日曜日, 8月 11, 2013

杉並区 ; 善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、石神井川の水源の三宝寺池から桃園川まで

いつだったか、善福寺川や妙正川の源流点を訪ね川筋を遡ったことがある。源流点には善福寺池や妙正寺池があった。現在は地下水をポンプアップしているとのことだが、その昔は、湧水であった、とか。

それぞれの湧水点は武蔵野台地の標高50m辺り。武蔵野台地の地下4mから6mあたりを流れる地下水は崖線の切れ目から湧水として流れ出る。流れは分水界を境に別水系となり、武蔵野台地を下る。善福寺川と妙正川の分水界は大雑把に言って青梅街道、といったところだろう。か。街道って、台地上の尾根道を走るのが普通であるわけで、その分水界を境に、善福寺川は青梅街道の南、妙正寺川はその北を流れる。そしてふたつの流れは台地が切れる目白あたりで合流する。


今 回の散歩は、善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、源流点を繋いでみようと思う。ついでのことなので、石神井川の水源のひとつである石神井公園?・三宝寺池も繋ぐ。で、水源と水源の間は分水界の尾根道だけでなく、神社・仏閣で埋めることにする。水道もない昔、水源の確保は最優先事項である。権威の象徴でもある神社・仏閣がその地を押さえるのは当然のことではあろう、との推論。神社・仏閣も、川筋も何度か歩いたところ。少々視点を変えて歩こうという次第。だぶる箇所は2006年10月に歩いた杉並散歩メモを流用する


本日のルート;JR 西荻窪駅下車>荻窪八幡神社>観泉寺薬師堂(薬王院)>今川観泉寺>井草八幡宮>善福寺川源流点>善福寺>井草遺跡>西武新宿線>旧早稲田通り>石神井川>練馬区郷土資料室>石神井城址>三宝寺池>氷川神社>三宝寺>道場寺 >天祖神社>西武新宿線井荻駅>科学と自然の散歩道>妙正寺池>妙正寺>天沼弁天公園>桃園川跡 

JR西荻窪駅下車。商店街を北進む。善福寺川にかかる関根橋を越え、東に折れ道なりに進む。駅から川筋へとはゆったりとした下り坂。善福寺川脇の遊歩道は環七から西から環八まではいい雰囲気の遊歩道が整備されている。
が、環八近くから状況は一変。道幅が急に狭くなり、人がすれ違えない、といったところも出てくる。そういえば、石神井川も同様であった。源流点の花小金井の嘉悦大学のあたりから田無、というか現在の西東京市あたりは遊歩道も整備されてなく、川筋を辿るのに、結構難儀したことを思い出してしまった。

荻窪八幡神社
川筋からゆったりと坂を上ると青梅街道。この尾根を境に、雨水は南北に泣き別れ、となる。荻窪警察署交差点の南に「荻窪八幡神社」。旧上荻村の鎮守さま。寛平年間(889-898年)創祀と伝えられる。永承6年(1051年)、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征のとき、この地に宿陣・戦捷を祈願。康平5年(1062年)凱旋するにあたって社を修繕・祝祭を行った、と。文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻略するにあたり軍神祭をとり行う。社前に「槙樹」1株を植栽。「道灌槙」である、と。


観泉寺薬師堂(薬王院)
青梅街道を渡ると信号東に観泉寺薬師堂(薬王院)。観泉寺の境外仏堂。本尊は薬師如来像。秘仏ゆえに公開されない、と。門も閉じられていた。元禄年間(1688~1703)に創設。この地の領主である名門・今川氏の祈祷所となる。1747年頃には観泉寺の末寺。明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)と。また、一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺・玉光山薬王院万福寺、とも言われている。
北に進む。西手に大きな公園。これって、昔日産プリンスの荻窪工場があったところ。現在は更地となり公園、に。件のリストラの影響か。この地は旧中島飛行機製作所跡。大正14年にエンジン研究工場として建設。太平洋戦争中の世界の名機・ゼロ戦のエンジンもここで開発された。

今川観泉寺
道なりに北に進むと山門に突き当たる。今川観泉寺。この地の領主・今川氏ゆかりの菩提寺。「慶長2年(1597年)、中野成願寺の和尚が下井草2-25に観音寺を創立。正保2年(1645年)に領主となった今川範英(直房)が現在地に移し観泉寺と。慶安2年(1649年)に将軍家光公より、寺領十石の朱印状が下付された。山門を入ると正面に立派な本堂。手入れの行き届いた庭。いい雰囲気のお寺さま。
この今川氏は駿河の名族。今川義元が織田信長に討たれてから衰退していたところ、名門好きの家康に旗本として召抱えられ、正保二年(1645)範英の代に杉並区今川付近に知行地を与えられた。家光の命により、朝廷におもむき家康の御霊に「東照大権現」の称号を授与されるに、多大の功績があった、ため。5ケ村の加増を受けた、とか。
石高は2500石。一万石以下ではあったが、名族故に、大名の格式を得て領内の青梅街道沿いに陣屋を構えた。が、この陣屋も長くは続かず、宝永四年(1707)に領内の開拓が一段落したとのことで陣屋を破却して耕地に払い下げられた。大名の格式は財政負担が重く、少ない石高では陣屋を維持できなかった、というのも理由のひとつ。

四面道交差点から2つ目の交差点に「八丁」というところがある。それは陣屋の敷地が八町あり、その跡地付近であった、から。陣屋がなくなってからは、観泉寺の境内で年貢の取立や裁判なども行われていた。つまりはこのお寺は代官所としての役割も兼ねていたよう。今川地区。地名の由来は「今川氏」にあるのはいうまでもない。
青梅街道から観泉寺あたりまでは見た目にはほとんどフラット。地図でチェックすると青梅街道から妙正寺川の源流点まで1キロ程度あるようであり、結構広い台地となっているように思う。

井草八幡宮
今川3丁目・4丁目を道なりに進み青梅街道戻る。早稲田通りと青梅街道が交差する井草八幡前交差点に。道を隔てて鬱蒼とした鎮守の森。「井草八幡宮」。往古、「遅ノ井八幡」と呼ばれた、旧上下井草村の鎮守様。この地には縄文時代から人々が生活していた、と。すぐ隣の善福寺池の豊富な湧水がポイントか。境内地及び周辺地域からも縄文時代 (約四千年前)の住居址が発見され、また多くの土器や石器が発掘されて、「井草新町遺跡」と呼ばれている。南に善福寺川の清流を望む高台にあり、中世初頭まで宿駅として、また交通の要衝として栄えた。

神社としての体裁がととのったのは平安末期。はじめは春日社をおまつりしていた。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して松樹を手植す。以来、八幡さまを主祭神と。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏攻略の折り、当社に戦勝を祈願したとの言い伝えもある。江戸時代になると三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、慶安3年(1649年)に朱印領六石を寄進。また歴代将軍何れも朱印地を寄進し江戸末期の 萬延元年に及んでいる。 今川家の氏神さまでもあった。

善福寺川源流点

井草八幡を離れ、台地道を善福寺公園・池に下る。善福寺川の水源。古来より武蔵野台地からの湧水地として知られる。池の西南部に弁天様(市杵島神社)をまつった小島。そのそばには「遅野井の滝」。源頼朝が奥州討伐からの帰途、この地に滞在。折からの旱魃で将士、渇きに苦しむ。頼朝、弁財天に祈り、7箇所地を穿つ。将士、渇きのあまり、「水の出ること遅し」とて、「遅ノ井」と。島の弁天さまは江ノ島弁才天をこの地にもってきた、もの。現在の「遅野井の滝」は千川上水から導水した人工の滝。昭和5年に町営水道の深井戸が近くで掘られて以来、泉は枯れた、と。
千川上水、って武蔵境の境橋のところで玉川上水から分流したもの。千川通りを進み、井草八幡のちょっと北西の関前交差点で青梅街道と交差し、北東へと進む。現在玉川上水から千川上水には1日1万トンの水が導水されているようだが、そのうち7000トンが善福寺へと流されている、ということである。

街道は通常、尾根道を通る、と上で述べた。同様に上水・用水といった人口の水路も通常、付近でもっとも「高い」ところ、つまりは尾根道に沿って開削される。水は高きところから低きところに流れるわけで、分水するには高いところを通っているのが至極もっともなわけである。つまりは上水路もほぼ尾根道と考えてもそれほど間違ってはいないと思う。
地図を眺めてみると、青梅街道と千川上水の尾根道の間の谷間を流れるのは妙正寺川水系。千川上水の北は石神井川水系、といったところ、か。少々大雑把ではあるが、「にぎり」としては結構正鵠を得ている、かも。


善福寺
善福寺公園の周囲を歩き、ゆるやかな坂道を上り青梅街道へと向かう。途中に善福寺。もとは今川観泉寺の境外仏寺で、福寿庵と呼ばれていた。善福寺となったのは昭和になってから。ということは、中世のころ、この地にあった善福寺ではないわけで、では本物の善福寺は?幕末に米国公使間のあった麻布善福寺の奥の院であった、といった説もあるが、よくわからない。

井草遺跡
青梅街道に戻り、井草八幡前交差点を越え、上井草4丁目に進む。青梅街道からのゆるやかな下り坂を進み、ふたたび都立杉並工業高校脇のゆるやかな坂を登る。これって、千川上水の通る台地の尾根道への上りであろう。
坂の途中に「井草遺跡」の碑。メモ;上井草4丁目13を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)の遺跡。草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面に小規模な集落を形成する例が多く見られる。この遺跡もそのひとつで、井草川の西側斜面に位置しています。

うむ?井草川?ということはこのあたりに井草川跡があるやも、と、地図をチェック。青梅街道にほど近い、「切り通し公園」あたりから、いかにも流路のような道筋が続いている。道に沿って三谷公園、道潅橋公園、上瀬戸公園など、いくつもの公園が続いている。川筋を利用した緑道であろう。ということで、「切り通し公園」に戻る。

切り通し公園

結構な勾配のある公園。谷頭あたりから昔、湧水が湧き出ていたのであろう、といった雰囲気。縄文時代の遺跡もあった、とか。公園下から、緑道が続く。元の井草川の跡である。切通し公園を源流点とする井草川は妙正寺川の水系。青梅街道を分水界に、数百メートルを隔ててふたつの水系に分かれている。
緑道を進み道潅橋公園に。太田道潅に由来のあるのだろう、とは思う。実際この公園の南、早稲田通りの今川3丁目交差点のあたりは「陣幕」と呼ばれていたらしい。道潅が豊島氏の居城・石神井城を攻めるに際し、この地に陣を敷いた、とか。

この切通し公園も、「道灌の切通し」とも呼ばれる。石神井城主・豊島泰経が井草八幡参拝の途上、この切通しを通る。で、この地で道灌の伏兵に襲われ、落命。王子の地・平塚城から石神井城に急いだ豊島泰明であるが、道灌軍に攻められ、結果落城することに。そのきっかけとなった地、と思うと少々の感慨、も。もっとも、これは伝説。実際、道灌との石神井城攻防戦に豊島泰経が登場しており、真偽のほど定かならず。

西武新宿線

歩を進め、上井草8丁目を過ぎ上井草2丁目。四宮森公園を過ぎると西武新宿線に当たる。道はここで切れる。迂回し西武新宿線の北に回り、さきほどの行き止まりのあたりまで戻る。

切通し公園から流れ出し、北東に上ってきた井草川はこのあたりで流路を変え、井荻駅方面に向かって東に進み、駅の東で南に下り、妙正寺川に合流する。切通し公園から井荻駅、そして妙正寺池を結んだちょっとした舌状台地に沿って流れているのだろう。北は千川上水の通る尾根道となっている。お散歩はここでいったん井草川から離れ、石神井川へと進む。

旧早稲田通り

ゆったりとした上りを進むと井草4丁目交差点。千川上水と新青梅街道が交差する。街道を北にこえると、道はゆるやかに下りはじめる。ゆったりとうねっている。石神井川への谷筋に向かっているのだろう。
ほどなくして旧早稲田通りに合流。本天沼2丁目で早稲田通りかわ分かれ、北西へとのぼる。所沢街道とも呼ばれたようだ、もともとはこちらがメーンルーとであったのだろうが、早稲田通りが本天沼から井草八幡方面へとのびたため、「旧」という名称と「なったのであろう。

石神井川
旧早稲田通りを少し進むと石神井川に架かる豊島橋に。石神井川の名前の由来は旧石神井村を流れていた、から。石神井村、現在の石神井のつく地名以外に、谷原とか高野台、そして関町といった、地域をカバー。大雑把に言って、笹目通りから西の練馬区一帯といったものであった、よう。

川を歩くとき、水源が気になる。目黒川は北沢川と烏山川が国道24号あたりで合流し、それより下流は目黒川となる。北沢川にも烏山川にも水などなにもないのだが、目黒川で急に水が流れ出す。この水源は下落合の下水処理場で高度処理された下水とのこと。延々地下を導かれ、この地で放流される。?川も同様であった。東京工大のある大岡山のあたりで放流される水は、これも下落合処理場からの導水であった。工場からの高度処理排水が水源となっている川もあった。東久留米の黒目川である。東京コカコーラボトリングからの処理排水から下流になると、水曜が多くなる。

先ほど訪れた善福寺川は千川上水からの導水による善福寺池を水源とする、とメモした。千川上水は玉川上水の分水である。で、この玉川上水は、小平までは羽村で多摩川から取水された水ではあるが、その水は小平からは村山浄水場に導水され、小平から下流は清流復活事業により昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水がながれている。ということは、善福寺川の水源は昭島周辺の家庭や工場の排水、ということであろう、か。

石神井川はどうだろう。源流地点の嘉悦大学あたりには水はほとんどなかったし、西東京のあたり家庭排水が流れ込んでもいたようだし、水量がふえてくるのは武蔵関公園の富士見池のあたり。池の水はポンプアップだが、近くの早稲田大学のグランドからの湧水は現在も結構豊富、とか。また、この石神井公園の三宝寺池も水源のひとる。ポンプアップによって地下水をくみ上げている、と。

お散歩で東京近辺の川筋を結構歩いたが、自然の湧水が源流となっていたのは、あまりなかった。東京では、東久留米の落合川、国立の矢川、町田の鶴見川あたりが記憶に残る。それだけに、「自然」な川の流れが思いのほか有難く思う。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

練馬区郷土資料室

豊島橋を渡り、禅定院前の豊島橋交差点を西に折れる。道の北に台地。その向こうには石神井池が広がる。石神井池は人口の池。かつては三宝寺池からの水路が開かれ、田圃が広がっていたのだが、その水路を堰止め、池とした、と。

しばらく進み石神井小前交差点に。南北に走る道は、三宝寺池と石神井池の間を通る。交差点を少し北に石神井図書館。その地下に練馬区の郷土資料室がある。少々、つつましやかな施設。とはいうものの、いつだったかここを訪れたとき「千川用水」の資料を手に入れ、それをもとに、千川筋や千川が養水した谷端川などの散歩が楽しめたわけで、施設の大小に関係なく、有難い場所ではあった。

石神井城址
資料室を離れ、三宝寺池二向かい、ゆるやかな坂を上る。坂の途中で西に折れる。道場寺、三宝寺の裏を進む。小路の北の台地が石神井城址。鎌倉末期、豊島泰経の居城跡、である。保護フェンスがあり中には入れない。空堀と土塁らしきものを保護フェンス越しに眺める。

豊島泰経って、太田道潅との戦いに敗れた平安以来のこの地の名族。道灌との合戦の経緯;1477年、道灌軍は豊島氏の属城である平塚城を攻める為に江戸城から進軍。平塚嬢は、上中里にある平塚神社のあたりとにあった、と言われる。泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出陣。が、道灌軍は転じて石神井城方面に侵出。江古田・沼袋付近で両軍は激突(江古田原・沼袋の戦い)。豊島軍は敗れ、この石神井城に逃げ込むが落城。豊島泰経は,落城後,平塚城(北区平塚神社)に敗走。その翌年の1月25日に道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた、と伝えられる。
そもそも何故、道灌と豊島泰経が争うことに成ったか、ということだが、遠因は関東管領と古河公方の争い、そして関東管領内部の内紛。元は鎌倉公方、つまりは、室町幕府の関東10カ国の最高責任者と、それを補佐する管領という立場ではあったが、京都の将軍家の下風に立つことを潔しとしない鎌倉公方と京都側に立つ関東管領が争い、結局公方が破れ、鎌倉を逃れ古河(茨城県古河市)で古河公方と称す。

道灌は関東管領の一族・扇谷上杉の重心。豊島泰経も関東管領山内上杉氏の重臣。もとはともに管領側の武将。同じ管領側が敵味方に分かれたのは、山内上杉家の重臣、長尾景春が跡目相続の恨みで主家に反旗を翻し、鎌倉公方から古河公方に移ったことによる。その際、豊島泰経は長尾景春に与力。泰経の妻が景春の妹、といった説もあり、両者の結びつきは強かったとも、新参者の道灌の活躍が名族豊島氏に目障りであったとか、諸説あり。ともあれ、泰経が古河公方側、というか長尾景春側についたため、関東官領の大田道潅と戦うことになった、ということだ。

後日談。大田道潅は出る杭は打たれる、ということか、主家扇谷上杉家に疑念をもたれ謀殺される。その後、後北条(ごほうじょう)氏、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による戦乱の中、扇谷上杉家は力を失い滅亡。一方山内上杉は越後に逃れ、管領職を重臣・執事の長尾氏に。長尾景虎こと、上杉謙信が関東管領として関東を窺うことになる。


三宝寺池

石神井城址のある台地を下ると三宝寺池。野趣豊かな池。ボートが浮かぶ公園といった雰囲気の石神井池とは少々赴きが異なる。昭和30年頃までは、結構湧水があったようだが、最近は地下水をポンプアップしている、とのこと。水面には葦なのだろうか、水草が茂っている。コウホネやハンノ木なども池中央の浮島に茂っている、と。
コウホネって渋谷川水系を辿っているとき、コウホネ(河骨)川に出合い、はじめて知った植物。河骨川って、童謡「春の小川」の舞台になった小川である。ハンノ木も同じ。荒川沿いを歩いているとき、園昔ハンノ木があった、といったことが語られていた。こういったきっかけでもなければ、花鳥風月を愛でる情感に乏しい我が身としては、一生知らなかった「単語」ではあった、ではあろう。

氷川神社
池の周囲をのんびり歩き、再び石神井城址のある台地へと戻る。城址の西に氷川神社。創建は室町時代。豊嶋氏が武蔵一宮である大宮の氷川神社から勧請したもの。石神井郷の総鎮守であった。

三宝寺
氷川神社を離れ旧早稲田通りへと台地を下る。通りに沿って三宝寺。由緒ある真言宗の寺。品格のある風情。ここにも将軍鷹狩の折って由緒書き。御成門もあるし、徳川家の祈願所でもある。もとは先ほど訪れた禅定院のところにあったようだが、豊島氏を破った太田道灌の命により、この地に移った。ちなみに三宝、って「仏・法・僧」。悟りを開いた人である「仏」、仏の教えである「法」、法を学ぶ仏弟子「僧」ということ。

道場寺
三宝寺能登なりに道場寺。豊島氏の菩提寺。開山も14世紀中頃と歴史も古い。建物は結構新しい。山門や三重塔は昭和40年代に建てられたものではあるが、落ち着いた雰囲気。本堂は唐招提寺を燃したもの、とのこと。

天祖神社

石神井池、というか三宝寺池巡りを終え、井草川緑道に戻る。石神井川の谷筋から千川上水の通る台地の尾根道に戻る。途中、下石神井6丁目に天祖神社。天祖神社って、昔は神明社と呼ばれていたが、明治の神仏分離の際に天祖神社となった例が多い、ここもその例にもれず、といった案配。
神明とは伊勢信仰、つまりは皇室の祖先神である天照大神が主神であり、明治の御代の皇威盛んなり折、皇室に対し「不敬」であろう、と自主規制した結果、天祖と改名したようだ(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(桜桃書房)』)。

西武新宿線井荻駅

千川上水の尾根を越え、ふたたび井草川の流路のある谷地へと、ゆったりとしたうねりを下る。再び西武線近くの緑道に。すぐ東に矢頭公園。この公園越えると再び西武新宿線に交差。南に下ることになる。線路を渡り柿木北公園を過ぎると環八。環八を越えると西武新宿線井荻駅に。

科学と自然の散歩道

井荻駅前に「科学と自然の散歩道」の案内図。井草川遊歩道をノーベル賞受賞科学者・小柴先生の受賞記念事業としてつくられたもの。小柴先生の日常の散歩コースであったらしい。井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館をつないだ散歩道になっている。下井草5丁目・4丁目を下り、早稲田通りを過ぎると妙正寺公園にあたる。

妙正寺池
井草川は妙正寺池に流れ、この池の湧水を合わせ妙正川となって下ることになる。妙正寺池は昭和30年頃までは湧水が溢れていた、とか。池の東は台地となっており、いかにも湧水点、といった雰囲気。現在は地下水をポンプアップしているのは、井の頭池、三宝寺池、と同じ。

妙正寺川の始点に。妙正川の案内があった。「妙正寺川は、千川上水からの水もあつめ、神田川に合流する9キロなにがしの1級河川である」、と。北の千川上水から分水し、井草川を介して養水していたのだろう、か。

いつだったか、この始点から神田川との合流点まで歩いたことがある。川筋の道は、切れたり繋がったりと全面的に遊歩道が整備されているわけではないのだが、

 鷺宮とか沼袋とか、いかにも往時の湿地帯をイメージさせる地名にそって蛇行する川筋、弥生時代の遺跡の残る平和公園や、哲学堂の台地、目白の台地など、結構地形のうねりを楽しむことができる。

妙正寺
妙正寺池を離れ、公園に続く台地の上にある天祖神社に。先ほどの天祖神社と同じく、昔は神明社と呼ばれていたが、明治になって改名。その南に妙正寺。品格のある日蓮宗のお寺。慶安2年(1649年)、将軍家光が鷹狩りの際にお参りし、朱印地を寄進したことから、御朱印寺と呼ばれた由緒あるお寺だった。

天沼弁天公園
妙正寺の後は、一路JR荻窪駅に進む。清水地区を成り行きで進み天沼に。東京衛生病院裏手に天沼弁天公園。いつだったか、桃園川の源流点を探して歩いたときに来たところ。当時は、お屋敷の更地工事の最中。西武グループ総帥であった堤氏の「杉並御殿」の跡地であった、かと。現在は公園となり、池がつくられていた。
桃園川の水源であった弁天池はお屋敷が建てられたとき埋め立てれたようだが、再びそれらしき池として復活させたのであろう。公園内には杉並区の郷土歴史観の分館もある。

「天 沼」という地名の由来はこの弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。
天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。

『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。

桃園川跡
今日は、善福寺川、石神井川、妙正寺川の水源と、その間の尾根道・分水界を巡る散歩ではあったのだが、最後で思いもよらず桃園川の水源にも出合った。この天沼の地から阿佐ヶ谷、高円寺と大久保通りに沿って中野を下り、新宿区との境で神田川に合流する神田川水系の川。現在覇すべて暗渠の下水幹線とはなっているが、小径といった緑道が阿佐ヶ谷から下流に整備されている。
公園からは如何にも水路跡らしき道を辿り、天沼八幡さまなどちょっと立ち寄りながら、JR荻窪駅に到着。本日のお散歩を終える。 

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