月曜日, 6月 26, 2006

江戸川区散歩 そのⅢ;平井・小松川・中央・鹿骨・小岩地区

「平井の渡し」からはじめ、旧中川・荒川から江戸川堤に
善養寺

江戸川のランドマーク、小岩からの散歩は終わった。今回は、と考える。で、前から気になっていた、それがなぜかは分からないのだが、結構気になっていた「平井」からはじめよう、と考えた。平井の渡し、といったフレーズに惹かれていたのかもしれない。で、その後は、なんとなく気になる地名や神社・仏閣、具体的には、大杉神社、鹿骨、一之江名主、そして善養寺といったところを訪ねて歩こうと思う。


本日のコース: 総武線・平井駅 ; 天祖神社 ; 安養寺 ; 荒川土手 ; 平井聖天 ; 諏訪神社 ; 浅草道石造道標 ; 平井の渡し ; 目黄不動・最勝寺 ; 大杉神社 ; 仲井掘通り ; 一之江境川親水公園 ; 第六天堂 ; 瑞江公園・大雲寺 ; 一之江名主屋敷跡 ; 鹿見塚 ; 鹿骨親水緑道 ; 善養寺 ; JR総武線・小岩駅

総武線平井駅


総武線平井駅で下車。駅前の地図で見所チェック。駅の北に、天祖神社と安養寺。とりあえずこのふたつを目指す。北に進み平井大橋西詰めで蔵前橋通りと交差。

天祖神社
さらに北に進み平井6丁目と7丁目のあたりに天祖神社。本殿はあまり見られなくなった茅葺屋根、とのことだが、よくわからない。茅葺の上に瓦屋根をかぶせているのだろうか。境内には香取神社と水神社。香取神社は荒川放水路開削工事に伴い、この地に移った。天祖神社は、もとは神明宮と呼ばれたケースが多い。伊勢信仰の社ではあったが、明治期、皇室の守り神でもある伊勢信仰 = 神明の社、とはあまりに恐れ多いと、天祖と改名した、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

安養寺
天祖神社を離れ安養寺に。ちょっと通りから入ったところでわかりにくかった。弁天様と富士塚、そして念仏講で知られている。弁天様は「平井弁天」として親しまれている、と。

荒川土手

平井荒川堤道なりに進み荒川土手に。平井大橋の西詰めに付近の名所・旧跡の案内。「平井梅屋敷跡」、「平井聖天」、「平井の渡し」の説明。平井の梅屋敷跡は、土手を北に進み、旧中川が荒川に合流する木下川水門の辺り。江戸時代は徳川家が所有。梅見見物で賑わっていたとのことだが、現在は跡を残すのみ。




平井聖天
平井聖天、平井の渡しに向かう。場所は平井6丁目。少し駅方向に戻ることになる。蔵前橋通りを西に進み、平井駅入口交差点に。交差点を北に進み平井聖天に。草創は平安の頃と伝えられる真儀真言宗の古刹。燈明寺と呼ばれる。
平井聖天埼玉県・妻沼聖天、浅草の待乳山聖天とともに関東三大聖天のひとつ。聖天さまとは夫婦和合の神様。将軍鷹狩のときの御膳所として使われたほか、幾多の文人墨客が訪れている。


諏訪神社
お寺の直ぐ横に諏訪神社。燈明寺のお坊さんの出身地が信州ということから、信州の諏訪大明神を勧請した、とか。

浅草道石造道標
道なりに平井橋に向かって進む途中に「下平井の観世音菩薩 浅草道石造道標」が。ほんとうに小さい祠。偶然見つけたが、探すとなったら大変であったろう。浅草方面から行徳道への道標でありましょう。

平井の渡し
旧中川に平井橋。このやや西に「平井の渡し」があった。平井の渡しは、行徳道が下平井村と隅田区・葛西川村の間を渡る地点にあった。平井橋ができる明治32年まで使用されていた。
平井の渡し
橋の少し南に妙光寺。慶長3年(1598年)創建のお寺さま。由来書に、元禄年間(1688 - 1704年)の津波で堂宇を消失。ために本堂は床を高くしている、と。このあたりまで影響を及ぼすような津波って、一体どんな地震であったのか、今度調べておこう。


目黄不動・最勝寺
南に下り、平井駅出口交差点で蔵前橋通りと交差。平井駅に戻り、平井駅前通を南に下る。賑やかな商店街。平井1丁目あたりで商店街の道から離れ、荒川方面に道成りに進む。先に時計台っぽい建物。どこかの私立学校かと思い、ちょっと寄り道。予想に反し、都立小松川高校。
で、後から気がついたのだが、この高校の直ぐ隣に目黄不動・最勝寺があった。江戸五色不動のひとつ。が、学生の下校時のパワーにおされ見落としてしまった。
五色不動:目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、目黄不動(台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺とこの最勝寺。とはいうものの、目黄不動だけは複数あり、渋谷の龍眼寺など全部で六箇所あるとも言われる)

小松川橋
平井荒川荒川土手をのんびり下る。小松川橋に。京葉道路が走るこの橋を渡り荒川・中川を越える。平井・小松川地区を離れ、中央地区に入る。まずは江戸川区郷土資料室に。買い忘れた、というか、後から気になった『地名のはなし』『江戸川の治水のあゆみ』を購入


大杉神社
江戸川区役所の近くを進み、中央1丁目、2丁目から大杉1丁目に進む。途中水路跡があった。が、水路名不明。大杉神社。天祖神社の通称、とも。名前の由来は大きな杉があった、とか。旧西一之江村の鎮守。創建時期は不明。天祖将軍鷹狩の折には必ず立ち寄る由緒ある神社であった、とか。

仲井掘通り
神社の直ぐ東に仲井掘通りが走る。江戸川区を走る用水についてまとめておく。水元公園の「小合溜井」から下った「上下之割用水」が最初に分流するのは葛飾区の新宿4丁目あたり。ここからの分流は小岩用水と呼ばれる。南東に真っ直ぐ下り、京成高砂駅の東側、京成小岩駅の西側を下り、西小岩5丁目愛国学園の西沿いの道を真っ直ぐ南へ南小岩8丁目の小岩郵便局辺りまで続く。
一方、本流は水戸街道を越え、京成高砂駅の少し南で三流に別れる。一流は新小岩に向かって南西に下り、平井2丁目で旧中川に至る「西井掘」。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

「中(仲)井掘」は新中川とほぼ平行に下り、上一色町の上一色中学校西沿いの道を南に、千葉街道の菅原橋、大杉1.2丁目境を経て西一之江2丁目・一之江1・2・3丁目の中を通り。春江4丁目と一之江7丁目・一之江町の境を経て新川に流れ込む。おおまかにいって環七と今井街道、新大橋通りと交差するあたりで続くわけだ。

一之江境川親水公園
仲井掘を越え環七と交差。環七を南に下り一之江1丁目の交差点で京葉道路を過ぎ、ついで首都高速7号・小松川線と交差。一之江境川親水公園が交差点を走る。少々親水公園を歩くことにする。この親水公園は一之江境川の水路跡。東一之江と西一之江の境を流れていたのでこの名がついた。
今井街道との合流まで清流が戻った。水神宮、一之江天満宮、薬王寺、円福寺、妙音寺と続く。妙音寺には「片目の鮒伝説」がある。目が不自由なお嬢さんが、このお寺の本尊・薬師如来に願掛け。満願の日に目が見えるように。お礼に鮒を池に放つ。すべて片目。この話を聞いて願掛けをして目が治った人たちが放った鮒もすべて片目であった、とか。


第六天堂
妙音寺を離れ、東に進み環七を越え、春江橋西詰め近くの第六天堂に。第六天のエノキ、って大木がある、とのとことではあったが、現在は根元部分が残るだけ。

瑞江公園・大雲寺
春江橋を渡り春江3丁目を北東に進む。瑞江公園の北に大雲寺。寺域広大。1万平方メートルも。歌舞伎役者のお墓が多い。市村羽佐衛門(初代から16代まで)、中村勘三郎(初代から13代まで)、尾上菊五郎(初、5、5代)、松本幸四郎(4,5,6)などなど。ために、「役者寺」とも。浅草、押上、そして関東大震災後、この地に移る。椿通りを北に進み、ふたたび首都高速7号・小松川線をくぐり、春江町2丁目の一之江名主屋敷に。

一之江名主屋敷
一之江名主屋敷って、一之江新田の開拓者でもある田島図書の屋敷跡。田島図書はもと、豊臣の家臣、掘田の姓を名乗っていたとか。関が原合戦後、大杉の田島家を頼り、以降田島姓に。鬱蒼とした樹木に囲まれている。入口は長屋門。茅葺き曲がり屋造りの母屋が美しい、といいたのだが、到着したときはすでに門が閉まっていた。又の機会に。

鹿見塚
椿通りを北に進む。新掘2丁目から鹿骨1丁目に。鹿骨4丁目、5丁目あたりで鹿骨街道と交差。東に進み前沼橋交差点のところに鹿見塚。常陸の鹿島大神が大和・奈良の春日大社に移る途中、この地に。大神の杖となっていた神鹿が病気で倒れる。里人はこれをこの地に祀った。
鹿骨(ししぼね)は600年も前の文書に登場する古い土地。この塚は古墳では、とも言われている。

骨親水緑道
神社横の道を北に。交差点が「前沼橋」と呼ばれたように川筋跡。鹿骨親水緑道となっている。鹿骨3丁目が切れるあたりで鹿骨親水緑道は二手に分かれる。北西に向かうのは鹿本親水緑道、北東に向かい江戸川に至る水路が「興農親水緑道」。「興農」は名前の通り、農業を興す水路であったのだろう。


善養寺
北篠崎2丁目、1丁目を進み江戸川堤に。川の流れを楽しみながら北に。少し進むと天祖神社。さらに北に進み善養寺。堂々とした、雰囲気のあるお寺。真言宗豊山派・星住山地蔵院、と。星降り松、と呼ばれる枝振りのいい松があったから星住山。初代の松は枯れ、現在は二代目。地蔵院は本尊の地蔵菩薩から、か。小岩の不動尊としても知られる。16世紀のはじめ頃つくられたとされる。
善養寺
慶安元年(1648年)には将軍家より10石の御朱印を受ける。本堂わきには「びんずる尊者」。江戸の昔から「善養寺のなでぼとけ」として知られている。「びんずる尊者」って、足立散歩のとき、関原大聖寺で出会った。いつも赤ら顔の呑兵衛の仏さま。酒ゆえに、お釈迦さまから一度は破門。悔い改め、傍に控え居るだけなら、とぴうことで本堂脇に。仁王門も堂々としていうる。不動堂は、「小岩不動」である不動明王が安置されている。で、なにはともあれ、このお寺の最大の魅力は「影向の松」。樹齢600年ともいわれる、堂々とした枝ぶり。松の高さは8mだが、東西南北に30mほどの枝の広がりがある。久しぶりに、本格的な枝振りの松を見た思いがする。

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