木曜日, 6月 30, 2011

関ヶ原散歩そのⅠ;佐和山からはじめ、関ヶ原の西軍の陣跡を辿る


もう数年前のことになるかとも思うのだが、会社の同僚と関ヶ原合戦跡を歩いたことがある。きっかけは何だったのか、定かに覚えてはいないのだが、合戦に登場する笹尾山とか松尾山とか南宮山とかの地形を、文字面だけでなく、実際に歩いてみよう、といった、その場の成り行きではあった、かと。ルートを想うに、どうせのことなら、関ヶ原合戦の前哨戦、というか、ことによったら主戦場となったかもしれない西軍の大垣城、東軍の赤坂の家康陣跡地もカバーし、それぞれの位置関係・距離感などを実感しよう、また、どうせのことなら、攻城戦を嫌った家康が主戦場を大垣城から離すために流した、とも伝わる、「東軍は大垣を攻めず、直接三成の居城・佐和山城を抜き、大阪城に向かう」、といった噂のキーワード、三成の居城・佐和山城もカバーしようということになった。佐和山城址がどこにあるのかも知らなかったのだが、チェックすると佐和山城址って、彦根にあった。彦根城は数回訪れたことがあるのだが、その「はじまり」が佐和山城であったことなど、全く知らなかった。

日程は1泊2泊。初日は彦根まで新幹線を利用し、そこからはレンタカーで動く。最初に佐和山城址を訪れ、次いで関ヶ原に戻り、主戦場となった関ヶ原の平地を、主として西軍陣地址を中心に歩き、宿泊は大垣とする。
2日目は大垣城あたりを彷徨い、東軍が大垣城攻防戦の陣とした中山道・赤坂宿、進軍路の垂井宿に進み、その後、西軍の毛利軍が陣を敷いた南宮山、小早川軍が陣を敷いた松尾山に上る。そして、時間次第で島津軍が東軍を中央突破して退却戦をおこなった、南宮山の西、現在では名神高速が走る牧田川にそった牧田路を下る、といったルーティングを想った。
散歩は数年前のこと。所用や私用で関ヶ原を新幹線で通過する度に、そのうちに、そのうちにメモをしなければ、気になりながらも、そのままにしておいた散歩のメモである。当時の写真を頼りに、薄れゆく記憶に抗いながら、メモをはじめる。



 本日のルート;佐和山城址>醒ヶ井宿>国道365号・北国脇往還>「決戦地」跡>笹尾山・石田三成陣跡>島津義弘陣跡>関ヶ原合戦開戦地碑>小西行長陣跡>宇喜多秀家陣跡>大谷吉継陣跡>平塚為広の碑

佐和山城址

JR米原駅で新幹線を下車。駅前でレンタカーを借りて彦根に向かう。県道329号線を走り、彦根城に。彦根城の雰囲気だけを少し感じ、市内を抜けて東海道線を越えて国道8号線に進む。佐和山城址は彦根市内の東、鈴鹿山系から独立した丘、というか山陵にある。佐和山のある独立山稜と鈴鹿山系の間には中山道、現在の国道8号が通る。
佐和山城址へのアプローチは、鈴鹿山系が琵琶湖に向かって大きく張り出した先端部近くを穿つ国道8号線のトンネル手前、国道左側の斜面にある東山ハイキングコースからスタートする。スタート地点付近はブッシュが茂り、それほど整地されてはいなかった。山頂へのアプローチは井伊家の菩提寺潭龍寺からのコースもあるよう、だ。
10分ほど緩やかな山道を進むと太鼓丸の案内。さらに数分で千貫井戸があった。お金・千貫にも代え難い貴重な井戸ではあったのだろう。このあたりからは彦根市街が見渡せた。山頂には上り始めて30分程度だった、かと。山頂の手前には本丸の石垣の跡が数個残っていたが、関ヶ原の敗戦後の佐和山城攻防戦で完膚無きまで打ち壊され、また、戦後の彦根城普請に持ち去られた佐和山城の、いまに残る僅かな名残ではあった。
山頂は標高232.5m。かなり広く、佐和山城本丸跡の碑がある。石田三成が天正18年にこの佐和山の城主となり五層の天守閣を構えた、とのこと。木立に遮られあまり見通しはよくなかったが、往昔、天守からは湖東地域や、佐和山の東の隘路を進み関ヶ原方面に向かう中山道と、木之本峠方面に向かう北陸街道の分岐を見通せる交通の要衝の地であったのだろう。
とはいいながら、実のところ、この城址が「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と、言わしめたほどの、規模感が感じられなかった。それは天守へのアプローチの問題も大きかったのか、とも思う。後からわかったことなのだが、佐和山城の大手門・大手道は佐和山の山稜の東、中山道の通る鳥居本のほうであった。大手門方面からのアプローチであれば、佐和山山頂を本丸とし、西尾根に西の丸、東尾根に太鼓丸、千畳敷、法華丸、山頂から北側に流れる尾根道には二の丸、三の丸を配した、鶴翼の構えを呈するお城の広がり感が感じられたのかもしれない。もっとも、「過ぎたるもの」としての佐和山城は、その「結構」でなく、難攻不落の堅城のことを指すのかもしれない。浅井方の支城であった頃、当時の佐和山城主・磯野員昌が織田方と戦い、8ヶ月も持ち堪えた、という。もっとも、この堅城も慶長5年(1600)の関ケ原合戦で三成が敗れると、3日後に落城した。
ところで、地形図を見ながら、何故に中山道は独立丘陵・佐和山の西の湖側を通らず、東の隘路を進むのであろう、と少々思い悩んだ。現在は平地ではあるが、往昔、湖側は湿地帯でもあり、往来まま成らず、であったのだろう、などと想像しながらチェックする。結果は予想どおり、佐和山の独立丘陵の北側には入江内湖、西側に松原内湖といった、琵琶湖の「内湖」が拡がっており、中山道が独立丘陵の東を通らざるを得なかった、ということである。佐和山の城はこの内湖をとおして琵琶湖と結び、水運のための湊と繋がっていた、と言う。松原内湖にはクランク型の通路が佐和山の山麓から続き、琵琶湖の近くには幅5.4m、長さ540mの百件橋と呼ばれる橋もあった、とか。「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と百間の橋」とも呼ばれたように、まさに、佐和山の地は水陸交通の要衝であった。これも過ぎたるもの、としての佐和山城の価値かもしれない。

現在彦根の町は佐和山の西、湖側に開けている。関ヶ原合戦の後、佐和山の城主となった井伊氏は佐和山を棄て、現在の彦根城の地に城を築いた。松原内湖に注いでいた芹川の流れを変え、直接琵琶湖に流す河川付け替え工事をおこない、湿地を埋め、城下町を築いていった。いくつかの大名を動員した、一種の天下普請であった、と言う。城下を巡る三重の濠は松原内湖を通じて琵琶湖と繋がっており、湖に囲まれた水城であった、とか。ちなみに、入江内湖、松原内湖は戦前まで残り、戦時中の食糧難の時期に埋め立てられた、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

醒ヶ井宿
佐和山城址を離れて関ヶ原に向かう。現在の中山道は米原まで北に進み、そこで北に向かう国道8号と分かれ、国道21号となって北の伊吹山系と南の鈴鹿・養老山系を分かつ地溝を東へと向かう。昔の中山道はこのルートとは異なり、佐和山東の隘路を進み、鳥居本宿の先を右に折れ、摺針峠を越え、馬場宿から醒ヶ井宿へと北東に進む。現在の名神高速道路がその道筋に近い。鳥居本宿は京から数えて7番目、江戸から63番目の中山道の宿。多賀大社の鳥居がこの地にあったことが名前の由来、とか。ともあれ、中山道を進むと醒ヶ井宿に。如何にも「水」に関係するといった名前に惹かれ、迷うことなく立ち寄ることに。
旧道に沿った地蔵川の水は、豊富な湧水に潤され誠に美しい。地名の由来ともなった、「醒ヶ井」の湧水地は、日本武尊の伝説に登場する。『古事記』や『日本書紀』によれば、東征の帰途、伊吹山の荒ぶる神を退治にでかけた日本武尊は、苦戦し発熱、正気を失うほどになった、とか。やっとのことで山を下り、この湧水の水で体を冷やすと、あら不思議。熱も下がり気力回復と相成った、と伝わる。江戸の頃の儒学者で朝鮮・中国との外交に尽力した雨森芳州は、「水清き 人の心を さめが井や 底のさざれも 玉と見るまで」と読む。水が美しく、川底の小石までが玉のように見えた、といった意味だろう。西行も「水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」とも詠う。誠に美しい流れに、湧水フリークとしては、しばし彷徨いたい、とは想えども、今回は関ヶ原がメーン。名残を残し先に進む。


国道365号・北国脇往還
鈴鹿山系と伊吹山系を僅かに分ける地溝帯を進む中山道・国道21号を、柏原宿、今須宿をへて関ヶ原に。関ヶ原西町交差点で国道365号に乗り換え、関ヶ原の町を北西に進む。国道365号はこの関ヶ原町から木之本町までは往昔の北国脇往還。中山道・関ヶ原宿と北国街道・木之本宿を結び、北陸と東海・東国を結ぶ最短路であり、多くの人々が往来した。

「決戦地」跡
最初の目的地は石田三成陣跡。関ヶ原西町交差から国道365号を1キロ強進んだ笹尾山のあたりにある。国道を少し進むと、道から少し北に入ったところに「関ヶ原歴史民俗資料館」。実のところ、この資料館を訪れた記憶が全く、ない。記念館の写真は残っていないが、手元に「天下分け目の関ヶ原ウォーキング ザ・ウォーマップ」といった資料が残ってはいるので、多分訪れたのでは、あろう。また、車を何処に駐車したのかも覚えていない。が、写真の中に、笹尾山の麓の田畑の中にある「決戦地」跡の写真が残っていたので、多分、このあたりのどこかに車を駐車して歩きはじめたのだろう。決戦地は石田勢と東軍の激戦が繰り広げられた場所である。笹尾山・石田三成陣跡は「決戦地」から20分弱歩いたところにあった。

笹尾山・石田三成陣跡

決戦地もそうだが、笹尾山・石田三成陣跡も幟が立ち並び、竹矢来とか逆茂木が復元され、いかにもそれっぽい。遊歩道を上り山頂、といっても標高198m。北国脇往還の標高が165mあたりではあるので、小高い丘、といったところではあるが、そこが、三成が陣を敷いたところ。北国脇往還を扼し、関ヶ原が一望のもとに見下ろせる如何にも戦闘指揮所にふさわしい場所である。本陣には三成の旗、「大吉大万大一」の白旗が翻っていたのだろう。

三成がこの笹尾山に陣を敷いたのが慶長5年(1600)、9月15日午前1時頃。9月14日午後7時頃、大垣城に詰めていた西軍は関ヶ原を目指し、石田軍を最初に、第二に島津、第三は小西、第四に大谷・脇坂・朽木・小川・赤座、第五・殿軍を宇喜多の順に出発した。順路は大垣の西から杭瀬川を渡り野口村へ迂回。南宮山に隣接する栗原山の麓に至り、そこから山入りし南宮山の西、牧田川が開いた牧田路を北に上り、関ヶ原に向かった。大きく迂回した理由は、大垣の北、4キロほどのところにある赤坂に布陣した徳川家康の、軍勢に進軍を秘するためであった、と言う。
大垣城から関ヶ原に移動した理由は、人それぞれ、いろんな意見があって、よくわからない。もともとは、主戦場は美濃平野での一大会戦といった思惑であり、三成は8月10日にはその拠点として大垣城に入城、諸将を大垣に集める。伊勢路を転戦していた宇喜多秀家の軍は9月3日に大垣に入城している。
その一方東軍は、8月14日には福島正則の居城 清洲城に入城。8月23日には西軍・織田秀信の岐阜城を落とす。織田信長の直系、幼名三法師君、として秀吉から格別の扱いを受けていた織田方の居城を、福島政則をはじめとした豊臣恩顧の大名が格別の思いもなく攻略したのは、西軍にとっては予想外の展開となった。その後、9月3日には東軍は赤坂の岡山に砦を築く。ここに至って、東軍の戦略は、家康の到着を待って赤坂を本陣に、岐阜城、清洲城の軍勢が共に大垣城に攻め入る、と考えられた。
状況が動いたのは9月13日、家康が岐阜入城、9月14日には赤坂に陣を敷いた。予想外の進軍の早さであった。ここまでの経緯は、ほぼ定着しているが、その後の戦略シナリオは人それぞれ。三成が関ヶ原に動いたのは、大垣攻城戦を避けるため、「直接中山道を進み佐和山城を攻め落とし、大阪城に進む」といった家康の謀略に三成が乗っかった、とか、堂々たる会戦をすべく三成が関ヶ原を決戦の地に選び家康を待ち受けたとか、あれこれ。ともあれ、15日の午前1時頃、雨の中を着陣。総勢六千。本陣の下、逆茂木の前面には第一段として島左近と蒲生郷舎。第二段は舞兵庫など、一騎当千の将が二千を率い、第四段構えで東軍に備えた。

島津義弘陣跡
石田軍の陣跡を離れ、順次西軍の陣跡を辿る。陣跡の並びは、北国脇往還から中山道にかけて、大垣城を出た順に北から南に陣を敷く。先軍石田に続き大垣城を出た島津義弘の陣跡を目指す。国道365号・北国脇往還に戻り、小池北交差点手前あたりから成り行きで国道を離れ南に入る。目安は神明神社の社叢。神社の裏手あたりに島津義弘陣跡があった。石田軍の陣跡からおおよそ30分弱といったところであった。現在は神明社の鎮守の森が繁るが、当時は灌木まばらな草地。社の西を流れる梨の木川に向かって緩やかな上りとなる傾斜地に、川を背に文字通り、背水の縦深陣を敷いた、と伝わる。
大垣城を出て、この小池村に着陣したのは午前3時頃であった、と。軍勢は一千弱。義弘と本国島津の当主・島津義久との確執などもあり、本国からの正式な援兵は無く、ひたすら義弘を慕い本国からはせ参じた者、その数数百、とも。薩摩ん本強漢(ぼっけもん)の「島津の走り」と呼ばれた。



軍に属する島津は当初、東軍に加わる予定であった、と言う。伏見城に籠城する徳川方・鳥居元忠の援軍に馳せ参じるも、鳥居元忠より、家康よりの援軍要請の報無き故、として拒絶され、西軍に与することとなる。が、しかし、慶長の役などで明・朝鮮の大軍を寡兵で撃破、大勝するといった、根っからの武人と、これまた根っからの官僚である三成との戦略・戦術の乖離は大きく、特にこの関ヶ原の合戦においては、島津の軍勢は、西軍でも東軍でもなく、寄せ来る軍勢は退けるも、ひたすら「静観」を続けた。関ヶ原の合戦における島津の「活躍」は、西軍が敗れた後の、東軍の真っ直中、家康本陣をかすめた、と言う中央突破の脱出・撤兵戦のみ、であろう。

関ヶ原合戦開戦地碑
島津の陣跡を離れ、右手に左右に田園の地を眺めながら進む。右手には梨の木川を隔て、天満山が見える。道なりに10分ほど歩き、梨の木川を渡ったあたりに「関ヶ原合戦開戦地碑」。実際は、もう少し離れたところではあった、とか。開戦は家康の四男である松平忠吉とその後見人である井伊直政と西軍宇喜多軍の明石掃部全登との交戦ではじまった。
娘が忠吉の正室となった井伊直政が、忠吉の初陣に一番槍の誉れをと、軍法で決まった先陣・福島正則の陣中を威力偵察の名目で霧の中を突き進み、気がつくと宇喜多軍の真っ直中。急ぎ馬首を返す一団を見付けた宇喜多の一隊に直政が銃を打ちかけ、宇喜多勢も応射。その銃声を聞き、抜け駆けに怒り狂った福島正則が全軍に戦闘開始を命じ、ここに関ヶ原合戦が開始された。時刻は9月15日午前8時頃のことである。徳川家康が9月15日午前2時に赤坂を出立し、東軍の諸将が関ヶ原に布陣完了したのが午前7時頃、というから、布陣後、僅か1時間後のことである。

小西行長陣跡
開戦地碑から2分程度歩いたところに小西行長陣跡。『関ヶ原御陣御手配留』に「小池村西南天満山ニハ小西摂津守行長東ニ向フテ備フ」とある。小西行長は天満山の北峰に二段の構えで布陣した。『関原合戦図志』には「此山小ナリト雖モ其腹背嶮急ニシテ其頂ニ平坦ノ地ナク只東ノ山腰ニノミ陣営ヲ設ケ軍隊ヲ置クベキノ余地アリ」とある。山頂には布陣できるスペースはなく、山麓の中腹に布陣した。戦力は四千。行長麾下の部隊は文禄・慶長の役で疲弊し、また、肥後を二分して統治する隣国の宿敵加藤清正への抑えのため強力部隊は国許に残していたようで、兵の大半は、三成がつけた援兵、寄せ集めの部隊であった、とか。
関ヶ原の合戦では小西勢は弱兵と評される。宇喜多勢強し、とみた井伊直政三千六百が、松平忠吉勢三千を先導し、小西勢に鉾を転じる。石田勢強し、とみた田中吉政の兵も小西に向かう。小西は陣から攻め出ることもなく、守りに徹した。文禄の役では加藤清正とともに先陣をつとめるなど、吏僚とは言えど、武功をも立てている。戦乱を集結し、和平を実現するため、秀吉を「騙して」までも和平交渉を纏め上げようという腹も据わっている。寄せ集めの部隊では、どうしようもない、といったビジネスマン故の合理的判断であったのだろう、か。小西行長の出身は堺の豪商の出である。

宇喜多秀家陣跡

田園地帯を離れ、天満山南峰の森に入り10分弱歩くと、森の中に天満神社。宇喜多秀家の陣跡である。着陣は15日午前5時頃、と言う。軍勢は一万七千。五段にわけ、陣を敷く。前線は、先ほど歩いた「関ヶ原合戦開戦の碑」あたりまで出張っていたのであろう。前線に揃う8千名の軍勢は名将明石掃部全登の指揮下に置かれた。抜け駆けの功名をと、福島正則の陣を突き進んだ松平忠吉が、霧の中から現れた、宇喜多秀家の太鼓丸の旗幟を目にしたときは、どのような思いをしたものであろう、か。
宇喜多秀家は魅力的な人物である。秀吉に寵愛され、文禄の役では大将として、慶長の役では軍監として朝鮮に出兵し活躍。帰国後豊臣家の五大老のひとりとなり、豊家への恩顧から関ヶ原の役では副大将として参戦。そのとき歳はわずか29歳。関ヶ原の敗戦後、あれこれの経緯を経て、結局八丈島に流刑。その地で83歳の生涯を終えた。板橋を散歩した時に、東光寺に秀家のお墓にお参りしたことがある。板橋には加賀前田家の下屋敷のあったところ。秀家の正室であり、仲睦まじく暮らしていた加賀・前田家の息女・豪姫が菩提をとむらったのであろう。
八丈島を歩いた時には、南原海岸に秀家と豪姫の石像が仲良く並んで海を眺めていた。豪姫とは関ヶ原からの逃亡の途中、大阪の備前屋敷で数日間を共に過ごした、と言う。それが永久の別れとはなったわけではあるが、八丈への配流の後も、豪姫の実家の前田家は幕府の許しのもと、秀家への食料などの援助を続け、それは豪姫がなくなった後、明治になって宇喜多一族が放免されるまで続いた。

大谷吉継陣跡
秀家の本陣のあった天満神社を離れ、森をすすむと藤古川ダムに。コンクリートの急な段を下り、堰堤の高さ16m、幅78mほどの堰堤を渡る。このダムは関ヶ原の人々の上水道となっている。北はおだやかなダム湖の湖面が拡がるが、ダムの下流は渓谷の様相を呈する。堰堤を渡り、丸太横組みの木の階段を上りきると結構広い道にでる。
車も走れる道を南に下り、道案内に随って道を右に折れ大谷吉継の陣跡に向かう。山道を15分ほど進むと大谷吉継の墓。お参りをすませ、更なる山道を少し南に進む。山道は狭く、少々のアップダウンを繰り返し進むと、山中に大谷吉継の陣跡があった。
陣跡のすぐ崖下には若宮八幡の社が見える。また、中山道を通る車の音もよく聞こえたように記憶している。まさに、中山道を扼する要衝の地。その昔には山中城と呼ばれる要害の地であった、とか。
着陣は9月3日。宮上の丘陵上には空堀が縦横に連なっており、地形をうまく生かした陣の構築跡が見られる、との案内があった。が、素人目には、よくわからない。大谷勢の布陣については、地元の案内によれば、藤古川(関)の藤川の右岸に位置する川岸上の藤川台には、大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、となっている。どこかで手に入れた陸分参謀本部の「関原本戦図」を見ると、大谷吉継本陣の前面左に戸田重政・木下頼次勢、右の中山道の南に平塚為広・大谷吉治勢が布陣、とあった。
軍勢は千五百とも、二千とも言われる。もっとも、大谷吉継六百、大谷隊寄騎の戸田重政、平塚為広勢千五百、大谷吉治・木下頼継(吉継の甥)三千五百、との記述もあり、総勢ははっきりしない。
それよりなりより、もっともはっきりしないのは地元の案内にあった「親友三成の懇請を受けた吉継は死に装束でここ宮上に出陣。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城と呼ばれるくらいの要害の地。9月3日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣作りも進め、15日未明の三成等主力の着陣をまった」とのコメント。
前半はどうということはないのだが、後半の「9月3に着陣し、15日未明の三成主力の着陣を待った」のくだり。9月3日は三成が大垣城に入城し、東西軍の決戦は美濃の平野で、との方針に傾き始めた頃。その方針と異なり、吉継が、9月3日にはすでに、中山道を扼する関ヶ原のこの地に陣をかまえたのは、どういうことであろう。西軍としては決戦の地は、関ヶ原とすでに決定されていたのだろうか、そうではなく、単に吉継が決戦の地は関ヶ原になる、と予見していたのであろう、か。はたまた、決戦の地は大垣城周辺であるとしても、西からの兵站補給路を確保するため、吉継がこの地に陣を構えたのであろうか。それとも、大谷勢の南に聳える松尾山に、小早川秀秋の軍勢が陣を敷くって噂が(実際の着陣は9月14日)、9月のはじめにはわかっており、それの備えた陣構えであったのだろうか。あれこれ妄想は拡がるも、確たるエビデンスもなく、なんとなくはっきりしない。
大谷吉継も魅力ある武将。秀吉の馬廻衆からはじめ、頭角を現し、賤ヶ岳の戦いや奇襲攻めで武功をたて、天正13年(1585年)7月、従五位下、刑部少輔に叙任される。大谷行部と称される所以、である。天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行として出兵。天正17年(1589年)、越前国・敦賀城五万石の城主となる。文禄・慶長の役では船奉行・軍監として朝鮮へ出兵している。関ヶ原の合戦に際しては、吉継は当初、東軍方として出兵。佐和山に立ち寄る。家康とも懇意であった吉継が、三成と家康の和解を図ろうとした、とか。が、逆に、三成より挙兵の話を聞き、無謀なり、と挙兵をやめるように説得したが、結局は三成に与力することに。このエピソードも諸説あり、本当のところはよくわからない。ともあれ、西軍に与することを決めた吉継は敦賀城に引き返し、東軍北国勢の勇、加賀・前田軍に対し、調略・情報戦を駆使し、大軍・前田の関ヶ原参戦を阻止した。吉継は当時の業病であったハンセン病に冒されており、輿に乗っての指揮であった。と言う。

平塚為広の碑
大谷吉継の陣跡を離れ、来た道を戻り、藤古川ダムから出たところにあった車道を少し南に進むと平塚為広の碑。秀吉に仕え、文禄・慶長の役に渡海。秀吉の覚えもめでたく、有名な秀吉の醍醐の花見には護衛の役を果たしている。秀吉没後、美濃垂井に一万二千石の所領を与えられる。関ヶ原の合戦に際しては、佐和山の城で大谷吉継とともに三成の挙兵を諫めた。が、結局西軍として立ち、伏見城攻めに軍功をあげた後、吉継の北国口に転戦。前田方と戦い、8月下旬、吉継とともに美濃に南進、9月3日に関ヶ原の西南の山中村に着陣した。
吉継との交誼は深く、大谷吉継ぎの辞世の句「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」は、平塚為広の辞世の句である、「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。ちなみに、戦前・戦後の女性運動の指導者平塚らいちょうはこの平塚為広の子孫、と言う。
ついでのことなので、戸田重政;織田信長の馬廻りであったらしい。本能寺の変の後は、信長の重臣であった丹羽長秀に仕える。戸田重政も長秀の下で1万石を領し越前足羽郡安居(あご)城主となる。長秀が没後、秀吉の直臣の大名となり、以後、九州征伐、小田原攻め、朝鮮の役に従軍し活躍。関ヶ原の合戦では重政は大谷吉継の麾下で平塚為広とともに参陣。文武に秀でた重政は諸将との交流も深く、その死は敵味方の区別なく惜しまれた、とか。

佐和山からはじまり、西軍の陣跡を伊吹山麓の北国街道脇往還を扼する石田三成の陣跡から、狭隘地溝を進む中山道を扼する大谷吉継の陣を辿った。合戦の推移は明日の散歩のルート、関ヶ原の前哨戦の地である、西軍の居城大垣城から、東軍の家康本陣のあった赤坂宿、西軍の毛利勢の籠もった南宮山、小早川勢の松尾山の散歩の折々でメモすることにして、最後に西軍布陣に対する東軍の陣立てを下にメモして、本日の散歩メモを終えることにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

東軍の陣立て
家康15日午前二時、赤坂発。桃配山着陣で夜が明ける。
東軍布陣完了は午前7時頃。
一番隊、先鋒福島隊6千、加藤嘉明三千、筒井定次二千八百五十、田中吉政三千が西軍・天満山の宇喜多秀家一万七千に対する。
別働隊;藤堂高虎二千四百九十、京極高知三千、がその左に陣し、西軍・松尾山の小早川秀秋一万五千に対する。
二番隊主力は細川忠興五千、稲葉貞通千四百、寺沢広高二千四百、一柳直盛千五十、戸川達安三百が、北国街道を扼した西軍・小西行長四千、島津義弘・豊久一千弱、笹尾山の石田三成六千に対する。
遊撃隊として黒田長政五千四百が二番隊と呼応して西軍・石田陣に対する突撃の機を伺う。
三番隊は徳川麾下の本多忠勝五百が桃配山の前面に布陣。背後には家康本隊三万。
四番隊は池田輝政四千五百六十が南宮山神社の前面に布陣。西軍・毛利に備える。
その西の中山道沿いに浅野幸長六千五百、山内一豊二千五十八、有馬豊氏九百が布陣。

東西のこの陣立てをもとに、北に伊吹山系、南を鈴鹿山脈に囲まれた東西約4キロ、南北約2キロの関ヶ原の地に、石田三成率いる西軍八万二千と、徳川家康率いる東軍七万四千、東西あわせて十六万の将兵が集結し、天下分け目の決戦が行われることになる。

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