水曜日, 3月 01, 2006

多摩丘陵散歩:稲田堤から小沢城址を経て新百合ヶ丘に

都下稲城市と川崎市多摩区の境あたりを歩く。過日多摩丘陵の横山の道散歩のとき、途中の車窓から眺めたこのあたり、多摩川を渡ると迫り来る丘陵地帯が結構気になっていた。いつか歩こう、と思っていた。が、なんとなくきっかけがつかめない。と、思っていたところ、ふとしたきかっけである本を見つけた。仕事で一ツ橋大学に出かけたときに、国立・学園通りにある古本屋に立ち寄り『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を手に入れた。稲田堤のあたりに小沢城址がある、とのこと。いいきっかけができた。行かずばなるまい、ということで京王稲田堤に降り立った。


本日のルート;京王稲田堤>府中街道>JR稲田堤駅入口を右折>(三沢川・国士舘大学裏あたりが源流点>黒川>鶴川街道に沿って稲城・稲城からは鶴川街道から離れて)>天宿橋>多摩自然遊歩道・小沢城址緑地の入口を確認>旧三沢川>指月橋>大谷橋>薬師堂>菅北浦緑地>法泉寺>子ノ神社>福昌寺>玉林寺>小沢城址緑地の入口>浅間山・小沢城址(高射砲探照灯・物見・浅間神社・鷹狩・)>寿福寺>フルーツパーク>菅仙谷3丁目>NTV生田スタジオ>多摩美ふれあいの森>多摩美公園>細山6丁目・細山5丁目>西生田小前交差点で右折>細山神明社>香林寺・五重塔>細山郷土資料館>千代ヶ丘2丁目・1丁目を経てもみじケ岡公園東側>万福寺>十二神社>新百合ヶ丘駅

京王稲田堤


駅前で案内地図チェック。駅前を走る府中街道を少し南に下り、三沢川の南にある薬師堂のあたりから始まり丘陵地帯を越え、小田急のよみうりランド駅に抜ける遊歩道がある。案内図には「小沢城址」のマークはない。が、途中寿福寺を通る。小沢城址は寿福寺の近く。遊歩道にそってあるけば小沢城址に行けるだろう。ということで、この案内図に沿って歩くことにした。

京王稲田堤駅は京王線の中では数少ない、川崎市に位置する駅。駅のある川崎市多摩区あたりの歴史は古い。奈良時代、大伴家持らの手によって編纂された 『万葉集』にも「多摩川」の名で登場するいくつかの歌がある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

稲田堤の由来
稲田堤の名前の稲田の由来:多摩川は暴れ川。洪水・氾濫により上流から土や砂を運び堆積されて肥沃な土地が生まれた。で、「稲毛米」という高品質な米が生産された。これが「稲田」の由来。また暴れ川の治水工事のゆえに堤防ができ。「稲田」+「堤」=稲田堤、ってわけ。稲田堤は昔、桜並木で有名であったようだ。が、いまはその面影はない。

三沢川
府中街道に沿って菅、菅稲田堤地区を少し下る。菅小学校を超えたあたりで三沢川と交差。鎌倉・室町の頃多摩川は多摩丘陵の山裾を流れていた。が、川筋が次第に北に移り、天正年間の大洪水により現在の流路に。で、このあたりにスゲが群生していたのが「菅」の由来。

三沢川筋を遡り丘陵地帯に向かう。地図で確認すると、三沢川は多摩横山の道散歩の時に目にした国士舘大学近くの黒川が源流点のよう。鶴川街道に沿って黒川駅、若葉台駅を経て京王稲城駅近くまで北東に走り、稲城からは東に向って稲田堤の近くで多摩川に合流する。

旧三沢川
ともあれ、川筋を丘陵方向に向かって西に歩く。川が丘陵に近づくところに「小沢城址緑地」の案内図。ラッキー。いつも上り口を探すのに苦労するのだが、今回はついている。上り口を確認し、気分も軽やかに薬師堂に向う。


指月橋
丘陵に沿った別の川筋・旧三沢川に沿って歩く。指月橋。義経・弁慶主従が頼朝の勘気を蒙り、奥州・藤原氏を頼って落ち行くとき、この地で月を眺めた、とか。

薬師堂

小沢城址とは別の丘陵・菅小谷緑地を越え、またもうひとつ東の丘陵の麓に薬師堂。稲毛三郎重成建立。毎年9月12日、魔除神事の獅子舞が行われる。東に更にもうひとつの丘陵。法泉寺、福昌寺、玉林寺がある。

子ノ神社
おまいりをすませ、東隣にある子ノ神社(ねのじんじゃ)に。名前に惹かれる。由来書は読んだが要点わからず;「菅村地主明神は大己貴神であるが、創立の年代不明。本地は十二面観音。薬師第一夜叉大将を習合し子ノ神と。保元の乱の白川殿夜討ちの折、鎮西八郎為朝が、左馬頭義朝に向けて放った矢を義朝のこどもが受け継ぎ参籠の折、地主明神に納め以降根之神と。新田義貞鎌倉攻めのとき社殿焼失。北条氏康により再興」、といった由来書。
根之(ねの)神社は南 関東から東海地方にかけて集中的に分布するローカルな神様。18人も子どもがいたという、子だくさんの神様である大己貴神=子ノ神と、神代の根之国の神様である根之神の関連などよくわからない。今度ちゃんとしらべておこう。ちなみに白川院は先日の京都散歩のとき、岡崎で偶然出会った。

小沢城址緑地への上り口

再び旧三沢川を西に、小沢城址緑地への上り口に戻る。丘陵に上る。尾根道が続く。案内板が。高射砲探照灯基地がこの地下あった、と。ここで首都圏場爆撃に来襲のB29を探照灯で捉え、登戸近くの枡形城のある丘陵地の高射砲が射撃した。
「物見台」の案内。江戸から秩父連峰まで関八州が見渡せたとか。「鷹の巣」の案内。家光公が鷹狩のみぎり、稲城の大丸、というからJR南武線・南多摩駅あたりからはじめ、夜はこの地の寿福寺とか、庄屋の屋敷に泊まる。で、鷹匠が泊まる屋敷を鷹の巣と。
「浅間神社」の案内。尾根道に一握りといった小さな石のお宮さま。これが浅間神社。富士山の守り神。富士山への民間信仰・富士講にでかける多摩の人々がこの尾根道を越えて菅村、そして調布、甲州街道を経て富士山に。道中の無事を祈ってつくられたものであろう。結構続く尾根道を歩き、城址に。

小沢城址

小沢城の案内が。「この地域は、江戸時代末から「城山」と言い伝えられ、新編武蔵風土記にも小沢小太郎の居城と記録されています。この小沢小太郎は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子でこの地域を支配していた人です。ここは、丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから、

鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。城の形跡として、空堀、物見台、馬場などと思われる物があり当時を偲ばせますが、現在は小沢城址緑地保全地区に指定され、自然の豊かな散策路としても貴重な存在です」、と。「馬場址」の案内。鎌倉から戦国時代に至る380年の間、この地は鎌倉幕府の北の防衛線。この馬場で武士たちが武術を磨いた。その間6,7回の合戦。
最も激しい戦いは新田義貞と北条高時の分倍河原合戦。鎌倉時代末、1333年。新田軍は分倍河原。高時軍は関戸に布陣。新田軍の勝利。怒涛の新田軍は関戸もこの小沢城も陥落。一気呵成に鎌倉を陥落させた。

南北朝には、足利尊氏と足利直義の対立から起きた観応の乱の舞台となる。1351年、小沢城にこもる足利直義の軍勢と尊氏軍との間で合戦がおこなわれる。戦国時代には、後北条、つまりは北条早雲の「北条」氏と上杉氏との勢力争いのフロントライン。

1530年には武蔵最大の支配力をもつ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張り、これを撃破。北条氏康の初陣の合戦でもある。世に言う小沢原合戦がこれ。

小沢小太郎重政

丘陵地形が天然の要害を形づくっているこの地は、鎌倉道が通る戦略的要衝(ようしょう)の地。多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になったわけだ。ちなみに案内板にあった小沢小太郎重政は、鎌倉幕府が源氏3代で滅びたあと、北条一族の時代になって悲劇的な最期を遂げる。

小沢小太郎重政の最後は、鎌倉武士の鑑とされた畠山重忠の謀殺と大いに関係する。直裁に言えば、畠山重忠謀殺に加担したのが、この小沢小太郎重政。武蔵を歩けば折にふれ、畠山重忠由来の地に出会う。そんな「有名人」重忠の騙し討ちから自滅までの小沢小太郎重政の軌跡を時系列にまとめる;
1.稲毛三郎重成は執権・北条時政の娘婿に
2.時政とその後妻・牧の方は稲毛三郎重成に「あなたの従兄の畠山次郎重忠・重保父子が謀反」と、いう謀略を仕組む。
3.畠山重忠は、源頼朝の旗揚げから忠臣・重臣。その重忠の従弟である稲毛三郎重成は、北条時政と牧の方の謀略に加担。畠山父子を殺す手引きし、父子を鎌倉へ呼び出す。
4.鎌倉は「謀反人を討つべし」との声、騒然。自分たちがトラップにかけられていることなど露思わず、畠山重保は郎従3人とともに由井ヶ浜へ。
5.北条時政の命を受けた三浦義村軍に取り囲まれ、重保は奮戦むなしく惨殺。二俣川では重忠が謀殺された。
6.翌日には稲毛三郎重成・重政父子も誅殺される。畠山一族に代わって稲毛一族が強大になることを恐れた北条時政は、「畠山父子を謀殺したのは稲毛の策略」と、二重のトラップをかけていたわけだ。

寿福寺雑木林の城址で少々休憩の後、丘陵を下る。臨済宗の仙石山寿福寺。このあたりは菅仙石と呼ばれる。山あり、谷あり、仙人の住む谷戸、である。寺伝によれば、とある仙人が子の地で修行。ために、「仙石」と呼ばれた、とも。
寿福寺の歴史は古く、『江戸名所図会』によれば、古墳文化時代の「 推古天皇6(598)年に聖徳太子が建立」とも書かれている。指月橋にも登場したが、このお寺にも義経と弁慶主従の伝説が。鎌倉から奥州平泉に逃れる途中、ここに隠れ住み、その間に「大般若経」を写した経文がある、とか。また、義経と弁慶の鐙二具と袈裟も残されている、とか。本堂裏の五財弁尊天池の近くには「弁慶のかくれ穴」、千石の入り口には「弁慶渡らずの橋」という土橋、その近くには、「弁慶の足跡石」もある、とか。

西南にゆったりと下る丘陵地、そこに広がる景観は美しい。 しばし休憩し、再び歩きはじめる。歓声が聞こえる。読売ランドからの響きだろう。しばらく進むとフルーツパーク。温室栽培の果物が。イチゴ狩りがあるのかどうか知らないが、宅地化が進んだこのあたりは桃や梨で有名、と聞いたことがある。たしか、「多摩川梨」だった、と

思う。とはいうものの、男ひとりでフルーツ園もなんだかな、ということで先に進む。

多摩自然遊歩道

菅仙石3丁目の交差点近くに菅高校。ちょっとした登りの坂をNTV生田スタジオ、読売日本交響楽団の練習場に沿って登る。
上りきったあたりに「多摩自然遊歩道」。小田急・読売ランド駅方向に下っている。「市民健康の森」を右手に眺めながら雑木林を歩く。と、後ろから追い抜かれたご夫人に声をかけかられる。散歩好きの感じ。稲田堤から読売ランド駅まで歩いてきた、と。話の中で少し戻れば、丘陵地帯を新百合ヶ丘に進む道がある、という。
どこかで読んだのだが、新百合丘の近くの丘陵地に万福寺あたりに鎌倉古道が残っている、と。行かずばなるまい。とは思いながらも、結構分かりにくそうではある。が、このまま進み読売ランドの駅から百合丘、新百合ヶ丘に津久井道を進むのもなんだかなあ。ということで、「市民健康の森」あたりまで引き返すことに。

五重塔が見える

「市民健康の森」に入り込み、雑木林を進む。「多摩美ふれあいの森」の裾に沿って少し歩くと住 宅地。多摩美2丁目。ちょっと離れた西の別尾根筋に五重塔が見える。多摩の地に五重塔があるなど、思ってもみなかった。行かずばなるまい。一体どのあたりかは定かではない。成り行きで進むしかない。
細山神明社
もう少し丘陵地の裾を進む。細山6丁目で交通量の多い道筋にでる。この道は読売ランドの丘陵地を越え、京王読売ランド駅の西から南武線・矢野口駅近くで鶴川街道に連なる道。読売ランドとは逆方向に進み、なんとなく西生田小学校交差点で右折。少し進むと細山神明社。とりあえず道の脇にある鳥居をくぐり石段を登る。

社殿は丘の上の鳥居をくぐり別の石段を下りたところにある??普通は坂を登ったり、石段を登ったところに社殿があるはず?これって一体なんだ?由来書にその理由が書いてあった。
神社を創建時、社殿は東向きだった。が、一夜にして西向きに。村の人々は不思議に思いながらも再び東向きに戻す。が、夜が明けるとまた西向きに。そんなことが3度も続いたある夜、名主の夢枕に神様が立ち曰く、「神明社は細山村の東端。東向きでは村の鎮護ができない。氏子をまもるため西に向けよ。西の伊勢の方向へ向けよ、大門が逆になっても良い」というお告げ。それ以後、社殿は西向きになり、大門はいわゆる「逆さ大門」となった。ちなみに、「逆さ大門」は関東に3社ある、とか。

五重塔は香林寺

道を進む。が、五重塔が見えなくなった。はてさて。細山2丁目の細山

派出所交差点あたりに偶然、五重塔への案内が。ラッキー。車道筋からはなれ、小高い丘をの ぼる。香林寺。里山の斜面に諸堂が並ぶ。三門、本堂、鐘堂、そして岡の最上部に五重塔。ここからの眺め、里山の姿は本当に美しい。こんな景観が楽しめるなど考えてもみていなかった。偶然散歩の途中に五重塔が目に入り、それを目指して歩いてきた、といったいくつかの偶然の恩寵。里山百景として絶対お勧め。
ちなみに、この五重塔は1987年創建。結構新しいのだが、外装は木造、内部は鉄筋コンクリート、といった意匠のため落ち着いた雰囲気を出していた。いやはや、この眺めはいい!

細山郷土資料館

香林寺を出る。すぐ前に細山郷土資料館。江戸時代だったかどうか忘れてしまったが、この細山から金程といったあたりの立体地形図があった。細山と呼ばれたように、細い丘陵が幾筋も広がっていた。

千代ヶ丘

道に戻り、一路新百合丘を目指す。千代ヶ丘の交差点まで直進。このあたりが丘陵地の南端か。あとは下るだけ。千代ヶ丘1丁目の住宅地を下り、もみじケ丘公園東側交差点に。南に新百合丘に至る道。人も車も急に増える。

道を進む。道脇の標識でこのあたりが万福寺である、と。宅地開発の真っ最中。いくつかの不動産会社が共同して開発しているよう。自然の丘などありゃしない。削り取られ、整地された分譲開発地。これでは鎌倉古道跡など望むべくもなし。

新百合ヶ丘駅

丘の南端に十二神社。このあたりだけが昔のまま、か。神社への石段を登る。宅地開発の恩恵か、石段もなにも、新調されている。分譲地のアクセントとしてはいいかも、といった印象。早々に引き上げる。で、目的の万福寺を探す。が、それっぽいお寺などありゃしない。どうも万福寺って、お寺の名前ではなく地名で あった。ということで少々収まりが悪いながらも、本日の予定は終了。新百合ヶ丘駅から家路に急ぐ。

帰宅し調べたところによると、江戸時代江戸時代に林述斎を総裁に間宮士信ら四十数人が編纂した『新編武蔵風土記稿』にすでに「古、万福寺と云寺院ありしゆへかゝる名もあるにや、今は土地にも其伝へなし、またまさしく寺跡と覚ゆる地も見えず」と記されていた。

2009年の3月に再び小沢城址から香林寺へと歩いた。香林寺からの眺めを楽しんでいると、南の高台に神社らしき構えが見える。このあたりで最も高い場所のように思える。さぞや眺めもいいだろう、と歩を進める。高石神社であった。まことにいい眺めであった。


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