Sさんから根岩(ねえや)越えに生きませんか、とのお誘い。30年来の友人であるSさんとは奥多摩・日原から秩父に抜ける仙元峠越え、信州から秩父に抜ける十文字峠越え(Ⅰ、Ⅱ)、中世の甲州街道である小菅から牛ノ寝の尾根道を上る大菩薩峠越え(Ⅰ、Ⅱ)などをご一緒させてもらっているのだが、いつだったか、本仁田山からゴンザス尾根を下る山行をご一緒した際、ゴンザス尾根を歩きながら、尾根を横切る根岩越えの話をしたのを覚えていてくれ、声をかけてくれたわけだ。
「根岩(ねえや)越え」とは、かつての棚沢村鳩ノ巣からゴンザス尾根を越え奥多摩の氷川へと下る道。江戸の頃、多摩川にせり出す岩場を穿つ、「数馬の切り通し」が開削されるまでは、この根岩越えが青梅筋と奥多摩を結ぶ唯一の道であった。
「根岩(ねえや)越え」のこととを知ったのは鳩ノ巣渓谷散歩の折り「数馬の切り通し」を訪れたとき。往昔の人や物が往来した「峠越へ」、といったキーワードには滅法弱い我が身としては、早速トライ。が、成り行きで何とかなるだろう、などとお気楽に出かけ、青梅筋の白丸の集落からはゴンザス尾根に取り付くが踏み跡などみあたらない。仕方なく、成り行きでゴンザス尾根を這い上がり、氷川に下るアプローチ付近の尾根鞍部に辿りついた。
が、そこから先も送電線鉄塔の近くから下り道がある、といった程度の事前情報しかチェックしておらず、鞍部近くに建つ日原鉄塔4号、5号辺りから下りの道はないものかと結構探したのだが結局見つからず、根岩越えは諦めた。そんなことをSさんに話をしていたわけである。
で、今回のお誘い。Sさんの話によれば、尾根道を踏み間違い、思いもよらず「根岩越え」に出合ったとのこと、本仁田山から花折戸尾根分岐を経てゴンザス尾根を白丸に下る途中、標高750m辺りに建つTV電波塔付近で尾根道筋を読み違え、日原6号鉄塔を経て、結果、氷川に下りたとのこと。さすがに、途中でゴンザス尾根から離れてしまったことに気づき、これって話にあった「根岩越え」、というわけで早速お誘い頂いたわけである。
ということで、お誘いからから日も置かず二人で根岩越えの登り・下りを辿ることにした。ルートは白丸駅で下車し、白丸の集落を抜けゴンザス尾根鞍部のある標高705m地点へ這い上がり、日原6号鉄塔から氷川に下る。氷川に下る道は急峻とのこと。トラロープは整備されているようだが、念のためロープをリュックに入れて、念願の「根岩越え」に出かける。
本日のルート;青梅線・白丸駅>川合玉堂も愛した白丸散策コース>石畳の道>元栖神社>ゴンザス尾根へのアプローチ道>東京都水道局 白丸第三配水所>沢に沿って西に>ゴンザス尾根鞍部705m地点>日原6号鉄塔巡視路標識>TV電波受信鉄塔>鉄塔巡視路標識>巻き道合流>日原6号鉄塔>(根岩越え)>日原鉄塔巡視路標識7・6>鉄梯子>トラロープを頼りに急坂を下る>氷川の街が見えて来る>東京都氷川浄水場・大氷川配水所>青梅線・奥多摩駅
青梅線・白丸駅;10時51分
青梅線・白丸駅で下車。白丸の由来は、多摩川南岸、白丸の対面に聳える城山(じょうやま)が転じたもの、との説がある。「じょうやま」も、もとは「しろやま」であったものが代官のお達しで読みを変えた、とか。しろやま(城山)>しろまる(城丸)>しろまる(白丸)、ということだろう。また、しろ=田畑または区画を示す「しろ=代」。「その畑地が球形に区切られている」から「しろまる」との説もある(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。いつものことながら、地名の由来って、諸説あり定まることなし。
●青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。
川合玉堂も愛した白丸散策コース
無人駅を下り、山側の道を少し西に進むと道脇に「川合玉堂も愛した白丸散策コース」の案内。道を進むと更に「散策コース」の案内があり、
「昭和19年12月18日 白丸大澤哲治氏邸に寄宿
目ざす家に日のあたりをり霧を踏む 村長に泊めて貰うて柚子湯かな 川合玉堂」とあった。
●川合玉堂
川合玉堂は明治から昭和にかけて活躍した日本画家。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)7月、かねてより頻繁に写生に訪れていた御岳(東京都下西多摩郡三田村御岳)に疎開、更に12月には古里(古里村白丸に)転じた。
昭和20年(1945)5月には、牛込若宮町の自宅が戦禍にあい焼失。12月に三田村町御岳に移り、住居を「偶庵」、アトリエを「随軒」と称した。現在の玉堂美術館のある場所、と言う。
日本画家である玉堂は俳句や和歌の秀作も多く、「偶庵」はその雅号。偶々(たまたま)、多摩(たま)に庵を結んだといった洒落である。
石畳の道
道なりに進むと、Y字路にあたり、ゴンザス尾根方面である左に折れると石が敷かれた細路が続く。観光案内には「石畳の道」とあった。古道、峠道など散歩の折々に石畳の道に出合うため、それほどの感慨は、ない。
元栖神社;10時56分(標高385m)
車道に出る。右手に社があり「元栖神社」とある。散歩で結構多くの社を辿っているが、「元栖神社」という名前は初めて聞く。如何なる風情、由緒の社かと、ちょっと立ち寄り。
境内に上る石段脇に案内。「元栖神社のイチョウ 元栖神社は白丸の鎮守神でご祭神は猿田彦命、祭礼は八月第三日曜日です。この日には郷土芸能の獅子舞が奉納されて賑わいます。 境内のイチョウの巨樹は四季折々に変化し参詣者を迎えています」とあった。
鳥居を潜って境内に入ると正面に舞台。その脇にイチョウが立つ。石段を上り拝殿と本殿にお参り。「元栖」が気になる。「新編武蔵風土記稿」には、「元栖明神社」と記される。祭神は「猿田彦大神」。為に「猿田彦神社」と呼ばれたこともあるようだ。創建不明。嘉永6年(1853)焼失して資料もすべて失ったと言う。
ということで、「元栖」の由来は不明。昔の「字」名だろうか。近くの「鳩ノ巣」も通称で正式名所ではないが、鳩ノ巣(=栖)があれば、その元の巣(栖)もあってもいい、かと。
なお、境内には川合玉堂の歌碑もあったようだ(昭和20年建立)。「囃子いま 調べ高まり 獅子荒るる ときしもひびく 警戒警報」、と刻まれる。
昭和20年(1945)8月1日-2日、5日には八王子の大空襲。15日は青梅も空襲を受けている。獅子舞奉納の祭礼は8月第三日曜とあるので、この空襲の時とは別の日なのか、祭礼の日が当時と今は異なっているのか不明であるが、疎開時の雰囲気が感じられる。
●鳩ノ巣の由来
鳩ノ巣渓谷の岩場に玉川水神社がある。大和国丹生川上神社の中社の祭神で水神の「みずはのめのかみ」を祀る。その岩盤に鳩ノ巣の由来の案内があり、「明暦の大火で焼け野原となった江戸の復興のため木材の切り出しがはじまる。奥多摩・青梅は秩父の名栗筋の西川材とともに、木材の一大供給地。水神社のあたりに切り出し・搬出のための木材番所ができたという。そこに祀った水神社につがいの鳩が止まり来る。そのまことに仲睦まじい姿ゆえに一同心なごみ、霊鳥として大切に扱った。地名も「鳩ノ巣のところ」ということから鳩ノ巣と呼ばれるようになった」とあった。「元栖」の由来は、霊鳥が飛び来る元の巣(栖)のあった地、と妄想した所以である。
天地山遠望
車道を道なりに進み、特別養護老人ホーム前を過ぎると南に突き出した道は大きくUの字に曲がる。車道からは地元の人が“奥多摩槍”とも呼ぶ、天地山(標高981m)の尖った山容が彼方に見える。別名“高岩山”。名前の如く、結構厳しい岩場がある、とのことである。川合玉堂も、「名に負える天地岳は人知らず 奥多摩槍と言わば知らまし」と詠む。
白丸ダム湖・調整湖遠望
Uの字のカーブをを曲がり少し進むと、西に折れ、更に西側の一筋高い山肌を進む道にショートカットする細道を進み車道に。道から白丸湖の湖水が見える。
●白丸湖
こ白丸ダムは東京都交通局の管轄という。通常ダムの管轄は水道局であり、東京電力といったものであろうが、どういった事情であろうかと、チェック。
昭和7年(1932)、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。
戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名した。発電した電気は東京電力に卸している、とか。はじめ交通局の管轄、と聞いたときは、てっきり地下鉄の電気確保のためか、などとお気楽に考えていたのだが、掘れば歴史が現れるものである。
ダム湖の水は地下を通り5キロほど下流の多摩川第三発電所に送られる。通常ダムから下流は水量の乏しい河床が多い。しかし、ここは事情が異なる。鳩ノ巣渓谷の狭隘部を堰き止めるダム建設に際して鳩ノ巣渓谷の景観を守るために反対運動が起こったようだ。で、交渉の末、3月中旬から11月中旬までは渓谷の景観維持、つまりは豊かな水量確保のために放水がなされている、と。白丸ダム直下にある白丸発電所ではその放水を利用し発電を行っている。
ゴンザス尾根へのアプローチ道;11時10分(標高421m)
車道からゴンザス尾根へと向かう道は?車道を先に進むと西に折れた辺りで切れている。もうひとつ、ショートカットで上り切った車道から山へと西に上る道もある。どちらがルートかわからない。結局、より山裾に近い所まで続く、後者の道を上る。車道から右に分岐する、手すりのある石垣のスロープを右に折れ、途中、消防用の施設らしき小屋を見遣りながら道なりに進み、森に入る。
東京都水道局 白丸第三配水所;11時18分(標高482m)
森に入ると、少し先に「東京都水道局 白丸第三配水所」が見える。Sさんが準備したルート図にあった「古い水道施設」とも思えないのだが、とりあえず配水所に。踏み跡などないものかと辺りを探すが、それらしき痕跡は見あたらない。
配水所の北には幾段かになった石垣が残る。ゴンザス尾根への登りの道には石垣が残ると言うので、手掛かりでもないものかと、石垣を標高500m辺りから550mへと等高線を垂直に上る。踏み跡を探すが、なにも手掛かりがない。
このままでは目標とするゴンザス尾根鞍部705m地点から大きく外れてしまう。
GPSは持っていたのだが、軌跡のログをとるだけでいいかと、目標ポイントの登録はしていなかった。また、山地図もインポートしておらず、Sさんの用意してくれたルート図には緯度経度がなく、結局、白丸第三配水所まで戻り、一から出直すことにした。
沢に沿って西に;11時52分(標高484m)
白丸第三配水所に戻り、ルート図で見るに、岩場の北を、基本西に向かって進めば目標とするゴンザス尾根鞍部705mに辿りつけそうである。
標高500m辺りから等高線を斜めに600m辺りまで進む。踏み跡などは何も、左手に沢が見える。杣(そま)入沢だろうか。結構深く切れ込んではいるが、岩場といった雰囲気ではないのだが、その時は切れ込みの風情を「岩場」と思い込んでいた。
ゴンザス尾根の鞍部を確認したいのだが、GPS専用端末に地点登録もしておらず、ルート図には緯度経度が記されていない。電波が通じていることを祈りiphoneをオン。かすかに電波が通じる。Google Mapのゴンザス尾根の鞍部にピンを立てると、現在地の西にある。適当なところで沢を西に渡るべし、とポイントを探す。
ルート図標高600m辺り、切れ込んだ沢が少し緩やかになった地点を西に渡る。その跡は、iphoneのGoogle Mapのピンアップ地点に向かって成り行きで尾根へと這い上がる。
ゴンザス尾根鞍部705m地点;12時36分
標高600m辺りから等高線を垂直に等高線670m辺りまで這い上がり、空が開けた辺りに向けて成り行きで進むと、ドンピシャリで目的ポイントであるゴンザス尾根鞍部705mに出た。尾根に南北に伸びる平坦部には先回の「根岩越え」で彷徨った日原4号、5号鉄塔が建つ。
●計画ルート
結果オーライではあるが、目的ポイントに出たのは全くの偶然である。Sさんの用意したルート図からは大きく外れていた。ルート図では尾根へと這い上がったルートより南、山地図に岩場マークの北に沿って進むルート、更に南にある沢を上るふたつのルートが記されている。
沢を這い上がった時は、その沢筋が岩場マークの地点かと想っていたのだが、まったく異なったルートを這い上がっていた。実際のルートは、里から山に入ると白丸第三配水所に向かうことなく、510m等高線に沿って西に向かい、岩場北の山塊が迫り出した辺りの平場に古い水道施設(当日は、白丸第三配水所がそのポイントと思い込んでいた)があり、そこからルートはふたつに分かれる。
一つは岩場に沿ってその北を辿り、ゴンザス尾根鞍部に出る。もうひとつのルートは岩場南の谷筋を隔てた尾根筋を上るルートである。
ルート途中には山ノ神や茶屋跡などが残ると言うのだが、その山ノ神を確認した、と言う根岩越えの記録はWEBには見あたらない。近いうちに、GPSに山地図をインストールし準備をした上で、このふたつの計画ルートを辿り、なんとか「山ノ神」を探し当てたいと思う。今も残るかどうかも不明ではあるのだが。。。
●ゴンザス
この「ゴンザス尾根」って、どういう意味なのだろう。いつだったか、日原かヨコスズ尾根・長沢脊稜を経て仙元峠を越えて秩父の浦山へと抜けた時にも、ゴンジリ峠という峠があった。「権次入峠」と書くが、元より漢字表記は「音」に合わせたケースが多く、漢字の意味から推測するのは少々危険。
あれこれチェックしていると、ゴンザスの「サス=差、指」は「焼き畑」の意味があるとの記述があった。これって、良い線いってると思うのだが、「ゴン」の意味がわからない。「ゴン」には方角の「丑寅(北東)」、「鬼門」の意味もあるとのことだが、結局「ゴンザス」の意味は不詳である。
日原6号鉄塔巡視路標識;12時43分(標高720m)
標高705mゴンザス尾根鞍部から北に向かい、尾根道を等高線720mに上る。そこに日原6号鉄塔巡視路標識が建つ。そこから尾根を進むことなく、日原6号鉄塔に向かう巻き道がある。この道を進むと等高線を720mから700mに向かって緩やかに下ってゆくようだ。
TV電波受信鉄塔:12時48分(標高745m)
今回は巻道を進むことなく、Sさんが踏み間違えた地点から日原6号鉄塔に向かうことにする。標高760m地点まで上ると周囲が開け電波塔が建つ。パラボラアンテナはアナログ時代の東京MXテレビが使用していたようであるが、現在は全放送局対応のデジタル受信設備に更新されている、とか。
で、この電波受信鉄塔がある辺りは、木々が切り開かれているのだが、その開かれたところから尾根道を下るべく再び木々の中に入る辺りに踏み跡が二つある。左手は尾根道の本道であり、右手は日原6号鉄塔へと下る道である。Sさんは、ここで右に進み本来のゴンザス尾根ルートを外れ、日原6号鉄塔、そして根岩越えと進んだわけである。
鉄塔巡視路標識;12時53分(標高726m)
尾根筋を20mほど下ると鉄塔巡視路の標識「左 日原線5号 右 日原線6号」とある。先ほど出合った「日原6号鉄塔」からの巻道がここに続いているのだろうか。
巻き道合流
西に着きだした等高線700mの突端部辺りの左手に踏み跡の道が見える。Sさんの準備したルート図には尾根鞍部の北にあった日原6号鉄塔巡視路標識から、この地に巻き道が描かれている。それなら先ほどの巡視路標識は何だったのだろう?疑問。
日原6号鉄塔:12時57分(標高669m)
尾根筋を等高線に垂直に下ると等高線680mと670mの間の平坦部に日原6号鉄塔が建つ。日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。
氷川に下る
西に着きだした等高線650の先は断崖。その手前の等高線660mと670mの平坦部を先に進み、等高線650mの南西端、その東が岩場となる手前から南に急坂を下りることになる。トラロープが張られているので、そのロープを目安にすれば、いい。
●「根岩」の由来
ところで「根岩」であるが、文字からすれば、根が生えたような大岩、ゴンザス尾根の急峻な岩盤地質を指すように思えるのだが、「納屋」の転化である、との諸説あるようだ。
「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。
また、根が生えたような大岩も捨てがたい。白丸からゴンザス尾根の鞍部に這い上がるまで、多摩川に落ち込むゴンザス尾根を越える道が無かった、ということは、その鞍部までゴンザス尾根を越える道を造れなかったということであろうし、その理由は強烈な岩盤に阻まれたためであろう、かとも思う。一度「数馬の切り通し」から尾根を這い上がって、その岩場を実感してみたいものである。
日原鉄塔巡視路標識;13時8分(標高637m)
トラロープを頼りに標高を20mほど下げると、日原鉄塔巡視路の標識。「左 6号 右 7号」とある。更に急峻な坂をトラロープを頼りにゆっくり下る。標高650mから610m辺りまでは南に下る。
鉄梯子:13時16分(標高581m)
標高650mから610m辺りまでは南に、等高線に対してはすこし斜めに進むが、等高線610m辺り右に折れ、東へと向かう。標高580m辺りまで等高線を斜めに進むと岩場に鉄梯子。鉄梯子は2段になっており、途中で方向を変え南に下る。
トラロープを頼りに急坂を下る
鉄梯子を下り、トラロープを握り急峻な坂を下る。道の左手には屏風岩がある。ロッククライミングを楽しむ人には垂涎の地であろうが、高所恐怖症の我が身は岩場見物のお誘いをお断りする。
氷川の街が見えて来る
標高550m辺りから400m辺りまでは基本等高線を垂直に下る。トラロープ整備して頂いた関係者に大感謝。標高430m辺りから木々の間に氷川の栃久保が見える。
東京都氷川浄水場・大氷川配水所;13時35分(標高384m)
ほどなく東京都氷川浄水場が見えて来る。奥多摩の山稜を借景として氷川浄水場を見遣り、浄水場のフェンスに沿って下ると、右手には大氷川配水所施設。ふたつの施設の間の細路を下り、成り行きで奥多摩駅に進み、本日の散歩を終える。
今回の散歩でゴンザス尾根から氷川へ下るルートは確定した。が、白丸の集落からゴンザス尾根に上るルートは準備不足もあって、大きく外してしまった上りのルート途中にある、と言う「山の神」や「茶屋跡」。それが今もあるかどうか不明ではあるが、もう一度トライしようと思う。また、数馬の切り通しから這い上がれるものか、トラバースできるものかどうが、そのルートもチェックに行こうと思う。数馬の切通りの上に祠があり、結構な岩場だったような気もするのだが。。。
最後に「数馬の切り通し」を簡単にまとめておく。
■数馬の切り通し
数馬の切り通しには、国道411号脇にある手作り味噌のお店の脇から数馬の切り通しへの小径へ入る。民家の脇を通り切り通しへの道を進むが、近年大幅な道路工事が行われ国道からも直接上る道が造られている。切り通しにはこの車道から直接上るのが早い。
車道を越えると昔ながらの小径に戻る。杉林の中を進み、沢を過ごすと切り通しに到着。前面の巨岩がきれいに穿ち抜かれている。18世紀初頭、江戸の元禄の頃、岩に火を焚き水で冷やし、脆くしたうえで石ミノやツルハシで切り抜いた。
江戸のはじめまで、白丸と氷川との往来は、上でメモした急峻な山越えの道・根岩越えの道しかなかった。この切り通しができることによって氷川との往来が少し容易になった。物流が盛んになった。どこで読んだか覚えてはいないが、切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、とのうろ覚えの記憶がある。
切り通しの手前に「数馬の切り通し案内図」がある。切り通しを越える道は江戸の頃、三回にわたりルートが変更されている。今歩いてきたのが元禄期の道筋、その道の少し下、沢に沿って18世紀中頃の宝永の頃のルート、元禄の頃の道筋から途中で別れ沢を橋で越えて切り通しの先に続く19世紀中頃・嘉永の頃のルート
切り通しを越えて先に進むと、道は180度に近い角度で曲がる。しかも石段があり段差となっている。元禄の頃の切り通しの道跡とすれば誠に不自然。ひょっとすると先ほどの案内でみた嘉永の頃の橋を渡したルートとの繋ぎではなかろうか。であればぴったりと道筋が一致する。
先に進むと再び切り通し。その先は岩壁に沿って細路が続く。切り通しも大変だったと思うが、この岩壁を切り崩し、道を穿つのも大変だったと思う。ということは、数馬の切り通しって、イントロ部分の大岩塊の部分だけでなく、この断崖を穿った開鑿すべてを含んだ言葉なのであろう。現在は人ひとり通れる断崖の道ではあるが、これは大正時代に切り通しの下に隧道を通し、道を造ったときに崩したためではあろう。
崖下に、その大正時代の道が見える。足元を抜ける数馬隧道の完成によって、奥多摩・氷川と青梅との車での往来が可能となった、と言う。大正期の道路の遙か下には多摩川の流れが見える。「楓渓・数馬峡の碑」にあった「数馬の切り通しからの眺望は絶景である」、とはこのことであろう。
「楓渓・数馬峡の碑」にも名前のあった山田早苗の数馬の切り通しの描写を挙げておく; ゆく道の大厳の山をさながら切割りて、牛馬の通うばかりに道を造れる処、一町ばかりの程は石敷きたる廊(わたどの)の如くにて、入口に石の門の如く岩立ちたりし所あり(天保12年の山田早苗の『玉川訴源日記』より)。
ところで「数馬」の由来であるが、これまたはっきりしない。秋川筋に数馬の集落がある。これは中村数馬が開いたところ、とか。まさか、秋川筋から中村さんが青梅筋まで遠征したとも思えない。奥氷川神社の神官に河辺数馬藤原永義がいた。この人物が数馬の切り通しを開いたとの説もある(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。由来としてはわかりやすい。
そのほか、すまは「隅」、かは「かど、かき、かぎり」、の「か」であっり、かずまとは「障壁によって限られるところ」との説も紹介されている(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。例によって、定説は、ない。
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