道を急ぐ御老公に、トラックに煽られ歩く国道から離れ「黒川通り」を歩いてみませんか、と提案し、三重河原から30分ほど歩き、黒川谷に残る黒川橋跡まで進んだのだが、道はそこで崩壊し先がわからなくなった。
なんの下調べもしていなかったので、どちらに進めばいいのかもわからず、また、その日の宿泊地である大菩薩峠への登山口でもある裂石までは結構距離も残っているため日暮れの心配もあり、その時は「黒川通り」を歩くのを断念し、元の三重河原まで戻り国道411号を進むことにした。
その後も「黒川通り」のことが気になり、あれこれ調べると、丹波山村の中心からおおよそ4キロの「羽根戸トンネル」を越えた「船越橋」辺りから「黒川通り」が残るとのこと。そこから三重河原まで2キロほど、三重河原から藤尾橋まで4キロほどで合計6キロ程度。船越橋から三重河原までは道が数箇所崩壊しているようではある。ちょっと危険な感じも抱きながらも先回途中撤退したリターンマッチに数年を経て向かうことにした。
船越橋までのアプローチを調べるに、奥多摩駅から丹波山村の中心まではバスがあるのだが、その先は塩山市の裂石まではバス路線は全くない。自然を楽しむ散歩に排ガスを吐き出す車はないだろう、といった依怙地のポリシーもあり散歩は基本公共交通機関を使うべし、とはしているのだが、日帰りでの行程では車を使うしか術はない。
で、車で「空気」を運んでももったいということで、仲間に声を掛け4名のパーティで出かける。うち一人は山歩きがはじめて。崩壊箇所が少々心配ではあるので、念のためロープを用意し廃道散歩に出かける。
本日のルート;国道411号・船越橋へ>船越橋>廃道散歩スタート>9時32分>第Ⅰ崩壊箇所;9時35分(標高722m)>美しい岩壁の道;午前10時15分(標高735m)>第Ⅱ崩壊箇所;10時18分(標高735m)>第Ⅲ崩壊箇所;10時29分(標高752m)>第Ⅳ崩壊箇所;10時40分(標高782m)>第Ⅴ崩壊箇所:10時50分(標高782m)>美しい石組;10時52分(標高782m)>第Ⅵ崩壊箇所;11時2分(標高790m)>石垣と荒れた道;11時16分(標高744m)>第Ⅶ崩壊箇所;11時26分(標高794m)>第Ⅷ崩壊箇所;11時38分(標高808m)>第Ⅸ崩壊箇所;11時41分(標高788m)>林班界標;12時3分(標高768m)>泉水谷渡河;12時27分>三条新橋広場;12時50分(標高767m)>三条橋>;船越橋
国道411号・船越橋へ船越橋
アプローチを調べるに、東京からは中央高速を上野原インターで下り、県道33号から県道18号を進み「鶴峠」を越えて国道139号との重複区間を小菅村に。そこから再び県道18号を進み丹波山村に至り、国道411号を船越橋へのルートがよさそう。Google Street Viewでルートをチェックしても、道も山道といったものでもなくこのルートでと考える。
が、パーティの一人が青梅駅辺りでのピックアップが便利ということで、結局このルートは諦め、中央道から高尾で圏央道に入り青梅インターで下り、そこから一般道を青梅駅に。ここから延々と国道411号を走り丹波山村に。丹波山村役場入口交差点から4キロほど走り、羽根戸トンネルを抜けたところで丹波川に架かる船越橋を越えたところの駐車スペースに車をデポする。 実のところ、車をどこにデポしようかと悩んでいたのだが、Google Street Viewで船越橋辺りをチェックすると、橋の西詰めに車が数台駐車できるスペースが整備されていた。Google Street Viewって、誠に有難いサービスである。
船越橋
ところで、この船越橋が最初に架けられたのは明治11年(1878)。車をデポした駐車スペースの辺りから対岸に橋を渡していたようである。その後、大正9年(1920)には吊り橋に架けかえられるも、戦前・戦後の小河内ダム建設にともない実施された道路の付け替え工事の一環として、昭和30年(1955)に三重河原まで延長された車道は川の北岸を通したため橋は廃止される。
そして平成となり、車道の二車線化、さらにはトンネルを掘らず断崖に沿って進む「昭和」の道筋にトンネルを穿ち新たなルート、バイパス工事が実施され、 羽根戸トンネルが開通。そのトンネルを抜けたこの箇所に架けられたのが現在の船越トンネルである。
で、今回辿る廃道、明治に建設され新青梅街道とも「黒川通り」とも呼ばれた道であるが、山梨から丹波山村まで通じていたこの「黒川通り」のうち、昭和の車道建設の際に、大半は従来の「黒川通り」を改修して建設されたのだが、この船越橋から藤尾橋までの間は丹波川南岸の急峻な谷を高巻く明治のルートを避け、対岸の谷沿いに新道を通したため今に「残った」ものである。
○「新青梅街道・黒川通り」
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』をもとに、「新青梅街道・黒川通り」をまとめておく;
明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。黒川通りもその一環である。
この黒川通りが「新青梅街道」とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた「青梅街道(中世の甲州街道)」に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうという壮大なもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかったようで、丹波山村から先に奥多摩に向かっての馬車が通れるような「大道」が拓かれるとこはなく、街道は丹波山村で止まった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道構想が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費はダム建設の補償として東京府の予算で実行される。
昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。
新たに建設された新青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回辿る廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。
■新青梅街道
ここで、「新青梅街道」という言葉を使ったが、現在の国道411号が「青梅街道」、と称されるため、また、歴史上よく使われる江戸に青梅(成木村)の石灰を運ぶために造られた青梅街道(成木街道)などがあり、ちょっと混乱しそう。 ここで言う「(新)青梅街道」とは青梅・奥多摩方面から進んできた道といったものであろう。明治20年(1887)の黒川通りが開かれるまでは江戸・青梅・奥多摩方面から甲州に抜ける道(青梅街道;中世の甲州街道(Ⅰ、Ⅱ、大菩薩峠Ⅰ、大菩薩峠Ⅱ)は丹波山村より先の渓谷を遡上する街道はなく、江戸から甲斐に向かうには中世の甲州街道()と同じ道筋を進んだようであり、その道筋(青梅街道;中世の甲州街道)は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのことである。 この「青梅街道」、大菩薩峠越えのルートではなく、柳沢峠を越えて甲斐に向かうルート「黒川道」が開かれたため、それを称して「新青梅街道」としたのではあろう。
廃道散歩スタート;9時32分
車のデポ地点の対面に短いガードレールがあり、その先に階段がある。そこが廃道への入口。30段程度の階段を上ると平坦な道が拓かれている。馬車であればすれ違いができるほどの広さである。道は少々荒れてはいるが歩くに支障はない。
第Ⅰ崩壊箇所;9時35分(標高722m)
が、その道を数十メートルほど進むと道が崩壊している。崩壊の幅も30mから40mといったものだろうか。斜面はそれほど急でなないが、ガレ場(砕石が)となっており、足元がガラガラ崩れてゆく。谷との比高差も40mほどであり、また、急峻な崖というわけでもないので足元を滑らせても谷に一直線に落ちるといった恐怖はないが、それなりに危険な箇所となっている。
パーティのうち2名はガレ場をなんとか進み終えたが、まったくの初心者には少々荷が重いだろうと、少し高巻きし斜面に生える木立にロープを巻き、渡り終える。普通に通れば数分でクリアできただろうが、高巻きやロープを使ったため渡り終えるために20分程度かかった(崩壊箇所クリア時刻;9時55分)。
美しい岩壁の道;午前10時15分(標高735m)
ロープ整理などをし終え、10時頃第Ⅰ崩壊箇所から先に向かう。しばらく平坦な道が続く。途中ちょっと道が消えるといった箇所はあるが、ガレ場でもなく普通に通り抜けることができる。
道を進むと前面に岩壁を開削した箇所が現れる。美しい景観である。場所は対岸の国道411号・丹波山トンネルの出口(入口)に向かって突き出した箇所。ここでも川からの比高差は40mほどではある。
第Ⅱ崩壊箇所;10時18分(標高735m)
岩壁を開削した箇所を廻り込むと直ぐに第二の崩壊箇所が現れた。崩壊した距離は短いのだが、道筋より上部も急勾配、しかも崖下は急角度で落ちており結構危険。
岩場に沿って高巻きし、岩に手掛かりを見付けながら渡り終える。崩壊道歩きがはじめての人「デビュタント」には、念のためここも岩場の上の立木にロープをかけ渡ってもらう。第Ⅰ崩壊箇所のガレ場のほうがずっと気持ちが楽ではあった(崩壊箇所クリア時刻;10時27分)。
第Ⅲ崩壊箇所;10時29分(標高752m)
二番目の崩壊箇所を渡り終え、ほっとしたのも束の間、第三の崩壊箇所が現れる。距離は数メートルではあるが、道が完全に消え去っている。ここも注意して渡り、立木にロープを廻し、ロープを頼りになんとか渡り終える。それにしても、こんなひどい崩壊道とは思っていなかった。誠に厳しい(崩壊箇所クリア時刻;10時35分)。
第Ⅳ崩壊箇所;10時40分(標高782m)
三番目の崩壊箇所を越え、切り込んだ沢を廻り切る辺りで、また道が完全に消えている。幅も20mほどはありそうだが、ガレ場でもなく、足元も結構しっかりしているので、山側に体重をかけ斜面の立木を掴みながら渡り終える。ここではロープは出さなかった(崩壊箇所クリア時刻;10時43分)。
第Ⅴ崩壊箇所:10時50分(標高782m)
第四の崩壊箇所から10分程度進むと五番目の崩壊箇所。それほど厳しくはないが、念のためロープを出して進む。
美しい石組;10時52分(標高782m)
先に進むと、しっかりと組まれた石垣が残る。明治に組まれたものが今に残る。 廃道歩きは、この景観のイメージではあったのだが、今のところ崩壊した道のクリア補助で精一杯といったところである。
川に少し突き出た石組みの道を回り込むと道は荒れ倒木、ガレ場となる。ガレ場はそれほど厳しくもないが、今までの5箇所の崩壊箇所で結構気分的に疲れている「廃道デビュタント」のためにロープを出す。
第Ⅵ崩壊箇所;11時2分(標高790m)
道を進むとまたまた前面に巨大な崩壊箇所が現れる。幅は20m強。歩を進めると足元の砕石が崩れ落ちるガレ場となっている。アプローチを探すに、ガレ場の中間点に立木がある。足場を固めながら立木まで進み、そこにロープを廻し、ガレ場で足を滑らせてもロープを放さなければ滑落はしないようにして全員がガレ場をクリア(崩壊箇所クリア時刻;11時15分)。
石垣と荒れた道;11時16分(標高744m)
崩壊箇所の先は少々荒れた道としっかい組まれた石垣。石垣の上まで土砂崩れが押し寄せており、ここもそのうちに崩壊箇所となるのだろうか。
第Ⅶ崩壊箇所;11時26分(標高794m)
今回の廃道崩壊箇所で最も危険だった箇所。幅は10mほどなのだが、崖下が切れ込み、滑落したら結構谷下まで落ちていきそう。慎重に、一歩ずつ足場を造りながら渡り終え立木にロープを廻し、ロープを掴んで崩壊箇所を渡ってもらうことにしたのだが、「廃道デビュタント」が途中で足を滑らし、ロープを掴んだまま崖の斜面に体を委ねた状態に。
あたりまでだが、ロープを離さないように、と指示。幸い「廃道デビュタント」は落ち着いた態度であり、ロープを握りしめ、ゆっくり体を起こし崩壊箇所を渡り切った(崩壊箇所クリア時刻;11時35分)。
第Ⅷ崩壊箇所;11時38分(標高808m)
危険な崩壊箇所から数分で石垣の上が土砂崩れ状態。岩場に沿って高巻きしクリア。
第Ⅸ崩壊箇所;11時41分(標高788m)
崩壊箇所をクリアすると一休みする間もなく巨大な崩壊箇所が現れる。上から下まで白い砕石のガレ場。幅は広いのだが、谷への斜面の傾斜がそれほど急ではないので、足場を踏み固めて道をつくり。そこをゆっくりと渡ってもらう。結果的にここが前半最後の崩壊箇所であった(11時50分)。
林班界標;12時3分(標高768m)
最後の崩壊箇所を越えると道は平坦になり、右手すぐ下に丹波川も見えてくる。紅葉も色づきはじめた景観を楽しみながら先に進むと「林班界標丹波山分区54 水道水源林 東京都水道局」の標識が立つ。
「林班界標」とは森林管理のための境界区分を示すもの。おおよそ50ヘクタール内となるように尾根筋、沢筋を元に区切りをしているようである。「54の右手には55なのか、53なのか、といった数字はないが、右手は丹波川であるため数字はないのだろう。山に入っていけば「54|55」などといった林班界標はあるのだろう。
それはそれとして、この地は山梨県ではあるが「林班界標」には「水道水源林 東京都水道局」とある。その理由は多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため困難な交渉の結果、東京都が山梨県より水道水源林として譲り受けたことによる。
○東京都水道水源林
東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は、東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。
■東京都水道水源林の歴史
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。
その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残りである。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく木炭の売却益を植林費用に充てようとの目算。当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用に充てるべく裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。
それではと、木炭として売却するために炭焼きが入植したわけだが、水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。
泉水谷渡河;12時27分
「林班界標」を越えて道なりに進む。しばらく進むと沢筋が右手に見え、堰堤などがある。カシミール3Dのマップカッターで切り取りGarminに入れた2万5千分の一の地図でチェックすると、泉水谷が丹波川に合流する辺りから結構離れて南に来ている。成り行きで行けば三条河原へと進むのかと思っていたのだが、三条河原への渡河地点を探さなければならないようである。
道を戻り泉水谷が左手に見える辺りまで戻り、渡河地点を探す。と、川に簡易木橋が見える。道を下り川床に置かれた木橋を進むと川の途中で橋が切れている。仕方なく少し上流に進み浅瀬を渡り泉水谷左岸に。
護岸工事がなされた泉水谷左岸を歩き、川の途中で切れた木橋辺りまで戻る。木橋があるということは、その辺りに林道へ上る道があるだろう、との思いである。
予想に違わず林道へと上る石段があった。それと、石段脇にロープに繋がれた鉄板がころがっている。これって、途中で切れた木橋の先の部分に渡しておいたものだろう。台風か何かの折り、引き揚げられそのままになっていたのだろうか。いらぬお節介とは思いながらも、鉄板を川に落とし木橋から鉄板を渡り泉水谷左岸に渡れるようにしておいた。
実のところ、後からわかったのだが、泉水谷に架かっていた橋の石組みの橋台跡が残る、とのこと。橋は「三条橋」とも「小室橋」とも称されたようである。旧道後半部の林道へと繋ぎを考えれば木橋より少し下流にあったのだろうが見逃した。ちょっと残念(渡河終了;12時35分)。
泉水谷林道;12時48分(標高755m)
石段を上り、泉水谷林道に上る。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれている。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は国道411号の「御祭集落」の先に北から多摩川に注ぐ後山川を遡った「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、35年(1959,1960)まで続いたとのことである。
三条新橋広場;12時50分(標高767m)
泉水谷林道を少し下り、車の進入を禁ずるゲートを越えると広場になっている。「三条新橋広場」と呼ばれるようである。「三条新橋広場」には車を停めるスペースもある。その駐車場の対面に「黒川通り」の後半部の道が見えている。 「黒川通り」の前半部はここで終了。本来の予定では、ここから後半部の4キロ程度を進む予定ではいたのだが、「廃道デビュタント」の心身ともの疲労が激しく、今回はここで廃道歩きを終え、残りは次回とすることに。
三条橋
車をデポした船越橋まで戻る。三条新橋広場を少し進むと三条橋が架かる。橋からの眺めは美しい。この辺りを「三重河原」と称するが、それは小室川が合流した泉水谷が丹波川に合わさることによる。
船越橋
国道411号を進み、「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜け、大常木橋を渡りデポ地点の船越橋西詰めに戻る。色つきはじめた丹波川や山肌の紅葉、結構怖い思いをしながら辿ったであろう、丹波川南岸の山肌を眺めながらデポ地点へ戻り、車で一路家路へと。
それにしても予想以上の崩壊道であった。山歩きのベテランのガイドが一緒でなければ、この廃道歩きはお勧めできない。万が一の安全の為にもロープ必須。10mロープ2本を、回収を容易にするため繋ぎ合わせ、木に廻したため10mの距離でのロープ確保となったが、10mではきちんとした支点確保ができないところもあり、身体を張っての確保といった危険な状況もあった(「デビュタント」が滑ったとき)。重いので敬遠していたが、30mのロープ一本買う時期かもしれない。
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