金曜日, 6月 12, 2015

讃岐 香川用水散歩 Ⅳ;東部幹線・高瀬支線を辿る

先回の散歩で香川用水東部幹線水路を、始点の東西分水工のある香川用水記念公園からはじめ、都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」として進んで来た東部幹線水路から高瀬支線が分かれる神田チェック工まで辿った。
今回は、その高瀬支線を終点の高瀬町比地にある満水池まで辿る。香川用水の「共用区間」は水資源機構の管轄、この高瀬支線も途中の二宮チェック工までは「共有区間」であるが、下流部は農業用水専用区間となり香川用水土地改良区の管轄となるようだ。



先回東部幹線水路と高瀬支線の分岐点で散歩を終えた理由は、時間も遅くなったということもあるのだが、本音のところは、この分岐点から先の高瀬支線は衛星写真で見る限り、開渠がほとんど見当たらない、ということもあった。
衛星写真でそれらしき水路施設を推測し、Googleマイマップに仮ピンを立て、確認に向かうといった段取りである。当たるも八卦当たらぬも八卦の手間のかかる散歩となりそうであり、とてもではないが、支線分岐から先を辿る気力が失せていた、というのが本当のところである。日延し、「気力十分」の状態で気分も新たに「探索」を開始しようと思ったわけである。
ということで、先回から日も置かず、「気力十分」の状態で、気分も新たに「探索」を開始すべく高瀬支線の分岐点である神田チェック工に向かう。



香川用水西部幹線高瀬支線;
第一回;東西分水工>長野第一開水路>長野第二開水路>長野暗渠>本篠分水工>財田川サイフォン>伊舎那院>北原第一開水路>北の山分水工>北原第一サイフォン>北原第二開水路>北原第二サイフォン>八月谷第一開水路>八月谷第一サイフォン>八月谷第二開水路>八月谷第二サイフォン>八月谷第三開水路>開渠>和光第一サイフォン>和光第二開水路>和光第二サイフォン>和光第三サイフォン>和光第三開水路入口>和光第三開水路出口>和光第四開水路>和光第四サイフォン(神田大池分水工)>和光第四サイフォン出口>和光第五開水路>トンネルへ>山才トンネル出口>山才開水路>神田サイフォン

第二回;神田サイフォン>玉田サイフォン入口>玉田サイフォン・玉田分水工>宮川サイフォン・向谷分水工>二宮チェック工>トンネルに入る>東長谷分水工>高速を渡る用水の送水管>脇池分水工>清見池分水工>長池分水工>勝田池分水工>高室分水工・国市局>満水池


神田チェック工
神田=こうだ、と詠む。東京に住んでいる者としては神田=かんだ、ではあるが、神田を「こうだ」と詠む地名は結構おおいようだ。もっとも、音が先にあり、それに漢字をあてたのだろうから、漢字の意味から地名の由来を類推するのは少々「危険」ではあるが、観音寺の流岡町にある加麻良神社(かまらじんじゃ)に祭られている神(加麻良神)が神田(三豊市山本町)の地から流れ着いた(Wikipedia)といった伝説などがあり、何の根拠もないが、なんとなく神々しい。

散歩をはじめる。神田チェック工から先の流路に沿って、水路施設らしきものを衛星写真でチェックするに、チェック工から東に2キロ弱ほど離れた山中に2箇所ほどチェックポイントがある。水路施設かどうか現地で確認するまでわからないが、とりあえず唯一の手掛かりであり、その地に向かう、

砂川サイフォン・濁池トンネル
散歩の後で分かったことだが、左岸に分岐した高瀬支線は、神田チェック工のある丘陵から、神田川によって開析された谷下をサイフォン(砂川サイフォン;1キロ強)で潜り、対岸の丘陵に上がり、そのままトンネル(濁池トンネル;800m弱)に入る。地表には姿を現さないようだ。

二宮道標
神田チェック工の左岸に沿って丘陵を下る道があり、車もなんとか通れそう。道なりに進み、国道377号を少し西に戻り、砂川交差点を右折し用水路ラインが道路とクロスする辺りに向かう。
道が左に曲がる箇所に道標が建つ。ちょっと気になりチェック。「右 二宮道(?)」との道標。「従是二宮社 拾六丁」と刻まれているように見える。二宮社とは、この道を北に進んだところに鎮座する讃岐の二ノ宮・大水上神社のことのようである。段取りが良ければ立ち寄ってみようと思う。







玉田サイフォン
丘陵に上る道路を進み、水路ラインが道路とクロスする地点に。左手に水路施設のようなものがあるのだが、それはその脇の池の施設のようである。
水路ラインは道を横切り西へと進み、その先に衛星写真でチェックした水路施設らしきものがある。左に折れる道はあるのだが、草の茂る道であり、とても車で進む自信はない。
道を左手に入ったすぐのところにある池脇のスペースに車をデポし、衛星写真でチェックした水路施設らしき箇所を目指す。竹藪の茂る道を上ると丘陵の尾根道になり、左右の景色が開ける。左手は谷、右手は丘陵が続く。
尾根道を進み、チェック地点に。が、そこは単なる倉庫であった。少々ガックリしながら、前面に拡がる茶畑の写真を撮ろうと倉庫からほんの少し先に進むと、倉庫のすぐ下に水路施設らしきものが見える。泥濘で靴をぐちゃぐちゃにしながら、それでも少しでも乾いた箇所を見付けて水路施設に足を付ける。そこには「玉田サイフォン」と記されていた。
砂川サイフォン・濁池トンネルを抜けた鵜用水路はここに繋がっていた。チェック地点は倉庫で水路施設ではなかったが、結果オーライとする。それはそれとして、この玉田サイフォンまでの水路ラインは尾根筋を通ってきており、途中に谷などの窪地はなかった。ということは、このサイフォンは入口であり、谷筋を挟んだ丘陵にチェックしたポイントは「玉田サイフォン」の出口であろう、と推測。

玉田サイフォン出口・玉田分水工
衛星写真でチェックした次のポイント、直ぐ目の前に見える、谷筋になった対岸の丘陵にあるポイントに向かう。茶畑の道を下り、そして上り水路施設に。そこには「玉田サイフォン・玉田分水工」と記されていた。




車のデポ地点に戻る
次のポイントも衛星写真で明らかに水路施設と読めるのだが、車のデポ地点から少し離れてしまう。また、「玉田サイフォン・玉田分水工」周辺の茶畑への作業道から想像するに、次のポイントには車でも行けそうな道のように思う。ということで、今来た道を車のデポ地点まで一旦戻る。

大水上神社
次の推定水路ポイントへの道筋を思うに、車をデポした地点から県道218号に戻り北上、その先で県道225号に乗り換えて、成り行きで丘陵に上れば推定ポイントに到着できそうである。
道を進むと、ナビに大水上神社と二ノ宮釜跡の名前が現れる。これって、先ほど道標で見た、讃岐の二ノ宮ではあろうし、なにより「二ノ宮釜跡」に惹かれた。今までの散歩の経験から古代に瓦を焼く技術は貴重であり、国分寺や寺院の瓦に使われていた。二ノ宮釜跡がどのようなものが不詳であるが、とりあえず寄り道をすることに。

県道218号を進むと、県道225号の少し手前に大水上神社へと向かう道がある。車が通れるがどうか不安ではあるが、左に折れると田圃の中の道を進むと鬱蒼とした森の中を進むことになる。大丈夫かな、などと思っている頃に左手に社が見え一安心。駐車場にデポし境内に。
随神門・拝殿・本殿
随神門をくぐり、宮川に架かる苔むした石橋を渡る。鳥居から拝殿・本殿に続く参道を進み社にお参り。境内右手にあった絵馬殿らしき建屋にあった社の由緒には「太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は、弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある」との説明があった。
この社、古くより皇室を初め武門武将崇敬篤く、源平屋島の戦に際しては源平両陣営より戦捷祈願があったとのこと。「建久九年二宮社領目録」には、二百町歩の大荘園を有する社とある。また、建長年中(13世紀中頃)の大造営や、応永末年(1427)に社殿大破したる時は、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間には国中の用脚を以て再建したとのこと(三代実記)。江戸時代に至っても累代藩主の信仰・庇護を受け、京極氏は社領三十石を寄進している。
時雨燈籠
境内中央拝殿正面に屋根に覆われて建つ。案内には「時雨燈籠(しぐれどうろう) 香川県県指定有形文化財(昭和38年4月9日) 建立 康永四年(1346年)南北朝時代 願主 藤原定村 大工 法橋□□ この燈籠は総高246センチ凝灰岩製である。基礎・中台は六角形で竿全面に雲龍文様を薄肉彫する。建立年代、願主などが明らかな南北朝時代制作の六角形時雨燈籠の貴重な作例である」とあった。

境内の絵馬堂の建屋に、この社の古き写真や境内の社の案内がある。その案内に従い境内を辿る。

四社宮
境内左に四社宮。源平屋島合戦の折、源平両者当社に戦捷祈願したわけだが、壇ノ浦に沈んだ平氏の四将、平教盛(平清盛の弟)、平経盛(平清盛の弟)、平資盛(平清盛の孫)、平有盛(平清盛の孫)が祀られている。
敗者を悼み祀るって、なんだか、いい、と思ったのだが、現実は、平氏滅亡後、社に災いが続いたため、その祟りを鎮めるため祀ったとのことである。




うなぎ淵(竜王淵)
本殿すぐ横。「昔から旱ばつ時、参籠潔齋の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨。白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれていた。明治・昭和初期齋行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が行われた」とある。
絵馬堂の案内には、「滝の宮神社。鰻淵の神  祭神;滝田比古命・滝田比売命 古くは三嶋龍神と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代から祈雨神祭遺跡で白鯰・黒鯰の伝えがある」とあった。大水上神社は、古代より水利の神(水上(源))として崇められとする所以である。

千五百皇子社
絵馬堂の案内にあった皇子社に。うなぎ淵の右の石段を上る。小祠は巨大な岩(磐座跡?)に鎮座する。この姿も、いい。絵馬殿にあった案内によれば、「子授けの神として霊験あらたか。母子平安を祈願する妊婦の参拝も多い。社名は「古事記」の「伊耶那美の段」に由来する。社殿は古代祭祀遺跡である「磐座」に鎮座」とある。
「古事記」の「伊耶那美の段」って?チェックすると、黄泉の国で伊耶那美命から逃れる伊耶那岐命が発した言葉。醜い姿に恐れをなして逃れる夫の伊耶那岐命に、「逃げるのなら一日千人殺す」との伊耶那美命に、「それなら一日千五百人を産ます」と伊耶那岐命が返した言葉のことだろう。御祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命。

産霊(むすびめ)神
千五百皇子社の逆、古き大木を背に小さな岩が祀られる。「子孫繁栄、子授けの神。御神体は聖職崇拝の陰陽石」と絵馬殿の案内にあった。

二ノ宮窯跡

千五百皇子社の石段を下り、宮川に沿って随神門方向に少し戻ると二ノ宮窯跡。ふたつの窯があり、「大水上神社の境内を流れる宮川ぞいは古来文化の栄えたあかしとして、多くの遺跡が発見されています。なかでも、この二ノ宮窯跡は貴重な文化財として昭和7年4月25日に国の史跡に指定されました。 向かって右側が第一の釜で左側が第二の窯です。
第一の窯の中を見ると、葉脈状に火の通り道をつくり、瓦をのせる畝を放射状に配しています。 傾斜の度合いからみて、これは「登り窯」の一種と考えられます。
第二の窯は、畝の部分が水平につくられ「平窯」と呼ばれています。窯からは瓦の他、杯、硯などが出土しました。おそらく平安後期から鎌倉時代にまたがると思われる遺跡です」とあった。
宮川は、財田川の支流の一つ。この地域の延喜式内社の殆どがこの流域にあるようだ。また、この下流に、銅鐸、銅剣が同時に出土した、向谷遺跡がある(東京国立博物館に保存)。この辺りは古くから開けていたのだろう。 この二ノ宮窯跡は平安末期から鎌倉期のものであるが、三豊市三野町(JR予讃線みの駅近く)の吉宗瓦窯史跡は、日本で最初の瓦葺きの宮殿と言われる藤原宮(藤原京)の瓦の生産地とも言われている。古代よりこの辺り一帯が瓦の生産を行っていたのだろう。
それにしても、瓦は寺の屋根に葺くものであり、神社に瓦を使うことはないのだが、神社敷地内に窯跡があるのは、どういった経緯だろう。

禊場
二ノ宮窯跡から随神門へとむかうと、禊場がある。水を浴び心身を清める聖場と、絵馬殿の説明にあった。

祓戸社
その先に小祠。絵馬殿の案内によれば、「この祠は祓戸社。祭神は瀬織津比売神、速開津比女神、気吹戸主神、速佐須良比女神。人々の心身を祓い清める神々」とあった。

神輿庫と社務所の間を進んだ奥には青葉大神(たばこの神)草野姫命(野の神・草の神)大己貴神(医薬の神)少彦命(田作の神)を祭神とする豊葉神社(煙草神社)、その右に牛神神社(保食神 牛馬守護の神)、左に荒魂神社(大物主神 国土守護の神)が祀られる。
また、うなぎ淵(竜王淵)の先には夫婦岩と称される磐座、「往来は心安かれ空の海 水上清きわれは竜神」と刻まれた空海の句碑があったようだが、見逃した。

道端で偶々見付けた道標に刻まれてた「二宮社」をフックに、何気なく立ち寄った大水上神社であり、二ノ宮窯跡ではあったが、誠に良きリターンを得た。古代におけるこの社と地域の関係、三嶋龍神とは(三嶋大神=瀧神=水神=瀬織津比売神とする説もあるようだ)? また、古来の素朴な水霊の神を祀った社の祭神が大山積命 保牟多別命 宗像大神となった経緯などもう少し深掘りをしたいとは思うのだけど、今回のテーマは用水路散歩。この辺りで社を離れることにする。

宮川サイフォン・向谷分水工
宮川の清流に沿って参道を車で進み、大水神神社の鳥居をくぐり県道218号に出る。道を進み県道218号に乗り換え、衛星写真でピンアップした辺りへと続く道へと県道から左に折れる。道は茶畑の丘陵を上ってゆく。
対向車が来ないように祈りながら上り切り、茶畑の作業倉庫脇に車を停め、ピンアップの場所に向かう。底には「宮川サイフォン・向谷分水工」と記されていた。
水路施設は、この先の宮川の谷筋を越え、川を隔てた丘陵の北に衛星写真でチェックした水路施設らしき箇所まで、特にそれらしき箇所はみつからない。とりえず県道218号まで戻る。

二宮チェック工
県道を少し西に進み、向谷バス停付近から北に進む道路に乗り換え先に進む。丘陵を上り切った辺り、道の左、少し奥まったところに水路施設があり、二宮チェック工とあった。
宮川サイフォンの出口は?チェックすると、向谷分水工で分水後、羽方トンネル・二宮トンネルを通り、地表に姿を現すことなく、この二宮チェック工に繋がっているようである。距離はおおよそ1.3キロ弱といったところ。
香川用水高瀬支線は、この二宮分水工で都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」は終了。共有区間として下った水は、チェック工の少し北にある「西部浄水場」に供給され、ここから下流は農業用水専用の用水として満水池へと向かう。また、このチェック工には記載は見あたらなかったが、共に右岸に、二宮分水工、上北谷分水工がある、とのことである。

高瀬支線農業用専用水路
二宮チェック工から先にコンクリーの蓋で覆われた水路が先に続く。これが満水池に下る用水路であろうと、水路蓋上を進むがほどなく道は切れた。






東長谷分水工
次のチェックポイントは二宮チェック工のある丘陵尾根筋の北端辺りに、航空写真で微かに見える水路跡らしき箇所。二筋の「影」といったものが見え、こんなところに水路が開けるとも思わないが、とりあえず確認に向かう。
山中であり、直接進める道はないため、二宮チェック工前の道路を北に進み、丘陵を下りきったとことで東西に走る県道24号に乗り換え、最初の交差点を左に折れてチェックポイント付近に車を停めて山中に入る。
山中に入る箇所を探すに、竹藪が行く手を阻む。適当なところはないものかと辺りを彷徨うと、山中に入る、如何にも作業道といった細路がある。用水路の保全作業道であることを祈って竹藪に入ると、水路施設があった。「東長谷分水工」とあった。
当初チェックした二筋の影から、少々疑問を感じながらも水路を予測して、山中に入ってきたのだが、水路ではなく分水工があった。結果オーライ、ということにする。よく見付けたものだと、自分を褒めてあげる。もっとも、こんな酔狂なこと、誰の役に立つとも思わないことは、よくよく自覚はしているのだが。

道路脇に香川用水埋設の案内
東長谷分水工の先は、先ほど上ってきた道路筋の谷筋(といっても川はないのだが)を隔て、その先に丘陵があるわけで、サイフォンでもありそうな気がするのだが、それらしき施設は見つからない。
衛星写真ではわからなかったが、なにか痕跡がないものかと、水路ラインが道路とクロスする辺りを走ると、道脇に「この道路の下に香川用水幹線水路が埋設されえています」との道路工事注意の案内があった。この下を南北に用水路が進んでいるのだけは確認できた。

高松道を渡る水路管
次のポイントは高速・高松道に架かる跨道橋脇に見える水路管らしき「影」。場所は眉山トンネル手前の高松道の跨道橋である。道なりに進むと「鳶ヶ巣跨道橋」があり、橋脇に香川用水の案内と、送水鉄管が高速を跨いでいた。




脇池分水工
次のポイントは、高速を渡った水路ラインが豊中町笠岡の野津午公民館の少し北東。水路施設、というか水路を覆うコンクリート蓋らしき筋が見える。その地へと道なりに進み集落からちょっと山への道に入り込むと、野津午配水池あり、その先に明らかに水路を覆ったと思える、コンクリートで蓋のされた暗渠が奥に続く。この配水池への水路?とちょっと不安。
が、暗渠を進むと脇には香川用水の埋設案内もあり、香川用水に間違いなし。ビンゴ!と心の中で叫ぶ。暗渠がどこまでつづくのか先に進むと、暗渠が切れるあたりに水路施設があり、「脇池分水工」とあった。よく見付けたものだと、再び自分で自分を褒める。

清見池分水工
次のポイントは、この脇池分水工から北に進む水路ラインが池脇を進む地点。特に水路施設らしき「影」はみえなのだけれど、香川用水西部幹線のメモをしたとき、香川用水は溜池を調整池として繋ぐといったことを思い出し、池脇になんらかの施設があるのでは、と向かったわけである。
田圃の中の道を成り行きで目的の池まで進み、水路ラインが通る池の北側に廻る。水路施設埋設の暗渠が池に接近した辺りに「清見池分水工」があった。又々ビンゴ!

長池分水工
次のポイントは豊中六ッ松バス停辺り、国道11号東の池。水路ラインは池の真ん中を通る。国道脇にあった七義士神社に車をデポし水路施設を探す。
池の堤防をぐるりと廻ると堤防の道に香川用水埋設の案内があり、池の北東部から池に剃って少し東に進んだ付近に「長池分水工」があった。

七義士神社

権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。 この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。

高室分水工・国市局
次のポイントは丘陵末端部に沿って進む水路ラインを辿り、水路ラインが勝田池の南東端辺りを進む地点に向かう。車をデポし、周囲を探すがそれらしき施設は見つからない。
それではと、池に向かう水路ラインに沿って田圃の中の畦道を戻り、農道に沿って東に進むと民家の脇に水路施設があり、「高室分水工・国市局」とあった。 国市局は勝田池の東にある国市池の近くにあるからの命名だろうか。
「局」
農業用水専用水区間の管理は香川用水土地改良区が担当。香川用水記念会館に親局を設け、子局から流量などの情報を把握し流量制御をおこなう。西部幹線水路では、流量制御は分水工に設けられたふたつのゲートのうち、期別に定められた分水量を、第1ゲートは管理者側(香川用水土地改良区)が、第2ゲートは受益者側が操作するとのこと。基本人の手で操作されていた。

勝田池分水工
勝田池の施設は?もう少し農道を戻ると、農道が竿川に当たる手前に名前の記載はないが、金網に囲まれた如何にも水路施設らしきものがあった。そこが「勝田池分水工」であった。







満水池
次は高瀬支線の最終地点である満水池、水路ラインに沿って衛星写真をチェックしても特にそれらしき施設は見えないため、成り行きで満水池に向かう。池の堤防に建ち、水路ラインが池に繋がる辺りを彷徨うのだが、送水管といったものは見つからない。
あれこれチェックすると送水は池敷を暗渠でくぐり、満水池の分水は池水面最末端付近で吹きあげ分水するようである。また、水位が満水面に達すると水位検知器により池への分水は止まるようになっている、とのことである(満水池の水管理;木本凱旋)。

満水池局
堤防に建屋があり、名称は記載はないのだが、満水池局かとも思う。満水池および郡池の分水量、満水池の水位を把握し親局に情報を送っているわけだ。

これで、香川用水東部幹線・高瀬支線散歩を終える。なにせ、データソースがないわけであり、途中見逃したサイフォンや分水工、局もあったかと思う。実際、高瀬支線には六ッ松局や宮池局といった子局もあったようだが見逃している。何かの機会にデータソースが見つかれば、抜けた箇所をいつか辿ってみようと思う。

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