本日のルート;
Ⅰ(吉田新田堀)>分流点付近>菅掘を水路橋で越える>押立用水堀の分流点に接近>宅地の中で水路が拡がる>再び田圃の中に>大丸自治会館近くで「菅掘」に合流。Ⅱ (末新田堀)>分流点>押立用水堀と立体交差>菅掘に沿って下る>大丸自治会館付近で流路を直角に変える>雁追橋跡で「菅掘」に注ぐ
Ⅲ (新堀)>分流点>「宿堀」合流・「玉川前小堀」が「新堀」を渡る>南武線の下を潜る>新堀緑道>久保堀分流点>柳田堀が分流>石橋供養塔>都道9号バイパス先で「下新田堀」が分流>「大和堀」が分流>「新堀」が「菅堀」に合流
Ⅳ (中野島用水堀)>;喧嘩口>都道9号バイバスを渡ると自然護岸に>向田堀が合流>川間掘が合流>本田堀が合流>「中堀」が合流>「中野島堀」から支流が分かれる>南武線の高架手前で暗渠に>南武線・矢野口駅の南を暗渠で進む>白山神社脇に「中野島用水堀」の支流が現れる>馬頭観世音塔>多摩川堤に沿って東流する>京王線の高架下を進む>稲田公園を暗渠で進む>菅堀が合流する>三沢川に注ぐ。
Ⅰ 吉田新田堀を辿る
「菅堀」散歩で最初に気になった水路は、分量樋から「菅堀」を下るとすぐに出合ったささやかな水路橋。これは「吉田新田堀」が「菅堀」を立体交差する箇所であった。で、今回の散歩の最初は、「吉田新田堀」。まずは用水分流点を確認すべく、南武線・南多摩駅に下りる。
◎吉田新田掘
吉田新田掘;大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでを「うち掘」と称されるが、吉田新田掘はこの「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流用水。流路は「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。
分流点付近
なにか水路の痕跡をと駅の北を辿るも、駅前は先回の散歩でもメモした「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」の工事なのか、谷戸川も地下に潜り、「いちょう並木」の北で姿を現す。結局始点は確認できなかった。
で、なにか分流点付近に痕跡がないかと「いちょう並木」を進むと、斜めに入る道があり、そこに格子の水路フタがあり、その先を折れるとささやかではあるが水路が現れた。「吉田新田掘」の水路である。
菅掘を水路橋で越える
押立用水堀の分流点に接近
宅地の中で水路が拡がる
再び田圃の中に
大丸自治会館近くで「菅掘」に合流
それはともあれ、公園に達した水路は地下に潜り、先回の散歩でメモしたように、公園東の「めがね橋」の脇から「菅掘」に合流する。また、一部は大丸自治会館南の立派な掘から「菅掘」に合流する。
Ⅱ 末新田堀を辿る
これで「吉田新田掘」散歩を終える。この直ぐ先に「新掘」が分流するのだが、ついでのことなので、「押立用水」が「菅掘」から分かれる少し上流で「菅掘」から分かれ、この大丸自治会館あたりへと接近する「末新田掘」を始点から終点までカバーしようと、ちょっと道を巻き戻す。
◎末新田掘
南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
分流点
押立用水堀と立体交差
菅掘に沿って下る
大丸自治会館付近で流路を直角に変える
雁追橋跡で「菅掘」に注ぐ
これで「末新田掘」散歩は終了。雁追橋まで戻り、今度は準幹線水路である「新掘」散歩へと向かう。「新掘」は自分勝手に準幹線と位置づけたように、分流・合流がいくつも続くことになる。
Ⅲ 新堀を辿る
■新堀;準一次幹線水路 稲城市大丸地区自治会館の少し下流で「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進む。駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越えた都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、「菅掘」との合流点で、「菅掘」は終え、そこから先を「新堀」としている。
分流点
「宿堀」合流・「玉川前小堀」が「新堀」を渡る
◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流し、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。
◎玉川前小掘:「宿掘」が「新掘」と合流する地点で、「宿掘」の水をパイプで「新堀」を渡し、東に流れ、南武線・稲城長沼駅の北東で「菅掘」に合流する。
南武線の下を潜る
新堀緑道
久保堀分流点
柳田堀が分流
◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する。
石橋供養塔
都道9号バイパス先で「下新田堀」が分流
◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、柳田掘と大堀との合流点の少し東で大掘に合流する。
「大和堀」が分流
「新堀」が「菅堀」に合流
◎落掘
なお、「新堀」はここで「菅堀」に落ちるが、「新堀」の一部はそのまま道を進み、北に大きく弧を描く「菅堀」が、再び南武線に当たる箇所で「菅堀」に当たる、とのことだが、高架工事に伴うものか、すべて暗渠で、落口は不明である。
Ⅳ 中野島用水堀を辿る
「菅堀」散歩で出合った分流点・合流点を辿って「新堀」が「菅堀」に注ぐ地点まで下った。一次幹線水路である「菅堀」から分流する、準一次幹線水路としては、この「菅堀」の他「押立用水掘」と「中野島用水掘」がある。まだ時間もあるので、どちらかを辿ろうと思うのだが、「押立用水掘」はほとんど南武線・南多摩駅近くまで戻らなければならない。 一方、「中野島用水掘」は少し道を戻り、都道9号バイバスを北に進めば分流点の「喧嘩口」がある。ということで、本日の残り時間は「中野島用水掘」を下ることにする。
□中野島用水掘
都道9号手前の「喧嘩口」で「菅掘」から分流し東流。南武線・矢野口駅手前で南武線を南に越え、駅の少し東で流れを北東に変え、再び南武線を北に越え多摩川堤方向に進む。多摩川堤の菅少年野球場辺りで南東に流れを変えるも、京王相模原線手前で再び北東に向かい、京王相模原線を越えた柳田公園辺りで南東へと流れを変え「菅堀」を合わせ、南武線まで下り、そこから南武線に沿って少し進み三沢川に合流する。
現在は、水路はこの三沢川で断ち切られるが、この三沢川は昭和18年(1493))に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水掘」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。
喧嘩口
◎中掘;稲城大橋からの都道9号バイパス手前の喧嘩口で「菅掘」から分流し、暗渠で東に進み稲城第四小学校の少し東で「中野島用水掘」に合流する。合流点の先からは「中野島用水掘」の支流が東に進む。
都道9号バイバスを渡ると自然護岸に
向田堀が合流
◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する。
川間掘が合流
本田堀が合流
◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。
「中堀」が合流
「中野島堀」から支流が分かれる
南武線の高架手前で暗渠に
南武線・矢野口駅の南を暗渠で進む
○弁天通り
いつだったか、この弁天窟を訪れたことがある。その時のメモ;この洞窟、もとは横穴墓。明治に入って石仏を祀るために拡張したもの。中にはいると、二匹大蛇の彫り物や、23体の石仏が祀ってある。十五童子の石仏は、もとは穴澤天神の弁天社に安置されていたものという。
洞窟内は明かりな ど、なにもなし。拝観料300円を払って、蝋燭と蝋燭立てのセットを渡され明かりをとる。洞窟は全長65メートル・広さ660平方メートル。横浜市栄区の「田谷の洞窟」には規模で少々劣るものの、それでも関東屈指の胎内巡りの洞窟ではありましょう。
なお、先回の「菅掘」散歩の「地蔵菩薩」でメモしたように、この弁天通りは、「矢野口の渡船場」に続く渡船場道への道でもあり、川崎街道が交差するこの場所は、古くから交通の要所として栄えた。この場所から東は川崎、西は八王子、南は大山、北は多摩川を渡り江戸方面へと続いていた。
●矢野口の渡船場
矢野口の渡船場、「矢野口の渡し」は大正7年に矢野口と上石原共同で、現在の多摩川原橋の上流400mのところに新設された。それまでは「上菅の渡し」があったようだが、大正初年、矢野口村は「上菅の渡し」から撤退したとのことである(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」)。
白山神社脇に「中野島用水堀」の支流が現れる
馬頭観世音塔
この馬頭観世音塔は、多摩川のもとの渡船場近くにあり、文化十三年(1816)に造立され、市内に現存する最古のものである。「馬頭観世音」と文字だけを彫るのが一般的であるから、この石塔のように馬頭観世音を浮彫にしたのは数少ない貴重な作例である。
台石には願主谷埜口邑(矢野口村)をはじめ造塔に協力した相当に広範囲な十九の村名が記されている。この渡船場の重要性をよく示しているといえよう(稲城市教育委員会)」。
多摩川堤に沿って東流する
京王線の高架下を進む
稲田公園を暗渠で進む
菅堀が合流する
三沢川に注ぐ
既に何度かメモしたように、この三沢川は、昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いているのだが、今回の散歩はここでお終いとし、京王線・稲田堤駅まで戻り、一路家路へと。
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