土曜日, 1月 16, 2016

伊予 高縄半島 海賊衆の古跡散歩 そのⅢ;来島村上氏の城砦群を辿る

一昨年、来島村上氏の居城のあった来島を訪ねたことがきっかけとなりはじめた高縄半島 海賊衆の古跡散歩も3回目となった。当初、如何に潮流渦巻く自然の要害とは言いながら、周囲1キロほどの小島である来島で一帯に覇を唱えるといった水軍・軍事行動・海賊働きができるとも思わず、チェックすると、なるほど16世紀頃には来島氏はその本拠を波方浦に移し、そこに館を構えるとともに、高縄半島一帯に波方城砦群とも称される山城や砦、狼煙台を築いていた。
その波方城砦群を訪ねるに海賊働きとは縁遠い山城が多くある。気になりチェックすると、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上氏は伊予の豪族である河野氏の重臣といった性格が強く、海賊大将と称された能島村上の村上武吉、因島村上氏ほど海賊の生業は活発ではなかったようである。来島村上氏の役割は① 室町幕府との交渉窓口 ②領内統治 ③海賊の生業とされるが、河野氏の重臣としての立場が強くなるにつれ、海賊的性格が薄れてきたとのことであった。
この散歩のタイトルも「伊予 高縄半島 海賊衆の古跡散歩」としてはじめたが、実態とは少しかけ離れたタイトルとはなったようである。それはともあれ、いままで二度の散歩で取り残した古跡を辿ることにする。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
塔の峰
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城


本日のルート:塔の峰>高縄半島四国遍路八十八箇所・七十一番 千手観音>龍神鼻砦>弁天島砦>片山砦>庄畑砦>潮早砦>養老館>長泉の鼻砦>長泉寺

塔の峰
今回最初の目的地は塔の峰。国道196号のバイパスを走り、四国八十八箇所・54番札所である延命寺近くで、県道38号に乗り換え波方方面へ折れる。途中右手に先日訪れた近見山の城山を見遣り、高縄半島の首根っこを横切る予讃線を越え、波止浜の町で、これも先日訪れた遠見山(海山)城のある山稜と海岸線近くにある独立丘陵の間を通る道を波方に向かう。
波方の町の手前、「波方 ふるさとこみち ③塔の峰」の案内のあるところを左に折れ、突き当たりのT字路を左に折れると「塔の峰公園 ここから1.5km」の案内。案内に従い、道を右手に山道へと入る。どういった道なのか少々不安であるが、所詮は1.5キロ。対向車の来ないことを祈り先に進む。
溜池をふたつ見遣りながら一車線の道を進むと分岐点がある。塔の峰は右に上る。しばらく進むと「塔の峰遊公園」に到着。広い駐車場に車を停めて砦跡な どないものかと先に進むことにする。

◆高良山砦
なお、途中、溜池のある道の左手にある高良山があり、高良山砦があったようであり、道があれば辿ってみようとは思ったのだが、それらしき踏み分け道も見つからず断念した。後で山地図を見るに、波方から尾根道を辿れば上って行けそうではあった。

●高縄半島四国遍路八十八箇所
駐車場脇に小さな祠が四つ並ぶ。「七十二番 大日如来」、「七十四番 薬師如来」、「七十五番 薬師如来」、「七十六番 薬師如来」とある。祠の造りは、先日の散歩で大角鼻を歩いた時に出合った「六十六番 千手観音」と同じである。(高縄)半島四国遍路八十八箇所の祠ではあろう。
(高縄)半島四国遍路八十八箇所は昭和32年1957年に波方の長泉寺が提唱してはじまったもので、高縄半島を周遊できるように設置された石仏を巡るものである。

「七十三番」が抜けている。と、駐車場から山頂へと向かう階段道脇に、「半島四国88ヶ所 73番札所まで約200m」の案内があった。後か「73番」の案内があるのなら、駐車場脇の祠にも「半島四国遍路八十八箇所」の案内があってもいいかと思う。先日「六十六番 千手観音」で出合ったから予測はできたものの、はじめての方にはわからないだろう。
もっとも、四つ並ぶのも不自然ではあるので、道路整備の折にでも、どこからから移されたものだろうか。ともあれ、「七十三番」は後から訪ねてみよう。
●塔の峰の案内
山頂に向かっては舗装道路と階段のコースがふたつある。階段コースを進むと左手に四阿(あずまや)などもあり。公園として整備されている。右手に来島海峡大橋などを見遣りながら進むと、道は舗装路と合流。そのあたりに「塔の峰」の案内があり、「塔の峰 波方の主峰で、山頂の標高は149.7メートル、展望台からの眺望はすばらしく斎灘、燧灘をはじめ、芸予諸島を結ぶしまなみ海道を一望できる。見晴らしの良さから、中世にはこの山頂に来島村上家の遠見番所(見張り所)が設けられていた。
また、山の西斜面に良質の「瓦土」が出るため、幕末から明治にかけて山の形が変わるほど「瓦土」を採取したと言われている。
付近は桜の名所でもあり春になると多くの人が訪れる」とあった。

案内に拠り、この山は来島村上氏の遠見番所(見張り所)であったことを確認。また、先日窓坂峠から菊間へと遍路道を辿ったとき、菊間で瓦製造が発展要因のひとつとして、付近から瓦製造に適した粘土が採れたこと、しかし、それはすぐに採り尽くされ、波方の粘土を活用するようになった、とメモしたが、そのエビデンスが此処の案内にあった。散歩をするとあれこれと繋がってゆくものである。

●展望台
「塔の峰園地」の案内に従い、木の階段を進むと、木組みの展望台がある。瀬戸内、近見山、遠見山などが一望のもと。遠見番所(見張り所)たる所以である。

 ●峯荒神社
展望所からの階段を下りた先に階段があり、その向こうにコンクリートの建物が見える。訪ねると「峯荒神社」とあった。塔の峰に祀られる荒神様ということだろう。祠は厳重にカードされていた。
◆荒神信仰
荒神さま、って竃神(かまど)として台所に祀られるお札としては知ってはいるのだが、この神様は未だ解明できない謎の神様のようである。Wikipediaに拠れば、大雑把に言って、荒神信仰には2系統あり、ひとつは竃神として屋内に祀られる「三宝(寶)荒神」、そしてもう一方は屋外に祀られる「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
また、Wikipediaには「荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である」とあるが、これは地荒神のことであろうか。屋内の竃神としての「三宝荒神」のお札は、あたりまえのように東京の我が家にも祀られているわけだから、大方の家には「三宝荒神」のお札が祀られているのではないだろうか。

●高縄半島国遍路八十八箇所・七十三番札所
荒神社から元に戻り、遊歩道といった道を先に進む。道が少し下りになり荒れた辺りの左上に小さな祠があり「七十三番 釈迦如来」と案内があった。








高縄半島四国遍路八十八箇所・七十一番 千手観音
駐車場に戻り、次の目的である龍神鼻砦に向かう。波止浜から予讃線で高縄半島を西に抜けた辺りまで戻ることになる。駐車場からのルートをチェックすると、塔の峰に上ってきた道がそのまま高縄半島の北端にある天満鼻の手前、先日訪れた西浦砦のある西浦に下っている。
同じ道を戻るのも,なんだかなあ、ということで道の状態がいいことを願い、西浦に向かって下る。少し下ると、道脇に小さな祠がある。車を停めてチェックすると「七十一番 千手観音」とある。高縄半島国遍路八十八箇所のひとつであった。

龍神鼻砦
道を西浦に下り、高縄半島波方地区の西海岸を県道166号に沿って、波方町森上、波方町馬刀潟、波方町岡、波方町小部と下る。来島村上氏の砦巡りを始め、今では通いなれたる県道である。
龍神鼻砦は小部漁港の最南端にある。県道から漁港の堤防に沿った道を進み突き当たりに。そこに龍神社が建つが、龍神鼻砦はその裏手。海に突き出た支尾根の先端部、標高40mほどのところから海に向けて4つの郭があったようである。
神社の裏から這い上がれないか、海岸の岩場から這い上がれないか、とあちこちアプローチを探すが、それらしき道もなく、藪も激しく砦跡まで上ることは諦める。

●高縄半島国遍路八十八箇所・二十四番 虚空蔵菩薩 
少々さびしき風情の龍神社の下に小さな祠があり、「二十四番 虚空蔵菩薩」とある。造りからして、高縄半島国遍路八十八箇所のひとつではあろう。







弁天島砦
龍神鼻砦を離れ、次は弁天島砦に向かう。県道166号に戻り、龍神鼻砦へと突き出した尾根を切り開いたような道を上り、そして里へと下る途中に結構大きな池がある。沢池と呼ばれるこの池に突き出した台地の上に弁天島砦があったと言う。
県道を離れ、その突き出した台地へと向かうが、そこは企業の私有地となっており、先端部には入ることができなかった。この丘城の詳細は不明である。



片山砦
次の目的地は予讃線波方駅の南にある片山峠。弁天池の南東に進むと、この辺りは予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで山地が切れ平地となって南北の山地を分けている。その平地を走る県道15号に出てすぐ、予讃線波方駅の南、里が南の山地に接する辺りに明比城主神社があり、砦は神社の建つ尾根筋にあったようである。
明比城主神社には明比家の先祖様を敬うべしとの案内があった。明比家の先祖と片山峠の関係は不詳である。明比神社は西条市にあり、そこに祀られる武将は天正の陣に於いて、豊臣の先兵である小早川勢と戦い討死したとのこと。明比、または明比(あけひ)姓が残る。

●新世紀の地層が中世期の山地を別ける?
次の目的地は庄畑砦。この砦は里を挟んで北側の山地の裾にある。そこに行く道を地図で見ていると、ちょっと気になることが見えてきた。予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで里の帯が続き、山地が南北に分けられている。 また、同じく南の国道196号にそった道筋も、近見山のある山地と高縄山のある山地を分けている。
波止浜からの里の帯には水路が見える。沢池から始まり、高縄半島突端部の山地を開析し、支尾根を形成した川筋が合わさり波止浜に注いでいる。また、国道196号に沿っては、半島西岸に注ぐ品部川、今治市街へと下る浅川といった川筋が見える。これらの河川によって開析された、というだけにしてはあまりに美しく高縄半島の山地を帯状に分けている。



河川の開析作用以外に、なにかの要因がないものかと地質をあれこれしらべていると、今治の地質地図(今治市の現状と課題;今治市の自然環境・地質:今治市の地質概略)があり、そこに「第四系」と「領家花崗岩類」に色分がしてあり、「第四系」が今治の平野部と山地を分けるふたつの平地と重なる。 地質学のことなどよくわからないのだが、「領家花崗岩類」は中世代(9000万年から6000万年前頃)の地層で、「第四系」は新生代(260万年ほど前から現在まで)の地層という。山地部分が中世期の造山活動の名残りで、平坦地が新世紀の洪積層、沖積層ということだろうか。ともあれ、高縄半島を帯状に二筋、山地を南北に分ける平坦地の成り立ちが、事実かどうかは別にして、自分としては納得できた。



庄畑砦
高縄半島先端部の山地を二つに分ける波止浜から延びる里の帯を走る予讃線を越え、北側の山地裾にある庄畑八幡大神社に向かう。川によって開析された丘陵の支尾根の西側南端に鎮座する。開析谷を隔てたもう一方の支尾根には海山城が建つ。
県道15号から北に成り行きで進み、庄畑八幡大神社の鳥居前に車を置き、石段を上り拝殿にお参り。曲輪が残るとのことだが、よくわからなかった。



潮早砦
次は庄畑砦のある支尾根から開析谷を隔てた、もう一方の支尾根の南端にある潮早砦に向かう。この支尾根には海山城が建つ。
潮早砦は県道15号に最接近した支尾根の南端部にあり、現在は潮早神社の境内となっている。
県道15号から、開析谷を北に進む道に折れ、すぐに支尾根の裾に向かう田圃の中の道を成り行きで潮早神社の境内に向かう。拝殿にお参り・境内には来島村上氏の家紋のついた水瓶が残っていた。砦跡としては2段になった曲輪が残る、とのことだが、素人にはよくわからなかった。
開析谷によってふたつに別れた支尾根の入口部分に建つ、この潮早砦と、先ほど訪れた庄畑砦は、次に向かう開析谷の中ほどにある来島村上氏の館を護る砦であったようである。

養老館
山地を開析し支尾根を形成したのであろう川筋に沿って北に進み、波方小学校の北で右に折れ、現在厳島神社の境内となる養老館に向かう。
成り行きで道を進み、鳥居脇に車を停める。右手には池がある。
鳥居脇に案内があり、「養老館があったという所は、現在別台と呼ばれるこの地である。別台は来島家の居館(住居)波方館の別館が置かれていたところからきた名であると言われている。
この館は遠見山を背にして側面を堀で固め、ここから山麓に向けて丘陵上にいくつかの曲輪(土や石の囲い)を配置するという館と詰の城(山岳城郭)を兼ねた珍しい形態である。
館跡は現在厳島神社となっており、養老中の小宮が集められて合祀されている。また、この下の石垣の上に窯跡(登り窯・山麓の傾斜に沿って階段状に築き、下のほうから焼き上げる)がある。付近に東照寺の跡もあるので、瓦を焼いた跡か、土器を焼いた跡か分からないが数少ない珍しいものである」とあった。

境内には来島村上家の家紋の着いた手水舎があった。参道を進み拝殿にお参り。拝殿の裏手に回り、なにか遺構でもないものかと少し丘陵を上るが、それらしきものもありそうにないので引き返す。

長泉の鼻砦
次の目的地は波方地区で取りこぼした長泉の鼻砦。県道15号を波止浜方面に向かい、波止浜の町に入る手前で県道38号に乗り換え波方の町に。長泉の鼻砦は先日訪れた玉生八幡の交差点で県道166号に乗り換え、海岸線を少し波止浜方面に戻ったところにある。
県道を少し尾根を切り取った感のある切り通し手前・海側に「郷・大浦ふるさとこみち 長泉の鼻」の案内と「半島四国88ヶ所へんろ道 第83番札所まで50m」の案内がある。

●半島四国
車を案内手前のスペースに停め、コンクリートで固められた急な参道を8mほど上るとお堂と、その手前に小さな祠があり、「八十三番 聖観音」とある。「半島四国88ヶ所へんろ道 第83番札所」がこの祠。

●旧野間郡四国八十八ヶ所・三十番地蔵堂
お堂の横には「三十番地蔵堂」「四国第二十八番**」とある。はっきりとはわからないが、このお堂は「旧野間郡(ごおり)四国八十八か所」のようである。現在は観音堂とのことである。
旧野間郡四国八十八ヶ所のはじまりは古く天保2年(1982)のこと。当時、享保・天明、天保と大飢饉が続く中、農民は御大師さまに助けを求め、その願いを叶えるべく八十八の札所をつくった、とのことである。
◆「四国第二十八番**」の案内は、写真にはっきり写っておらず、何を示しているのかチェックできなかった。

●「長泉の鼻」の案内
地蔵堂(現在は観音堂)から海の方向に突き出たところに進むと、海を見つめるお大師さんらしき石仏がある。見つめる崖下には工場が建ち少々風情は損なわれるが、それでも結構いい感じではある。
屋根だけで守られ、四方はまるっきりオープンなお大師さんの脇に「長泉の鼻」の案内があり、「波方海賊城砦群の一つで、長泉の鼻城砦跡といわれ、波方の東を守るだいじな所であった。海岸の岩礁には桟橋跡の柱穴も残っていた。朝鮮の役のとき、九州に下る豊臣秀吉の船団がこの沖に停泊し、秀吉は長泉寺(当時は前の県道の向側にあった)に泊まったといわれている。
南側の海岸には、石風呂があり、大勢の入浴客でにぎわったが、いつのまにか止み、崖くずれで、今はほとんどわからなくなっている」とあった。

長泉寺
「長泉の鼻」の案内を読み、そういえば長泉寺に訪れていないことを思いだした。玉生八幡を訪れたとき、その別当寺ということで行ってみようと思いながらもパスしたのだが、今回の散歩で「半島88ヶ所四国遍路」を提唱した寺ということもわかり、立ち寄ることに。
「長泉の鼻」から県道166号を玉生八幡まで戻り、県道38号へと左折すると、玉生八幡の南に長泉寺があった。
本堂にお参り。本堂脇に「長泉寺と五重の石塔」の案内があり、「祟徳天皇の世、保延6年(1140年)の春のこと伊予国の人で紀州(和歌山)根来寺の瑞長という僧が帰国した際、波方浦に来て説法した。その時、瑞長は、この里に寺はあるのかと尋ねたところ「この郷には寺はない。ただし、山谷の間に行基作の如意輪観音像が一体あり。昔より、里人は常にこれを拝むのみ。」と答えた。
そこで瑞長は早速これに参拝したところ立派な霊像であったので里人と相談して、この像を本尊として寺院を創建した。時に康治元年(1142年)5月のことと言われている。
中世には、来島水軍村上家の祈とう所として、同家の信仰が厚かったと言われている。境内には鎌倉期の五重の石塔がある」とあった。
「半島88ヶ所四国遍路」を提唱したこのお寺さまは、「八十八番 薬師如来」が祀られる。

●半島四国遍路の順路は?
ところで、半島四国遍路って、どこにあるのか、その所在地の全容は不明。断片的な情報を繋げると、10番は波方の町の南、波止浜に近い波方郷、24番は先ほど訪れた高浜半島西岸、波方町小部にある龍神砦、 66番が半島東海岸の大角鼻、71番が西浦から塔の峰への上り、73番が塔の峰、83番はこれも先ほど訪れた長泉の鼻砦、88番が長泉寺となっている。
半島四国遍路の主旨は、高縄半島の最北端に位置し、三方を海に囲まれている愛媛県今治市波方地区を一周し、道路脇に設置された石仏を巡る、ということであるとすれば、上にメモした札所から想像するに、基本波方の町から始まり、波方の南を半島東岸から西岸に進み、半島西岸から東海岸に移り、大角の鼻辺りまで進み、そこから塔の峰を経由して波方の長泉寺にもどってくるのだろうかとも思える。
今後も、あれこれと歩いているうちに、半島四国遍路の祠に出合うかとも思う。そのうちにピースが埋まるであろう。

大浦砦
そろそろ時間切れ、県道166号を波止浜方面へと向かう。途中波止浜の手前の波方町大浦、大浦荒神社が建つ丘陵先端部に大浦砦があるとのこと。丘陵を切り開いた県道の左手にあるようだが、次回のお楽しみということで今回の来島村上氏の旧蹟巡りを終えることにする。


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