋場跡、といった「旧美濃路」の案内が目に付いた。美濃路とは中山道の垂井宿から大垣を経て、墨俣・清洲、そして東海道の宮宿を結ぶ脇往還。街道が整備されたのは江戸の頃ではあろうが、東軍の進撃路にも沿っており、関ヶ原の合戦の頃にはある程度道は開けていたのであろう。また、大垣は中山道の赤坂宿や垂井宿までも指呼の間。陸路の要衝でもある。つまるところ、大垣って、美濃と尾張・伊勢を結ぶ「水陸の要衝」であったのだろう。
大垣;湿地帯に囲まれた自然の要害
水門川を北に進み、水路が東に折れる辺りの八幡神社に大垣の湧水がある、と言う。湧水フリークとしては、歩みも、心もち早くなる。神社境内の湧水は自噴水と呼ばれるように、勢いよく地下より噴き上がっている。「大垣観光マップ」を見るに、ここ以外にも、大垣城大手門近くの名水大手いこいの泉など、市内各所に自噴水があるようだ。
自噴水は揖斐川からの伏流水と言う。養老山系からの伏流水という人もいる。どちらの説が正しいのか、専門家でもないので、はっきりしないが、ともあれ、大垣の周囲は東西南北、どちらの方向にも幾多の河川が流れる。伏流水が噴き出してもなんら不自然ではない。往古、現在の濃尾平野はすべからく「海」であった。そこに旧木曽川三十六流とも呼ばれたように、流路定まらぬ木曽川水系の木曽川・長良川・揖斐川が気ままに流れ、扇状地を形づくり、その下流には、氾濫のたびにあちこちに自然堤防帯がつくられ、氾濫の後には後背湿地が残った。人々は扇状地からはじめ、島や自然堤防そして後背湿地が交錯する氾濫原である「自然堤防帯」を埋め立て陸化し、濃尾平野を形づくっていった。
大垣も揖斐川や杭瀬川の乱流による氾濫原に残った、後背湿地帯のひとつである。大垣は「輪中」で知られる。洪水氾濫後に堆積した土砂を利用し堤防を築き、補強を繰り返し、集落を水害から守るため、ぐるりと堤防で囲んだのが「輪中」。輪中の先端部には水神を祀る、と言う。大垣には24もの水神が残るというから、大垣は多くの輪中によって守られていたのだろう(『日本人はどのように国土をつくったか・地文学事始;学芸出版社』)。湿地から悪水を抜き、現在では埋め立てられ町屋となっているが、元は後背湿地であったわけで、周囲を流れる河川の伏流水が自噴水となって、市内各所に噴き出している、ということだろう。
八幡様の自噴水から輪中の話しとなったが、要は、大垣近辺は木曽三流の形成する後背湿地帯、ということ。城の前面に幾流もの河川が流れ、流路定まらぬ大河が作り出した氾濫原がひろがっていたのだろうから、攻めるには難儀ではあったろう。今回のテーマである大垣の「有り難さ」の観点で考えれば、少々、牽強付会、こじつけ、の感無きにしもあらず、ではあるが、大垣城はひょっとすれば湿地帯が前面に拡がる堅城であったのかも。水陸の要衝とともに、このことも、大垣の有り難さのひとつであった、かも。単なる妄想。根拠なし。
大垣城
八幡神社を離れ、その妄想上の堅城・大垣城に向かう。国宝であった天守も戦災で焼失し、現在の天守は1959年(昭和34年)に再建された鉄筋コンクリートの建物である。大垣城の歴史のあれこれはパスし、関ヶ原の頃をチェックすると、当時の城主は、伊藤彦兵衛盛宗。石高は三万四千石。父の長門守祐盛は城造りが「趣味」であったとのことで、文禄四年から慶長元年にかけ、四層の天守閣を作り上げた。彦兵衛もその趣味を受け継ぎ、二の丸、三の丸と改修を進め、二十万石もの大名がもつような立派な城を造りあげた(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』より)。
石田三成は8月10日にこの大垣城に入った、とされる。が、入城までには一悶着あったようである。城接収の交渉に出向いた西軍使者が、「武門の意地」を示すため、形だけの交戦を、との伊藤彦兵衛のサインを見逃し、戦闘状態に。接収の使者の軍勢には被害多く、結局、豊後杵築城主・福原右馬助と平塚為広が城を包囲。もとより、戦闘の意志のない大垣勢は、即開城し、城には福原長堯等七千百が籠もる。ちなみに、接収に出向いた使者のひとりが福束城主;丸茂兼利。上で、福束城が東軍に落ちた、とメモしたが、それは、この接収時の被害による戦力ダウンも、その一因であった、とか(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』より)。
三成の大垣入城から関ヶ原前夜に至る東西両軍の動きをまとめる。
8月14日、東軍 福島正則の居城 清洲城に入城。
8月16日 西軍 丸茂兼利の福束城が東軍の手に。西軍、大阪・大和・伊勢・桑名を経て濃尾に通じる補給路が断たれる。
8月17日、西軍 島津勢、佐和山城から大垣に向かう
8月19日、家康の使者、清洲に到着しで檄。東軍に進軍の動き。
8月20日 西軍、島津勢大垣郊外6キロの墨俣に進軍。木曽川・長良川・揖斐川の合流点であり、濃尾決戦の最重要戦略拠点と想定。
8月21日 午後5時頃、東軍清洲発。二手に分かれ、一隊は木曽川上流の渡河点・河田をへて岐阜城攻略へ。池田・堀尾・山内・浅野・一柳勢、一万八千。
もう一隊は下流の尾越の渡しを経て岐阜城攻略へ。福島・細川・加藤・藤堂・黒田・田中勢、一万六千。
8月22日早暁 河田の合戦で東軍池田勢、岐阜城主織田秀信勢に勝利。岐阜城攻略の勢い。 8月22日夜明け 尾越(起)の渡しを渡った福島勢、岐阜城の支城・竹ヶ鼻砦を落とす。池田勢の岐阜城攻めの勢いに、遅れてはならじと、尾越の渡しルートを進んだ軍勢のうち、福島隊は岐阜に急行。先陣争い故の強行軍である。
8月23日、河田ルートを進撃した池田勢他と、尾越より急行した福島勢により岐阜城落城。 8月23日、尾越ルートを進んだ黒田・田中・藤堂勢は、福島正則の岐阜攻城戦について行けず。他の「獲物」を探す。家康への馳走には、治部の本拠を衝くべし、と岐阜から大垣への最短コースを選ぶ。石田勢、その進撃を防ぐべく、舞兵庫に一千の兵を与え、合渡川の渡しへと急行するも、黒田勢との合渡川の合戦に敗れる。
大垣城外沢渡村に布陣した、三成は岐阜落城の知らせを受け、大垣城籠城を決める。墨俣に布陣の島津豊久は孤立。義弘は豊久救援のため、少人数ながら呂久川対岸に堂々と布陣。合渡を突破した黒田・田中・藤堂は島津を攻めることなく、赤坂宿方面に進む。島津勢、無事大垣城に戻る。島津を見捨てた三成に、島津は怒り心頭であった、とか。
8月24日 東軍・赤坂着陣。
8月28日 西軍 長松城の武光勢、東軍の赤坂布陣に怖れ、城を脱出。東軍 一柳直盛が入城。大垣と関ヶ原(垂井)の中間にあり、大垣と垂井の西軍連絡網、遮断される。相川北岸は東軍域となる。
9月1日 東軍 家康 江戸出立
9月2日 西軍 大谷行継 山中村に布陣
9月3日 西軍 伊勢路転戦の宇喜多秀家 大垣城 入城
9月7日 西軍 毛利、南宮山に布陣。毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親。
9月11日 東軍 家康 清洲城着。
9月13日 西軍 小早川秀秋 松尾山に布陣。
9月13日 東軍 家康 岐阜城入城
9月14日 正午 東軍 家康 赤坂到着。
こうして、9月14日 午後 家康は赤坂の小丘(岡山)に本陣を造営する。この推移を見ていると、東軍に大いなる戦略があるように思えない。西軍も同様である。大雑把に言えば、木曽川を境にして、東の尾張は東軍、西の美濃は岐阜の織田秀信が西軍に与した、ということもあり大方は西軍。当初、木曽川を境に濃尾平野で一大会戦とでも想定されていたのだろう。が、清洲に東軍が8月14日に到着するなど、予想以上のスピードでの展開であり、また、大垣とともに西軍の拠点として東軍に対峙するはずの岐阜城が、予想以上に簡単に東軍に落ちる。上に岐阜城攻略戦に参戦できなかった東軍諸隊が大垣を目指すも、結局は赤坂に、とメモしたが、人によっては、それは成り行きではなく当初から赤坂に家康の本陣を構え、岐阜・清洲と連携し大垣を攻略する、といった戦略であった、と言う。本当のことはよくわからない。わからないが、結局は赤坂宿に家康の本陣が敷かれた。その赤坂宿に向かう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
中山道・赤坂宿
大垣を離れ、赤坂宿へと向かう。今となっては、どこをどのように進んで赤坂に行ったのか、そのルートは定かではないが、貨物引き込み線のある美濃赤坂駅、川湊跡、川湊跡のすぐ隣にあった記念館、如何にも落ち着いた町並み、そして家康が本陣を構えた、という岡山(勝山)の風景だけは、はっきりと記憶に残る。
記憶を順に辿る。まずは美濃赤坂駅。この駅は秩父を訪れたときに出会った駅の風景をダブルところがあった。秩父の駅には武甲山を切り崩した石灰を運ぶ貨物列車や引き込み線があったが、この美濃赤坂駅にも引き込み線が残る。北にある金生山は石灰の切り出しで知られる山であった。秩父の武甲山がそうであったように、切り崩された山肌が剥き出しになっており、現在も日産1万トン近い石灰が採掘されている、と言う。また、この山は石灰だけでなく古くから大理石も採掘されたようで、平安時代後期に編纂された『続日本紀』には、その記録が残る。
川湊跡
杭瀬川にあった赤坂宿の川湊である。杭瀬川の流路は元揖斐川の本流であった、とのこと。享禄3年(1530)の大洪水で流路が変わり、本流は赤坂川湊の東、200mあたりを流れ、杭瀬川はその支流となった。支流となるも、上流1キロほどのところにある池田山からの自然の湧水を集め、舟運は衰えることなく、江戸の頃はこの地より、米、材木、酒、そして金生山から採掘した石灰などが杭瀬川を下り、桑名へと運ばれた。
明治になり石灰採掘技術が進むと、大量の石灰が舟運で運ばれ、往来する数、数百艘とも言われた。この舟運も大正になり鉄道にその役割を譲り、現在は常夜灯が残る親水公園として往時の名残を留める、のみ
川湊跡のすぐ隣には赤坂会館。明治8年に建てられた警察署を移築したもの。現在の機能重視の建物とはちょっと違った外観は、如何にもの存在感を示す。観光・史跡案内兼赤坂宿の資料館となっていた。
和宮お嫁入り普請の町並み
旧中山道に沿って本陣跡、脇本陣跡や和宮お嫁入り普請跡の町並みを彷徨う。和宮お嫁入り普請とは、皇女和宮が江戸将軍家に嫁ぐに際し、街道筋の町屋を建て替えた。建て替え費用は10年で返済、とのことではあったが、その間に幕府が倒れ、返済はそのまま立ち消えになった、とか。
家康本陣跡
赤坂宿の雰囲気を感じ、家康本陣のあった岡山を目指す。町並みを成り行きで南に下り、美濃赤坂駅当たりまで戻り、西に小高い台地を見やりながら、更に線路に沿って南に下ると安楽寺。推古天皇元年(593)、聖徳太子建立と言う。この安楽寺の建つ岡の中腹に家康の本陣があった、と言う。徳川家の三ツ葉葵の紋を許されたということも、頷ける。
寺の石段をのぼり、境内に。寺の梵鐘は、関ヶ原合戦の時西軍の大谷吉継が軍営で使用したもの。お参りを済ませ、山頂、といっても53m程度ではあるのだが、その山頂への途中、壬申の乱の碑もあった。壬申の乱の時、大海人皇子が勝利祈願をおこない、戦勝後、天武天皇となったが大海人皇子、敵として戦った大友皇子の冥福を祈り宝物を寄進した、という話も残る。
ちなみに杭瀬川の名前も壬申の乱の大海人皇子に由来する、との説がある。関ヶ原の不破の関あたり、黒血川で大友皇子軍と戦い傷ついた身体を、杭瀬川(当時は矢の根川、とも)で癒した。ために、苦癒(くいや)せ川>杭瀬川と転化した、とか。ちょっとできすぎ、か。
石段を上ると、それらしき物見台があった。家康本陣から大垣を眺める、といったイメージつくりの観光用のものではあろう。8月24日に黒田・細川勢が赤坂に到着し。家康が本陣を構えた9月14日まで、おおよそ二十日。東軍諸将は丘の麓や周囲に布陣し、砦を築いて大垣城を本拠とする、石田三成らの西軍と対峙した。
家康になった気分で大垣、陣立てを見下ろすに、中山道に沿って東から筒井定家、藤堂高虎、黒田長政、金森長近、加藤嘉明、細川忠興。中山道と家康本陣のある岡山(勝山)の間には、東から松平忠吉、本田忠勝、井伊直政、京極高友。岡山の東には田中吉政、西には堀尾忠氏、福島正則。岡山の山麓下には、東から時計回りで、織田有楽斉、中村一忠、有馬豊氏、池田長吉、池田輝正、浅野行長、生駒一生、山内一豊。そして、岡山から少し離れた、現在の中山道と大谷川が交差するあたりの長松城に一柳直盛が陣を張る。
杭瀬川の合戦
それにしても、西軍方は、家康がこれほどまでも早く岐阜まで戻るとは思っていなかったようである。西軍内に動揺が起こる。美濃で戦火を交えた外様大名を中心とした東軍総勢三万五千弱。家康本隊三万二千七百。それに、実際は到着していないものの、秀忠率いる中山道隊は三万七千四百も勢揃い、などと考えれば東軍の総勢は十万。少々戦慄が走る、かも。
その西軍の動揺を鎮めるべく、家康着陣の9月14日、西軍の石田三成の将・島左近と宇喜多秀家の将・明石掃部が仕掛けたのが杭瀬川の合戦。場所はJR北大垣駅の少し南、杭瀬川が東海道本線と交差するあたりである。
島左近五百。宇喜多勢八百。林に伏兵を隠すなどの仕掛けを整え、島左近勢が杭瀬川を越え、稲刈りを始める。明らかな挑発。前面には中村一忠勢(当時11歳)。挑発にのり中村勢追撃し杭瀬川を越える。頃合いを見計らい、島隊の伏兵隊が出現。島隊も反転し中村勢壊滅。中村勢の隣に陣を張る有馬豊氏が救援に。杭瀬川を渡河する宇喜多勢の明石掃部勢に横槍。中村・有馬勢、杭瀬川を越える。左近の伏兵が中村・有馬勢を突き壊滅状態に。東軍の本田平八郎が突進し、残兵収容し、戦いは終わる。局地戦とは言いながら、東軍、または、家康、恐るに足らず、と西軍の気勢が上がった、とか。
杭瀬川の合戦、とメモはした。が、実際には訪れていない。メモを書く段階ではじめてわかったもの。前もってあれこれ調べず、成り行きでのお気楽散歩であるので、後の祭り、となることが多いのだが、この杭瀬川の合戦跡には行ってみたかった。後の祭り、をしみじみ感じた。
三成関ヶ原に
杭瀬川の合戦には勝利したものの、三成は合戦当日の夕刻7時頃、大垣城を離れ、関ヶ原へのシフトを決める。両軍の推移を整理しながら自分が三成になったつもりで妄想すると、とてもではないが、怖がりの自分には大垣に留まる自信は、ない。
家康勢10万近くが、大垣の周辺に集結(実際は秀忠軍が未着で七万程度だが)し、尾張だけでなく、美濃も岐阜城を含め東軍に下る城も多くなる。伊勢・大和からの兵站拠点も東軍に下る。中山道は東軍に抑えられ、陸路からの兵站補給も少し危うい。頼りの大阪城の主将である毛利輝元の来援の見込みも、ない。となれば、西の大阪との兵站路を確保するには、家康軍より少しでも西に布陣して大阪との繋ぎをつくっておこう、それには伊吹山系と鈴鹿山系が接する地溝帯を通る中山道、西の近江に抜ける北国街道脇往還を扼する関ヶ原の地がよかろう、と思う。
ということで、かどうかはさだかではないが、ともあれ、9月14日午後7時頃、大垣城に詰めていた西軍は関ヶ原を目指し、石田軍を最初に、第二に島津、第三は小西、第四に大谷・脇坂・朽木・小川・赤座、第五・殿軍を宇喜多の順に出発した。順路は大垣の西から杭瀬川を渡り野口村へ迂回。南宮山に隣接する栗原山の麓に至り、そこから山入りし南宮山の西、牧田川が開いた牧田路を北に上り、関ヶ原に向かった。
大きく迂回した理由は、先の散歩で大垣の北、4キロほどのところにある赤坂に布陣した徳川家康の、軍勢に進軍を秘するためであった、とメモした。が、本日の散歩で、長松城が東軍に下ったということがわかった。長松城は大垣と関ヶ原を直線で結んだ中間点にある。結局、南宮山の南を迂回するしか道はなかった、ということであろう。私たち3人も、そろそろ、赤坂での空想・妄想から離れ、場所を関ヶ原へと移す。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
南宮大社
旧中山道に沿った県道216号を西に進み、大谷川を渡ると、県道を離れ、南西に青野町から追分交差点へと進む。追分は中山道と美濃路の分岐点。旧中山道を進み、相川を越えると垂井宿に入る。問屋場跡、本陣跡を見やりながら南宮神社の一の鳥居・常夜灯目安にを左に折れ、一直線に南に進み、南宮山への上り口のある南宮大社に向かう。
楼門前の石橋は神様用であり、我々凡俗の民は、脇の参拝者用石橋を渡り境内に。朱に塗られた社殿、拝殿、舞殿など、誠に結構なる構え。美濃一宮である、ということも頷ける。主祭神は金山彦命。神話では金山彦命はイザナミノミコトが火の神カグツチを生むときに熱さのあまり吐き出したものが神となったものである。鉄器、金属といった金気一切を司る神様といったものだろう。全国に点在する金山彦を祀る神社の「総本山」として、鉄にかかわる人々の信仰を得た。
それにしても、なにゆえに、鉄をつくる人々が信仰する神様が、この地にあるのだろう。あれこれ妄想するに、谷川健一さんが書いた『青銅の神々の足跡』は南宮大社の「ふいご祭り」の描写から始まっている。伊吹山から下る強風、というか、伊吹山系の南を垂井へと抜ける風の道は、火力を強め、高温で砂鉄(磁鉄鉱)を溶かし鋳造鉄をつくる「たらら製鉄」に適した立地であったのだろう。南宮山の北、伊吹山麓の伊富岐神社、美濃国の二宮であるこの社は伊福氏の祖先神を祀る。伊福部とは、吹子によるたたら炉を扱う民を掌握する氏族である。神武東征の折り、鉄器の供給で戦いに貢献し、その功により河内の日置庄を賜り、そこに金山彦命を祀った氏族が、この地に移り住んだ、といった、とも伝わる。ともあれ、南宮大社を中心に、このあたりには鉄をつくり、その神を祀る氏族が住んでいたのだろう。
ところで、鉄器造り、と言えば「たたら製鉄」と思い込んでいたのだが、鉄器をつくるには、鋳造型の「たらら製鉄」だけでなく、鍛造型の鉄器つくりも古くからあったようだ。鍛造型とは鉄鉱石を叩いてつくるもの。材料となる鉄鉱石は褐鉄鉱や赤鉄鉱。先ほど訪れた赤坂の金生山は赤鉄鉱の産地として知られる。また、尾張の湿地に生える芦原の根本から褐鉄鉱(スズ・サナギ)が採れた、とも言う。
タタラ製鉄って、山陰地方が有名であるが、山陰地方などでタタラ製鉄が活発になるより以前、古代の東海地方では、質は劣るものの、タタラ炉を作らなくても野辺で鉄をつくる独自技術で製鉄を始めていた、ようである。美濃地方は四世紀ごろから鉄器をつくるための材料となる鉄鉱石(磁鉄鉱・砂鉄、褐鉄鉱、赤鉄鉱)の発見とともに製鉄が始まり、飛鳥時代には一大鉄器生産地となっていた、ということだ。南宮山が金山彦を祀る理由は、こういった事情であったの、かも。単なる妄想。根拠なし。
ちなみに、往昔、この社は中山金山彦の社(正確な名称はよくわからない)、と称されたようである。中山は『山海経』五蔵山教の南山教、西、北、東、中山教の五篇、各山脈の内、出鉄・製鉄の中心とされている故の呼称だろう、か。また、南宮社となったのは、国府の南、という説もあれば、ミナカタ=南の方向は、五行思想での火の神の座に当たる故、との説もある。妄想・空想は拡がっていきそうだが、そろそろ南宮山に上ることにする。
南宮山
南宮大社の社殿の南側を進むと、「南宮山ハイキングコース」と書かれた道標がある。道標に従い、先に進んでいくと、「瓦塚」。社殿に使われていた瓦が葬られている塚とのことである。さらに奥へと進むと、南宮稲荷神社の参道へとつながり、連続して続く朱の鳥居をくぐり抜け、左に分岐するルートをとると、途中に安国寺恵瓊の陣跡という表示ある。実際の恵瓊の本陣そのものは、登山道の東側にある東蛇溜池の向こう側の高台ではあるのだが、まあ、このあたりにも布陣していた、ということだろう。
安国寺恵瓊の陣跡を過ぎると、登山路となる。路はきちんと整備され迷うことはない。本陣に向け、比高差362mほどを上ることになる。登山脇に積まれた石積みを見やりながら、先に進むと巨大な御神木。幹には注連縄が巻かれている。山道を上りながら、左右の堅堀や、段状に削られた曲輪跡のような地形が見える。というか、陣跡への上り故に、そう思い込んでいるだけ、かも。毛利秀元一万六千、吉川家四千の部隊がこの山中に留っているわけだから、山中のあちこちに削平地は必要だろう。
更に、先に進むと道脇に小さな祠。山に上り始めておおよそ30分強。高山神社と呼ばれる。祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)。この山には椿が多く、故に、別名椿姫宮とも。また、子安観音も兼ねている、と。
高山神社から先は尾根道を30分弱歩くと、視界が開け、空が拡がる展望台に到着。山頂は標高419mであるが、展望台は標高404m。山頂から少し下ったところに毛利秀元の本陣があった。「南宮山毛利秀元陣所古址」と銘記された石柱のほか、関ヶ原合戦陣形図などが立っていた。
本陣跡からは大垣方面の平野部も含めて広大な濃尾平野を見渡すことができる。しかしながら、本陣跡からは、関ヶ原は全く見渡すことができない。南宮山本陣への上りに1時感ほどかかったが、この本陣から南宮山の尾根道を上り、関ヶ原にむかうとすれば5つの尾根を越えて、2時間以上の山越えは必要だろう。本陣跡に上って感じたことは、この毛利の布陣は、戦う意志の有無は別にして、大垣城を巡る会戦の後詰め、といった構えであり、関ヶ原の合戦に向けたものではあり得ない。大垣城を巡る会戦への直接参戦を避けるべく、後詰めとの名目で、この山に籠もったのであろうが、状況が大きく変わり、結果的に関ヶ原合戦での陣立てのひとつとなってしまった、ということだろう。
南宮山に籠もった毛利軍は秀元の本陣を山頂近くに押しやり、麓に東軍に内応の吉川広家が布陣。結局、関ヶ原の合戦には全く動くことはなかった。「宰相殿の空弁当」という話がある。西軍への参戦を求める安国寺恵瓊の再三の要請に対し、宰相秀元は食事中、との口実で返答を避けた、と伝わる。
空弁当が事実かどうかわからないが、それまでして、東軍への内応をやり遂げ、本領安堵を図った毛利勢であるが、結果的には、あれこれの経緯があって戦前の120万石から37万石へと大減封となった。ちなみに南宮山の東禄に布陣し、何も動くことのなかった、安国寺恵瓊千八百、長塚正家千五百、長曽我部盛親六千六百の戦後処置であるが、安国寺恵瓊は六条河原で小西行長・石田三成と共に斬首。長塚正家も居城近江水口城に戻るも捕縛・切腹の後、首は三条橋に晒される。長曽我部盛親はあれこれの経緯があるも、結局は領地没収。その後大阪冬の陣、夏の陣に西軍として参戦するも、大阪落城後、京にて斬首された。結局、南宮山に集結した西軍勢で、「静観」故に報われたものは、誰もいない。
桃配山・徳川家康最初の陣跡
展望台から山道を下り、南宮大社へと戻る。国道21号を西に進むと野上地区に。「一ツ軒」交差点の少し手前の桃配山の麓に、家康は初戦での本陣を設けた。桃配山は南宮山の西北麓にある小山であり、関ヶ原盆地の東の入口を扼す。桃配という名前は、往昔、この地で天智天皇の弟(異説もあるが)である大海人皇子と、天智天皇の子である大友皇子が戦った壬申の乱のとき、大海人皇子が兵士に桃を配ったことに由来する。桃は邪気を祓い不老不死の力を与える霊薬である果実とされていたようだ。その故事にならい、家康の参謀である本多平八郎忠勝がこの地を本陣とした、と言う。
本陣辺りの地区・野上といえば、「野上行宮」が思い起こされる。行宮(行宮)とは仮の御所といったもの、壬申の乱のとき、大海人皇子がこの地にあった尾張大隅氏の私邸を行宮として大乱の指揮を執った。何故に尾張大隅氏の私邸を指揮所としたか、ということだが、あれこれの経緯は省くが、大海人皇子は尾張氏系の大海氏と関わりあるとされる。壬申の乱に際しては、吉野より尾張・美濃に進み、軍資金など尾張系氏族の援助を受け、大友皇子との戦いに備えた。
野上行宮の場所は、家康最初の本陣の少し先を南に折れ、新幹線をくぐった先にある、とのことであった。これも、残念ながら、前もっての事前調査無し、を原則とする、お気楽散歩故の、後の祭りのひとつではある。ちなみに、大海人皇子が壬申の乱に勝利し、武天皇となったが故に後に指揮所が行宮と呼ばれるようになったのだろう。
不破の関守跡
国道21号を西に進み、梨の木川を越え、更に西に進み藤古川の手前、道路を少し南に入ったところに不破関守跡。不破の関は、古代の東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、古代の東山道に設けられた関であり、畿内防衛の重要拠点であった。これらの関は、特別に、「三関」と呼ばれ、関より東が東国である。
不破の関が設けられたのは、673年のこと。天武天皇の命により設置された。その後、8世紀の後半には非常時の時を除いて関は封鎖されることになった。費用負担が大きかったのが閉鎖の一員とも。芭蕉も『野ざらし』の中で「秋風や藪も畠も不破の関」と詠む。『新古今和歌集』にて藤原良経が詠んだ「人住まぬ不破の関屋の板さびし 荒れにしのちはただ秋の風」を踏まえて作ったもの、という。荒れ果てた関跡がちょっとイメージできる。ところで、不破の関。壬申の乱の頃には、未だ関は設けられてはいない。大海人皇子の軍勢は鈴鹿山系と伊吹山系の狭隘の地を通る古代東山道の東の出口、道を藤古川が遮る辺りの「不破の道」を塞いだわけである。道を塞ぎ、近江朝・大友皇子の東国への援軍要請の連絡網を絶ち、大海人皇子と縁の深い美濃・尾張勢を味方につけ、壬申の乱を戦い、勝利を得た。
上に大海人皇子は尾張系の大海氏との関係が深い、とメモしたが、大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら)は美濃の安八磨郡にあった。湯沐邑とは皇后や皇太子に私的に与えられた土地であり、その地美濃の安八磨郡とは西美濃でも最西端にある。吉野から美濃へと迂回した理由も、頷ける。安八磨郡には先ほど赤坂宿でメモした金生山も含まれており、ひょっとすれば、その地で作られた鉄器には武器も含まれていたであろう。大海人皇子直轄の武器庫があった、との説もある。ともあれ、美濃・尾張の軍勢と、鉄の兵器をもって近江朝の大友皇子を打ち破った。
壬申の乱、というか大海人皇子や大友皇子の頃の日本はおもしろい。壬申の乱は百済系の天智天皇・近江朝廷・大友皇子と新羅系の大海人皇子の戦いととらえる人もいる。あれこれ説があり、門外漢はあまり深入りできないが、黒須紀一郎さんの『覇王不比等』は、この頃の大陸との動きに連動した「国際的」な日本の朝廷の姿が描かれて、大海人皇子や大友皇子のあれこれが、誠におもしろかった。
松尾山・小早川秀秋陣跡
不破関守跡を離れ、藤古川を渡り、成り行きで南へと進み、藤古川に黒血川が合わさるあたりにあった駐車場に車を停め、幟に従い松尾山へ向かう。登山道は整備されている、というかブルドーザーで山頂近くまで道を削ったようだ。山の斜面もそれなりに急ではあるが、木々を伐採してしまえば、軍勢が一気に下ることもできそう、などと、同僚とあれこれ空想しながら東海自然歩道となっている登山道進み、勾配の急な階段を上りきると松尾山頂。登山口から2キロ、およそ40分弱で標高293mの頂上に到着した。頂上は意外と広く、ベンチや四阿が整備されている。北に向かった方向は木々が伐採されており、関ヶ原が一望の下に見下ろせる。昨日歩いた笹尾山の三成の本陣に翻る幟もはっきり見える。これほどはっきり合戦地が見下ろせるとは思わなかった。
松尾山にはその昔より松尾山城が築かれていた。近江と美濃の「境の城」として、時には美濃へ、あるときは近江へと備えたこの山城は、山頂に本丸、周囲に四つの曲輪を配し、曲輪の周囲に土塁を築き、それぞれの曲輪には腰曲輪を備えた結構なる城であった、とか。で、この城に9月13日、突如陣を構えたのが小早川秀秋。9月14日のお昼頃、との説もあり、よくわからない。それまでの動きをチェックすると、8月17日には近江に軍を進め、石部に10日あまり、その後、鈴鹿まで進み5,6日留まり、佐和山の近くの高宮まで戻り13日頃まで、漫然と日を過ごした、と伝わる。
合戦前夜、という絶妙のタイミングでの松尾山布陣、それも、三成の9月12日付け、増田長盛宛の書状では、松尾山には西軍の総大将・毛利輝元を迎えるとなっており、そのうえ、この松尾山に既に布陣していた元の大垣城主伊藤盛正を押しのけての布陣である。高宮で東軍への内応を取り付け、東軍・黒田家からのお目付が小早川勢についていた、とも言われている。絶妙な日時での強引な布陣。何かの軍略が働いていたか、単なる偶然なのか、あれこれの説もあり、よくわからない。
ともあれ、このような絶妙のタイミングで松尾山に陣取った小早川勢が、西軍が優勢に推移していた状況を一変させる。小早川秀秋の裏切りの軍勢一万数千名が松尾山を一気に下った。唯一の救いは、主・小早川秀秋を見限り、主命の裏切りに服すことのなかったのは小早川勢の先鋒・松尾主馬とその配下にあった一千五百。戦後、松尾主馬の行動に感銘を受けた将も多く、結局田中吉政に一万二千石で家老として迎えられた、と(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』より)。
関ヶ原の合戦
松尾山からの小早川勢が戦局を一変させるまでの、合戦の推移をメモする;家康15日午前二時、赤坂発、桃配山着陣で夜が明ける。東軍布陣完了は午前7時頃。以下、参謀本部がまとめた東西両軍の布陣。
一番隊、先鋒福島隊6千は関ヶ原の南部に布陣。天満山の宇喜多秀家一万七千に対峙する。別働隊;藤堂高虎二千四百九十、京極高知三千、その後ろに寺沢広高二千四百が福島対の少し北に布陣し、松尾山の小早川秀秋一万五千に対峙する。
二番隊主力は関ヶ原北部、山麓から北国街道脇往還に向かって、北から細川忠興五千、加藤嘉明三千、田中吉政三千、筒井定次二千八百五十、松平忠吉、井伊直政。これら前線部隊の後ろに第二段として、金森長近、生駒一正、またその後段に織田有楽、古田重勝が北国街道を扼した小西行長四千、島津義弘・豊久一千弱、笹尾山の石田三成六千に対する。遊撃隊として黒田長政五千四百が二番隊と呼応して山麓最北端に布陣し、石田陣への突撃の機を伺う。
三番隊は徳川麾下の本多忠勝五百が桃配山の前面に布陣。背後に家康本隊三万が備える。四番隊は池田輝政四千五百六十が面宮山神社の前面に布陣
その西の中山道沿いに西から順に有馬豊氏九百、山内一豊二千五十八、浅野幸長六千五百が布陣慶長5年(1600年)9月15日早朝、午前8時頃、井伊直政、松平忠吉の抜け駆けをきっかけとした宇喜多秀家との銃火の応報で戦端が開かれる。抜け駆けに怒った福島正則勢は先鋒としての面子もあり、宇喜田の隊と全面戦闘状態に。宇喜多隊の前衛隊長明石全登は八千の軍団を率い福島勢を圧倒。劣勢の福島勢は加藤嘉明隊、筒井定次勢の助力を受け崩壊状態から踏みとどまる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
宇喜多の側面を衝こうとした藤堂高虎、京極高知勢は、大谷吉継別働隊の主軸である戸田重政、平塚為広が蹴散らし、松尾山前面まで進出する。西軍優位の勢である。
南部戦線の戦闘状態に呼応し、北部戦線でも東軍右翼の黒田長政、竹中重門、細川忠興らの隊は一斉に石田三成、小西行長の隊を攻撃。石田勢の猛将・島左近に翻弄される。島左近が銃弾に倒れた後も、入れ替わり攻め寄せる黒田、細川、田中、加藤勢に対し、石田勢の蒲生郷舎、舞兵庫が東軍の攻撃を跳ね返し、損害を与え、多勢に無勢ながら西軍優位に推移する。
小西勢は西軍で唯一劣勢ながらも、天満山の中腹でかろうじて抵抗。崩壊を食い止めていた。島津勢は不気味な「静観」。東軍も敢えて戦火を交えることをしなかった、とか。
かくして午前8時に始まった合戦は、午前中は西軍、すこし優位のうちに進む。家康も督戦のため、午前10時頃本陣を桃配山から最前線に近い陣場野に進める。正午、家康からの松尾山への銃撃を契機に、正午頃、小早川秀秋が松尾山を下り西軍を攻撃。初戦は大谷吉継勢が小早川勢を圧倒するも、脇坂安治九百九十、朽木元綱六百、小川裕忠二千百、赤座直保六百が東軍に寝返り、小早川に同調し、三方から攻められた大谷勢主力・平塚為廣、戸田重政は相次いで討ち死にし、大谷吉継も自害して果てた。
小早川の裏切りで大谷の隊が壊滅するとそれまで西軍優勢であった形勢は逆転し、小西行長、宇喜田秀家の隊も敗走し、石田三成の隊も奮闘したが敗走した。西軍は敗れた。戦闘が完全に終結したのは午後3時頃だったという。
戦局を大きく変えた諸将の戦後処置;小早川秀秋は筑前名島三十七万七千石から岡山藩五十五万石に加増・移封。脇坂安治は当初より内応の意志明確と大洲五万石に加増。その他の武将は、内応の意志不明確とのことで、朽木元綱は朽木二万石を安堵されず、一万石の減封。小川裕忠、赤座直保は所領没収となった。
島津勢の撤退路
合戦時、東西軍激戦の真っ直中で「静観」を保った島津勢。合戦集結の後、退却戦で武威を示すべく、敵中突破する撤退戦の実施を決定。前進し家康本陣の前を突っ切り、中山道や北国街道脇往還を逃れることなく、関ヶ原東南端の烏頭坂から牧田路(伊勢街道)を目指した。伊勢街道を目指した以上、伊勢の何処かから船に乗り薩摩に戻ったのであろう、と勝手に思っていたのだが、藤古川に沿って牧田まで下り、そこからは牧田川に沿って鈴鹿山系へと入り込み、幾多の峠を越えて、琵琶湖東岸・高宮に進み、水口を途中の集合地点としている。その理由はわからない。その先は信楽から甲賀の山系、生駒山系を辿り泉州・和泉へと進んでいる。
撤退路を少しでも遠くまで辿りたい、とは思えども、日暮れも近い。車で烏頭坂から牧田道を下り、牧田川との合流点あたりまで走ることにし、島津勢撤退戦の経緯をメモして、本日の散歩を終えることにする。
島津勢撤退線の経緯;合戦に耐えた島津勢六百動く。黒田、細川勢は静観。中山道か北国脇往還に折り返すときに追撃する計画であったのだろう。が、島津勢はそのまま前進。前面の福島正則勢は道を開けるも、福島正則の養子正之が攻撃。結果、潰乱。家康の督戦を受け、井伊、本田勢が攻撃。島津勢三百、四百に減るも家康本陣に迫る。
島津勢、本陣手前で旋回し、牧田街道の烏頭坂へと向かい伊勢街道へ。井伊、本田、松平忠吉が追撃。島津豊久は島津義弘の身代わりとして討ち死に(別の説も)。烏頭坂の途中で筒井勢が島津勢を迎え撃つも、島津勢蹴散らす。長寿院盛淳、島津義弘の身代わりに。追撃井伊直政、松平忠吉、島津の銃に重傷。
島津義弘、牧田路をそれ、多良路に入り、牧田川を渡る。牧田川を渡る頃は三十名程度に。牧田川の渓谷に沿って多良を目指す。養老山麓の急峻な山道を進み、勝地峠。勝地峠あたりで戦闘終結の令が追撃勢に伝わり、追撃軍引き上げる。牧田川に沿って南下し、下多良、多良を過ぎると、山道は南西に転じ、延坂、下山、堂之山、時山に。その先は、五僧峠を上り、杉坂峠を経て琵琶湖岸の高宮に出る。
高宮からは敵中を水口に向かう。水口は西軍の長塚正家居城。長塚正家も関ヶ原の合戦後、水口城に籠もっており、島津勢も、水口を一時集結する場所としていたようだ。実際、入来院衆がこの地で収容した負傷者二百五十余名。そのうち百八十が本国に戻った、と。島津義弘は水口から甲賀の山中の険路を突破し信楽の里。落ち武者狩りと戦いながら、生駒山系の南辺りを通り、和泉に到着。三日三晩の不眠不休退却行であった。義弘勢三十名に、途中で別ルートを進んだ島津の士が集結し八十名程度となる。大阪安治川に停泊の島津船が摂津住吉の浦で義弘勢、負傷者を収容し、西宮で内室を収容し薩摩に向かった(『島津奔る;池宮彰一郎(新潮社)』を参考にメモ)。
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