導水路は7 キロほどであり、2時間強で歩き終えるかとも思ったのだが、8時半に出発し沈砂池到着が12時半と4時間ほどもかかった。険路・難路、崩壊鉄橋、山ずれによる導水路の山腹下への「ずれ」、また途中で落とした携帯バッテリーを拾いに戻るなどのトラブルで30分以上ロスしたため、実質は3時間半弱といったところではあろう。それにしても強烈な散歩となった。
復路の「上部鉄道跡」は結局3回目のメモに廻すことになったが、いくつか崩落鉄橋があるも、導水路の「めちゃくちゃ」な散歩を体験した我が身には、なんということもない「平坦地」をのんびり戻る、といった風情とはなった。
本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平
第三発電所跡スタート;8時26分
道を進み「木樋」なのか、橋なのかはっきりしないが、梯子状に岩にぶら下がった崩れた木の「残骸」を見遣りながら道を辿る。と、その先に四角い煉瓦造りの遺構が道脇に残る。水路施設のようであるが、はっきりしない。
水路遺構;8時36分
「東平ペルトン水車」の導水路は第三通洞脇の「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って進み、住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔辺りまで続き、そこから100mほど下、辷坂地区(すべり坂?何と読むのだろう)にあった発電所に水を落している、とのこと。端出場発電所導水路跡には、その送電線鉄塔を経由して進むことになるわけであるから、「東平ペルトン水車」導水路関連施設って推論は、結構いい線いってるかも。 この水路施設らしき遺構の別の可能性としては、第三通洞の所でメモした、銅や鉄が溶け込んだ坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐために造った、坑水路の流路変更点に設けられた「坑水路会所」も捨てがたい。形は写真で見た「坑水路会所」とそっくりではある。
住友共同電力の「高藪西線」48 番鉄塔;8時52分
ほどなく住友共同電力「高藪西線」の鉄杭があり「左が47鉄塔、右が49鉄塔」とあり、その先に住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔が建っている。
○東平ペルトン水車
Wikipediaによれば「ペルトン水車は、水流の衝撃を利用した衝動水車、タービンの一種である」とある。通常は水の落差を利用しタービンを回し発電するわけであるが、明治28年(1895)に設置されたこの「東平ペルトン水車」の主たる目的は、圧縮空気をつくり、その圧縮空気を活用し削岩機を動かすこと。その削岩機は第三通洞の開削に使った。削岩機を使うことにより、それまで手掘りであった隧道開削のスピードが6倍になった、と言う。別子採鉱課で石油発動機によって電灯が灯されたのが明治34年(1901)のこと。 東平ペルトン水車は電気が別子銅山に最初の電燈が灯る6年も前に稼働したことになる。取水口は前述の如く、「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って、おおよそ500mの距離を1mから2m程度下る緩やかな、ほとんど平坦地といってもいいほどの横水路を進み、この鉄塔辺りにあった「会所(水槽)」から鉄管で100m下の「東平ペルトン水車」に落としていた。
ところで、この「東平ペルトン水車」の導水路は、今回の散歩のテーマである端出場発電所導水路が貫通するまでの間、端出場発電所の発電運転のテスト用の水としても使われたようである。明治27年(1894)から35年(1902)にかけて「東平ペルトン水車」の圧縮空気を使った削岩機は第三通洞開削に使われたわけだが、銅山峰南嶺の日浦からの通洞が繋がり、水が流れはじめたのは明治44年(1911)の2月のこと。端出場発電所の試験運転がはじまったのは明治43年(1910)の12月というから、3ヶ月ほど「東平ペルトン水車」導水路の水を端出場発電所まで延ばし試験運転に使ったのだろうか?それとも端出場発電所が正式稼働するのが明治45年(1912)というから、もう少し長い期間この「東平ペルトン水車」の導水路の水をつかったのだろうか?詳しいことはわからない。
それはともあれ、実際、第三通洞から少し上った柳谷川には堰が築かれ、端出場発電所(東平ペルトン水車系)への取水口が残るとのことである。とすれば、道端にあった水路施設跡は端出場発電所(東平ペルトン水車系)への導水路の一部かもしれない。単なる妄想。根拠なし。
第一導水隧道出口;9時5分
隧道出口で導水路は直角に曲がる。隧道出口の正面は「排水路」となっており、配水操作をしたのであろう鉄のハンドルが残る。第三通洞からこの出口まではおおよそ600mほどであろうか。
第一鉄橋;9時8分_ 標高740m
○日浦から導水路第一隧道出口までの端出場発電所導水路
銅山峰南嶺を流れる銅山川の水を日浦で取水した導水路は、日浦通洞・第三通洞内に設けられた水路を流れ、東平の第三通道入口手前で柳谷川を抜け、山塊を開削した隧道を北に進む。そして、送電線鉄塔へと下る尾根筋辺りで流路を少し東に向きを変え、この出口へと続く。
第三通洞は明治27年(1894)に起工され明治35年(1902)に東延斜坑まで開削完了、日浦通洞は明治14年(1881)東延斜坑底から日浦谷に向けて開削をはじめ開通したのは明治44年(1911)。これで日浦谷と東平が繋がった。
では、端出場発電所導水路の建設はいつからはじまったのだろう?そもそもの最終目的である「端出場発電所」建設計画は明治43年(1910)に認可され、工事は同45年(1912)5月に竣工、7月から本格的に稼働することになった、ということであるから、計画が認可された明治43年(1910)から建設が始まり、テスト期間は前述の「東平ペルトン水車」導水路を延長・活用しながら、明治45年(1912)7月の正式稼働までの間に建設が完成したのではあろう。「東平ペルトン水車」の削岩機も大活躍、ということ、かと。第二鉄橋;9時16 分
第二導水隧道;9時17分
第三鉄橋:9時24分
第三導水隧道;9時30分
第一暗渠;9時34分
第二暗渠;9時36分
山ズレ;9時40分
第四鉄橋;9時45分
山ズレ箇所の先、等高線が少し山側に切り込んだところに鉄骨だけの橋が残る。長さは2m強といったもの。沢も深くなく、橋脇を通り導水路に復帰する。
大岩と第三暗渠;9時49分
第五鉄橋;9時50分
第四暗渠;9時52分
第五暗渠;9時57分?標高730m
木の導水路跡;10時3分
第四導水隧道;10時6分
トタン小屋;10時7分
第六鉄橋;10時11分
沢にかろうじて引っかかる鉄橋の先には再び山地を穿つ五番目の隧道入口が見える。弟は昔、この鉄橋を渡ったとのことだが、今回は沢を少し高巻し、蔦などを頼りに沢を渡り、10時38分第五導水隧道入口側に下りる。迂回に20分ほどかかった。
第五導水隧道;10時42分
アプローチの出だしは石組のしっかりした道をのぼることからはじまる。尾根筋の先端部に上り切ったあたりの岩場からは東平が良く見える。
第七鉄橋・第八鉄橋;11時37分
第六導水隧道;11時38分
第六暗渠:11時52分
第七暗渠;11時53分
第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道;11時54分
隧道を抜けるとすぐに第八暗渠があり、その暗渠から10mほどで第八導水隧道となる。第八導水隧道は導水路から直角に開削されていた。
この頃になると、隧道や暗渠にお腹が一杯になり、疲れもあって写真を撮り忘れた。写真は第七導水隧道である。迂回路は谷側にあった。
第九鉄橋;12時
第九導水隧道;12時2分
○牛車道
この牛車道は明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれ、さらには、さらには明治26年(1893)には第一通洞の北嶺出口の角石原から石ヶ山丈までの5キロほどをむすぶ日本最初の山岳鉱山鉄道が敷設される。石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した下部鉄道により市内へと運ばれることとなり、牛車道は運搬の主役の座を降りる。
排水門と第九暗渠;12時18分
第十暗渠;12時19分
第十一暗渠:12時21分
第十二暗渠;12時22分
第十三暗渠;12時24分
■端出場発電所が建設された経緯
ここまで歩いてきて、このような険路・難路、岩壁を穿ってまで発電所用の導水路を切り開いた端出場発電所の建設の理由を再度メモしておく。
建設の最大の理由は銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になったため。明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW))、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」建設の理由である。
また、端出場に移った主因は、江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み、採鉱本部が標高1100m辺りの東延地区、標高750mの東平地区へと移動し、大正4年(1915)には第四通洞が標高175m辺りの端出場に通じたことにある。
沈砂池;12時25
長かった導水路もやっと沈砂池に到着。7キロほどを実質3時時間半ほどで歩き終えた。沈砂池の水門はふたつある。砂を落とし水圧鉄管に落とす沈砂池への水門と、もうひとつは余水吐の水門とも言われる。
沈砂池を囲む煉瓦の上を歩き沈砂池の出口に。鉄格子のごみ除去フィルターが残る。導水路はここまで。ここからは端出場発電所に向けて、およそ600mの落差を水圧鉄管が下る。
水圧鉄管支持台;12時31分
これで往路の端出場発電所導水路散歩は終了。往路の「上部鉄道」は三回目のメモにまわすことにする。
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