日曜日, 9月 06, 2015

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅠ;来島村上氏の城砦群を辿る

昨年、来島村上氏の居城である来島を訪ねた。島に渡り来島城本丸跡などを辿りながら気になったことがあった。如何に渦巻く潮流に護られた自然の要害にしても、果たして、このような周囲1キロといった小島で一帯に覇を唱えるといった水軍・軍事行動・海賊働きができるのであろうか、ということである。 チェックすると、16世紀頃に至って、来島村上氏は、その発展にともない、本拠の城を来島城から西方の波方浦に移し、そこに館を構え、その館を中心に当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した、と。代表的な城は館の南の遠見山城や対岸の糸山城(現在の糸谷公園辺り)であるが、その他の主だった城砦としては、東岸部(波方港の北部)では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦、北岸部(波方港の北に突き出た半島部)では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、西浦砦(黒磯城とも)、西岸部(波方ターミナルがある西に突き出た半島部)では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがあったとのことである。波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館などを総称して波方城砦群とも称する。
これで少し納得。とはいいながら、瀬戸内で海賊働き(警護料・帆別銭;通行料徴収)をするだけにしては、山城があったりするわけで、そうすると、そもそもが、この城砦群は誰からの攻撃を防御するためのものなのだろう、などと新たな疑問も出てきた。
散歩を終えた後、実家のある愛媛県新居浜市の図書館で見つけた『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』などにより、来島村上氏の概要などは少しは理解できたが、散歩を始めるときは何の情報もなし。とりあえず現地を訪れてみれば、そこにあると思われる説明文などで、あれこれの疑問も少しは解けるかと、常の如く誠にお気楽に来島村上氏の城砦跡巡りの散歩にでかけることにした。
出掛けてはみたものの、往復だけで結構時間がかかる。2回に分けて訪れたが、それでも未だ全てを辿り終えていない。とりあえず、今まで辿ったところをメモし、今後も時間を見つけては城砦跡を辿り、その都度メモを追加していこうと思う。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城

糸山砦跡
糸山城には城砦跡とは知らず何度も訪れている。来島海峡やしまなみ海道の来島海峡第三大橋の景観を県外からのゲストに案内すべく、糸山公園展望台に訪れているのだが、そこが糸山砦の三の曲輪跡とのことであった。
公園の駐車場から遊歩道を登り詰めた鞍部が主郭部と三の曲輪を繋ぐ帯曲輪であり、そこから西に斜面を登ると削られた平坦地があり、糸山城の主郭部とのことである。三つの曲輪が確認されているとのことだが、規模は小さく砦と推測されている。
幾度も訪れているところでもあるので、今回はパス。道は、国道317号を今治方面から進み、しまなみ海道・今治北IC入口を越えて直ぐ、国道から右に分岐した県道161号を進み糸山トンネルを抜けて右に曲がれば駐車場となる。
合戦の記録
『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、天正9年(1581)、主家河野氏に反旗を翻し、長きに渡る毛利との誼を絶ち、毛利征伐を図る織田方に与した当時の当主・村上通総の弟義清が、糸山で主家である河野、毛利・因島村上・能島村上連合軍と戦ったとの記録がある。
このときは、本拠地の来島城をはじめ、北条沖の鹿島城、この糸山砦、そしてこの後訪ねる海山(遠見山)砦を含めた合戦となったようだ。当主・村上通総は天正10年(1582)には来島城から鹿島城(通総の兄得居通降が守る)に移ったとも、秀吉の元に庇護を求めとも。
天正9年(1582)には織田・秀吉と毛利の和議は成立しており、秀吉の先兵としての来島村上と毛利との和議も成立するも、それを良し、としない義清は、糸山から北条の日高城(立石川上流の山城)に移り抵抗したようだが、天正12年(1584)までには抵抗を止め下山し和議は整った、とのことである。

海山(遠見山)砦
海山(遠見山;おみやま)城は波止浜港の西、標高155mの山頂にある。県道38号を波止浜から波方方面に向かう途中、郷山バス停を越えた少し先に、「海山城展望台」の案内があり、道なりに車で山を登ると駐車場に着く。一帯は「海山城公園」となって整備されている。v 駐車場から山頂に登る道を進むと小振りな二層の天守が建つ。展望台をそれっぽく造っているものであり、昔の姿を再現しているわけではないようだ。 模擬天守の展望台ではあるが、その展望は素晴らしい。今までは県外からのゲストに瀬戸の島々としまなみ海道の景観を楽しんでもらうためには、糸山城跡の展望台しか頭になかったのだが、こちらのほうが断然、いい。
東は瀬戸の島々、しまなみ海道、北は大角鼻、西は梶取ノ鼻、北条の鹿島らしき島も遠望できる。
案内に拠れば、「遠見山(現在は海山という)とは、遠見番所(見張所)に由来する地名であるが、ここには大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。
中世初頭には、現在の養老地区の「別台(べだい)」に「館(やかた)」を構えた在地勢力があり、海山を「詰の城」として活用していたが、室町時代に来島村上氏が勢力を増し、その勢力下に吸収された。
守りの拠点であった海山の砦も「来島城」や「波方館」防衛のための水軍城砦群の一つとなったが、来島氏も海山を重視し、ここに遠見番所を置いた。しかし、関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後は、砦も壊され、当時の遺構の面影は失われ、犬走りの一部がわずかに散見されるのみである。
この城塞型の展望台は、構造、規模は異なるが、当時の面影を偲んで建設したものである。 波方町  波方町教育委員会」とあった。

この案内にある「宮崎の火山」は梶取ノ鼻の先端部を指す、また近見山はこの地より南東にある標高244mの山。金山は何処を指すのか不明。「関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後」とあるのは、毛利との友好関係を絶ち織田・豊臣方に与した当主・来島通総の子である来島長親(後に康親)は、豊臣の天下になり1万4千石を有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に参陣。西軍敗北となるも、長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。
2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた、ということである。どうでもいいことではあるが、佐伯泰英さんの痛快時代小説『酔いどれ小藤次』の主人公は、この久留島藩の下級武士との設定である。

合戦の記録
この城砦を巡っては天正9年(1581)、能島・因島の水軍が波方浦へ攻めよせたとき、この城砦も含めた大規模な戦いが行われたようである。この戦は糸山砦でメモしたように、主家河野氏に反旗を翻し、長年誼を通じた毛利ともその誼を絶ち織田・秀吉方に与したことによる。ここで、長年誼を通じた毛利と来島村上の関係を時系列で整理してみる。

毛利と来島村上
毛利と来島村上の協力関係の代表的ケースとしては、天正9年から12年にかけて行われた「天正の合戦」の時、毛利氏と争った村上通総の父である通康が、天文24年(1555)、陶晴賢と毛利元就が戦った厳島合戦において毛利に与したことが挙げられる。この合戦においては、来島を含めた村上三家(因島・能島・来島)が水軍として毛利に与し、勝利に結びついたとされる。
とは言うものの、来島村上は厳島の合戦後も完全に毛利と誼を通じたというわけでもなく、阿波の三好氏、豊後の大友氏などとも友好関係を保ち一定の距離を置いていたようだが、永禄4年(1561)頃には毛利と密接な関係を結んだと言う。
それもあってか、永禄10年(1567)、土佐の一条氏の支援を受けた喜多郡(愛媛の南予)の宇都宮氏が守護の河野氏に対し戦端を開いたとき、伊予守護職である河野方の中心勢力として出兵した来島村上を支援するため、毛利の小早川勢が出兵している。毛利の出兵は「来島の恩かえし」と呼ばれるが、厳島合戦の支援の恩をここで返す、ということであろう。毛利の援軍を得た河野勢はこの鳥坂合戦で大勝することになる。
その後、毛利と織田の戦いにおいて毛利水軍の大勝利となった天正5年(1576)第一次木津川口の水戦では毛利水軍に与し勝利に貢献している。が、天正7年(1578)の第二次木津川口の水戦では毛利に与するも完敗。この敗戦で織田方の力を知ったのか、主家河野氏との不和なのか、その理由はわからないが、天正9年(1581)には織田・秀吉の誘いに応じ、毛利に与する主家・河野氏に反旗を翻しその結果が、糸山砦、海山砦でメモした、河野氏・毛利氏・能島村上・因島村上との合戦となったわけである。

来島村上氏って海賊衆?
来島村上氏と毛利氏の関係を整理しながら、来島村上氏って海賊衆?といった誠に素朴な疑問が出てきた。土佐の一条氏の支援を受けた喜多郡(内子辺り)の宇都宮氏と戦った「鳥坂合戦」は山中での合戦であり、海戦とはほど遠い。これって、どういうことだろうとチェックすると、単に海賊衆とは呼べない来島村上氏の姿が見えてきた。
先回の来島散歩のメモでは、来島村上氏の祖を、波止浜の船着き場にあったパンフレットを元に、南北朝の頃村上師清がその子を因島、能島、来島に配し村上三家を成したとしたが、そもそも村上師清という人物自体がはっきりしない。南朝方として活躍した村上義弘の子とされるが、血の繋がりはなく、為に南朝の重臣であり、海事政策を掌握していた北畠親房の子が村上家に入ったとの説もある。
『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上氏の祖として辿れるのは戦国時代の村上通康(1519-1567)までとする。東予での反河野勢力の鎮圧などの功もあり、河野通直の重臣としての地位を築いている。通康の正室は河野惣領家の当主・河野通直の女。通康の名も当主の名の「通」を使っているのも、その信頼の証しではあろう。
その信頼の証し故か、河野通直は後継者としてこの村上通康を指名する。これに不満を持つ河野氏の譜代・老臣は予州家(惣領家とは別の河野氏の流れ)河野通政を担ぎ、湯築城(松山市の道後温泉辺り)の通直を攻め、河野通直は村上通康の来島城の逃れることになる。
予州勢も来島城を落とせず和議が成立。和議の結果、通直は隠居となるも、予州家・通政の急逝により事態は急変。幼少の通宣(通政の弟)の後見人として河野通直が復活。再び河野通直・村上通康が政治の表舞台に登場することになる。
その後、通宣の成長に伴い、河野通宣と河野通直の反目。その理由は不明だが村上痛康は河野通宣に味方し、村上通康は権力の中枢に登り詰める。その村上通康は厳島合戦に毛利に与し勝利。また、伊予国内での反河野の軍をあげた南予の宇都宮氏を毛利氏の援助もあり鎮圧。毛利との繋がりも強く伊予での第一党の勢力となる。
来島村上の祖とされる村上通康は宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、これも前述の通り、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。糸山砦、海山砦での河野・毛利・能島・因島村上との攻防はこれも前述の通りである。

少し長くなったが、このような来島村上氏の行動を見るに、いわゆる海賊働きといった要素は多くない。『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』によれば、河野氏の重臣として活躍した来島村上氏の役割は
① 室町幕府との交渉窓口 ②領内統治 ③海賊の生業
この3つに分けられるが、通行料や警護料の資料が少ないことから、海賊大将と称された能島村上の村上武吉など他の村上氏ほど海賊の生業は活発ではない、とのこと。河野氏の重臣としての立場が強くなるにつれ、海賊的性格が薄れてきた、と説く。最初想像していた「海賊衆」とは違った姿が現れた、とはこういうことである。
なお、来島氏を称したのは村上通総の頃から、とのこと。秀吉が。「来島、来島」」と称したのが来島姓となった所以とか。
村上通康
上で、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、南北朝の頃村上師清が長男義顕(雅久)を因島、次男顕忠(吉房)を能島、三男顕長(吉豊)を来島に配し村上三家を成したとの説はその資料に乏しく、資料として辿れるのは村上通康(1519-1567)であり、通康を来島村上の祖とメモした。 ではその村上通康以前には来島村上に繋がる資料は全くないか、と言えばそうでもなく、乏しいながらも来島村上との関係を推測し得る資料は残ると同書は説く。
応永11年(1404)、前伯耆守通定と称する人物が東寺から塩の荘園と称された弓削島の庶務請負を依頼される記録が残るが、この前伯耆守通定は東寺からすれば「関方」、つまりは「海賊」との位置づけであるが、伊予守護である河野通之の求めに応じ上京するなど、河野氏と親しい関係であることを示す。また、「関方」とも関連するが、幕府から唐船(遣明船)警護を命じられるなど、海上軍事力を有する人物であるとも説く。
応永27年(1420)には、当時の伊予守である河野通元が村上右衛門尉に同じ弓削島荘の庶務職を命じている。康正2年(1456)には村上治部進が東寺に書状を出しているが、そこでは伊予の河野家の内紛を詳しく報告している、と説く。

これらの資料に登場する人物は、通康以前の来島村上氏に関わりを持つ人物と同書は比定し、来島村上氏は15世紀初頭から、東寺の弓削島庄の所務請負、幕府より唐船警護を命じられるなど海上勢力として活発に活動。また河野氏との関係も密接であり、このことが河野家の重臣として登場する通康の下地であろう、と推測している。
何故に村上氏が瀬戸内に?
では何故に村上と称する勢力が、この地域に登場するのか、ということだが、 村上氏は清和源氏頼信の後裔とされる。村上姓を名乗ったのは源頼信の後裔が信濃国の更級郡村上郷に住み村上信濃守を称したことによる。時期は頼清の子仲宗のとき、あるいは仲宗の子盛清の代とも言われるがはっきりしない。文書の記録には白川上皇に仕えていた盛清が、上皇を呪咀したとして信濃に配流となったとされるから、遅くとも盛清の代には「村上姓」を名乗ったのではあろう。
信濃に下った「村上氏」は、盛清の子(為国)や孫の代、保元の乱や源平合戦時の源氏方として活躍し、村上氏繁栄の礎を築いたとされる。
で、この村上氏と伊予の村上氏との関連であるが、村上氏繁栄の礎を築いた為国の弟である定国は保元の乱(1156)後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。「平治の乱(1160)」の後には、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。
「父祖の地越智大島に」の意味するところは、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子源頼義が前九年の役の後に、伊予守として赴任し、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされ、この頃仲宗は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたと伝えられることに拠る。村上氏は村上仲宗の代に既に瀬戸内に勢力を築いていた、ということであり、その旧領に定国が「戻った」ということであろう。
つまりは、12世紀にはこの辺りには「村上」を姓とする勢力が移り住んでおり、資料は見あたらないにしても、その後裔が15世紀には伊予の豪族。河野氏と深い関係をもつ勢力となっていたのであろう。単なる妄想。根拠なし。

合戦の記録からあれこれ疑問が広がり、メモが結構長くなってしまった。が、来島村上氏について結構自分なりに納得できた。次の目的地に向かうことにする。

波方古館
遠見山を下り、次の目的地である波方古館に。この館は16世紀、来島村上氏が本拠を来島城から波方浦に移した地。ここに館を構え、その周囲に複数の城砦を配置した。『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上の領地は来島周辺、菊間、弓削島、周防大島の一部であった、とのこと。

来島村上氏の氏神と称される古社の玉生八幡や来島村上氏の尊崇を受けたとされる長泉寺を見遣りながら、波方古館のあったという「白岩明神社」に向かう。 誠に狭い集落の道をなんとか抜け、港から少し奥まった社らしき石垣の手前に車を置き白岩明神社に。
特に来島村上氏に冠する案内などもない。社はあるものの、神社の由来もない。地区名の白岩が、その名の由来であろうと思うのみ。
境内から波方浦を眺めるに、北を海、社の両側を山に囲まれた景観。防御に適した立地と思える。

玉生(たまう)城
波方古館の両側を囲む丘陵突起部の、波方浦に向かって右手の丘陵部には「玉生城」があった、とのこと。資料は残らないが、館を守る砦といった規模ではあろう。丘陵部へと続く道も地図になく、白岩明神社から城跡らしき丘陵部を眺めるのみに留める。


対馬山砦
波方浦に向かって左手の丘陵突起部には「対馬山砦」があった、とのこと。こちらも資料は残っていないようだ。生玉城とこの対馬山砦のふたつが館防御の最後の拠点であろうか。
地図に丘陵に続く道がある。道を辿り丘陵部へと進むが、特に何といった遺構が残るわけでもなく、適当な箇所で引き返す。

瀬野帯刀神社
対馬山砦を地図でチェックしているとき、砦下に「瀬野帯刀神社」が目に付いた。個人名そのままの神社に興味を引かれ、ちょっと立ち寄ることに。
白岩明神社に向かう細路に難儀したこともあり、この社には車を港近くにデポし歩いて向かう。対馬山砦を背にした社にお参り。社の傍に石碑があり、瀬野家略歴が刻まれていた。石碑を詠むと、「瀨野家略歴 天安年間、紀元1517年、瀨野の祖は京都より当地方に下り、その子孫栄えて豪族となり瀬戸内に威を振ふ。後伊予水軍の雄として保元の乱後崇徳上皇に忠誠を盡し源平の戦には源家の召に応じ壇ノ浦に参戦す。また元寇の役には河野氏に従い、博多湾にて武勲を表す。
中興の祖丹波守帯刀公南北朝時代南朝に奉じ脇屋義助大館氏明らとともに足利方と戦う。
弘和年間来島城主村上氏の重臣となり遠く高麗明国まで倭寇として飛躍す。 元亀天正年間土佐長曽我部と戦い又豊臣氏の朝鮮征伐に参戦す。後松山城主加藤氏蒲生氏に仕う。
子孫開運に従事海商として活躍し日本海運の隆盛に貢献するところ大なり。末孫合力しして社を改建するに当たり当家の略歴を撰してここに記す。 昭和51年吉日」とあった。

天安年間とは9世紀中頃のこと。碑文に「紀元1517」、とあるのは戦前日本で使われていた神武天皇即位を元年とする表記ではあろう。で、この天安年間であるが、それは瀬戸内を揺るがした藤原純友の乱よりも1世紀ほど古く、河野氏の祖である河野通清が歴史の姿を現すのが12世紀末であるから、それよりもはるかに古く、信濃に生まれた村上氏が源平の合戦で源氏に味方し、それもあってか村上定国が越智大島に勢を張り、瀬戸内村上氏の祖となったのは「平治の乱(1160)」の後とされるので、それよりも古くから当地に京から下っていることになる。
その後の略歴をみると、なんとなく河野氏の傘下で活躍したようである。そして、来島村上氏の傘下となったのは弘和年間とする。弘和年間とは南北朝時代の14世紀初頭であり、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』が来島村上氏の祖とする村上通康が登場するのは16世紀の中頃(村上通康;1519-1567)であり、時代が合わないが、それはそれとして来島村上氏の傘下で活躍するが、来島村上が九州に移った後もこの地に残り、松山藩に仕えているようである。

歴史上に登場しない人物ではあるが、このような人物の履歴を読むことにより、歴史にリアリティを感じる。何気なく立ち寄った社で、何気なく読んだ石碑の刻字から、あれこれと想いが拡がる。


大角鼻

波方海賊城砦群(大角の砦)
波方の港を離れ県道166号を高縄半島の突端部に向かう。ほどなく県道は高縄半島を横断すべく左に折れるが、その分岐点で海岸線の道へと右に折れ、先に進むと海岸へと迫り出した丘陵部の切り通しが現れる。「大角の砦」は、この切り通し部の海に面する箇所にあったよう。
切り通し近くに車を停める。切り通し箇所から海に沿って丘陵下を通る道がある。道の途中に「波方海賊城砦群(大角の砦)」の案内があり、「室町時代、波方には来島村上家の居館(住居)の「波方館」があった。来島水軍の里波方は波方館防御ため、付近のいたるところに小規模な海賊城や見張台が構築されて防御態勢が整えられていた。この波方海賊城砦群のように、領主の館(城)を中心に同規模程度の土豪(勢力のある一族)の小砦(小さい城)の集合体で緊密に統一され、いつでも活動できるように構成されている城郭の形態を「群郭複合式」と呼んでいるが、この砦もそのひとつである。この大角の砦は海に面しており、海岸の岩礁の上に無数のさん橋跡の柱穴(ピット)がみられる。」とあった。

道を進むと「六十六番 千手観音」の標識と小祠。(高縄)半島四国遍路八十八箇所のひとつ、とか。昭和32年1957年に波方の長泉寺が提唱してはじまったもので、高縄半島を周遊できるように設置された石仏を巡るものである。
道を進むと、丘陵突端部は少し藪にはなっているが、切り通しとなっており、一周することができた。ついでのことでもあるので、案内にあった「さん橋跡の柱穴(ピット)」を見るため岩礁部に。いままで来島や小島で満潮のために見ることにできなかったピットにはじめて出合えた。


大角鼻
大角の砦跡を離れ、高縄半島の北端にある大角鼻に向かう。斎灘へと北に着き出す岬の丘陵裾は大角海浜公園キャンプ場として整備されている。車を公園キャンプ場の駐車場に停め、道なりに岬の丘陵部へと進む。
千間礒
坂を上り切ったあたりに「千間礒」の案内。「千間磯 伝説では、約10軒の家があったが、夜のうちの嵐にあい流されてしまった。それで千間磯と言われているとも、磯の長さが千間あるので千間磯だともいわれている。海の難所であるが、なかなか景色のよい磯であり、また、魚釣りの名所である」と説明がある。
とは言うものの、千間礒って何処?あれこれチェックすると、どうも大角鼻の北西の沖合にある沖磯を指すようである。磯には灯台があるが、満潮時には灯台のみを残し、磯は水没するとのこと。散歩当日は千間礒が何処を指すのかわからなかったのだが、何気なく撮った大角鼻の沖合に、幸運にも灯台らしきものが映っていた。

大角鼻番所跡
岬の突端にある展望書の四阿(あずまや)から階段を下りきった、岩礁部手前に「大角鼻番所跡」の案内。「大角鼻番所跡 大角鼻の平坦部に伊予水軍の番所跡の曲輪が残っているが、付近は風波により侵食されつつある。また人前方岩礁上には、桟橋跡の柱穴(ピット)が残っている」とあった。大角鼻には近世の松山藩の番所もあったようである。
ところで、「大角」って何だろう?気になってチェックすると、どうも戦闘時に兵士を鼓舞する角ふえ、のことを指すようである。「村上水軍の「軍楽」の研究 第二章 「軍楽」史の考察(せとうちタイムズ)」のページに、以下のような記述があった;
「本朝ノムカシ鼓鉦ヲ用フルノミニアラズ大角小角トイフ吹モノヲモ用フスベテ此ノ事ヲ鼓吹司ニツカサトリ(日本は古代、鼓鉦だけではなく大角小角という吹物も用いた。その全ては鼓吹司が担った)」 「楊氏漢語抄ヲ引キテ大角ヲ波羅乃布江小角ヲ久太能布江トヨミタリ(『楊氏漢語抄』(八世紀頃の辞書)によると、大角を波羅乃布江、小角を久太能布江と読む)」
「我ガ朝ニハ宝螺ヲ用ヒ来タリシヨリ此ノ物ハスタリシニヤ(日本では、法螺貝を用いたため、これらの角ブエは廃れてしまったようだ)」 どういったものは定かにはわからないが、日本では法螺貝が取って替わった「角笛」といったものだろう。
で、その角笛を何に使ったか、ということだが、大宝律令制定の昔、大角(角笛>法螺貝)と烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)により、敵の襲来を知らしるものではあったようである。

メー卜ル立標建造の由来について
岩礁部を歩き、ピットらしき窪みを探す。岩礁先端部に立つ施設は何だろう? と右手を見ると、海岸近くの岩礁横に石柱が立つ。ちょっと気になり元に戻ると案内があり、「メー卜ル立標建造の由来について」とある。説明には「1904(明治37)年に勃発した日露戦争当時、小島にバルチツク艦隊を迎え撃つために12門の砲台が作られたが、砲台と敵艦隊との距離、方位を測定するため当地に建造されたものである。
建造材料は主として石灰を使用しており、先人の話によると時折、小島の見張所から探照灯で照射する姿が見えたそうである。
しかし1916(大正5)年倒壊してしまい、現存しているものは復旧後の物である。
その後小島の砲台は不要となり、日本軍の手で破壊されたが、立標はそのまま現在まで残された。
当時国民は計量の単位として尺貫法を用いていたが、海軍は英国との関係が深かったため立標にメートル単位を刻んでいる事から、『メートル棒』と呼ばれていた」とあった。先日訪れた小島の要塞跡を想い出す。

天満見張台跡(狼煙台跡)
大角鼻を離れ、岬突端部から西岸部を少し南に下ったところにある天満見張台跡に向かう。一度駐車場に戻り丘陵に登り、そして道なりに海岸に下る。防波堤手前に車を停め、防波堤を越えて西に突き出た岬の下の岩礁部を歩くと、岬突端下の岩礁部に案内があり、そこには「大角鼻遺跡群 ここ大角鼻には、縄文時代以降の遺跡が数多く残されている
(イ) 天満見張台跡(狼煙台跡)
岬の先端の丘の上にあったもので、宮崎の?燧(とぶひ)と同時期に設置されたもので、狼煙の大角(ほら貝)を使って合図していたようである (ロ) 水軍住居跡
天満見張台から東側大角鼻に向かう谷間は海からまったく見えないため、伊予水軍(海賊)の良い隠れ場所であった。付近には古井戸・住居跡などの遺跡が点在している
(ハ) 大角鼻の平坦部に伊予水軍の番所跡の曲輪が残っているが、付近は風波により侵食されつつある。また、前方岩礁上には、桟橋跡の柱穴(ピット)が残っている、とある。

天満見張台は岩礁部から見上げる丘陵部尖端にあったのだろう。また宮崎の?燧(とぶひ)とは、後ほど訪れる梶取ノ鼻にある?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)のことだろう。大宝律令(701)の中の軍防令によって各国に軍団が置かれ、外敵の侵入に備えて、敵の侵攻ルートと想定される箇所には?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)が設けられたとのことであるので、古く8世紀初頭にまでその歴史は遡ることになる。
水軍住居跡は、車で防波堤まで下る途中の丘陵に囲まれた一帯のことだろう。「大角鼻の平坦部云々」は先ほど大角鼻にあった番所案内のこと。

高縄半島の突端である大角鼻は、梶取ノ鼻と同じく、大宝律令後に大角(だいかく:法螺貝:ほらがい)と、烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)の場が設けられ、戦国時代には、村上氏来島城を守るための番所が設けられた。隣接する天満鼻見張台、大角ノ砦と相まって、来島海峡の守りを固める拠点として機能していたのではあろう。

西浦砦跡
次の目的地は「西浦砦」跡。天満見張台跡の南の海岸脇にある。車のデポ地から一度丘陵に登り返し、道なりに下り県道166号を海岸線に沿って下った西浦荒神社の辺りがその地とのこと。
神社下の道脇に車を停め社にお参り。手書きの素朴な案内があり、「主祭神は大己貴命、事代主命、素戔嗚尊で、いつごろできたかはっきりしないが、玉生八幡神社末社としておかれていた。来島水軍時代、来島に大根城を置いたが、来島城を守りぬくため、そのまわりに幾多の城砦を築造したが、その砦群の一つではないかと思われる」とあった。

荒神信仰
荒神さま、って竃神(かまど)として台所に祀られるお札としては知ってはいるのだが、この神様は未だ解明できない謎の神様のようである。Wikipediaに拠れば、大雑把に言って、荒神信仰には2系統あり、ひとつは竃神として屋内に祀られる「三宝(寶)荒神」、そしてもう一方は屋外に祀られる「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
また、Wikioediaには「荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である」とあるが、これは地荒神のことであろうか。屋内の竃神としての「三宝荒神」のお札は、あたりまえのように東京の我が家にも祀られているわけだから、大方の家には「三宝荒神」のお札が祀られているのではないだろうか。

第一回の散歩はここで時間切れのため終了。高縄半島から斎灘に向かって西に突き出す梶取鼻は次回に廻す。 

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