頃は紅葉の頃。「黒川通り」後半部は、先回の青梅街道散歩の時に撤退した黒川谷の辺り以外は崩壊箇所もないようでもあり、美しい紅葉を楽しみながら、などと出かけたのだが、これまた予想に反し結構厳しい散歩となった。不要だろうとは思いながらも持参したロープが有り難く思えた一日とはなった。

三条新橋広場;9時20分(標高771m)

黒川谷へ
割と幅広の上段道を進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石など道が荒れてくる。ほどなく丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。
黒川橋跡:9時47分(標高887m)
第Ⅰ崩壊箇所;9時50分(標高881m)
「黒川通り」は、もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなによりのゴールの裂石からのバスの便が気になり、先回はここで撤退したわけである。
石組の道に復帰;10時5分(標高897m)
沢に入りを10mほど下ると、左手上に石垣が見える。そこが崩壊先の道筋であろうと、崖を力任せによじ上る。上る先から岩が崩れ落ちるといった有様ではあるが、崩壊箇所のガレ場ほどの崩れ感はない。慎重に足場を造りながら急場を上るとしっかりした山肌に上りついた。
その上に石垣があることを確認し崖下を見ると、這い上がったところから少し下った辺りまで沢を下れば比較的傾斜の緩い崖となっている。パーティのSさんには沢を下ってもらいそこから登ってもらう。そこからは少し急ではあるが、足場がしっかりしている崖地をのぼり「黒川通り」に復帰した。
黒川谷の尾根筋先端部を迂回;10時12分(標高930m)
石組みの道筋と紅葉のコンビネーションがなかなか、いい。道は900mの等高線を緩やかに上りながら進む。迂回先端部は標高930mほど。川床から150mほどの比高差はあるのだが、谷への傾斜が緩いため川筋から大分離れている。
倒木が道を遮る
第Ⅱ崩壊箇所;10時30分(987m)
石垣の道
トンネル西口の尾根筋を回り込むと少し緩やかな上りとなり1030m辺りまで上り、丹波川に一之瀬川が北から合流する辺りに突き出た尾根筋にゆるやかにくだってゆく。
東京都水源林の木標;10時59分(標高1023m)
「東京都水源林の木標」とともに、「林班界境7|9」が立つ尾根筋突端は、「一之瀬高橋トンネル」の真上辺りであろう。「一之瀬高橋トンネル」は、丹波川と一ノ瀬川が合流していた地点を通っていた国道のバイパスとして丹波川と一ノ瀬川の合流地点に突き出ていた尾根筋を穿ち、一ノ瀬川との合流地点を通ることなく、北に大きく湾曲する丹波川を西から東へと一直線に通す。
尾根筋突端部と川床との比高差は130mほどだろうか。尾根筋を廻った辺りは特に等高線が密になっており、絶壁となっている。下を見るのは少々怖いほどである。
■一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通ることなく旧道を進むと北から一之瀬川が合流する地点に一之瀬橋が架かるが、そこが丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっており、「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある、とのことである。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の「水干」ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。一之瀬高橋の北東にある将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。
■おいらん淵
上で「一之瀬川」が丹波川に合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。
それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は「柳沢川」と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、現在は鉄条網で完全に封鎖され訪ねることはできないのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、黒川金山の坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬ったと言う。その数55名故に、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今回の目的地である「藤尾橋」の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。
尾根筋の回り込み部
崩壊橋台跡;11時7分(標高1046m)
ちょっと見には結構厳しそう。果たして岩壁を上れるものか、沢に下り、岩壁に取り付く。調度いい感じで取り付く岩の出っ張りがあり、それほど苦労することもなく岩壁をよじ上った。
岩壁上の崖面には大きなロープが岩場に固定されていた。後からチェックすると、ここには鉄の梯子があったようで、その鉄の梯子を固定していたロープであったように思う。
鉄梯子が自然の力で流されたのか、人為的に外されたものか不明ではあるが、いくつかの崩壊箇所も昔は桟道が整備されていたと言うが、そんな桟道はどこにも残っていなかった。思うに、危険な廃道を歩くことができないようにしたのかとも思う。実際歩いてみて、危なさを実感し、その措置に納得した次第である。
第Ⅲ崩壊箇所;11時13分(標高1023m)
石垣の道
前回の散歩で、この「黒川道」開削に際しては、「財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めた」とメモしたが、このような難路に石垣を築いたのは専門家でもなく、「財なきものは労力を提供せよ」と動員された地元の人々であった、とも言う。丹波山村で「黒川通り」の開通式が行われたのは明治20年(1887)であるから、100年以上、自然の脅威に耐えてビクともしない石組みの「技」が眼前に示されている。
木立の間から眼下に国道411号が見る。道は南に突き出した尾根筋を迂回し大きく湾曲している。柳沢川(丹波川の上流域の川筋)に突き出たこの突起部を越えれば最終地点の藤尾橋も近い。
国道を眼下に眺めたすぐ先に、石組みの道の上を崩れた土砂が覆っている。如何にも崩壊する前段階といった風情ではある。
第Ⅳ崩壊箇所;11時21分(標高1011m)
足場を固めながらゆっくり、慎重に立木まで進み、そこで10mロープを2本繋ぎ、そのロープを握りしめて立木まで渡ってもらい、それから後半部を同様にロープを握りしめ慎重にわたり終える。おおよそ20mほどの幅がある崩壊箇所であった。
石垣の道
崩壊箇所を越えると、ふたたび石垣で支えられた平坦な道にでる。道には崩れた土砂が積まれた箇所もある。そのうちに崩壊箇所となるのだろうか。
沢;11時48分(標高1001m)
橋跡といった遺構は見あたらなかった。どのようにしてこの沢を越したのだろう。
林班界境;11時53分(標高1008m)
道を進むと林班界境。「林班界境 荻原山分区 7|9」とあった。萩原山って、大菩薩嶺の南に甲州市上萩原萩原山という地名があるが、その辺りからこの地までもカバーしているのだろうか。よくわからない。
柳沢川の支流;11時分56分(1000m)
大東橋台跡;12時1分(1023m)
藤尾橋:12時6分(標高1014m)
「黒川通り」の前半部である船越橋から三重河原までは結構崩壊箇所が厳しそうである、とは予想していたのだが、後半部である三重河原から藤尾橋は楽勝との予想に反し、この箇所も結構厳しかった。昔は危険個所には桟道や鉄橋が架かりそれなりに安全ではあったのだろうが、そういったものはすべて撤去されていたためである。
結論として、「黒川通り」の廃道散歩は石で組まれた美しい道筋は魅力ではあるが、ちょっと危険であり、歩いた当人が言うのもなんだが、あまり散歩にはお勧めできない道であった。
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