本日のルート;奥多摩駅>大沢バス停>12号鉄塔>安寺沢分岐>平石山>本仁田山>大休場尾根分岐>花折戸尾根分岐>ゴンザス尾根>日向
大沢バス停_8時45分;標高396m
大沢・小菅の集落
日原線12号鉄塔_9時45分;標高681m
昭和30年架橋のトラス橋である平石橋を渡り、そこからは倉沢・日原へと向かう日原街道を離れ、日原川の東側を逆方向に続く砂利道に入る。道の下には川魚の養殖場らしき施設がある。
川に沿って緩やかな坂を上っていくと、一時簡易舗装の小径となる。数分進むと川沿いの道から山へと分岐する道が現れる。川沿いの道を進めば平石山荘へと進んだようではあるが、現在営業しているのだろう、か。
分岐点から山へと入る。東電の送電線巡視路ではないだろう、か。道を進み、「平尾尾根を経て安寺沢へ2.7Km」「平石橋0.3km」「向寺地1.1km 鍛冶屋1.8km」の標識の地点で、「平尾尾根を経て安寺沢」方面へと左後方に入る。
少し上ると落石防止柵が見えてくると、そこからは尾根に向かうジグザグの急斜面となり、植林された林の向こうに岩肌らしきものが見える。大沢・小菅地区の案内に、日原川に落ち込む山の中腹に烏帽子型をした御前石という将門伝説とも、瞽女(ごぜ;盲人女性芸能者)ゆかりの岩場があるとのことだが、その岩場だろう、か(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
道を進むと送電線の鉄塔。日原線12号鉄塔である。日原線は海沢の東京電力の氷川発電所から日原方面へと向かう送電線の12番目のもの、という意味であろう。
平石山_11時10分;標高1075m
12号鉄塔から数分上がったところの、「安寺沢2.2km 平石橋0.9km」とある道標に従い安寺沢方向への尾根道を登る。分岐から先の尾根筋は道があいまい、踏み跡を拾いながら行く。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
平石山から先はしばらく植林が多くなる。尾根の左手には白樺などがある。鞍部を少し下ると、安寺沢からの道との合流地点。道案内に「安寺沢方面」と書かれていたのが、この分岐点なのであろう。作業道といった道筋を確認する。とは言うものの、この肝心な分岐点にその地点を示す道標が無かったように思うのだが、単なる見落としなのだろう、か。
ところで、この「安寺沢」は「あてらさわ」と詠む。その語意は「日当たりの悪い場所」とのこと。日本各地に「あてら」と言う地名があり、「阿寺」とか「左(あてら)」と書く。『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』には安寺沢ではなく、左沢と書かれてあった。
山形県には「左沢」を「あてらさわ」、「右沢」を「かてらさわ」と呼ぶ地名がある。
「左」が「あちら」、一方の「右」は「こちら」といったところであろう、か。登山口の標識にもあったように、奥多摩の安寺沢の近くに、向寺地(むこうてらち)があるようで、向寺=こう>かてら、との牽強付会にて、「あちら、こちら」説も捨てがたくはあるが、はやり「日当たりの悪い場所」というのが妥当なところであろう。因みに、安寺沢の近くに除ヶ野地区があるが、「除け(ヨゲ)」とは「通行困難な悪場」とのこと。理由はないが、「悪罵」つながりで「あてら」を「日当たりの悪い場所」と、思い込む、ことに。
杉の殿尾根と本仁田山方面への分岐点_11時42分;標高1212m
モノレールをまたぐと最後の登りになり、川苔山・大ダワ・コブタカ山方面からの「杉の殿尾根」と本仁田山方面への分岐点に合流。標識には「本仁田山0.1km 奥多摩駅4.7km」「川苔山3.5km 鳩ノ巣駅4.7km」とある。 川苔山(かわのりやま)の名前の由来は、昔、この付近の沢で良質な川苔が採れたために"川苔山"と名付けられたということだ。
本仁田山_11時45分;標高1224.5m
合流点をわずかに右へ尾根を進むと「本仁田山」頂上に着いた。亀甲山とも、高指山とも呼ばれたとの記録もある。山頂の西南の方角は林の切れ目から山稜を眺めるだけではあるが、東南方向は大きく開けており眺めはいい。
本仁田山は本荷駄山とも呼ばれる。青梅街道が往昔、この山腹を搦んで、棚沢村鳩ノ巣あたりから氷川に抜けた頃、旺んに荷馬も往来したので駄馬が通行する山ということで名付けられた、とか。また、猪や鹿の「ぬたば」から、との説も。交尾期に猪や鹿が体を冷やしたり、飲料にするための泥土を掘り起こして湿地とする「ヌタバ」がヌタ>ニタ、と転化したとの説もある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
大休場尾根分岐_12時30分;標高1200m
本仁田山頂で少し休憩し、ゴンザス尾根に向かって山稜を下る。ほどなく道標が現れ「本仁田山」「花折戸尾根」「安寺沢・奥多摩駅」とある。「奥多摩駅「4.5km」と追記もあった。ここは大休場尾根を下り「安寺沢・奥多摩駅」方面へと向かう分岐点である。
大休場(おおやすんば)尾根は急登の尾根として知られる。平均斜度が24.2°とか。それが「大休場」というのは少々皮肉ではあるが、標高差で100~150m登るごとに一息つける平らな尾根が現れることが、その名の由来、とか。
チクマ山_13時5分;標高1040m
凹部の平坦な尾根を少し上り返すとチクマ山。とは言うものの、張り紙での山名表示と、三角点があるだけではある。棚沢ではチクマ山のことを「池の平の峰」、と呼ぶようである。
ゴンザス尾根・花折戸尾根分岐_13時12分;標高1006m
チクマ山から少し下ると、花折戸尾根とゴンザス尾根との分岐点。「本仁田山」「花折戸尾根」「日向(ゴンザス尾根)」の標識がある。花折戸尾根を下ると鳩ノ巣に出る。「花折戸」は「山路を越える旅人が山霊に小枝を折って捧げ、身の安全を祈願する」ことによる。元は尾根を乗り越した青梅街道の地にあった地名のようだが、それが尾根の名前に使われるようになった、とか。奥多摩には「ヲリバサマ、ハナタテバレ、山ノ神ノ花立」、などの名前も残るようである(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
根岩(ねえや)越え_13時52分;標高705m
細尾根の露岩や滑り易い急傾斜を過ぎ、植林地来まで下るとテレビ電波の受信アンテナが林立する。このゴンザス尾根の鞍部の辺りが棚沢の鳩ノ巣から氷川に抜ける根岩越えの尾根道とのクロスする辺りではないか、とのことである。
根岩越えは、江戸の頃、多摩川の断崖絶壁を穿つ、と言うか、絶壁を削り鳩ノ巣から氷川へと道を通した、「数馬の切り通し」ができるまでは鳩ノ巣と氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。元禄12年(1699)に独りの六部と百姓が3年かけて開削したとか、元禄16年(1703)に氷川村や栃久保村の名主が中心になって開いたとか、はたまた元禄16年頃、奥氷川神社の神官である河辺数馬藤原永義が開いたとか諸説あるが、それはともあれ、人一人かろうじて通れる多摩川に屹立する断崖絶壁の「壁道」ではあるが、それでも「平地」を通る道が開かれるまで、ゴンザス尾根を横切る難路の根岩越えが青梅から氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。
根岩越えのルートは、白丸駅裏手の老人ホーム脇から「根岩越え」の道が始まる。畑の間に挟まれて石畳の古道を進むと山道へと向かう。山道は一直線に尾根に這い上がる。道の途中には山ノ神の石祠や茶屋の跡、古い石積なども残る、とか。
急峻な尾根を越えると、日原線6号鉄塔の辺りに向かって岩混じりの尾根を下り、そこからは、氷川へと逆落としの道筋を下る。現在、6号鉄塔から先は、ケーブルに沿って下り、日原線7号鉄塔への黄色いポールの案内に従い、ケーブルが右に尾根を外れた辺りで左側の道を下る。急な斜面を据え付けのロープや鉄梯子を使って氷川の浄水場に向かって下っていく、とのことである。
ところで「根岩」であるが、根が生えたような大岩がその由来なのか、テレビのアンテナ群のところに岩がゴロゴロしているためなのか、急峻な岩盤地質のゴンザス尾根自体を指すのか、「納屋」の転化がその由来など、その由来は諸説ある。「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。
日原線3号鉄塔
日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。
テレビ中継アンテナ