火曜日, 3月 26, 2013

奥多摩山行;本仁田山からゴンザス尾根の根岩越え跡を経て日向へと下る

友人から本仁田山からゴンザス尾根へと抜けませんか、とのお誘い。本仁田山はともあれ、ゴンザス尾根は一度歩いてみたいと思っていたので、一も二もなく"諾"、と。 ゴンザス尾根を辿ってみたいと思ったきっかけは、「数馬の切り通し」で出合った「根岩越え」、から。いつだったか、鳩ノ巣渓谷を辿ったときJR白丸駅近くの「数馬の切り通し」に立ち寄ったのだが、江戸の頃、多摩川にせり出す岩場を穿つ、この数馬の切り通しが開削されるまで、棚沢村鳩ノ巣から奥多摩の氷川に進むには、鳩ノ巣からゴンザス尾根に這い上がり、尾根からは氷川へと逆落としの道筋を辿る急峻な山道を辿る「根岩越え」しかなかった、とか。峠越えフリークとしてはいつか、この根岩越えと呼ばれる尾根道の一端にでも触れたいと想っていたわけである。 本日のルートは平石山への尾根道を上り本仁田山からゴンザス尾根を日向へと下るもの。根岩越えを辿ることはできそうにないが、ゴンザス尾根の鞍部だろうとは思う、根岩越えの上り・下りのアプローチ点など確認し、いつか辿りたい根岩越えの予備山行との思いで、奥多摩へと向かうことにした。

本日のルート;奥多摩駅>大沢バス停>12号鉄塔>安寺沢分岐>平石山>本仁田山>大休場尾根分岐>花折戸尾根分岐>ゴンザス尾根>日向

大沢バス停_8時45分;標高396m

奥多摩駅より東日原行きのバスに乗り、10分ほどで大沢バス停にて下車。現在の日原街道は、バス停の先で日原川に架かる平石橋を渡り川の東を進むが、旧日原道は大沢から倉沢の間、現日原街道の対岸を通っていた。その道は今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住み日原を開いた頃から昭和20年頃まで使用されていたとのことだが、道幅が狭く、地形はほとんどが断崖絶壁といった難路であった、と言う。因みに日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。

大沢・小菅の集落

平石橋を渡ることなく直進すると、日原川に注ぐ狩倉沢の先の山腹に集落が見える。大沢と小菅の集落ではあろう。大沢は文字通り、日原川の「大沢」の中にある。昭和7年頃、この地を訪れた高橋源一郎氏は大沢を「水面を去ることあまり遠くなく、いわば薬研の底のようなところにあるけれども、東南面せる斜面であるから、割合に日当たりはよい。人家は何分大沢の中であるから、相当に急峻な斜面を幾段にも切り開いて僅かばかりの平地を作り、そこに建ててあるので、前の家の屋根と後ろの家の土台石が相接する位込み合っている。雛段式などといえば立派なようではあるけれども、ここはまるで梯子段とでもいいたい位である。(中略)大沢の集落の上に数戸の人家が見える。(中略)あれは小菅だという。小菅には伽藍神社というのがあって。。。」と描く(『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。
大沢・小菅の集落は標高差の大きな山腹に連なっており、大沢集落の最上部には薬師堂、小菅の集落の鎮守である伽藍神社は標高600mのところにあるそうだ。地図を見ると瑞雲寺も伽藍神社の近く、集落の最上部にある。集落には養蚕のための跳ね上げ屋根をもつ「かぶと造り」の民家も残る、とか。往昔の日原道は、この山腹の集落を経て倉沢へと進んだのではあろう。そのうちに昔し道を辿ってみたいものである。



日原線12号鉄塔_9時45分;標高681m
昭和30年架橋のトラス橋である平石橋を渡り、そこからは倉沢・日原へと向かう日原街道を離れ、日原川の東側を逆方向に続く砂利道に入る。道の下には川魚の養殖場らしき施設がある。
川に沿って緩やかな坂を上っていくと、一時簡易舗装の小径となる。数分進むと川沿いの道から山へと分岐する道が現れる。川沿いの道を進めば平石山荘へと進んだようではあるが、現在営業しているのだろう、か。
分岐点から山へと入る。東電の送電線巡視路ではないだろう、か。道を進み、「平尾尾根を経て安寺沢へ2.7Km」「平石橋0.3km」「向寺地1.1km 鍛冶屋1.8km」の標識の地点で、「平尾尾根を経て安寺沢」方面へと左後方に入る。
少し上ると落石防止柵が見えてくると、そこからは尾根に向かうジグザグの急斜面となり、植林された林の向こうに岩肌らしきものが見える。大沢・小菅地区の案内に、日原川に落ち込む山の中腹に烏帽子型をした御前石という将門伝説とも、瞽女(ごぜ;盲人女性芸能者)ゆかりの岩場があるとのことだが、その岩場だろう、か(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。

先に進むと道沿いに「日原線12号に至る」と書かれた黄色いポールが現れる。送電線の鉄塔12号に続く、と言った意味である。黄色いポールの近くには昭和21年頃、索道施設として造られた隧道の遺構が残る、と。循環式索道であり、幅1m強、高さ2。5m強、長さ100mほどの2本の隧道跡とのことだが、残念ながら見逃した。尾根の向こうの川苔谷の谷筋は500m以上もあるので、結構長大な索道が動いていたのではあろう。
道を進むと送電線の鉄塔。日原線12号鉄塔である。日原線は海沢の東京電力の氷川発電所から日原方面へと向かう送電線の12番目のもの、という意味であろう。
この送電線鉄塔で尾根に出る。鉄塔付近から西の石尾根方面には六ツ石山の東の狩蔵山が見えた。この山に黒い雲がかかると日原には、俄雨(にわかあめ)が降るとの言い伝えが、日原に残る、とか(『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。

平石山_11時10分;標高1075m
12号鉄塔から数分上がったところの、「安寺沢2.2km 平石橋0.9km」とある道標に従い安寺沢方向への尾根道を登る。分岐から先の尾根筋は道があいまい、踏み跡を拾いながら行く。
10分ちょっとで754mピーク。露岩が現れる。ここからは小さなピークをいくつか(3つほど)越えて登って行く。唐松の森も現れる。800m付近では何度か尾根はフラットになり、少し楽。840mピークは北方切り開かれ川苔谷を隔て、川苔山、蕎麦粒山方面の展望が得られる。850mのピークから、これから上る平石山を望む。木の間から西の石尾根やそれの前衛の狩倉山などが望める。






850mピークから鞍部に下り少し登り返したところから、左手の川苔山とウスバ尾根がしっかり見え、さらに進んだところ900m付近には苔蒸した山の神の石祠がある。










石の祠を過ぎ、露岩帯の少し急な上りを上る。左に広葉樹、右手に杉林などを見ながら進むと、立木に看板があり「平石山1075m」とある。ここが平石山であった。








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

安寺沢分岐_11時15分;標高1053m
平石山から先はしばらく植林が多くなる。尾根の左手には白樺などがある。鞍部を少し下ると、安寺沢からの道との合流地点。道案内に「安寺沢方面」と書かれていたのが、この分岐点なのであろう。作業道といった道筋を確認する。とは言うものの、この肝心な分岐点にその地点を示す道標が無かったように思うのだが、単なる見落としなのだろう、か。

ところで、この「安寺沢」は「あてらさわ」と詠む。その語意は「日当たりの悪い場所」とのこと。日本各地に「あてら」と言う地名があり、「阿寺」とか「左(あてら)」と書く。『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』には安寺沢ではなく、左沢と書かれてあった。
山形県には「左沢」を「あてらさわ」、「右沢」を「かてらさわ」と呼ぶ地名がある。

「左」が「あちら」、一方の「右」は「こちら」といったところであろう、か。登山口の標識にもあったように、奥多摩の安寺沢の近くに、向寺地(むこうてらち)があるようで、向寺=こう>かてら、との牽強付会にて、「あちら、こちら」説も捨てがたくはあるが、はやり「日当たりの悪い場所」というのが妥当なところであろう。因みに、安寺沢の近くに除ヶ野地区があるが、「除け(ヨゲ)」とは「通行困難な悪場」とのこと。理由はないが、「悪罵」つながりで「あてら」を「日当たりの悪い場所」と、思い込む、ことに。

杉の殿尾根と本仁田山方面への分岐点_11時42分;標高1212m安寺沢への分岐がある鞍部を越えると上りが続くあとわずかで尾根も終わりと思われる頃、尾根をモノレールの軌道が横切る。このモノレールは「安寺沢」から「大ダワ」の先まで繋がっているようである。害獣駆除された動物を処理施設まで運ぶために山から下ろすもの、との記事をどこかで見かけたことがある。
モノレールをまたぐと最後の登りになり、川苔山・大ダワ・コブタカ山方面からの「杉の殿尾根」と本仁田山方面への分岐点に合流。標識には「本仁田山0.1km 奥多摩駅4.7km」「川苔山3.5km 鳩ノ巣駅4.7km」とある。 川苔山(かわのりやま)の名前の由来は、昔、この付近の沢で良質な川苔が採れたために"川苔山"と名付けられたということだ。

本仁田山_11時45分;標高1224.5m
合流点をわずかに右へ尾根を進むと「本仁田山」頂上に着いた。亀甲山とも、高指山とも呼ばれたとの記録もある。山頂の西南の方角は林の切れ目から山稜を眺めるだけではあるが、東南方向は大きく開けており眺めはいい。
本仁田山は本荷駄山とも呼ばれる。青梅街道が往昔、この山腹を搦んで、棚沢村鳩ノ巣あたりから氷川に抜けた頃、旺んに荷馬も往来したので駄馬が通行する山ということで名付けられた、とか。また、猪や鹿の「ぬたば」から、との説も。交尾期に猪や鹿が体を冷やしたり、飲料にするための泥土を掘り起こして湿地とする「ヌタバ」がヌタ>ニタ、と転化したとの説もある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
駄馬が盛んに往来した、とは言ってもそれは本仁田山から尾根を下ったゴンザス尾根の根岩越えの辺りであろうし、距離が少し離れているようも思える。それよりは、本仁田山を少し下ったチクマ山(池の平の峰)の東側、西川の源頭部に有名な「ヌタバ」があるとのことであるので、「ヌタバ」由来のほうが何となくしっくりする。ともあれ、奥多摩には、ぬたくぼ、ほぬた、大荷田、といった「ぬたば」を意味する集落名が残っている。



大休場尾根分岐_12時30分;標高1200m
本仁田山頂で少し休憩し、ゴンザス尾根に向かって山稜を下る。ほどなく道標が現れ「本仁田山」「花折戸尾根」「安寺沢・奥多摩駅」とある。「奥多摩駅「4.5km」と追記もあった。ここは大休場尾根を下り「安寺沢・奥多摩駅」方面へと向かう分岐点である。
大休場(おおやすんば)尾根は急登の尾根として知られる。平均斜度が24.2°とか。それが「大休場」というのは少々皮肉ではあるが、標高差で100~150m登るごとに一息つける平らな尾根が現れることが、その名の由来、とか。

チクマ山_13時5分;標高1040m

大休場尾根と分岐の先は急な下りとなる。急傾斜のざれた斜面を下るとほどなく平坦な尾根道となる。本仁田山から下る山稜は懐中に凹を抱くようになっており、フラットな尾根道を進むと少し上り返すことになる。この凹部は上でメモした西川の源頭部であり、昔はこの地に塘があり、その湿潤なる平には大蛇が棲んでいた、との言い伝えもあった、とか。池ノ平などとも呼ばれていたようでもある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
凹部の平坦な尾根を少し上り返すとチクマ山。とは言うものの、張り紙での山名表示と、三角点があるだけではある。棚沢ではチクマ山のことを「池の平の峰」、と呼ぶようである。

ゴンザス尾根・花折戸尾根分岐_13時12分;標高1006m
チクマ山から少し下ると、花折戸尾根とゴンザス尾根との分岐点。「本仁田山」「花折戸尾根」「日向(ゴンザス尾根)」の標識がある。花折戸尾根を下ると鳩ノ巣に出る。「花折戸」は「山路を越える旅人が山霊に小枝を折って捧げ、身の安全を祈願する」ことによる。元は尾根を乗り越した青梅街道の地にあった地名のようだが、それが尾根の名前に使われるようになった、とか。奥多摩には「ヲリバサマ、ハナタテバレ、山ノ神ノ花立」、などの名前も残るようである(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。





分岐からゴンザス尾根に入ると、しばらくは、急傾斜の岩場交じりの道となる。ところで、この「ゴンザス尾根」って、どういう意味なのだろう。いつだったか、日原かヨコスズ尾根・長沢脊稜を経て仙元峠を越えて秩父の浦山へと抜けた時にも、ゴンジリ峠という峠があった。「権次入峠」と書くが、元より漢字表記は「音」に合わせたケースが多く、漢字の意味から推測するのは少々危険。あれこれチェックしていると、ゴンザスの「サス=差、指」は「焼き畑」の意味があるとこ記述があった。これって、良い線いってると思うのだが、「ゴン」の意味がわからない。「ゴン」には方角の「丑寅(北東)」、「鬼門」の意味もあるとのことだが、はてさて。そのうちにどこかで語義に出合うことを想い、妄想ゲームはここで終える。

根岩(ねえや)越え_13時52分;標高705m

細尾根の露岩や滑り易い急傾斜を過ぎ、植林地来まで下るとテレビ電波の受信アンテナが林立する。このゴンザス尾根の鞍部の辺りが棚沢の鳩ノ巣から氷川に抜ける根岩越えの尾根道とのクロスする辺りではないか、とのことである。

根岩越えは、江戸の頃、多摩川の断崖絶壁を穿つ、と言うか、絶壁を削り鳩ノ巣から氷川へと道を通した、「数馬の切り通し」ができるまでは鳩ノ巣と氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。元禄12年(1699)に独りの六部と百姓が3年かけて開削したとか、元禄16年(1703)に氷川村や栃久保村の名主が中心になって開いたとか、はたまた元禄16年頃、奥氷川神社の神官である河辺数馬藤原永義が開いたとか諸説あるが、それはともあれ、人一人かろうじて通れる多摩川に屹立する断崖絶壁の「壁道」ではあるが、それでも「平地」を通る道が開かれるまで、ゴンザス尾根を横切る難路の根岩越えが青梅から氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。

根岩越えのルートは、白丸駅裏手の老人ホーム脇から「根岩越え」の道が始まる。畑の間に挟まれて石畳の古道を進むと山道へと向かう。山道は一直線に尾根に這い上がる。道の途中には山ノ神の石祠や茶屋の跡、古い石積なども残る、とか。
急峻な尾根を越えると、日原線6号鉄塔の辺りに向かって岩混じりの尾根を下り、そこからは、氷川へと逆落としの道筋を下る。現在、6号鉄塔から先は、ケーブルに沿って下り、日原線7号鉄塔への黄色いポールの案内に従い、ケーブルが右に尾根を外れた辺りで左側の道を下る。急な斜面を据え付けのロープや鉄梯子を使って氷川の浄水場に向かって下っていく、とのことである。

ゴンザス尾根の根岩越えがクロスする辺りから東の植林帯に入り、送電鉄塔の巡視路標柱を目安に、巻き道に入り6号鉄塔へ、そこから氷川に下るのもいいか、とは思えども、山道の左手には「氷川の屏風岩」の岩頭や岩登りゲレンデなどがあるような逆落としの山道。高所恐怖症の我が身には、少々敷居の高い道筋ではあろう。それにしても、そのうちに越えてみたい道ではある。

ところで「根岩」であるが、根が生えたような大岩がその由来なのか、テレビのアンテナ群のところに岩がゴロゴロしているためなのか、急峻な岩盤地質のゴンザス尾根自体を指すのか、「納屋」の転化がその由来など、その由来は諸説ある。「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。

日原線3号鉄塔

根岩越えの尾根道とのクロスする辺りを離れ、そこから植林地帯を少し上り返し、先に進むと日原線3号鉄塔の足下に出る。鉄塔の周囲は伐採されており、大岳山や御嶽山方面の眺めが楽しめる。
日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。

テレビ中継アンテナ

3号鉄塔から少し下ったところにテレビ中継施設。奥多摩テレビ中継所というこの施設で、奥多摩の氷川地域でのテレビ受信が可能となる。アナログ放送の頃はNHKとMXテレビだけであったようだが、デジタル放送となり民法各局の視聴も可能になった、とか。ということは、根岩越えの辺りで見かけたテレビアンテナ群はアナログ放送時代に視聴できなかった民放を見るために氷川の住民がつくったものであろうか。奥多摩には町内単位でテレビ視聴の共同組合なるものがある、とか聞いたこともある。単なる妄想。根拠なし。

奥多摩テレビ中継所を越えるとNHK巡視路と鉄塔の案内に従い植林地帯の九十九折れの道を進み、日向地区の登山口へと下り、本日の散歩を終える。














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