水曜日, 7月 08, 2015

伊予 花遍路の里を歩く そのⅡ;粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に

粟井坂からはじめた散歩であるが、気になること、知らないことが数多く、距離の割にはメモが結構多くなった。如何に自分の故郷のことを知らないか、今回も思い知らされることになった。
で、先回のメモは北条と言えば、の鹿島で終了。今回は、鹿島から先、元々の散歩のきっかけともなった「鴻之坂(こうのさか)越え」のメモを始める。

本日のルート
Ⅰ;松山を経由し粟井坂に向かう>53番札所・円明寺>西山通周五右衛門堂>大谷口バス停>海岸の切り通し>粟井坂大師堂>小川四国八十八ヶ所>河野通清供養塔>古戦場跡>粟乃井>徳衛門道標>蓮福寺の道標>常楽院>里程標>徳衛門道標>龍宮神社>三穂神社>高浜虚子の句碑>赤地蔵>弥エ門地蔵堂>夜烏地蔵>自然石の道標>鹿島

Ⅱ;クランク状の道>三穂神社>お地蔵様>道標>杖大師>倉敷紡績北条工場跡>立岩川>下難波地区に>「鴻之坂(こうのさか)越え」>道標と地蔵堂>茂兵衛道標>鴻之坂線>鎌大師>エヒメアヤメ自生南限地>一茶の道>イヨスミレ 市指定史跡>峠に茂兵衛道標>分岐点に茂兵衛運道標>旧道を下る>阿弥陀堂と里程標>地蔵堂

クランク状の道
鹿島港から鹿島駅前交差点に戻る。鹿島駅前交差点は「辻の交差点」とも称される。北条辻地区は江戸時代から明治・大正にかけて、風早地方の商業・交通の中心地として賑(にぎ)わっていた、と言う。
北条のメーンストリートといった商店街を進むと、伊予銀行がある角を直角に曲がり、道はすぐさま直角に曲がる。クランク状の道であるが、城下町でもないのにクランクにした理由って何だろう。
チェックすると、元は辻町筋の道はここで明星川に突き当たり、左岸を西に進み、クランク地点で橋を渡った。車の往来が増えたためかどうか、その理由は定かでないが、このクランク状の道は明星川に架け渡した台によって成されたもの(「えひめの記憶」)であった。

花へんろの里の石碑
クランクの道角の花壇の後ろに3基の石碑が建つ。ひとつが「花へんろの里」、裏には「左へんろみち 金毘羅へ三十二里」と刻まれる。この石碑は、元は「金比羅道標」。場所もかつての辻町通りが明星川に突き当たる地点にあった。その後、商店街の道路工事の際に掘り返され放置されていたのだが、NHKドラマの「花へんろ」が契機となり、その「価値」が見直され、現在の地に建て直すことにした。
が、その際問題になるのは金比羅道標の方向が逆を示すことになる。川筋に沿って「左」を示した方向が、クランク地点に置くと「右」を指すことになる。ということで元の裏面に「花へんろの里」と刻み、その面を表面とし、金比羅道標は裏側に向けた(「えひめの記憶」)。歴史ある金比羅道標がテレビドラマの造語である「花へんろ」に「道を譲った」ということか。
現在その道標の刻字を見るのは難しい。水門の左右から写真のズームアップで確認するしか術はない。

里程標
「花へんろの里」の石碑の左手に「松山札辻より四里」の里程石が建つ。この里停標も金比羅道標と同じく、辻町筋が明星川に突き当たる角地にあったものが、金比羅道標と同じプロセスでこの場所に移された。

徳右衛門道標
小型で下部が折損しているこの徳右衛門道標も、元は明星川を渡った本町筋を少し進んだ三穂神社の道の反対側にあったようだが、交通の邪魔になる、ということで、この地に移された、とのこと。
なお、赤地蔵の手前、民家の敷地内にあり見ることのできなかった道標は。この地より少し浜側の道脇にあったが、道路工事の際に折損され、放置されていたものを移したようである(「えひめの記憶」)。


三穂神社
明星川を渡ると北条地区に入る。バス停に「北条本町」とあるように、通常本町と呼ばれていたようだ。道の右側に三穂神社。境内と言えるほどの境内ではないが、そこには常夜灯が建っていた。

案内「三穂社御由緒;祭神 事代主神 菅原道真公 事代主神は大国主神の御子にして出雲で父神を輔けて国政を与って種々の産業をお起し、特に農漁業、商業を始め教えられ出雲地方発展のために尽くされた神で鹿島神社の御祭神の武甕槌神(タケミカズチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ)が天照皇大神の命で国土を天孫瓊々杵尊(ミミギノミコト)にお伝え申すように言った時、父神に勧めてその命を奉じせしめたのであります。
菅原道真公は博識多才、詩藻豊富にして宇多、醍醐の両朝に仕え右大臣に進んだが、藤原時平に謗されて九州太宰府に流されたのでありますが、後世その徳を慕いて天満天神として京都北野に祭られた神で勧学神として崇敬されて居ります。
以上に神を祭られてある三穂社は、往古百姓町にあったのを寛政年間、今の地に御移し、明治九年に村社に列せられ、産土神となったのであります」とあった。
由緒はともあれ、先ほど訪れた柳原の三穂神社も太宰府天満宮の分社があった。三穂神社と菅原道真が何か関係しているのだろうか?由緒だけではなんのことかさっぱりわからない。

チェックすると、岡山県と鳥取県の県境に三穂神社があり、祭神は事代主と道真14代菅原満佐とのこと。満佐は別名三穂太郎と称し、三穂太郎は美作を領有した鎌倉後期の当主とのことであった。出雲の美保神社の祭神は事代主。想像を逞しくすれば、元は美保神社であったものが、三穂氏の名に引っ張られ「三穂」に代わったとも考えられる。
で、この地との関係だが、上で、近世初期、伊予は松山藩と大洲藩による二分領有メモした。この大洲藩の加藤家は米子からの転封である。風早郡も松山藩と大洲藩に二分され、この辺りの辻村は大洲藩領である。大洲藩の転封とともに、三穂神社も「持参」したのだろうか。全くの妄想であり、なんの根拠もないが、自分なりに結構納得。

お地蔵様
三穂神社の交差点を左折する。クランク状の地に建つ徳右衛門道標は、この角にあったものが移されたようだ。道を進むとお地蔵様が見えてくる。享保15年(1730)と刻まれる。







道標
お地蔵様の手前に右折する道があり、その角の電柱脇に短い道標が建つ。その道筋を進むと「杖大師」がある。また、杖大師への道は三穂神社から県道179号を少し進み、道の左手から斜めに入る道筋に道標があり、そこを進んでもいたようだ。






杖大師
賑やかに朱の幟が建ち並ぶお堂が杖大師。案内には、「青面山 養護院(杖大師) 杖大師の称号について 文政八年(一八二五)八月二十五日風早郡北条の亀次郎なる者の門前に遍路修行僧が立ち、托鉢を乞う、妻は喜んで寸志を喜捨する、僧は喜び、この縁で、この家に宿泊すること七度に及んだといわれています。
翌、文政九年正月早々に、亀次郎の枕元に遍路僧が立ち、ありがたい佛の教え(訓)と共に、杖、念珠、わらぞうり等五つを賜る夢をみました。この話を聞いた京都東山の智積院明星法印は、四国巡拝の際、亀次郎宅を訪ね、この話をつぶさに聞き、この夢に現れた僧こそ、遍路大師(弘法大師)であることを確信し、紺地金襴の袋に杖を納め、箱に入れ「仏の慈愛」の杖として、養護院に奉納しました。「この杖を拝み、願い事をすれば、お杖は悲しみの心を発揮し願いをかなえて下さる」との願いから「お杖大師」の称号がうまれました。合唱」とあった。
真言宗醍醐派の寺、と言う。戦国時代の永禄年間(1558~1570)、廻玄法印により中西村(現在の中西外地区)に修験道場として開かれた、と言う。その後二度ほど場所を移し、現在の地に移転したのは大正9年(1920)のことである。四国八十八箇所番外札所、花へんろ第四番札所、風早四国第四十九番札所、となっている。
花へんろ札所
早坂暁氏の「花へんろ」がきっかけでつくられた、花と大師を組み合わせた札所。一番から四番まであり、一番札所・鎌大師、二番札所・粟井坂大師堂、三番札所・高縄寺、四番札所・杖大師。

倉敷紡績北条工場跡
杖大師を出た遍路道は長い塀に沿って進む。地図には倉敷紡績北条工場とあるが、操業している雰囲気はない。チェックすると平成25年(2013)に閉鎖された、とのこと。昭和13年(1938)に操業を開始し、最盛期は2000名からの人が働いていた工場跡地を衛星写真で見ると、敷地内になんだか奇妙な点が大量に並んでいる。どうも太陽光発電の施設のようである。

立岩川
塀に沿って進み、少し迂回し立岩川に架かる立岩橋を渡り下難波地区に入る。 北条は最終的には松山藩領となるも、初期は松山藩と大洲藩の二分領有であったとメモしたが、境はこの立岩川。北条村は松山藩、辻村は大洲藩で、その境界となったのは立岩川とされるが、当時の立岩川は難波橋から南流し、現在の明星川を河口としたとされており、現在の地形を元にすれば、辻村と北条村の境は明星川と比定される、とする(「えひめの記憶)。明星川とは道がクランクになり、「花へんろの里」の石碑が建っていた場所である。

道路と踏切を横切る
県道179号は下難波交差点で北条市街を迂回したバイパス・国道196号に合わさる。遍路道は国道の一筋浜側を進み、ほどなくバイパスとJRの線路 が最接近した箇所で、道路と踏切を横切り山道へと向かう。「鴻之坂(こうのさか)越え」の開始である。

「鴻之坂(こうのさか)越え」
「鴻之坂(こうのさか)越え」は下難波地区の石風呂から、腰折山の西の鞍部を抜け、今治市と境を接する松山市(旧北条市)浅海本谷地区に下る道である。この道は昭和15年(1940)に北条市下難波(しもなんば)石風呂から浅海まで、海岸沿いの道が開けるまでは人馬ともに往来していた「幹線道」であったわけだ。

道標と地蔵堂
踏切を越えるとすぐに石風呂集会所の建物がある。その向かいに小祠と道標がある。小祠は地蔵堂。道標は自然石で造られていた。







茂兵衛道標
北東に50mほど進むと小川があり、そこで道は二つに分かれる。分岐点に茂兵衛道標。「左 新道」と刻まれる。「左 新道」とは明治44年(1911)に開かれた県道。山の中腹の少し高い所を曲がりくねっている道進み、峠付近で「鴻之坂(こうのさか)越え」の旧道と合流する。

鴻之坂線
道を右に折れ小川に沿って進む。途中、2車線のえらく立派な道が峠に向かって登っている。この道は鴻之坂線と呼ばれている。地図で見ると峠で道は終わる。台風などの暴風雨での海岸線を走る国道196号の迂回路として将来は浅海と繋がるのではあろう。

鎌大師
鴻之坂線を越えて左折すると大師堂が見える。大師堂にお参り。案内には「鎌大師境内 弘法大師が行脚の途次、この地に悪疫が流行しているのを哀れんで、村人に鎌で刻んだ大師像をあたえたところ、無事平癒したので、その大師像を本尊として、この地に堂を建て、「鎌大師」と呼んで深く信仰されて来たと言い伝えられる。
昭和48年、境内にある芭蕉塚、十八人塚、大師松とあわせて文化財に指定されたが、大師松は平成6年、松喰虫の被害により枯死した。 芭蕉塚は表に「芭蕉翁」、裏に「寛政五葵丑歳中秋十九日藤花塚築之 松山の白兎、二要、扇??、風早の兎文、壺茗、圃方、杜由、可興、梅長、恕由」と刻まれている。
十八人塚は、南北朝の戦乱に敗れた赤橋重時主従をいたんで、鎌倉末期に立てられた墓所と言い伝えられている。(松山市教育委員会)」とあった。

十八人塚
案内に従い、境内を巡る。まずは大師堂の右手にある十八人塚。石室の奥に祀られていた。赤橋重時は北条高時の一族。南北朝動乱期に北朝側として恵良城を本拠に宮軍の土居勢と戦うも敗れ、当地に逃れ立烏帽子城にて宮軍勢と対抗。戦いに利あらず、最後は打ち首とも自決とも伝えられる。
烏帽子城
西条市の面木山(おものきやま)の山頂あった城。「おものき」とはこの地で「ブナ」のことを指す。

芭蕉塚
「芭蕉塚(藤花塚)鎌大師境内にある芭蕉塚で、表に「芭蕉翁」とだけ刻印。句は詠まれていない。藤花塚とも呼ばれている。寛政五年建立」と案内にあった。

吉井勇の歌碑
「腰折の小燕子花(こかきつばた)はいちらしや いとしき人のなさけにも似て」
「吉井勇;腰折山は伊予節にも歌われる「コカキツバタ」が春先に薄紫の花を咲かせることでも有名。正式名称は「エヒメアヤメ」。国の天然記念物に指定されている。俳句の里 (松山市教育委員会)」と案内にあった。吉井勇は大正・昭和にかけての歌人。


大師松
かつては境内に「大師松」と呼ばれる樹高25m、根回り6m、目通り5mの大きな黒松があった。県指定の天然記念物、日本の名松百選の一つにもなり、お遍路や旅人の目印でもあった松は平成6年、松くい虫のため枯れてしまった(「えひめの記憶」)。

道標
「御自作弘法大師」「延命寺江五里二十丁」などと刻む自然石の道標。もとは50mほど西の旧道鴻之坂沿いにあったという(「えひめの記憶」)。

境内を離れ「鴻之坂(こうのさか)越え」の道に
鎌大師の境内を離れ、「鴻之坂(こうのさか)越え」の道に出ると、道脇に「エヒメアヤメ自生南限地」の石碑や「一茶の道」の道案内。

エヒメアヤメ自生南限地
石碑横の案内には「エヒメアヤメ自生南限地 所在地 北条市下難波腰折山 指定 大正14年10月8日(国指定天然記念物)
こかきつばたの名でこのように歌われた腰折山のかれんな花は「こかきつばた」とは別種の牧野博士が命名したエヒメアヤメである。
エヒメアヤメは、アヤメ科の植物であって、根茎はやや偏平で細くやせ形、葉は線形で薄く、葉長は10cm~15cmが普通である。
陽春4月上旬を開花期とし、数cmの高さの花軸に普通1花を、時に2~3花を咲かせる。花色はうすい紫色で外花蓋には黄白色のはん点を持っている。
元来大陸北部に分布する植物で、我国では中国、九州、四国の瀬戸内海に沿う各地に生育し、古書に「たれゆえそう」と名づけられたと記録されている。
腰折山はその南限地として世に知られ、古くからこの花こまつわる哀れを民話とともに、「こかきつばた」の名で親しまれてきたのである」とあった

一茶の道
「エヒメアヤメ自生南限地」の案内のすぐ右に「一茶の道」の案内。 「俳人小林一茶がこの風早の地を訪れたのは、寛政7年(1795)旧1月13日のことでした。「寛政七年紀行」により、その様子を知ることが出来ます。寛政7年、観音寺の専念寺(五梅法師)で新年を迎え正月8日に寺を出て松山へと向ったのです。
「松山の十六日桜を見るために」と記されていますが、本来の目的は師茶来(俳号。月下庵茶来又は竹宛とも称した。文淇禅師という高僧)や、当時既に全国的に知られていた竹阿の遺弟である松山の俳人栗田樗堂に会うことであったと言われます。
その茶来が住職をつとめていたのが風早上難波村の西明寺(現最明寺)です。 そのときのことを、次のように記しています。
十三日 槌□(樋口)村などいへる所を過て七里となん、風早難波村、茶来を尋ね訪ひ侍りけるに、巳に十五年迹に死き(と)や。
後住西明寺に宿り乞に不許。
前路三百里、只かれをちからに来つるなれば、たよるべきよすがもなく、野もせ庭もせをたどりて朧くふめば水也まよひ道、百歩ほどにして五井を尋当て、やすやすと宿りて
 月朧よき門探り当たるぞ
十四日 十丁程、八反地村、兎文に泊る
 門前や何万石の遠がすミ
哥仙満巻して
十五日、松山、二畳庵に到る 一茶の来遊170周年を記念して、昭和39年1月、ゆかりの地に句碑を建立し、また鴻の坂から門田邸にいたる一茶がたどったであろう道を、「一茶の道」として、道標などの設置をしました。  風早一茶の会」とあった、」

イヨスミレ 市指定史跡
またイヨスミレの案内も。「イヨスミレ 市指定史跡 所在地北条市下難波腰折山 指定 昭和57年8月11日松山市の梅村甚太郎氏が明治31年4月17日発見、牧野富太郎氏がイヨスミレと命名し発表したものである。
ところが、山の樹木繁茂とともにその姿を消し、幻の花と言われてきた。 しかし、昭和56年山火事にあい、焼け跡から翌年再びこのイヨスミレを湯山勇氏夫婦が再発見されたのである。
イヨスミレは中国東北地区から朝鮮半島にわたる北方大陸産のフィリゲンジスミレに最も近遠の植物である。
前川先生の言をかりれば、日本のゲンジスミレは二つの系統がある。一つは長野県に産する満洲など大陸系のものと、もう一つは朝鮮半島系のものがあり、イヨスミレは朝鮮半島系と言われる。
満洲、朝鮮を南下して氷河時代に日本に分布していたゲンジスミレのうち腰折山に生き残ったイヨスミレ、同じくエヒメアヤメと人家近いこの山に二つも残留植物の存在していることは興味深いことである」とあった。

峠に茂兵衛道標
鎌大師を出て小集落を抜け、北へ腰折山を仰ぎながら坂道を登る。これが鴻之坂越えの旧道である。一帯は案内にあったエヒメアヤメの自生南限地帯であろうが、時期外れ。道を急ぐ。
700mほど登った鴻之坂の峠近くに、先ほど分かれた「新道(明治44年;1911)に開かれた)」との合流点がある。社会福祉施設北条育成園の手前である。道角の畑の中に茂兵衛道標が建つ。







分岐点に茂兵衛運道標
峠を越えるとカーブの続く下り坂となり、600mほどで道は分かれる。その分岐点には茂兵衛道標。刻まれた文字は「圓明寺」が「延明寺」になっているようである。
道標脇には素朴な手書きにの案内。「遍路案内の石碑(原)これは遍路道案内の石碑です。この鴻之坂の分岐点の目印としてあります。ここを下ると味栗の阿弥陀堂があり、お遍路さんに疲れをとってもらおうと、昔はお接待の場所に使われていました。
さらに原のおじっさんの場所は、原の番所跡があり、行き来する人が手形を示す関所だったそうです。そして小竹の方に行くと風早番外札所のひとつである小竹のお地蔵様のお堂があります。そこにも同じ石碑があります。これはお遍路さんを200回以上した九州の佐賀県の方が自費で建立しました。前後の札所の案内や方向を示しています。ひっそり建っている石碑にも人の思いがこめられています。
小竹からは菊間に抜ける窓坂峠があり、その入り口には郡境碑もあります」とあった。

旧道を下る
分岐点から弧を描いて坂を下る「新道」と分かれ、一直線に集落へと向かう旧道の「河野坂」を下る。浅海の里はゆったりして、いい。400mほど下ると池の辺りで「新道」と合流し集落へ入る。







阿弥陀堂と里程標
味栗の集落を北進すると、お地蔵様と一段高いところに阿弥陀堂がある。その直ぐ先には里程標も残る。またここにも少し先に三穂神社が建つ。
案内には「六地蔵 五里 六地蔵様、お化粧地蔵は、お遍路さんや旅人の交通の無事を願っているものです。年に1回8月には、お地蔵様に地域の人がお化粧をしています。お化粧をしているお地蔵様は珍しいそうです。
五里塚は四国八十八か所めぐりをするお遍路さんの目印として作られたそうです。現在のものは最近作りかえられたものです。出発地点は松山市西掘端です。浅海には、もうひとつ郡境碑が小竹の山の方にあります」とあった。



地蔵堂
集落の中の道を800mほど進みJR踏切を越え、国道を斜めに横切って浅海原の町中へ入る。国道と旧街道に挟まれた三角地帯にお堂が建つ。地蔵堂であるが、そこは、かつての松山藩の浅海原の原番所跡。原番所は村方番所で簡易な見張り所であった、という。
境内にあった手書きの案内には「「おじのっさん」と番所跡 このお堂は以前は別の場所にありました。昔から「おじのっさん」と呼ばれて地域の人たちに親しまれていました。
しかし、道をつくるため現在の場所に移すと、地域でよくないことが次々と起こりました。これを地域の人はおじのっさんのいかりだと言うようになり、お坊さんに拝んでもらったり、これまで以上にお世話をするようにしました。その結果、災いは起こらなくなったそうです。今は原地区をあげて信仰の気運と地蔵堂を守ろうという心に支えられて平和な日々が続いています。
また、近くには大きな松の木がありました。5~7人が手をつないだぐらいの立派なものでしたが、かれてしまったため、今はその2代目が植えられています。 また、ここには昔、関所があり、旅人などのきびしいとりしまりをしていたそうです」とあった。
徳右衛門道標
境内には菊間町遍照院への案内をした徳右衛門道標が建っていた。
常夜灯
また、境内には文化4年(1807)銘の常夜灯もあった。

JR予讃線・浅海駅
当初の予定では、鴻之坂を越え旧風早郡と旧野間郡の境である窓峠まで歩こうと思っていたのだが、夕刻近くになってしまった。窓峠から菊間への散歩は次回のお楽しみとし、本日の散歩はこれで終了。
JR予讃線・浅海駅に向かい、車をデポした最寄り駅のJR予讃線・光洋台駅まで戻り、車で一路実家へと。

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