木曜日, 2月 06, 2014

相模 サバ神社散歩 そのⅡ:境川水系や引地川沿いに鎮座するサバ神社を大和市から藤沢へと辿る

先回の散歩で境川水系や引地川沿って鎮座する12社のサバ神社のうち8社を辿った。常の如く出発が遅く、最後の今田鯖神社は真っ暗。結局4社を訪ねることができなかった。
今回は先回取りこぼした4社を巡る。散歩をはじめるときは何も計画していたわけではないのだが、結果的にはサバ神社所以の源氏の源義朝や満仲ゆかりの社とともに、大庭氏や俣野氏といった平家方の武将のゆかりの地も辿ることになった。成り行き任せの散歩の妙ではあろうか。
本日の本日のルート;小田急江ノ島線・長後駅>七ッ木神社(藤沢市高倉)>東勝寺>左馬神社(下飯田)>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>和泉川>鯖神社(鍋谷)>密蔵院>密蔵院弁財天>天王森泉公園>俣野神社>俣野観音堂>左馬大明神(西俣野)>伝承小栗塚跡>自性院>引地川>佐波大明神(石川)>大庭城址公園>引地川親水公園>成就院>小田急江ノ島線・善行駅

小田急江ノ島線・長後駅
最初の目的地は藤沢市高倉にある「七ッ木神社」。最寄りの駅である小田急江ノ島線・長後駅に向かう。「長後」ってなんとなく気になる地名。あれこれチェックすると、高座郡渋谷庄長郷と呼ばれていたのが小田原北条の時代に書き間違い「長後」とした説、この地から東に広がる相模一帯(綾瀬市、大和市、藤沢氏)を領した高座郡渋谷庄の庄司(領主)である渋谷重国が出家し長後坊を名乗ったとの説などいろいろ。説の是非は門外漢である私にはわからないが、ともあれ「長郷」と称されるとすれば、渋谷庄の「長=中心」の郷であったのだろうか。
長後は江戸時代には藪鼻宿と呼ばれ、八王子から藤沢を南北に結ぶ「滝山街道」と、柏尾(戸塚区)から門沢橋(海老名市戸田の渡し)を東西に結ぶ大山街道の交差する交通の要衝の地。明治には生糸を横浜に運ぶ「絹の道」として賑わった、とのことである。
なお、渋谷庄の中心とはいうものの、庄司(領主)の館は長後駅から東南の綾瀬市早川にある城山公園(早川城址)の辺りにあったようである。

渋谷重国
渋谷重国は、桓武天皇の曽孫である高望王の後裔である秩父別当武基を祖とし、後三年の役での大功により武蔵河崎荘を賜り河原冠者と称された基家の流れ。重国が渋谷を称したのは、禁裏の賊を退治したことにより堀川天皇より渋谷の姓を賜ったため。一説にはその賊の領地が相模国高座郡渋谷荘辺りであり、それ故に渋谷姓とその領地を賜ったとか。因みに東京都の渋谷区も重国の領地が武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)であったことによる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

七ッ木神社(藤沢市高倉; 藤沢市高倉1128)
駅から東へと境川筋へと成り行きで進み崖線を下る。崖裾に七ッ木神社。この辺りの境川両岸は宅地には成らず田圃が広がる。
鳥居を潜り石段をのぼると狛犬が迎えてくれる。拝殿前にも狛犬が佇む。拝殿にお参り。境内には道祖神や石仏、石碑が多い。「八海山神皇」、「三笠山天皇」そして 「御嶽山座皇大神」と刻まれた石碑が並ぶ。 「八海山神皇」、「三笠山天皇」とは耳慣れない名称。チェックすると、木曾の御嶽山内のある山名であり、八海山には大頭羅神王が、三笠山には刀利天、不動明王、摩利支天が祀られている、と。
境内を巡り案内を探すが、サバ神社巡りの案内以外に何も無い。神奈川県神社庁の資料によると、「文禄年中(1592~96)渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。1826(文政9)年再建。新編相模風土記稿に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。1873(明治6)年村社列格」とあった。渋谷義重氏って誰?あれこれチェックするが見あたらない。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によって整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述が残る。明治になって「七ッ木」と明治の頃の村の名である「七ッ木村」とした。
江戸の領主である遠藤氏は、藤原氏の後裔であり義朝系でもなく、元の名も「七ッ木」であり、一時「鯖」を称したが、明治に「鯖」の有り難さも無くなった頃、再び元の「七ッ木」に戻したのだろう。

東勝寺
次のサバ目的地である横浜市泉区にある鍋谷の鯖神社に向かってなりゆきで南に下る。と、先回の散歩で立ち寄るも、日暮でゆっくりお参りもできなかった東勝寺が現れた。道から参道が続き石段の上に山門が建つ。境内から眺める境川両岸の田圃の景観が美しい。
境川の川筋を見下ろす台地に建つこのお寺さまは、秋雄和尚によって南北朝時代に創建され、阿弥陀仏を本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺。北条一族が鎌倉の東勝寺で滅亡したのを悼み、密かにこの地に建立された、とのこと。山号は点燈山と称されるのも意味深い。江戸後期寺は焼失するも、「点燈山」の額を持つ山門は残った。再建された本堂には北条氏の三つ鱗の紋がある、と言う。


鎌倉の東勝寺
鎌倉を彷徨ったとき北条一族が滅んだ東勝寺跡を訪れたことがある。そのときのメモ;「北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ」



左馬神社(下飯田;横浜市泉区下飯田町1389)
東勝寺を離れ、境川を渡り横浜市泉区に入る。次の目的地である鍋屋の鯖神社に向かって境川の東側を下ると、昨日訪れた左馬神社が現れた。先回のメモを再掲する。
下飯田の左馬神社の辺りはそれほど宅地化も進んでおらず、昔ながらの耕地が残る一帯の、豊かな緑の中に左馬神社。素朴な社といった趣きである。
境内には案内はない。泉区の資料などによると、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。 またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上の道」または「西の道」が通っている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖」の記録が残る。また、江戸初期の領主は上でメモした通り筧助兵衛為春であり、藤原氏の支流とする。今までの論から推測すれば、里神を厄除け、疫病退散のためサバ社としたのだろうが、「左馬」の表記に拘る理由はないことになる。実際、同書では「鯖」社とし、現在も「鯖社」と説明している。が、実際は現在の表記は「左馬神社」となっており、記述とは異なっていた。はてさて。

琴平神社
下飯田の左馬神社を離れ南に下る。相鉄いずみの線と横浜市の地下鉄ブルーラインが平行して走る高架を潜った先には、道の左手に宅地化が進んだ一帯が目に入る。
道を進み豊かな緑の一隅の結構な構えの社。琴平神社とある。参道の石段を上ると、鳥居前に狛犬。狛犬の台座に短歌が刻まれる。「唐獅子やみたまとともに とこしえに まもりづづけよ このみやしろを」と読める。更に石段を上り拝殿にお参り拝殿に象の木鼻。金比羅さんの「本家」である香川県の金比羅宮は「象頭山 金比羅大権現」と歌われるように象頭山の中腹に鎮座し、神仏混淆の頃より山号を「象頭山」と称する。本家の梁にも象の木鼻が刻まれており、琴平神社のすべてではないようだが、象の木鼻が社殿の梁に刻まれている。境内には八坂、白山神社、稲荷神社などの摂社が合祀されていた。
この琴平神社は天正18年(1590)、下飯田の領主となった旗本の筧助兵衛為春が境川沿いにあった菩提寺の東泉寺を境川の洪水・水害から護るためこの地に移築した際、水難守護治水の神である金比羅神を村の鎮守として勧請したのが社のはじまり。
「海上交通の神」として名高い金比羅様は、下飯田の村民だけでなく、西湘方面の漁師の信仰も篤かったとのことである。祭神は大物主神と崇徳上皇。香川の金比羅宮と同じである。
江戸期にはお隣の東泉寺が別当寺であり、金比羅様として神仏混淆にてお祀りされていたが、明治2年(1869)の神仏分離令により、琴平神社として分離された。

東泉寺
琴平神社のすぐ隣りに東泉寺。巨木山と号する曹洞宗のお寺さま。山号の由来は境内の市の名木古木に指定されている「大銀杏」故だろう。山門脇に「天明門縁起」の案内。天明3年(1783)建立のこの山門はこの年、浅間山が噴火し、この地も地震が8日間、雨天が1ヶ月にも及び、飢饉による被害が出たため、世の平安を祈って建立した、と。平成5年(1993)の解体工事の際に判明したとのこと。また、「吾唯知足而 位富楽安穏(われ ただ たるをしりて ふらく あんのんに いす)」と柱にあることにより「知足門」とも称される。
山門脇の石に刻まれた「人もかく老いて秋たつ眉毛哉」の句は芭蕉門下である美濃口春鴻の作。49歳の自筆とのことである。
山門を潜り本堂にお参り。このお寺さまのはじまりは、上の琴平神社でメモしたように、境川沿いにあったものが、度重なる水害を避けるべく天正18年(1590)、当地の領主である旗本の筧助兵衛為春が開基・創建。境内には薬師堂は相模国準四国88ヶ所の札所59番。弘法大師像が安置される。『新編相模国風土記稿』に下飯田の東泉寺の記述の中に「金比羅社」の記述があるが、神仏混淆の頃、このお寺さまが琴平神社の別当寺ことのエビデンスである。

境川遊水地公園
鍋屋の鯖神社へのルートを地図でチェック。東に進めば最短距離ではあるのだが、少し南に下ったところに「境川遊水地公園」がある。遠回りにはなるのだが、ちょっと立ち寄り。
公園に近づくと、深く掘られた遊水地にはテニスコートや野球場、多目的広場、ビオトープ、水辺が整備されている。遊水地とは河川の堤防を低くし、洪水であふれた水を一時的に溜める施設。施設の大半が横浜市泉区ではあるが、戸塚区、藤沢市の市境にあり、それぞれの市(区)域にまたがる遊水地と公園を神奈川県が整備を進めている、とのことである。

和泉川
境川遊水地公園をぐるりと廻り込むと和泉川が境川に合流する地点に出た。先回にメモしたように、和泉川は瀬谷区東端にある瀬谷市民の森に源流を発し、間に挟まれた台地によって境川の谷筋と分け、瀬谷区、泉区を南に下り、戸塚区俣野町で境川に合流する全長10キロ弱の二級河川(1級河川は国、二級は都道府県管理)である。とすれば、合流点は横浜市戸塚区ということであった。

鯖神社(鍋屋;横浜市泉区和泉町705
鍋屋の鯖神社に向かうべく、和泉川を遡る。鯖神社は鍋屋交差点の南、豊かな緑の中にある。鳥居を潜り石段をのぼると、誠にささやかな拝殿だけが残る。境内に案内はない。
「神奈川県神社誌」によると、「慶長年間(1596~1615)に当地の郷士、清水、鈴木の両氏が勧請したと伝承されている。1689(元禄2)年に氏子住民の浄財で社殿の修復が行われたと記された棟札が保存されているが、1836(天保7)年に神祇管領卜部朝臣良長(じんぎかんれいうらべあそんよしなが)が京都から参向奉弊し「鯖大明神」の額を奉納した旨を記した棟札も保存されている」とある。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保7年(1836)の奉額には「鯖大明神」とある祭神は「源義朝」ではなく「源満仲」とされるが、これは先回のメモで延べたように江戸期の和泉村の領主が松平勝左衛門昌吉であったことに関係する。
この松平勝左衛門昌吉は満仲>頼信>頼義>義家と続く清和源氏の系統ではあるが、義朝は義家から義親>為朝>義朝と続く系統、一方松平勝左衛門昌吉を含めた徳川一門は義家から義国>義重(新田系)の系統であり、徳川家の十八松平氏のひとつである松平勝左衛門昌吉は、彼らにとっては傍系である義朝を祀るのを本流としてのプライドが許さず、義朝の祖であり徳川松平の祖でもある清和源氏隆盛のきっかけをつくった満仲を義朝の替わりに祀ったとする。

密蔵院
鍋屋交差点の東の崖上に密蔵院。鍋屋鯖神社と続いていた丘陵を県道18号(環状4号)を通すため切り通しとなったように思う。切り通し工事の結果か、参道は石段となっている。その石段横に文政4年(1821)建立の木食観正碑。「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれる。
石段を上り本堂にお参り。茅葺きの鐘楼が誠に美しい高野山真言宗のお寺さま。本尊は願行作とされる不動明王。石段下には環状4号線の工事のため寺域が大きく変わってしまったようだ。

木食観正上人
木食観正上人は近世の遊行僧。江戸時代後期(19世紀初頭)、淡路に生まれ小田原を中心に関東各地を廻り加持祈祷を行い、弘法大師の再現とも称された。
木食とは木の実や果実だけを食べ、米や野菜を食しない修行のことであり、このような修行を守る遊行僧は、一般的に僧侶の資格ももたなかった、とか。水不足や疫病などに苦しむ民衆に加持祈祷をおこなう木食上人の評判は江戸にも伝わり信者が殺到しとも伝わるが、上人は文政12年(1829)、江戸大火の際の加持祈祷の科により囚われ、獄死したとのことである。

密蔵院弁財天
次の目的地は西俣野の左馬大明神社。地図で確認すると南に下ることになるが、その途中に密蔵院弁財天とか天王森泉公園とか如何にも湧水を想起させる地名とか俣野神社や俣野観音堂といった地名が目に付く。ついでのことではあるので、それぞれを辿り西俣野の左馬大明神社へ向かうことに。
密蔵院から鯖神社方向へと戻り、丘陵裾を進むと密蔵院弁財天。弁天様の裏の崖線から湧水が流れ出す。弁天様はヒンズー教の水無川(地下水脈)の神である「サラスヴァティ」がその起源。大切な湧水をお祀りしたのであろう。

天王森泉公園
和泉川の両側に広がる田圃、その縁を画す丘陵の斜面林を楽しみながら進むと天王森泉公園。園に入ると古き趣の屋敷。この建物は台地崖線から流れ出す湧水を使い、和泉川流域にあった製糸工場の本館を移築したもの、と。
天王森和泉館と名付けられたこの建物は明治44年(1911)、清水氏により興された清水製糸工場の本館。清水製糸工場は釜数128、神奈川県下45社の中でも5番目の規模。和泉川沿いには豊富な湧水を活かし20以上の製糸工場が営まれ、中和田村(泉区)には市内最古で最大規模の持田製糸工場を初め8社あったが、大正時代をピークに次第に廃れていった。
製糸工場の脇を抜け斜面林へと進むと遊水池。その源流はと先に進むと崖下かから湧水が浸みだしていた。湧水の源流点でしばしその「浸みだし具合」を眺めながら湧水フリーク故の豊かな時を過ごす。
公園内にあった湧水の説明に和泉川や下流の俣野で合流する宇田川、深谷町を流れる谷戸川沿いの湧水マップが掲載されていた。和泉川流域で17箇所、宇田川沿いに6箇所、谷戸川沿いに4箇所ほどの湧水点がある。いつだったか厚木の湧水点を辿ったように、そのうちにこれらの湧水点を探す散歩をしてみたいと思う。


横浜ドリームランド跡
台地斜面林の裾を進むと、台地上に巨大な建造物。高層ビルの屋上は日本風の屋根に覆われており、新興宗教の本部かとも思いながら歩いたのだが、メモの段階でチェックするとその建物は平成14年(2002)閉園の横浜ドリームランドにあったホテルであった。そのホテルエンパイアは現在は横浜薬科大学の図書館棟となっている。それにしてもユニークというか、なんとも形容し難い建物である。市域も横浜市泉区から戸塚区に移る。

俣野神社
県道403号からは狭い急坂を上り、鳥居から長い参道を進み鎮守の森に入る。社は俣野町と深谷町を隔てる丘陵中腹に鎮座する。本殿にはお伊勢さんの幟が立つ。大庭御厨の影響が残っているのだろうか。境内には鐘楼がある。神仏習合の名残だろうが梵鐘は無い。
神社庁によれば、正式名は「上俣野神社」。古くは欽明天皇社と称されていたが、明治初年「上俣野神社」と改称。創建時は不詳だが、安政3年(1856)社殿再建された、とある。先ほど訪れた天王泉森公園の「天王」は欽明天王社からとの説がある。
欽明天皇が祀られる所以は不明であるが、江ノ島の江島神社は、欽明13年(552)に欽明天皇の勅命で島の洞窟(岩屋)に神を祀ったのが始まりとされる。また、武相総鎮護座間神社の創建も欽明年間と伝えられる。なんらか欽明天皇とこの地を結ぶキーワードがありそうなのだが、あれこれの詮索は後のお楽しみとしておこう。

鎌倉街道・上ッ道
かつて、この辺りには鎌倉街道・上ッ道が通っていた。道筋は先回訪れた宗川寺から境川に沿って南に下り、飯田神社辺りを経て境川と和泉川が合流するこの地俣野を通り鎌倉に続く。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
鎌倉街道山ノ道()、別名秩父道は鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。いつだったか、高尾から北へ、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かったことが懐かしい。その山ノ道は高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。

鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回出合った鎌倉街道上ノ道の鎌倉からの大雑把なルートは以下の通り;
八幡宮>俣野>飯田>上瀬谷>町谷>町田>本町田>小野路>府中>恋ヶ窪>小平>東村山>所沢>入間>女影>町屋>苦林>笛吹峠>奈良:>塚田>花園>広木>児玉>鮎川>山名>高崎

また、今回の散歩の地の周辺に限定したルートは、いくつかバリエーションはあるものの、以下のルートもそのひとつ、とか。町田から順に南へのポイントをメモする。
町田>町谷交差点((東京都町田市鶴間))>田園都市線>鶴間公園(東京都町田市鶴間)>東京女学館(東京都町田市鶴間)>246号>東名高速>八幡神社(瀬谷区上瀬谷町)>妙光寺(瀬谷区上瀬谷町)>相沢交差点から「かまくらみち」>相鉄線>宗川寺>さくら小学校>羽田郷土資料館>新幹線>本興寺>飯田神社>左馬神社(下飯田)>相鉄いずみの線・地下鉄ブルーライン>富士塚公園>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>俣野神社>明治学院グランド>龍長院(戸塚区東俣野)>八坂神社(戸塚区東俣野)>国道1号>柄沢神社(藤沢市柄沢)>慈眼寺(藤沢市柄沢)>長福寺(藤沢市村岡東3町目)>日枝神社(藤沢市渡内)>村岡城址公園(藤沢市村岡)>東海道線>町屋橋で柏尾川を渡る>上町屋天満宮(鎌倉市上町屋)>大慶寺(鎌倉市寺分)>駒形神社(鎌倉市寺分)>御霊神社(鎌倉市梶原)>葛原岡神社(鎌倉市山の内)

俣野観音堂
坂を下り県道403号脇にある俣野観音堂に。観音堂はフェンスで囲われており入れないのかと思ったが、フェンスの端にスライド式の入り口があり境内に。案内によれば、この堂宇は俣野景久の守護仏と伝わる「十一面観音」が祀られる。
俣野景久は後ほどメモする大庭御厨の主である大庭景親の弟。現在の横浜市戸塚区と藤沢市にまたがる俣野郷を領土とした。先回の散歩での飯田五郎のメモのとき、源氏に馳せ参じたい飯田五郎は、前を大庭景親、後ろを俣野景久に挟まれ、心ならずも平家方に加わった(結果として頼朝を助けることになったのだが)ことからもわかるように平家方の武将。頼朝挙兵の石橋山の戦いでは勝利をおさめるも、その後富士川の戦いで敗れ、兄の大庭景親は降服し処刑されたが、景久は敗走し平維盛に合流し、加賀の国の「倶利伽羅峠の合戦」で木曽義仲に破れで討ち死にした。この観音堂の十一面観音は死を覚悟した景久が俣野の母に送ったものと伝わる。
「俣野」の地名の由来であるが、地形図を見ると和泉川と宇田川、そして深谷町からの谷戸川が合流し「股」のような地形になっている。この地形所以のものではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

左馬大明神社(西俣野;藤沢市西俣野837)
次は西俣野の左馬明神社。境川を渡り、台地に上った民家脇にある小祠とのこと。両岸に田圃の広がる境川を渡ると横浜市戸塚区から再び藤沢市域に。台地を上りおおよその見当をつけて左に折れると、小さいながらも「左馬大明神」への道案内があった。案内を頼りに進むと民家の隣り。ほとんど「屋敷神」といった雰囲気の祠があり、そこが左馬大明神社であった。この社は神奈川県の神社庁には登録されていないとのことである。今までのサバ神社を巡る散歩で最もささやかな社、というか小祠が大明神と称されるのも興味深い。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』で整理すると、天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述がある。元の名称は「左馬」であった、と言う。江戸の頃、この地の領主である小笠原氏は清和源氏系であり、一時期流行に抗せず「鯖」と称するも、元に戻ったということだろう。

伝承小栗塚之跡

次は今回の散歩のテーマであるサバ神社の最後、藤沢市石川の佐波大明神。小田急線を越え、台地を下った引地川の谷筋にある。結構距離があるが本日でサバ神社巡りを終えようと、もう少し歩く。
西俣野の左馬大明神社を離れ、県道403号に出る。坂を上る途中の道脇に「伝承小栗塚之跡」の石碑。小栗塚は小栗判官由来の地。判官が葬られた冥界入り口、と言う。現在は県道が一直線に通るが、その昔は九十九折れの道であった「小栗塚」の逆側には、判官が地獄から蘇り、地獄の砂を払い落ちしたとされる「土(砂)震(すなふるいづか)」があったようだが、その時は知るよしも無く、見落とした。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。
で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、この地の伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースに以下メモする。

小栗判官
その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められかけるが、金沢六浦の漁師に助けられるも、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。そこで面倒見てくれる人もいなく困っているとき、美濃の大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に引かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。
照手姫と小栗判官が最初に出会った場所が俣野と伝えられ、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。
小田急江ノ島線・六会日大前
県道403号を西に進み国道467号・藤沢街道を越え、小田急江ノ島線の「六会日大前駅の南を成り行きで進む。「 六会」は「むつあい」と詠む。明治21年(1888)の町村制の試行により六つの村(亀井野、今田、下土棚、円行、石川、西俣野)がひとつになったための地名。日大は文字通り、日本大学。昭和4年(1929)、小田急線六会駅が出来た頃は数件の農家しなない寂しい農村であったようだが、昭和16年(1941)日本大学が開校し、その後駅名も平成10年(1998)には六会日大前駅となった。また、高座郡六会村は境川流域の集落としてはやくから開け、平安末期には大庭御厨が置かれた。その六会村も昭和17年(1942)には藤沢市と合併した。

自性院
小田急線を越えると日本大学の敷地が広がる、付属高校や日本生物資源科学部のキャンパスを横切る。生物資源科学部とは農獣医学部のこと。そういえば動物をケアする学生さんが目についた。キャンパスを離れ道なりに進み天神公園で遊ぶ親子の姿を眺める。奥には社らしきものが目に入る。天神社ではあろう。
道を進み台地から引地川へと下る。坂を下り切ると引地川脇に立派な伽藍が見える。ちょっと立ち寄り。自性院と呼ばれる浄土宗のお寺さま。開基は慶長16年(1611)、地頭の中根臨太郎。境内は砂と植栽で庭園風に造られている。引地川の両岸は、自性院から南、特に川の東側に田圃がひろがる。航空写真を見るに、自性院から南の一帯が宅地化から免れ、美しい緑の景観を残している。

引地川
引地川を渡る。Wikipediaによれば、引地川は洪積台地の相模原(野)台地中央部の大和市上草柳の泉の森を源流点とし、洪積台地を侵食し谷底平野を形成しながら南に流れ、藤沢市稲荷付近から湘南砂丘地帯に流れ出て、鵠沼海岸で相模湾に注ぐ。全長22キロ弱の2級河川。
昭和58年(1983)「引地川川べり遊歩道」が整備され、昭和62年(1987)の旧建設省の「ふるさとの川モデル事業」の指定を受け、遊水地建設とともに親水護岸などが整備されている(Wikipedia)
名前の由来は諸説あるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って川筋を付け替えたとの説が有力。そのためか、この川はかつては、場所により、長後川、大庭川、清水川、堀川などと呼ばれていた。

佐波大明神(石川;藤沢市石川141)
引地川に架かる秋本橋を渡り、竹林を眺めながら坂を上ると佐波大明神。鬱蒼とした鎮守の森に鎮座する。鳥居脇に「佐波大明神」と刻まれた石碑がある。その神紋は「笹竜胆紋」。笹竜胆は源頼朝の紋であり、河内源氏石川家の家紋でもある。ちなみに、藤沢氏の市の紋章も笹竜胆、と言う。
脇にある鳥居を潜り参道を進む。長い参道には18世紀初頭の青面金剛が佇む。鎮守の森にはスダジイ、ヤブツバキ、シロダモ、アラカシ、ヒイラギ、山桜などの巨木が残ると言う。
拝殿にお参り。拝殿脇には鐘楼が建つ。神仏混淆の名残がこの社にも残る。案内によると、「祭神は源義朝公で、1611(慶長16)年頃創立。一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆(注;入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏)によって勧請されたと伝えられる。社名については初め左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めた。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、文化3年(1806)の鐘銘に「鯖大明神」の記述。天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述。天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述が残る。
江戸の領主は中根氏であり、平良文系統とのことであるので、清和源氏と直接関係がない。「佐馬」に拘る理由もなく、かといって清和源氏の後裔と称する徳川家康に配慮し、左馬頭である義朝を祀るも、社名は「左馬」にするには抵抗があり、音は同じだが地形を表す「佐波=谷川・湿地の意」を関した社名をつけたの、かと。元の名も佐波とも沢とも称される。一時期、鯖信仰に抗せず「鯖社」を称するも、水害なとの被害を避けるべく元の佐波社に戻した。

大庭城址公園
日も暮れてきた。そろそろ駅に向おうと思うのだが、地図を見ると引地川に沿って南に2キロほど下ったところに大庭城址公園が目に入った。大庭御厨の経営を基盤にこの地に覇を唱えた大庭氏の城跡ではあろうと、日没にはかかりそうとは思いながらも大庭城址公園経由で小田急江ノ島線・善行駅へのルートを選択。
急ぎ足で引地川に沿って歩を進めると、前方に独立丘陵が見えてきた。大庭城址公園である。公園の北に沿って上る坂道を進み、坂を上り切ったあたりで左に折れると公園入口があった。公園のある丘陵の東は低地となっている。地図で確認すると小糸川が開析した谷筋である。丘陵は引地川と小糸川に挟まれ、二つの川が合流する箇所に位置する独立丘陵であった。往昔は乱流し、流路定まることのない湿地を前面にした要害の地ではあったかと思う。
城址の自然を活用した公園に入る。道なりに公園の中を彷徨う。城址の縄張りといった説明はない。なんとなく空堀とか土塁の雰囲気のある箇所があったが、基本的には文字通り「公園」であった。
で、その大庭城址であるが、この地は桓武天皇の流れをくむ鎌倉権五郎景政(正)を祖とする大庭景親の拠点であったとされる。城の築城は大庭景親の父とのこと。景親は、平安時代末に鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の経営を行っていたこの地の有力豪族。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると平氏方につき、石橋山の戦いで頼朝を撃破するも、頼朝が安房に逃れ、東国武士団を率い鎌倉入りを果たし、富士川の戦いで平維盛が頼朝に敗れると景親は降服し処刑された。
15世紀になると、この城は関東管領に仕えた扇谷上杉の重臣、江戸城築城でも名高い太田道灌が鎌倉と糟屋にある館の中間点としてこの城を改築したとのこと。しかしその後小田原北条の手により城は落城。東相模を制圧した小田原北条氏は大庭城を大改修したが、玉縄城(鎌倉市玉縄地区)を築城したため利用価値は減り、小田原北条の滅亡とともに廃城となった。
後からチェックすると大庭城址は北から「四の郭」「三の郭」「二の郭」「主郭」南端に「小郭」、主郭西下に腰郭といった結構な構えの城址であったようであり、それぞれの郭を画する空堀などが残るとのことだが、それは小田原北条氏の頃の縄張りではないだろうか。今回は日没との時間の勝負といった状態であり、ゆっくり城址を廻ることもできず、結局四の郭の辺りを歩いただけかとも思う。

大庭御厨
大庭御厨とは相模国高座郡の南部(茅ヶ崎・藤沢氏)にあった、寄進型荘園のひとつ。御厨とは伊勢神宮領との意味である。上でメモしたように、平安末期、鎌倉権五郎景政(正)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のちに子孫は大庭氏と改姓し、代々この地を治めた。大庭とは「大きな土地」との意味がある。言い得て妙である。
なお、「寄進」といっても作物をすべて伊勢神宮に寄進するわけではなく、なにがしかの産物やコメを差し出すかわりに、伊勢神宮の保護下に入り、朝廷に税を納めるのを免れる、一種の税金対策といったものではある。
大庭御厨の領域は東は俣野川(境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎。大牧崎が現在のどの辺かははっきりしないが、「崎」というのは洪積台地、河岸段丘の侵蝕谷合流点によく見られる地名とのことで、とすれば、引地川と蓼川合流点あたり、渋谷氏の荘園と境を接する辺りとの説もあるようだ。面積は95町。鎌倉末期には150町にまで拡大した、とのこと。海に向かって開けた平地は北部の山間地から流れ下る大小の河川によって肥沃な地となっており、周辺の豪族の垂涎の的でもあったようである。

大庭御厨と源義朝
今回の散歩のテーマであるサバ神社に祀られる源義朝であるが、大庭御厨を侵し、乱暴狼藉を行っている。都での河内源氏の凋落故か、若き義朝は東国に下る。上総氏など源義家(八幡太郎義家:義朝は義家の曾孫)を東国の棟梁として頼りにしていた源氏恩顧の武将の庇護を受け勢力を伸ばす。三浦半島に覇を唱える三浦氏とともに肥沃なる大庭御厨を狙い、二度にわたり大庭御厨を侵し、当時の大庭景宗をその傘下に収め東国を清和源氏流河内源氏の基盤とし、高祖父である源頼義(源義家の父;八幡太郎義家)ゆかりの地である鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、特に相模国一帯に強い基盤を築いた。
保元乱では大庭景義(兄)、景親(弟)は義朝の傘下で戦に加わり。兄は矢傷を受けたため弟の景親に実権が移る。平治の乱のときの動向は不明だが、源義朝が平清盛に敗れ、東国に逃亡途中に長田氏誅殺される。相模国においては義朝と近かった三浦氏や中村氏はその勢を失うが、義朝との関係が疎遠であった景親はその後平氏と接近し、その威光を背景に大庭景親は相模に勢力拡大し、前述の頼朝挙兵時の平家方の総大将として登場するわけである。

引地川親水公園
城址公園を離れ駅へと向かう。陽は落ち、かすかに残る夕日に城址公園の丘がその影を映す。引地川沿いに向かうと一帯は引地川親水公園となっている。平成9年(1997)開設された9.7ヘクタールの公園には多目的広場、球技広場、大庭遊水地、湿性植物園、親水護岸などが広がる。

成就院
川を渡り台地の坂を上る。ついでのことではあるので地図にあった成就院への道筋を辿って駅に向かうことに。坂の途中にお寺さまがあるも、辺りは真っ暗。さすがに境内に入るのは憚られる。
お寺さまの境内に入ったわけではないのだが、一応メモ。この寺院は大庭神社の別当院。本尊は愛染明王。開山は山名時氏。創建葉文和年間、14世紀の中頃。
山名時氏とは鎌倉から南北朝の武将。新田の一族ではあるが、上杉重房の娘が母のため、新田ではなく足利尊氏に従う。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では尊氏の弟である直義に従い室町幕府敵対。その後も尊氏の長子の直冬(庶子であり、直義の養子となり尊氏と敵対)を奉じ京を占拠するなど幕府に敵対するが、後に帰順し領国を安堵された。

小田急江ノ島線・善行駅

成就院の坂を上り、ひたすらに真っ暗な道を、かつて在った善行院の寺名をその名の由来とする善行駅に進み、一路家路へと。


鯖信仰と七鯖参り
メモを書き終えた後、メモを読み返していると、いくつか書きそびれたことが出てきた。ひとつは鯖信仰を踏まえた鯖社の命名と七鯖参りは別物であるということ。もうひとつはその七鯖参りもいつくかのパターンがある、ということである。

鯖社の命名と七鯖参りの関係については、『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によると、下和田の鯖社の棟札にある「鯖明神」の記述は寛文10年(1670)、上和田の左馬神社の棟札にある「鯖大明神」は宝暦14年(1760)、石川の佐波明神の梵鐘にある「鯖大明神」は文化3年(1806)、鍋谷の鯖社の奉額にある「鯖大明神」の記述は天保7年(1836)、そして天保12年(1841)『新選相模国風土記稿』には上飯田の飯田神社、中之宮の左馬神社、七ッ木の七ッ木神社、下飯田の鯖社、今田の鯖神社、西俣野の左馬社は鯖社と記されている。
しかしながら、『新選相模国風土記稿』には七鯖参りの記述はなにもない。ために、七鯖参りは、この『新選相模国風土記稿』が編纂された天保年間以降、江戸末期から明治にかけて流行し、大正中期頃まで続いた民間信仰である、とする。
鯖の薬効は江戸の中期には知られていたが、漁獲量が増えたのは昭和になってからであり、江戸の当時は貴重な魚であった。腐りやすいもの故に、逆に有難味を加える要素となったのかもしれない。現在でも鯖の効能効果として高血圧予防、ボケ予防、動脈硬化予防、眼精疲労緩和、肝機能強化が挙げられている。サバは大変脂の多い魚で、豊富な脂質は栄養面でタンパク質を補い、体力をつける働きがある、とのこと。この当時としては貴重で薬効のある「鯖」の病気退散・疫病退散の薬効を願い「鯖社」と命名したのだろう。実際西日本には徳島の鯖大師とか、鯖を抱いた僧形の石仏が「境の神(塞の神)」として村への疫病侵入を塞いでいるところもあるようだ。祭神が源義朝という御霊であり、名称が疫病退散に薬効のある「鯖」とすれば村への疫病侵入を防ぐツールとしては最高の機能をもつ社である、と考えたのだろうか。
それが七鯖参りといった民間信仰として流行していたきっかけは、七福神参りといった江戸期の民間信仰の流行にある、と言う。お伊勢参りや秩父札所参り、江戸市内の六地蔵参りなど民衆の生活が豊かになり病気・疫病退散を兼ねたリクリエーションであった、かも。単なる妄想。根拠なし。

また、七鯖参りのパターンであるがいくつかのバリエーションがある。
○左馬社案内では、
左馬(瀬谷),左馬(上和田),飯田神社(上飯田),佐婆(神田),左馬(中之宮).鯖社(下飯田),鯖社(鍋屋), ○藤沢市案内、大和市案内では 左馬(瀬谷),左馬(上和田),飯田神社(上飯田),左馬神社(下和田) 七ツ木神社(高倉),鯖社(下飯田),鯖社(今田)

○大和市叢書では
左馬(瀬谷),左馬(上和田),左馬神社(下和田)、左馬(中之宮) 七ツ木神社(高倉),鯖社(下飯田),鯖社(今田)

それぞれちょっとメンバーが変わっている。前掲『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によると、地域の人が廻るに段取りのいい社をラインナップにしていったのだろうと説く。地域密着型の民間信仰であれば自然の成り行きか、とも。

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